隣の席のオッドアイギャルは俺の心の声が聞こえるらしい

夕凪けい

文字の大きさ
120 / 124

第122話 赤い涙の惨劇――優しい人間が壊れる世界

しおりを挟む
ゆういちと聖が、ここに来るほんの数分前のことだった。

俺は、剣道部の道場のすぐ脇にある石の階段に腰を下ろしていた。

朝の空は、澄みきった青に包まれていた。
ひんやりとした空気が肺の奥まで行き渡り、頭の中まで洗われていく。
空には雲がゆっくりと流れ、時間そのものが穏やかに動いているようだった。

ぼんやりと、それを見上げながら――
俺は、独り言みたいに呟いた。

「……父さん、今の俺を見たらガッカリするだろうな……」

胸の奥に、じんわりと広がる感覚。
それは後悔なのか、理解なのか、自分でもはっきりしなかった。

――思い出す。

(回想)

俺が小さかった頃。
物心がついたときには、もう母さんはいなかった。

家には、親父と俺だけ。
二人きりの生活。

けれど正直に言えば――
俺は、親父のことをそれほど好きじゃなかった。

親父はいつも、ニコニコしていた。
どこか頼りなくて、へらへらしているように見えた。

仕事の上司から電話がかかってくることも、しょっちゅうあった。
受話器の向こうから、怒鳴り声が聞こえてくる。

それでも親父は、言い返す事なく、

「……はは……すいません」

そう言って、頭を下げるだけだった。

残業も多くて、
俺が起きている時間に、親父が家に帰ってくることはほとんどなかった。

だから、俺は勝手に決めつけていた。

――親父は、俺より仕事のほうが大事なんだ。

そんなある日。
積もり積もった気持ちが、つい口からこぼれた。

「……どうしてさ」

俺は、親父に向かって言った。

「言い返さないの?」

本気で、疑問だった。
男なら、やり返せよ。
当時の俺は、そう思っていた。

でも親父は、怒らなかった。
困ったように眉を下げて、それから、少し懐かしそうな顔で笑った。

「父さんな」

そう前置きしてから、ゆっくりと言った。

「昔、一回だけ……やり返したことがあったんだ」

意外だった。
親父にも、そんな過去があったなんて。

「でもな。不思議なもんでさ」

親父は、胸のあたりを軽く叩きながら続けた。

「全然、スッとしなかったんだよ」
「それどころか、なんだか……胸が苦しくなってな」

俺は、何も言えずに聞いていた。

親父は、少し遠くを見るような目をして、こう言った。

「どんな人間でもな」
「その人を大切に思ってくれてる家族とか、友達がいるだろ?」

「そういう人たちの顔が浮かぶとさ」
「どうしても、怒る気になれなくなるんだ」
「自分の怒りより彼らの悲しむ姿をお父さんは見たくないんだよ」

そう言って――
親父は、いつものように、にっこりと笑った。
この言葉の意味を、
その時の俺は理解できなかった。

俺は、親父みたいにはならない。
言いたいことをはっきり言えて、
怒るべき時には怒れる――
そんな“男らしい人間”になりたいと思っていた。

そんな、ある日の朝だった。

玄関で、親父がふらりとよろけて転んだ。

「お父さん! 大丈夫?」

そう声をかけると、親父はいつものように笑った。

「いや~、すまんすまん。
俺も歳だな。こんな何もない所でつまずくなんてな。」

そう言って、何事もなかったように立ち上がり、仕事へ向かった。

――その日の夜。

親父は、珍しく早く帰ってきた。

「え? 親父、どうしたの? 仕事は?」

俺が聞くと、親父はニコニコしながら言った。

「今日、蓮也の誕生日だろ?」

「だから今日は、父さんちょっと早く切り上げてきたんだ」

「じゃじゃ~ん!ケーキ買ってきたぞ??」

……嬉しかった。

親父が、俺の誕生日を覚えていてくれたこと。
仕事よりも、俺を優先してくれたこと。

その事実が、胸の奥にじんわりと広がって――
気づけば、胸が熱くなっていた。

そして、次の日。

いつものように、親父は玄関へ向かった。

その瞬間――

バタン。

倒れた。

(また何もない所で倒れたのか?)

そう思った。
きっとまた、笑って起き上がる。

――けど。

親父は、立ち上がらなかった。

「お父さん……?」

俺は駆け寄った。

「お父さん! どうしたの!?」

震える手で救急車を呼び、親父は病院へ運ばれた。

診察室で、医者は淡々と告げた。

「極度のストレスによる心臓疾患です」

「……もう、限界を超えています」

すでに心臓は、いつ止まってもおかしくない状態だった

俺は嘘だと思った。

いつもニコニコしていた親父が、
限界を超えるほどのストレスに苛まれていたなんて。

そんな現実、信じられるはずがなかった。

俺は現実を受け入れきれないまま、
足元もおぼつかないまま、ふらふらと歩き出す。

――そして、その場を出た瞬間。

胸が、潰れるみたいに跳ねた。

激しい動悸。
息がうまく吸えない。

視界が揺れ、足から力が抜けて――
俺は、そのまま床に崩れ落ちた。

(……いや、違う)

親父は、ずっと限界だったんだ。
なんで、気づかなかった。

いつも笑って、
いつも優しくて、
何ともない顔をしていた――
あの人が。

その瞬間、俺は理解した。

本当に壊れている人間は、
何ともない顔をしている人間なんだと――そのとき、俺は知った。

泣き叫ぶこともできず、
弱音を吐くことも許されず、
周りに心配をかけないためだけに、無理に笑顔という仮面を被る。

大丈夫だと、平気だと、
自分に言い聞かせるように笑い続ける。

そして気づけば――
優しい人間ほど、自分より周りを優先してしまう。

壊れていることにすら、
自分では気づかないまま。

俺は、その事実を、
あまりにも遅すぎる形で理解した。

親父が苦しんでいる時、
俺は何も気づかず、
そばにいることさえできなかった。

家族なのに。

もし、俺が――
もっと早く気づいて、そばにいて、
あの苦しみを分かち合っていたら……。

そんな「あり得たはずの過去」が、
胸の奥で何度も反芻される。

自分自身の無力さ。
取り返しのつかない後悔。

その感情に押し潰されそうになった、まさにその瞬間――

激しい頭痛と、込み上げる吐き気。
足元が揺れ、世界が裏返るような感覚に襲われた。

視界が歪む。
音が遠のく。

そして――
何かが、確かに開いた。

(……なんだ、これは?)

理解するより先に、身体がそれを拒絶する。

今なら分かる。

あれが――
俺が EES発現者になった瞬間 だった。

俺は、父親の病室へ向かった。

白いカーテン越しに差し込む光が、やけに眩しく感じる。
消毒液の匂いが鼻をつき、胸の奥がざわついた。

ベッドの上で、父さんは静かに横たわっていた。

近づく気配に気づいたのか、父さんはゆっくりと目を開く。

「……蓮也か」

かすれた声。
それだけで――もう、限界なのだと分かってしまった。
子供の俺にでも、はっきりと。

それでも俺は、その事実を必死に否定しながら、慌てて駆け寄る。

「父さん……」

その姿を見て、父さんは申し訳なさそうに、そしていつものように――
優しく、微笑んだ。

「ごめんな……心配かけて」

違う。
謝るのは――俺の方だ。

父さんの苦しみに、何一つ気づいてやれなかった。
それなのに、父さんは俺を気遣うように、少し間を置いてから、また口を開いた。

「父さんな……もう、長くなさそうだ」
「……お前の顔も、うまく見えない」

その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

父さんは、自分の死期を悟りながらも、
最後に何を残すべきかを探すように、ゆっくりと息を整えた。

「蓮也……お前は父さんに似て、繊細だ」
「この世界じゃ、生きづらいことも多いだろう」

静かな声が、胸の奥に染み込んでくる。

「言いたいことをはっきり言えず、不満を溜め込んで」
「そんな自分を、情けないと思う日も来る」

俺は、何も言えず、ただ小さく頷くことしかできなかった。

「世の中はな……」
「思った事をはっきり言う人間を、“強い”って持てはやす」

父さんは、かすかに首を振る。

「でも、それは違う」

「自分のために何を言うかより……
相手のために、何を言わずにいられるか。
それを選べる人間こそが、本当に強いんだと、父さんは思う」

そして――
まっすぐに、俺を見つめて言った。

「誰かを慈しむために、言葉を飲み込むこと」
「それは、弱さじゃない」
「紛れもない“強さ”で……優しさだ」

一拍、間があった。

「……本当はな」
「父さん、ずっと蓮也のそばにいたかった」

震える息。

「でも……こんな父さんで、ごめんな」

その言葉が、
音もなく、胸の奥に落ちていった。

――ああ。
これは父さんが、ずっと心の中で叫び続けてきた言葉なんだ。

子供ながらに、俺はすぐに理解した。

「……わかったよ。お父さん」

父さんは、ひどく苦しそうだった。
呼吸も浅く、顔色も悪い。

俺は、そっと父さんの手を握る。

その瞬間だった。

胸の奥に、激しい痛みが流れ込んでくる。
息が詰まり、視界が滲む。

――分かってしまった。

父さんが抱えてきた苦しみ。
誰にも言えず、笑顔で隠し続けた痛み。

俺の頬を、赤い涙が伝い落ちる。
その雫が、父さんの手の甲に落ちた。

「……蓮也、泣いてるのか?」

かすかな声。もう親父はほとんど見えていなかったと思う。

「なんでだろうな?」
「……蓮也のおかげでな」
「少し、心が楽になったよ」

父さんは、微笑んだ。

「だから……最後に」
「笑ってる顔、見せてくれないか」

俺は、赤い涙を流したまま、必死に笑った。

――大丈夫だよ、お父さん。
俺、お父さんの子で幸せだったよ。

その言葉を聞き届けるように、
父さんは、静かに目を閉じた。

そして、そのまま――
安らかに、息を引き取った。

その瞬間、俺は心に誓った。

父さんのように、優しくなること。
苦しい時こそ、誰かのそばにいられる人間になること。

優しい人間が、報われずに壊れていくこの世界を――
俺は、変えたい。

それが、父さんから受け取った――
最後の、そして一番大切な教えだった。

そして――
父さんの葬式が行われた。

黒い服に包まれた人々が、静かに棺の前を通り過ぎていく。
俺は、その流れの中で立ち尽くし、棺の中の父さんの顔を見つめていた。

穏やかな顔だった。
まるで、ただ眠っているだけみたいに。

……不思議と、涙は出なかった。
もう、出し尽くしてしまったあとだったのかもしれない。

式は滞りなく終わり、
黒い服に身を包んだ人々は、静かに帰路についていった。

そのときだった。

少し離れた場所で、数人の若いサラリーマンが立ち話をしているのが、耳に入った。

黒いスーツ。
硬い革靴。
どうやら、父さんの仕事仲間らしい。

「おいおい……まさか本当に死ぬとはな」
「仕事、やらせすぎたか?」

重たい前髪の男が、軽い調子で口を開く。

「引き継ぎ、めんどくせぇな……」
「部長もさ、パワハラほどほどにしろよ。怒鳴って蹴飛ばしてりゃ、そりゃ壊れるわ」

若い男たちの、笑い声。

「てか、あいつさ」
「いつもヘラヘラしてて、正直気持ち悪かったよな」

誰かが、鼻で笑う。

「男だったら、言い返せよな?」
「だから……死ぬんだよ」

――その言葉が、
俺の胸の奥に、静かに突き刺さった。

その瞬間。
俺の中で、何かが――音を立てて壊れた。

(……父さんは)

(こんな奴らのために……壊れたのか?)

(こんな、クズでどうしようもないゴミのために?)

胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
それは怒りでも、悲しみでもない。

もっと、澄んだ――
殺意に近い感情だった。

ただ一つだけ、はっきりしていた。

(……こいつらは、絶対に許せない)

父さんは、誰かを傷つけるために我慢していたわけじゃない。
誰かを守るために、言葉を飲み込んでいたんだ。

それを――
こんなふうに、笑いながら踏みにじる。

(父さん……ごめん)

(俺は、父さんみたいに強くなれない)

(こんな奴らを守るために、言葉を飲み込むことなんてできない)

(たとえ、こいつらを大切に思う家族や友人がいたとしても……
 俺は、こいつらを許せそうにない)

俺は、ゆっくりと歩き出した。

彼らに向かって。

体格差は一目瞭然だった。
相手は大人で、俺より一回りも、二回りも大きい。

それでも――
足は、止まらなかった。

彼らの前に、立ち塞がる。

「……なんだ、コイツ?」

重たい前髪の男が、訝しげに言う。

「あ、ああ……」
「……あの人の、息子ですよ」

一瞬の沈黙。

次の瞬間、彼らは小さく笑った。

――その笑いが、決定的だった。

「お前らみたいなゴミのせいで――」

俺は、低い声で言った。

「父さんは、死んだんだ」

そして、はっきりと告げる。

「俺は……お前らを、絶対に許さない」

「なんだ、お前は?」

若い男がそう言った、その瞬間。

俺は、視界に彼ら全員を収めた。
逃がさないように。
焼き付けるように。

――ここから、もう戻れないと分かっていながら。

そして――
能力が、勝手に開いていくのを感じた。

苦しみを、分かち合う力。

父さんが味わってきた痛み。
押し殺してきた苦しみ。
誰にも言えず、笑顔の裏に隠していた絶望。

――それらすべてを。

「……な、なんだ……これ……」

一人が、胸を押さえる。

「痛い……なんだこれ?」
「気持ち悪い……!」

彼らの目から、赤い涙が溢れ出した。

理解できない苦痛に、次々と膝をつく。
泡を吹いて、その場に崩れ落ちる男がいた。
そして――
俺に救いを求めるように、必死に手を差し伸べてくる男もいた。

「おい……」
「……お前、早く……救急車を……」

掠れた声。

けれど俺は、その姿をただ淡々と眺めていた。

怒りも、興奮もない。
あるのは――静かな現実だけ。

それは、殴ったわけでも、罵ったわけでもない。
ただ――

“知ってしまった”結果だった。

父さんが、生きてきた地獄を。

その直後――
俺自身の視界が、赤く染まった。

頭を締め付けるような激痛。
吐き気。
身体の奥から、何かが込み上げてくる。

俺もまた、赤い涙を流していた。

ぽたり、と。
地面に落ちる赤い雫を見つめながら、俺は思う。

(……ああ)

(父さん……本当だったんだな)

(やり返しても……胸は、全然スッとしない)

苦しい。
ただ、苦しいだけだった。

これは、能力の副作用なのか。
それとも――
俺自身の心が、傷ついているだけなのか。

その区別すら、もうつかなかった。

それでも――
後悔は、なかった。

父さんが味わってきた苦しみを、
こいつらにぶつけれた。

ただ、それだけで。
ほんの少しだけ、救われた気がした。

俺は、その場に立ち尽くしたまま、心の中で呟く。

(父さん……)

(俺は、父さんみたいに――
 優しくは、なれなかったみたいだ)

胸の奥が、じくりと痛む。

(でも――)

(父さんが、背負ってきた痛みを)

(無かったことにはできない。)

それが――
俺なりの、弔いだった。

その瞬間――
遠くの扉が、静かに開いた。

スーツを着た男と、同じくスーツ姿の女性が、言葉も交わさずに葬儀場へと入ってくる。
二人は迷いなく父さんの棺の前まで進み、そこで足を止めた。

……胸の奥が、ざわついた。

能力の影響なのか。
それとも、怒りがまだ消えていなかったのか。

思考が、再び偏り始める。

(……あいつらも)

(父さんを、壊した側の人間なんじゃないのか)

(だったら――こいつらも……)

俺は、ゆっくりとその男に近づいた。

そのとき、隣に立っていた女性が、低い声で彼を呼ぶ。

「……代表」

――代表。

その呼び方が、妙に耳に残った。

次の瞬間、激しい頭痛がこめかみを貫く。
視界がわずかに歪み、反射的に手で目元を押さえた。

(……お前たちも)

(父さんの苦しみを、味わえばいい)

そう思った――
その、瞬間だった。

代表と呼ばれた男は、父さんの棺を見下ろしたまま、静かに肩を震わせた。

ぽたり、と。

一粒の涙が、棺の縁に落ちる。

その光景を見た瞬間、
子供ながらに――俺は思ってしまった。

(……綺麗だ)

とても、気高くて。
とても、まっすぐな涙だった。

俺が今、流している赤い涙とは――
まるで、別物に美しい涙だった。

「……幸春」

かすれた声で、父さんの名前を呼ぶ。

「お前も……私を残して、先に行くのか……」

その声は、決して取り繕ったものじゃなかった。
誰よりも深く、父さんとの別れを悲しんでいる――
そう、はっきりと分かる声だった。

胸の奥で、何かがひび割れる。

近づいていた俺に気づいたのか、隣に立っていた女性が小さく声をかける。

「……代表」

制止するような、その一言。

男は、ゆっくりと振り返った。

黒髪で、すらりとした体型。
余計な力の入っていない、落ち着いた佇まい。

そして――
何よりも目を引いたのは。

左右で色の違う、その瞳。

オッドアイ。

赤い涙を流したまま立ち尽くす俺を見て、
男は一瞬だけ、静かに目を見開いた。

驚き。
困惑。
そして――この異様な現象に、どこか心当たりがあるかのような、納得。

それでも、その表情の奥には、確かに優しさがあった。

「……君は」

一拍、置いてから。

「幸春の……息子か?」

その問いは、責めるでも、疑うでもない。
ただ事実を確かめるための、静かな問いだった。

それなのに――
なぜか、その言葉は俺の胸に、まっすぐ突き刺さった。

「……そうだけど」

俺は、赤い涙を拭いもせずに答える。

「……あんたは?」

男は、少しだけ目を細める。
そして、穏やかに微笑んだ。

「私は、幸春の……親友だよ」

一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから、続ける。

「彼がどう思っていたかは分からないけれどね」
「少なくとも、私は彼を親友だと思っている」

その言葉には、誇りも、後悔も、嘘もなかった。

それから男は、まっすぐ俺を見て問いかける。

「君は――」
「これから、行く当てがあるのかい?」

……答えられなかった。

行く当てなんて、どこにもない。
父さんがいなくなった瞬間に、
俺の居場所は、この世界から消えていた。

男は、そんな俺の沈黙を責めなかった。

「もしよければ――」

静かな声。

「私のところへ来ないか?」

隣に立っていた女性が一瞬だけ驚いたように目を見開く。

男は続けた。

「EES未来支援機構という施設を運営している」
「君のように、身寄りを失い、それでも生きなければならない子供たちを支援する場所だ」

俺は、ゆっくりと顔を上げた。

「……そこには」

喉が、少しだけ詰まる。

「俺と同じように」
「理不尽な苦しみに苛まれてる子たちが……いるのか?」

男は、はっきりと頷いた。

「ああ……たくさんいる」

その一言で、胸の奥が熱くなった。

俺は、無意識に手を握りしめていた。
爪が食い込むほど、強く。

――逃げたいわけじゃない。
――忘れたいわけでもない。

ただ。

もう、あんなふうに壊れていく優しい人間を、
二度と見たくなかった。

俺は、男を見上げて言った。

「……俺、そこに行く」

声は震えていなかった。
それどころか、不思議なくらい落ち着いていた。

「苦しい時にこそ、そばにいる」

胸の奥で、赤い痛みが脈打つ。

「俺は、この力を」
「この“赤い涙”を――」

一拍、置く。

「誰かを傷つけるために流したくない」

視線を逸らさず、言い切った。

「誰かを慈しむために」
「誰かの苦しみを、分かち合うために使いたい」

それが――
父さんから受け取った、最後の教えで俺なりに出した答えだった。

そして、俺自身が選んだ生き方だった。

男は、静かに微笑んだ。

その笑顔は、どこか父さんに似ていて――
俺は初めて、ほんの少しだけ、救われた気がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

清掃員と僕の密やかな情状

MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。 青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。 肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。 44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...