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第七章『愛宕百韻』と光秀謀反の句の謎

20 『……計画どおり!』

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拙者は特に連歌に詳しい訳ではないので……

この『百韻連歌』が九十九韻にて終わってしまうのは、よくあることなのか?、そうでないのか?、解りません。


――が、一つだけ解ることがあります!


懐紙に連歌を書き込むのは「主筆」と呼ばれる書記です。

ですが、拙者の調査不足で誰がこの愛宕百韻の主筆だったかは解りません。


――が、一つだけ解ることがあります!


この連歌興行の審判・コーディネーターである「宗匠」は、里村紹巴です。

この宗匠はというのは、連歌のルール判定を行うだけではなく、詠まれた句を差し戻したりしてゲームが上手く収まるようにコントロールする権限もある、連歌興行の支配人です。


――そうつまり、

百韻連歌が、九十九句で良しとしたのは……

里村紹巴の決定であったと推察できるのてす!


……と、読者様の中には、

「で、百韻のはずが、一句足りなかて九十九韻になって、

……何か問題でも?」

と感じる方も多いかと思います。


――が、前のページで述べたように……


この百韻連歌が九十九韻になってしまった原因は、三折の裏が形式では十四句のところ、何故か十三句で〆てしまい、

その結果、本当なら十四句目に書かれる句が、名残折の表にずれて記されてしまったので――

いわゆる一句飛ばしの状態になってしまったからです。


もちろん一句飛ばしが単なるミスとして起こってしまった場合も、通常なら考えられます。


ただ今回は、名門の連歌師里村家を継いで当代随一の連歌師となった里村紹巴が宗匠であるのに、こんな凡ミスが起こり得るでしょうか?


……というか、紹巴てはなく、主筆の者がミスして一句飛ばししたとしても、いくらでも見直す時間はあるわけで、例えば一句飛ばしのミスを見つければ――

もう一枚懐紙を折って書き直せばいい訳ですから。


――つまり、連歌で一句飛ばしのミスがあったとして、連歌が終わりそして、奉納するまで誰も見直さないなんてことがあり得るのでしょうか?

しかも、奉納というのは、神様にお納めすることなのに適当に連歌を記し、チェックもしないなんて罰当たりなことするでしょうか?


つまり、『愛宕百韻』が、九十九句で終わっているのは、

意図的にされたと考えるのが一番自然な結論なのです。

そして誰が意図的に一句飛ばしでゲーム進行したかと言えば――

この連歌の支配人である宗匠を務めた、里村紹巴以外に考えられません。


つまり、里村紹巴が意図的に主筆に指示を出して三折の裏を一句少ない十三句で〆させたから、九十九句で終わったということです!

そうつまり、計画的に一句足らずにしたのです!


では、意図的に計画的に一句足りなくしたのはいったい何故か?


「……計画どおり!」

今、連歌興行の会場にいた者の一人が、小さく呟いた……。


そう、その者の名は……





 

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