恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

文字の大きさ
37 / 73
アンリミテッド・スノーマンの情景

8.

しおりを挟む
「こっちにはいませんでした」
 台所を確認し、圭吾が簡潔に報告した。
「というか、けんちん汁……」
 鍋に半分残されたそれを覗き込み、まるで大きな災害や事故が起こる度に後手後手になっている政府の対策を嘆く評論家のように顔を顰めるので、犬神は飛び上がらんばかりに驚き、その勢いのまま駆け寄った。
〝けんちん汁がどうかしたのか……!?〟
「僕、まだ食べたことないんですけど。先輩の」
 そりゃあお前が味噌汁を出した時に限って山盛り食べたがったりおかわりしたりするもんだから他の汁物を作る機会がなかったんだろうだとか、お前は食べたことのない恭介のけんちん汁が自分ではない誰かが先に食べたというそれだけのことが原因で軽減税率の対象を決める国会の答弁に参加している重鎮みたいな苦々しい顔をしてるのかだとか言いたいことは色々あったが、どれもこれも言葉にするのさえ馬鹿馬鹿しく思えて犬神は力なく尻尾を下げた。
「……! 待ってください!」
〝どうした!?〟
「先輩、筑前煮の下ごしらえまでしてるんですけど、僕まだこれも」
 ついに、犬神は切れた。さすがにもう切れていいと思った。
〝お前は一旦台所を漁るのをやめろ!!〟
「鍋がまだ、あたたかいです」
〝この話まだ続けんの!?〟
 昔を思えば随分と長くなっただろう堪忍袋の緒を自ら切ろうとたった今決めたばかりの犬神を制すように、圭吾がはきはきとした声で報告を続けた。いやに神妙な顔だった。
 嘆くように虚空を仰ぎ見ていた犬神が、何とはなしに視線を戻す。
「先輩が台所を離れて、おそらくそれ程経っていません。まだ、近くにいるのかも」
「動くな」
 冷たい声が、背後から聞こえた。水が氷を張る瞬間、これくらいまで温度が下がるかもしれない。そんなことを想像させるような、ひんやりと血の通っていない声だった。
「動くと、こいつの首を斬る」
 ぞわり。犬神はその声が生み出す氷水に、足を突っ込んだかのように固まった。
 確認したくない未来が、今、背後で現実となっている。
「烏丸、さん……?」
 先に顔を向けたのは圭吾だった。つられるようにして、犬神がゆっくりと振り返る。恭介を羽交い締めにした烏丸が、その喉元にナイフを突きつけているのが見えた。
 エフェクトが掛かったかのように、ふわふわと犬神の視界が揺れる。
 テレビのモニター越しであって欲しかった、安っぽい、ドラマのような結末。大きな失望と怒りは、犬神から全ての言葉を奪ってしまった。
「……本気です?」
 正気を確かめるように、圭吾が静かに問い掛けた。犬神は神経を張り巡らせ、周りを探るように確認する。烏丸にだけ伝わるように何かしらの指示を出している第三者的存在を、或いはどこかで期待していたのかもしれない。
「俺はいつまでも、恭介の味方って訳にいかないからね」
「何故?」
「土屋側の、人間だからだよ」
 美しく、烏丸が笑った。作りたての西洋人形のように、隙のない笑顔だった。
「最初から、御当主様に命じられていたんだよ。時期が来るまでは恭介の世話役を頼むって。その主が、もう恭介を連れて本家に戻って来いと言ってるんだ。俺に逆らう理由はないし、飯事みたいなこの生活も、俺の任務も、晴れてお役御免という訳さ。おとなしくしてくれたら、乱暴な真似はしないよ」
 言葉の通り、恭介の首に押し付けたナイフ以外、烏丸の態度は優雅の一言に尽きた。まるでパーティーをたった今抜け出した招待客のように、ひどく紳士的だ。
「それにしたって、性急過ぎじゃないですか? ご実家に連れ帰るにしても、荷物のひとつくらいまとめるべきでしょう」
 脅して恭介を連れて行くことより手ぶらで帰ろうとすることを的外れにも指摘した圭吾が、呆れたように息をつく。
 それは場違いな世間話のような、ひどく日常に近い声音だった。
「この子に、まとめなきゃならない程の荷物はないよ」
「……数珠は?」
 自身の袖口を指で差し示し、圭吾がシニカルに笑った。一瞬だけ息を飲んだ烏丸が、訝るように視線を合わせる。
「先輩がお祓いの時に必ず、身に付けている朱赤の数珠ですよ。あれ、貴方が与えたものでしょう? その証拠に、烏丸さんが普段身に付けているものと色違いだ」
 袖口から覗く、黒曜のそれを指差してやんわり指摘する。肯定も否定もせず、烏丸は黙秘を貫いた。
「由来はわかりませんが、せめてそれだけでも先輩に持たせても構いませんか? あんたのことだ。ただの飾りであれを渡した訳じゃないんでしょう? 何かの、お守り代わりになるかもしれないし」
「……時間稼ぎのつもりか?」
「まさか」
 圭吾は大袈裟に肩を竦めて、掌を天井に向けて笑った。
「こんなやり取りで、何分稼げるって言うんです? 仏間から取ってきますから、そこを動かないでくださいね」
 てきぱきと指示を出し、有能なバイトは躊躇いなく台所を後にした。烏丸の謀反に大して驚くこともせず、こんな現状をあっさり受け入れ次の行動に移っている。
 どうしていいかわからないまま、動けずにいるのは犬神だけだった。
〝……恭介〟
 さっきから一言も喋らない、抵抗する素振りのひとつさえ見せない主の名を呼んでみる。
〝烏丸に……それなりの恩義があるのはわかる。だが、それとこれとは、話が別だ。こんな誘拐みたいなやり方で連れ出されることに、おめェは納得してンのか〟
「師匠は、何も悪くないよ」
 大きな力関係で、主従の立場にある訳じゃない。それでも恭介はだらりと、体の力を抜いたままだった。
〝どうして……嫌だって、助けてって言わねェ……〟
 畳に爪を立て、犬神が呻くように吠えた。そうでなければ烏丸の喉元に噛みついて、その腕を千切り落としてでも恭介を連れ戻していたに違いない。
 それをギリギリのところで抑え込んでいるのは、犬神に残る僅かな理性と、恭介がそれを望んでいないという現実だった。
〝じゃなきゃ、俺は……!〟
 重ねて責め立める声に、恭介は笑った。まるで、犬神の怒ろうとしたことに、恩師の手に握られた刃物が自身の首に向けられていることに、何の意味もないみたいに。
 深い絶望と脱力が、ついに犬神の全てを飲み込んだ。立っているのが不思議な程、犬神から生気が根刮ぎ奪われた瞬間だった。
「土屋先輩」
 戻ってきた圭吾が、その名を呼ぶ。びくりと肩を震わせて、恭介がおずおずと烏丸の顔色を伺った。
「……直接、渡しても?」
 人差し指に引っ掛けた、朱赤の仏具。くるくると弄ぶように回して、圭吾が片目を細める。
「好きにしろ」
 恭介の喉元に刃を宛てがったまま、烏丸は興味なさそうに呟いた。これは時間稼ぎではない。そう答えた言葉に嘘偽りなく、取り立てて緩慢な動作をすることもせず、圭吾はすたすたと恭介に近づいた。
 恋人繋ぎのようにその指を絡ませ、自身の手首からするりと数珠を移動させる。怖々と、上目遣いでこちらを見遣る恭介に、圭吾は柔らかく微笑んだ。
 目を瞠る恭介の一瞬の隙をついて、彼の手首に指を走らせる。
「……っ」
 勢いのままその腕を掴み、爪を立てた。痛みで呻く恭介の声ごと抑え込むように、その口を自身の唇で塞ぐ。
〝っ、……圭吾!〟
 烏丸の振りかざしたナイフを間一髪で避け、目を潰す目的で弧を描いただろうそれはギリギリのタイミングで圭吾の頬を掠めた。
「……へえ? 期限付きで師匠をやってた割に、存外本気で可愛がってるんですね」
「師匠……!」
 挑発するような物言いの圭吾を遮るように、それまで従順だった恭介が、初めて声を張り上げた。
「俺……っ、ちゃんとついてくから! 逃げようなんて、思ってない! だから、だから……しのと犬神に、酷いことしないでくれよ……!」
 すがる指が、媚びるように烏丸の腕をなぞる。血のついた刀を軽く振って、感情をまるで見せないその男は、やや強引に恭介の腰を抱いた。
「……行くぞ」
 唇を噛んで、恭介は俯いた。何一つ言い訳も弁明もせず、助けを乞うこともなくその声に従って静かに歩く。
「何もそんなに、慌てて出て行かなくても……お味噌汁くらい、飲んで行きませんか?」
「……遠慮しておこう」
 おどけた口調の圭吾に流されることなく、烏丸はすげなく断った。まるで恭介をエスコートするかのごとく、腰に手を宛てたまま躊躇いなく玄関へと向かってしまう。
 恭介の背中を黙視したまま、圭吾は一歩も動かないままだった。

 突き放されるように、背中を押された。後部座席のドアをついでのように開け、掌を緩く振って、乗り込めというジェスチャー。
 烏丸が運転席へ回り込む。逃げない、という言葉を信用したのか、或いは最初から確信があったのか、烏丸は簡単にその拘束を解き、後ろを振り向くことさえせずにステアリングを握っていた。
 恭介は、促されるままその滑らかな座席に腰を下ろした。つるつるとした、ケミカルな肌触りが腰から背中に伝わってくる。
「師匠」
 振り向かないその背中に、ふいに恭介が声を掛けた。
「俺……大丈夫だから。ちゃんと、わかってるから」
 ざらついた声が、鼓膜を揺らす。まるで、自分の言葉じゃないみたいだ。
「師匠が俺の、」
 つぐんだその先を、言葉にするのがつらかった。
 外套の陰に隠れるようにして、恭介は僅かに眉を寄せる。
「……見張り役だって」
 烏丸は何も言わなかった。差し込まれたキーを回して、静かにエンジンをかける。ウインカーを出して細い路地から大通りへ出る瞬間さえも、一度も恭介を振り向いてはくれなかった。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

完結|好きから一番遠いはずだった

七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。 しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。 なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。 …はずだった。

イケメン俳優は万年モブ役者の鬼門です

はねビト
BL
演技力には自信があるけれど、地味な役者の羽月眞也は、2年前に共演して以来、大人気イケメン俳優になった東城湊斗に懐かれていた。 自分にはない『華』のある東城に対するコンプレックスを抱えるものの、どうにも東城からのお願いには弱くて……。 ワンコ系年下イケメン俳優×地味顔モブ俳優の芸能人BL。 外伝完結、続編連載中です。

兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?

perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。 その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。 彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。 ……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。 口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。 ――「光希、俺はお前が好きだ。」 次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。

推しにプロポーズしていたなんて、何かの間違いです

一ノ瀬麻紀
BL
引きこもりの僕、麻倉 渚(あさくら なぎさ)と、人気アイドルの弟、麻倉 潮(あさくら うしお) 同じ双子だというのに、なぜこんなにも違ってしまったのだろう。 時々ふとそんな事を考えてしまうけど、それでも僕は、理解のある家族に恵まれ充実した引きこもり生活をエンジョイしていた。 僕は極度の人見知りであがり症だ。いつからこんなふうになってしまったのか、よく覚えていない。 本音を言うなら、弟のように表舞台に立ってみたいと思うこともある。けれどそんなのは無理に決まっている。 だから、安全な自宅という城の中で、僕は今の生活をエンジョイするんだ。高望みは一切しない。 なのに、弟がある日突然変なことを言い出した。 「今度の月曜日、俺の代わりに学校へ行ってくれないか?」 ありえない頼み事だから断ろうとしたのに、弟は僕の弱みに付け込んできた。 僕の推しは俳優の、葛城 結斗(かつらぎ ゆうと)くんだ。 その結斗くんのスペシャルグッズとサイン、というエサを目の前にちらつかせたんだ。 悔しいけど、僕は推しのサインにつられて首を縦に振ってしまった。 え?葛城くんが目の前に!? どうしよう、人生最大のピンチだ!! ✤✤ 「推し」「高校生BL」をテーマに書いたお話です。 全年齢向けの作品となっています。 一度短編として完結した作品ですが、既存部分の改稿と、新規エピソードを追加しました。 ✤✤

綴った言葉の先で、キミとのこれからを。

小湊ゆうも
BL
進路選択を前にして、離れることになる前に自分の気持ちをこっそり伝えようと、大真(はるま)は幼馴染の慧司(けいし)の靴箱に匿名で手紙を入れた。自分からだと知られなくて良い、この気持ちにひとつ区切りを付けられればと思っていたのに、慧司は大真と離れる気はなさそうで思わぬ提案をしてくる。その一方で、手紙の贈り主を探し始め、慧司の言動に大真は振り回されてーー……。 手紙をテーマにしたお話です。3組のお話を全6話で書きました! 表紙絵:小湊ゆうも

染まらない花

煙々茸
BL
――六年前、突然兄弟が増えた。 その中で、四歳年上のあなたに恋をした。 戸籍上では兄だったとしても、 俺の中では赤の他人で、 好きになった人。 かわいくて、綺麗で、優しくて、 その辺にいる女より魅力的に映る。 どんなにライバルがいても、 あなたが他の色に染まることはない。

嘘つき王と影の騎士

篠雨
BL
「俺の役割は、貴方を守ることだ。……例え、貴方自身からも」 国の平穏を一身に背負い、十二年間「聖王」という偶像を演じ続けてきたセシル。 酷使し続けた心身はすでに限界を迎え、その命の灯火は今にも消えようとしていた。 そんな折、現れたのは異世界からの「転移者」。 代わりを見つけた国は、用済みとなったセシルからすべてを剥奪し、最果ての地へと追放する。 死を待つためだけに辿り着いた冬の山。 絶望に沈むセシルの前に現れたのは、かつて冷徹に王を監視し続けていた近衛騎士団長、アルヴィスだった。 守るべき王も、守るべき国も失ったはずの二人が過ごす、狭い小屋での夜。 無価値になり、壊れかけた自分を、なぜこの男は、そんな瞳で見つめるのか。 なぜ、そんなにも強く、抱きしめるのか。 これは、すべてを失った「聖王」が、一人の男の熱に暴かれ、再生していくまでの物語。

金の野獣と薔薇の番

むー
BL
結季には記憶と共に失った大切な約束があった。 ❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎ 止むを得ない事情で全寮制の学園の高等部に編入した結季。 彼は事故により7歳より以前の記憶がない。 高校進学時の検査でオメガ因子が見つかるまでベータとして養父母に育てられた。 オメガと判明したがフェロモンが出ることも発情期が来ることはなかった。 ある日、編入先の学園で金髪金眼の皇貴と出逢う。 彼の纒う薔薇の香りに発情し、結季の中のオメガが開花する。 その薔薇の香りのフェロモンを纏う皇貴は、全ての性を魅了し学園の頂点に立つアルファだ。 来るもの拒まずで性に奔放だが、番は持つつもりはないと公言していた。 皇貴との出会いが、少しずつ結季のオメガとしての運命が動き出す……? 4/20 本編開始。 『至高のオメガとガラスの靴』と同じ世界の話です。 (『至高の〜』完結から4ヶ月後の設定です。) ※シリーズものになっていますが、どの物語から読んでも大丈夫です。 【至高のオメガとガラスの靴】  ↓ 【金の野獣と薔薇の番】←今ココ  ↓ 【魔法使いと眠れるオメガ】

処理中です...