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一話

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 夜。
 強い雨が降る中、甘粕正彦は漆黒のサキュバスと出会った。
 全身は雨で濡れて、服は体に張り付いている。細い体だ。サキュバスとしては異端なほど華奢な方だろう。
 そのサキュバスは地面に座り込んでいた。誰も通らない道の真ん中で、力なく座っている。冷たい風と水が彼女の体温を奪っているのにすぐに気づいた。息をする度に白が走っている
 金色の瞳に光はなく、呆然としていた。
 甘粕正彦は雨に濡れる少女に言葉を刺す。

「サキュバス、リルカフェ。なぁ、オイ。どうして泣いているんだ?」
「……」
「理由は知っているとも。だが人としての礼儀として直接本人に聞くのが当然だろう?」
「貴方は私の体を見てどう思いますか?」
「ふむ、まぁ少数派であることは予想出来る。ああ、続けてくれ」
「私はサキュバスです。妖艶で、美しく、大きな胸と、くびれた腰、大きく柔らかなお尻。男性を蠱惑する魅力的な存在……そうなるはずでした。しかし」
「胸は小さく、肉付きは悪く、ごぼうように細い。所謂スレンダー体型だな、とても、サキュバスとは思えない」
「その、とおりです。私はサキュバスとして落第です。私はこの痩せ細った体が、醜い体が憎いッ! 誰もが私を笑う、醜いと罵る、下劣だと嘲笑う。みんな! みんな!! お母さんもお父さんも私を捨てた!! 友達は陰で私を罠にハメていた」

 男は笑う。

「知っているか? 今やこの国以外の世界は自由だ。しかし自由と言えば聞こえがいいが、要は無法がまかり通っているに過ぎん。そこには未だに旧時代の悲劇であふれている。
 明日も知れぬ貧しさ故、腹を痛めて産んだ我が子を売る母。血の味をしめてタガが外れ、罪無き村を略奪する兵士共。
 貧困、差別、人身売買、テロリズム。そうした理不尽に襲われて、絶望の中で朽ちていく人々。見るに耐えんよ、認められるはずもない。
 そしてひるがえって見るがいい。今の日本で安寧に生きる人々に、果たして試練と呼べるものがあるか?
 いいや否だ。管理という名目の下、与えられる安寧に生きる者には、もはや試練にぶつかろうという気概すら有りはしない。
 誰も未来なぞ望んでいない、興味がない。前に進むより立ち止まった方が遥かに楽だ。人間はもう十分に幸福だ、と。
 管理されるという道以外を選ぼうともしない。分かるだろう、腐っているのだよその性根が。人間性のあるべき輝きが失せている。
 管理育成論などその要因の一つに過ぎん。いくら王道で効率的とはいえ、育成論の盟主といっても、独裁ではないのだ。その決定はあくまで多くの者の総意に依る。
 原因はもっと深い部分にある。すなわち、今の人類は己の意思を他者に預けることに慣れ切っている。
 我も人。彼も人。故に対等。そんな基本すら忘れて、思考を捨てた木偶に堕落しようとしているのだよ」

 生まれの宿命など所詮は意志を形どる要因の一つに過ぎない。あるがままに受け入れるも良し。嫌ならば拒絶してしまえば良し。

 泥水として生まれた者が清らかな水へと変質するのは素晴らしい。泥水は泥水としてその深溝を増していくのも悪くはない。どちらにせよ強き意志は育つ。
 生のままに己の本質を愛せない者は弱者だと、在るべき型に嵌まらぬ者は不純だなどと。そんなことを言った覚えは俺にはない。

 俺はただあらゆる意志を認めるのみ。善悪は問わず、俺が評するのはその絶対値。より強い意志こそが人の可能性を示すと信じるが故に。
 
 この世の悪を渇望する者たちよ。
 おまえ達は悪。世界の誰からも賛美を得られぬ孤独の存在。
 倫理という名の強固な鎖に縛られて、己の価値観のみでそれを断ち切ってみせねばならない。
 だからこそ誰よりも強く傲慢に。他者の価値基準などに左右されぬ、己だけの美学で以て邁進してこその悪。
 遥かな高みに座して高笑いをするがいい。正義などと鼻で笑い、孤独の道でどこまでもふてぶてしく己を貫け。
 負けてはならぬ。強く在れ。
 
 この世の正義を信奉する者たちよ。
 おまえ達は正義。人々より賛美を受け彼らに光を示す存在。
 正しい側で在るがゆえに枷に嵌められ、己の思うがままに為すことは極々限られる。
 その姿こそが規範であるから。力に溺れることなく自らを律し、強きを挫き弱きのために義憤する姿に人は憧憬を抱くのだから。
 ならばこそ屈してはならん。おまえ達こそ人の在るべき姿の象徴。強大なる悪にも怯まず、より強き信念で打倒してこそ義心の正しさを証明できる。
 負けてはならぬ。強く在れ。
 
 そして、だからこそと俺は思うのだ。
 才覚など瑣末。力の有無も所詮は要因の一部。善悪の気質ですら決定力に欠けている。
 勝利を得て、真に本懐を遂げられる者とは、その果てまで己の意志を譲らなかった者たち。
 この世のあらゆる闘争、悲劇も、そうした強き意志を育てる礎となっている。
 失われる命がある。踏みにじられる祈りがある。それは許せぬことだろうが、それ故に強き意志は現れるという事実を忘れてはならん。
 ならばこの戦争を勝ち抜いた意志にこそ素晴らしい価値が宿るだろう。その強さを俺は信じている。

 強さとは何か――
 人生の中、とりわけ男子たるのであれば、一度はこの疑問を抱いたことがあるだろう。
 
 己が意を通すための力こそ強さ。その論こそ解答とするならば、なるほど道理である。
 勝負事に勝つための能力。欲した物を得る、望んだように事を運ぶための権力、財力。より単純に表すなら、自らの意を相手に圧し付ける暴力か。
 単純明快であり分かり易い。悪性とも言い表せるそれら人の業は、故にこそ霊長の頂点に至らせた紛れもない強さだろう。

 同時にそれと真逆の意見として、我意を納めることこそが強さだとする説もある。
 我欲を捨て、悟りの境地に至る。そこまでに至らずとも、当たり前に他者を慮り、無償でも尽くそうとする尊い慈悲。
 すなわち衆生に対する救い。人が人を思いやる善性の側面。それを持てる心の清さこそが強さ。
 どの言い分も否定するつもりはない。そしてどれもが人の持つ強さの一つと言い換えることができる。
 善徳であれ欲望であれ、自らが為したいとする事を為すという点では共通だろう。
 
 強さ。あらゆる物事に対して我意を貫くための基準。
 これをこの概念における一つの解答だと仮定し、次の考察へと巡らせる。
 果たしてこの強さの高とは、なにを以て決まるのか。
 
 身分等を背景とした権威の差か。
 生まれながらの宿星として持つ才気、在るべくして在る先天的な性質の強度か。
 あるいはその者が掲げる理由や目的の如何、すなわち人が誇るに値する正義であるのか否か。
 
 ああ、これに関しては諸々にも意見があろう。これより語ることを、俺を知る者が聞いたなら持てる者が抜かす戯言と捉えるかもしれん。
 だがあえて俺は、数多の答えがあるであろうこの疑問に対し、厳然たる一つの解答を我が信念より断言しよう。
 
 ――強さとは意志の重さである。
 各々が抱いた信念に乗せられる思いの質量。それこそが高を定めるのだと。
 
 身分の差など所詮は立ち位置の違いに過ぎない。
 生まれ持った天稟とは出発点の利でしかなく、極論すれば背が高い低いと大差はない。
 ましてやその中身など。高潔であろうが利己的であろうが、思いの質量の優劣にはなんら関係ない。

「なぁ、リルカフェ。お前は悔しくないのか?」

 男は続ける。

「自分を、否定されて、罵倒されて、悔しくないのか? 見返したいと思わないのか?」
「……ッ!!」
「俺は今の世の惰弱な意志を憎んでいる。安寧を貪るばかりの人間を認めることは出来ん。何の信念も覚悟もない輩が、臆面もなく正義を公言して憚らず、物知り顔で見当違いの道理を抜かす姿。ああ、反吐がでる。
 太平の世とは得てしてそうした奴輩が蔓延りだす時期でもある。現在の管理と安寧の社会はその極みだろうさ。
 意志なき者が理念を語ったところで、いったい何の重みが宿る。魂の劣化を招く堕落腐敗、その温床となっているものは断たねばならん」
「そのためならば悪さえも許容するんですか。強い意志が伴っていれば、他者に犠牲を強要する行為すら素晴らしいと。……なにが悲劇を憎むですか。貴方の考え方こそ、理不尽に倒れる弱者を生む要因となるもの。悪と呼ばれる理念そのものじゃないですか」
「虐げられる弱者、理不尽に起きる不幸、悲劇を俺は憎んでいる。断言してそう言おう。
 だが同時に、他者を犠牲にしてでも事を為そうとする意志を否定するつもりもない。そうした悪の意志でしか成し得ない事もある。
 そうした悪意に抗い、自身と大切に思う誰かの尊厳を守らんとする善の意志も、また然りだ」
「悪人ですね」
「善悪の定義とは所詮、主観的な見方の問題だ。その場限りの視点で推し量れても、それのみで価値を判断することは出来ん。
 なぜならば、例え今の人々の価値観から悪とされる行いでも、後の結果として見れば世に益をもたらす事例は往々に存在する。
 世界を整え規範を与えるのが善ならば、時にそれを壊し世界に新たな前進をもたらすのは悪なのだろう。その真価は後にならねば測れない。
 物事に絶対の正解答などない。どちらも人の持つ側面、光と成り得る意志の輝きだ。俺はそれを認め、尊んでいるというだけの話。だから、なぁ、オイ、リルカフェ。立ち上がれよ」

 弱りきった魔族のサキュバス。
 俺はそんな存在だからこそ立ち上がって欲しいと願う。

「己を否定され、排斥され、罵倒され、苦しいだろう。悲しいだろう。わかる、とは言わんよ。だが想像はできる。コミュティから弾かれ過ごすというのは過酷なものだ。だから、こそ、俺はお前に話しかけた」
「さっきから、ベラベラと、何の話をしているんですか。何なんですか貴方は」
「デビルマスターだよ。俺は。感動という言葉はな、心が感じて動くと書く。そして人が心に感じ入る時とは、常に強い感情、意志が介在している時だ。芸術、創作、音楽。それら感動を生むものとは、製作者の強い思いが込められている。気乗りもせずに作った駄作など、誰も見向きもすまい。
 清廉なる正義は見る者に憧憬の念を抱かせる。あるいは人によれば反感、妬みといった劣等感を与えるかもしれん。
 許されざる悪を目の当たりにすれば、真っ当な正義感の持ち主であれば強い義憤を覚えるはずだ」

 言葉を続ける。

「強き意志が与える影響は、他者を動かしその心に強さをもたらす。そしてそれは必ずしも元の意志と同じ性質とは限らない。
 時には対立者としての悪の存在が英雄を生み出す要因とも成り得る。所謂、対立構造の概念だが。
 俺があらゆる意志を認めるのはそのためだ。人には様々な意志があり、そのせめぎ合いの果てにこそ素晴らしい価値が生まれると信じている。
 ならば悪だとて認めてやらねばなるまい。それもまた人の営みであり輝きの一つなのだから」

 そして、と。

「俺はお前に立ち上がってほしい。周囲の圧力に屈せず、立ち上がり、勝ち上がってほしい。この殺し合いの運命を勝ち生き残ると信じている」
「殺し合い?」
「そうとも、この俺が手にある宝石の輝きがお前の魂だ。これが砕かれたときお前は死ぬ。お前は俺に選ばれた。だから参加せねばならん。勝てば万能の願望機が手に入り、あらゆる願いが叶う。負ければ死ぬ。その闘争に」

 甘粕正彦は邪悪な笑みを浮かべてそういった。
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