8 / 20
8
しおりを挟む
――どうしたの? 食べないの?
「……ええ、遠慮するわ」
銀の皿に乗った丸いクリーム。
いちごの乗ったショートケーキ。
つやつやのチョコレートのコーティング。
色とりどりの少女たちは、嘴で嬉しそうに次々と、あれもこれもと啄んだ。
《 美味しい 》
《 おいしい 》
《 可愛い 》
《 かわいい 》
高い声で繰り返されるハーモニー。
ほら、と促される
《 楽しい 》
言え。言え。
自分の姿を金の翼を持った鳥にかえて、その不協和音を奏でる一員とならなければ。
はやく、はやく。
《 ほら 》
差し出された皿には、丸いつやつやした球体が乗っている。
《 丸くて 》
まるくて。
《 赤くて 》
あかくて。
《 とっても おいしそうでしょう? 》
丸くて、赤い。
血に濡れた水色の目玉が、こっちをみていた。
◇ ◇ ◇
嫌な夢をみた。
「夢の中でぐらい、ちゃんとゆめをみさせてよ」
――神様。
ソニアは口を衝いて出た言葉に自嘲の笑いを浮かべた。
この期に及んで、だれに、なにを期待しているのか。
天上に存在する神の存在を否定する気は毛頭ない。
だが、神が与えてくれる至上の喜びは、救いは、ただひとつ。
「なにも見るな。なにも聞くな。なにも、考えるな」
なにも、思い出すな。
――忘却。
それが、神がソニアに与えたたったひとつだ。
ならば、祈るべきことは、口に出しても良い望みもひとつだけ。
「……ぜんぶ、忘れさせて」
ソニアの喉を黄金の鳥が啄む。
《 ああ 本当に愚かで 醜く 恥知らず! 》
《 わたしにとって あなたにとって 神にも等しいあのひとは 》
《 いまもまだ 冷たい谷の底にいるのに! 》
(本当に、あなたの言う通りだわ)
ソニアは血の流れていない柔い皮膚を撫でた。
(わたしは……エドワードの全てを忘れて、暗闇から這い出たいと願ってしまう)
(それこそが、唯一の救いだと……そう思ってしまっている)
「……エドワード」
ソニアが彼の姿を喪ってから、もう何度月が昇ったのだろう。
「ごめんなさい、エドワード……」
ソニアは今日もまだ、生きている。
彼のいる幸せなゆめの終わった、現実の世界を。
ソニアは自らを夢へと運ぶ黒い船から這い出て、服を脱いだ。
鏡に移った顔は少しもやつれていない。
顔色だってたいして悪くない。
なにも事情を知らない人へ最愛の夫を喪ったばかりなのだと訴えてみても信じてはもらえないかもしれないと思えるほどに、いつも通り。
「……ギルバートに、会わないと」
黒のドレスに袖を通し、波打つ金髪をリボンで緩く結んだ。
伯爵の推定の恋人は明るい色の服を好むようで、黒い服は何枚ものなかの一着だけだった。
「シエロ、いる?」
「はい、ソニアさま! おはようございます」
ソニアは支度を終えると、廊下に向かって声をかけた。
返事を待たずに、ノックの音と同時に扉が開く。
ここに来てから何度か繰り返したやり取りだった。
シエロはソニアが起きるよりも早くから部屋の前で従順な犬のように待っている。
そしてソニアが支度を終えて呼びかけると、ソニアの許しを得る前に扉を開くのが慣例になっていた。
「おはよう。……ねぇ、伯爵様と、はなしがしたいわ」
ソニアは、ギルバートとはあれ以来、一度も顔を合わせていなかった。
(今日こそ、会わないと)
「ああ、ご主人さまはちょうど、さっきご主人さまのお仕事が終わってご主人さまのお部屋に帰ってきたんです!」
決意を込めた硬い声音でソニアが言えば、シエロは軽やかな足取りで踵を返す。
「行きましょう!」
当然のように手を引いてくるのに、ソニアは内心嘆息した。
初日にソニアが――ピエロがそうしたせいだろうか。シエロは移動の際はその小さな手を繋いでくるようになっていたのだ。
「ご主人さまのお部屋にはご主人さまがいて、ソニアさまのお部屋から右に五十歩分歩いて、角を曲がって左に三歩歩くとご主人さまのお部屋に着くんですよ! そんなに遠くないので、会いたくなったら行ったらいいと思います!」
「そう」
「あ、ほら! ここですよ!」
ソニアがシエロの細かいようでいてそうでもない饒舌な説明を聞き流しているうちに、二人はソニアに与えられた部屋と同じような装飾のある扉の前に着く。
シエロの言葉通り、ギルバートの自室は存外近くにあったらしい。
「ご主人さま! シエロです! ソニアさまがご主人さまとおはなししたいって!」
シエロはソニアの手を引いたまま、主の返事を待たずに扉をあける。
花畑にでも案内してくれそうなシエロの様子とは裏腹に、ソニアはまた、あの奈落へ足を踏み入れる心地だった。
「……ソニア」
ギルバートが、いた。
黒衣と、丸い眼鏡と、左頬の傷。それさえのぞけば、やはりその姿はエドワードと瓜二つだ。
ソニアはアメジストの瞳が見えぬように視線をそらし、口を開いた。
「はなしが、あるんです」
「ああ」
ぱらり、紙をめくる音がする。ギルバートはその古い紙の束から視線を外さない。
どうやら真剣に聞く気はないと見えたが、ソニアは構わず話し始めた。
「……葬儀を、していません」
夫の、と言いかけてやめる。
右肩にのったいびつなシャム猫が――お前の夫はこの人だろう?と。そう言わんばかりに水色の瞳を細めたのが見えたから。
「そうだな」
「彼の遺体は、どこにあるんですか」
本当はどこにいるのかと尋ねたかった。
彼がもう物言わぬ存在になったことを認めるような言葉を吐き出す喉を締め付けてしまいたくなる。
ギルバートはしばらく黙った。
文字を辿っているのか、視線は左右へ揺れた。
それから長針が一周と少し動いた頃、エドワードの生き写しのような黒衣の男は、引き結んだ口を僅かに動かす。
「……谷底に」
紙をめくる音が止む。
「え……?」
そのまま、すべてが止まった。
息も、心臓も、時計の針もすべて。
「エドワードはまだ――あの谷底に居る」
続く言葉に、止まっていた時が動き出す。
ソニアは呼吸も、鼓動も、響く秒針の音もうるさくて、耳を塞ぎたくなった。
《 なにを驚いたふりをしているの? 》
《 じぶんでいってたのに 》
《 エドワードはまだ 》
《 あそこにいるんだって! 》
金の鳥と異形の猫が交互に笑った。
「貴女は……そこの、水辺に倒れていたんだ。シエロがいつも水を汲みに行く、この屋敷の近くの、湖のほとりに」
二匹の哄笑と、ギルバートが訥々と語る声が部屋に響く。
「エワードを探すために、シエロたちに命じて水の流れを辿らせた。……水源は深い谷底に続いていて、そこに……そこに、エドワードは、いた。ひしゃげた馬車の中に。近くには御者の遺体もあったが……」
ギルバートは俯いた。引き結んだ唇の端を歪めて、笑う。
「どちらも損傷が激しく、とても運び出せる状態ではなかった」
――損傷。
「とくに、エドワード……は。ほとんど、原型もなかった。回収したところでどうにもできない」
――原型。回収。
ソニアの頭の中で、水が流れる音がする。
エドワードの爪の隙間に入り込んだ肉片と、血を清めた水の音。
《 あの綺麗な顔はさいご どんな風になったんだろうね? 》
《 細い腕は 脚は? 》
《 折れ曲がって ぐちゃぐちゃになって 》
ソニアの噛みしめた唇から血がにじんだ。
「……うそ。ねぇ……ギルバート・アルファルド! あなたなら魔法を使って、どうにかできるでしょう?」
大人しく従順な寡婦の仮面が剥がれ落ちるのにも構わず、ソニアはギルバートに詰め寄る。
「ソニア」
ギルバートはソニアの腕を掴み、子どもへ言い含めるようにゆっくりと告げた。
「魔法は万能ではない。なくなったものを、代償なしには戻せないんだ」
(――なくなったもの?)
黄金の鳥が羽ばたいて曰く。――《 赤い線の走った細い右腕! 》
水色の目の猫が爪で地面を引っ掻いて曰く。――《 赤い■■■ 》
ソニアは、目をつむった。
(なにも考えたくない)
(なにも聞きたくない)
(なにも見たくない)
「ソニア……エドワードはもう、戻ってこない」
なにも――。
「……ええ、遠慮するわ」
銀の皿に乗った丸いクリーム。
いちごの乗ったショートケーキ。
つやつやのチョコレートのコーティング。
色とりどりの少女たちは、嘴で嬉しそうに次々と、あれもこれもと啄んだ。
《 美味しい 》
《 おいしい 》
《 可愛い 》
《 かわいい 》
高い声で繰り返されるハーモニー。
ほら、と促される
《 楽しい 》
言え。言え。
自分の姿を金の翼を持った鳥にかえて、その不協和音を奏でる一員とならなければ。
はやく、はやく。
《 ほら 》
差し出された皿には、丸いつやつやした球体が乗っている。
《 丸くて 》
まるくて。
《 赤くて 》
あかくて。
《 とっても おいしそうでしょう? 》
丸くて、赤い。
血に濡れた水色の目玉が、こっちをみていた。
◇ ◇ ◇
嫌な夢をみた。
「夢の中でぐらい、ちゃんとゆめをみさせてよ」
――神様。
ソニアは口を衝いて出た言葉に自嘲の笑いを浮かべた。
この期に及んで、だれに、なにを期待しているのか。
天上に存在する神の存在を否定する気は毛頭ない。
だが、神が与えてくれる至上の喜びは、救いは、ただひとつ。
「なにも見るな。なにも聞くな。なにも、考えるな」
なにも、思い出すな。
――忘却。
それが、神がソニアに与えたたったひとつだ。
ならば、祈るべきことは、口に出しても良い望みもひとつだけ。
「……ぜんぶ、忘れさせて」
ソニアの喉を黄金の鳥が啄む。
《 ああ 本当に愚かで 醜く 恥知らず! 》
《 わたしにとって あなたにとって 神にも等しいあのひとは 》
《 いまもまだ 冷たい谷の底にいるのに! 》
(本当に、あなたの言う通りだわ)
ソニアは血の流れていない柔い皮膚を撫でた。
(わたしは……エドワードの全てを忘れて、暗闇から這い出たいと願ってしまう)
(それこそが、唯一の救いだと……そう思ってしまっている)
「……エドワード」
ソニアが彼の姿を喪ってから、もう何度月が昇ったのだろう。
「ごめんなさい、エドワード……」
ソニアは今日もまだ、生きている。
彼のいる幸せなゆめの終わった、現実の世界を。
ソニアは自らを夢へと運ぶ黒い船から這い出て、服を脱いだ。
鏡に移った顔は少しもやつれていない。
顔色だってたいして悪くない。
なにも事情を知らない人へ最愛の夫を喪ったばかりなのだと訴えてみても信じてはもらえないかもしれないと思えるほどに、いつも通り。
「……ギルバートに、会わないと」
黒のドレスに袖を通し、波打つ金髪をリボンで緩く結んだ。
伯爵の推定の恋人は明るい色の服を好むようで、黒い服は何枚ものなかの一着だけだった。
「シエロ、いる?」
「はい、ソニアさま! おはようございます」
ソニアは支度を終えると、廊下に向かって声をかけた。
返事を待たずに、ノックの音と同時に扉が開く。
ここに来てから何度か繰り返したやり取りだった。
シエロはソニアが起きるよりも早くから部屋の前で従順な犬のように待っている。
そしてソニアが支度を終えて呼びかけると、ソニアの許しを得る前に扉を開くのが慣例になっていた。
「おはよう。……ねぇ、伯爵様と、はなしがしたいわ」
ソニアは、ギルバートとはあれ以来、一度も顔を合わせていなかった。
(今日こそ、会わないと)
「ああ、ご主人さまはちょうど、さっきご主人さまのお仕事が終わってご主人さまのお部屋に帰ってきたんです!」
決意を込めた硬い声音でソニアが言えば、シエロは軽やかな足取りで踵を返す。
「行きましょう!」
当然のように手を引いてくるのに、ソニアは内心嘆息した。
初日にソニアが――ピエロがそうしたせいだろうか。シエロは移動の際はその小さな手を繋いでくるようになっていたのだ。
「ご主人さまのお部屋にはご主人さまがいて、ソニアさまのお部屋から右に五十歩分歩いて、角を曲がって左に三歩歩くとご主人さまのお部屋に着くんですよ! そんなに遠くないので、会いたくなったら行ったらいいと思います!」
「そう」
「あ、ほら! ここですよ!」
ソニアがシエロの細かいようでいてそうでもない饒舌な説明を聞き流しているうちに、二人はソニアに与えられた部屋と同じような装飾のある扉の前に着く。
シエロの言葉通り、ギルバートの自室は存外近くにあったらしい。
「ご主人さま! シエロです! ソニアさまがご主人さまとおはなししたいって!」
シエロはソニアの手を引いたまま、主の返事を待たずに扉をあける。
花畑にでも案内してくれそうなシエロの様子とは裏腹に、ソニアはまた、あの奈落へ足を踏み入れる心地だった。
「……ソニア」
ギルバートが、いた。
黒衣と、丸い眼鏡と、左頬の傷。それさえのぞけば、やはりその姿はエドワードと瓜二つだ。
ソニアはアメジストの瞳が見えぬように視線をそらし、口を開いた。
「はなしが、あるんです」
「ああ」
ぱらり、紙をめくる音がする。ギルバートはその古い紙の束から視線を外さない。
どうやら真剣に聞く気はないと見えたが、ソニアは構わず話し始めた。
「……葬儀を、していません」
夫の、と言いかけてやめる。
右肩にのったいびつなシャム猫が――お前の夫はこの人だろう?と。そう言わんばかりに水色の瞳を細めたのが見えたから。
「そうだな」
「彼の遺体は、どこにあるんですか」
本当はどこにいるのかと尋ねたかった。
彼がもう物言わぬ存在になったことを認めるような言葉を吐き出す喉を締め付けてしまいたくなる。
ギルバートはしばらく黙った。
文字を辿っているのか、視線は左右へ揺れた。
それから長針が一周と少し動いた頃、エドワードの生き写しのような黒衣の男は、引き結んだ口を僅かに動かす。
「……谷底に」
紙をめくる音が止む。
「え……?」
そのまま、すべてが止まった。
息も、心臓も、時計の針もすべて。
「エドワードはまだ――あの谷底に居る」
続く言葉に、止まっていた時が動き出す。
ソニアは呼吸も、鼓動も、響く秒針の音もうるさくて、耳を塞ぎたくなった。
《 なにを驚いたふりをしているの? 》
《 じぶんでいってたのに 》
《 エドワードはまだ 》
《 あそこにいるんだって! 》
金の鳥と異形の猫が交互に笑った。
「貴女は……そこの、水辺に倒れていたんだ。シエロがいつも水を汲みに行く、この屋敷の近くの、湖のほとりに」
二匹の哄笑と、ギルバートが訥々と語る声が部屋に響く。
「エワードを探すために、シエロたちに命じて水の流れを辿らせた。……水源は深い谷底に続いていて、そこに……そこに、エドワードは、いた。ひしゃげた馬車の中に。近くには御者の遺体もあったが……」
ギルバートは俯いた。引き結んだ唇の端を歪めて、笑う。
「どちらも損傷が激しく、とても運び出せる状態ではなかった」
――損傷。
「とくに、エドワード……は。ほとんど、原型もなかった。回収したところでどうにもできない」
――原型。回収。
ソニアの頭の中で、水が流れる音がする。
エドワードの爪の隙間に入り込んだ肉片と、血を清めた水の音。
《 あの綺麗な顔はさいご どんな風になったんだろうね? 》
《 細い腕は 脚は? 》
《 折れ曲がって ぐちゃぐちゃになって 》
ソニアの噛みしめた唇から血がにじんだ。
「……うそ。ねぇ……ギルバート・アルファルド! あなたなら魔法を使って、どうにかできるでしょう?」
大人しく従順な寡婦の仮面が剥がれ落ちるのにも構わず、ソニアはギルバートに詰め寄る。
「ソニア」
ギルバートはソニアの腕を掴み、子どもへ言い含めるようにゆっくりと告げた。
「魔法は万能ではない。なくなったものを、代償なしには戻せないんだ」
(――なくなったもの?)
黄金の鳥が羽ばたいて曰く。――《 赤い線の走った細い右腕! 》
水色の目の猫が爪で地面を引っ掻いて曰く。――《 赤い■■■ 》
ソニアは、目をつむった。
(なにも考えたくない)
(なにも聞きたくない)
(なにも見たくない)
「ソニア……エドワードはもう、戻ってこない」
なにも――。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
2
1 / 2
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる