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第126話 天使の断罪 ――誰かを救うことは、誰かを救わないこと
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──そして俺たちは、ゆういちと再会した。
その瞬間、俺の頭の中にあった願いは、たったひとつだけだった。
愛理と、ゆういちが結ばれてほしい。
それ以外のことは、何も考えられなかった。
ゆういちがここに来ることは、事前に愛理から聞いていた。
彼の“友達の女の子”に能力を使って、ここへ導いたのだと。
正直に言えば――
そのやり方は、歪んでいるように見えた。
誰かの意思を、能力で動かす。
善意であっても、それは踏み越えてはいけない一線かもしれない。
それでも。
俺は、愛理の行動が理解できてしまった。
そして――
俺は、愛理のことを信じることができた。
思い出すのは、あの屋上だ。
過去に、俺が救った愛理が、今度はゆういちを救った。
その事実だけが、愛理の行動と未来を信じることができた。
救われた人間が、誰かを救う。
その連鎖が、本物だと知っているからこそ、
俺は今の彼女の選択を否定できなかった。
もし、二人が結ばれた未来で――
愛理とゆういちが、また別の誰かを救うのだとしたら。
そこへ至るまでの過程が、どれほど歪で、醜く、間違って見えたとしても。
未来に待つ幸せと、
未来で救われる人たちの存在を思えば――
この犠牲は、
強要できる。
それが、今の俺の出した答えだった。
そして――
ゆういちが、姿を現した。
「な……んで……?
どうして……お前らが、ここにいるんだよ……?」
ゆういちは、目を見開いたまま固まっていた。
驚き。困惑。
そして――隠しきれない嫌悪。
胸の奥で、感情が黒く渦を巻いているのが、見て取れた。
無理もない。
彼にとって目の前の存在は、すでに縁を切ったはずの――
過去そのものだったのだから。
「……にしし♡
ゆういち、久しぶりだね?」
その声を聞いた瞬間、
愛理は、今まで見たことがないほど幸せそうな顔をしていた。
頬は上気し、瞳は潤み、
まるで世界にゆういちしか映っていないみたいな――
恋する乙女の表情。
「わたしね……ず~っと、ずっと会いたかったんだよ?♡♡」
衝動を抑えきれないのか、
一歩、また一歩と距離を詰める。
そして――
逃げ場を与えない距離まで近づくと、
そのまま、ゆういちの胸元を指先で、
つん。
つん。
いたずらっぽく、軽く突いた。
「進路まで変えちゃうなんてさ~、さすがに予想外だったよ?
ちょっと……やりすぎちゃったかな?」
声は甘い。
けれど、その奥に宿る感情は、明らかにそれだけじゃなかった。
とろんと細められた瞳の奥には――
もう二度と逃がさないという、確固たる意志が滲んでいる。
「あれ?
身長、伸びた?」
じっと見上げるようにして、微笑む。
「なんだか前より、かっこよくなって……
学校じゃ、モテモテなんじゃない?」
そう言いながら、
愛理はちらりと――俺の方へ視線を向けた。
まるで、答え合わせでもするかのように。
「ねぇ、蓮也?」
その一言で理解した。
これは再会なんかじゃない。
捕まえ直しだ。
俺は計画をなぞるように続ける。
「ははっ。そりゃそうだろ。
ゆういちは昔から努力家だったし、モテ始めるのも時間の問題だよ」
ゆういちは、まだ状況を理解できないまま、ただ立ち尽くしていた。
愛理は、紫色の髪の少女へと、ゆっくり視線を向けた。
「やっほ~、お嬢ちゃん♡
ゲームセンターで会ったよね? 覚えてる?」
その声に、少女はびくっと肩を跳ねさせた。
戸惑いを隠せないまま、こちらを見つめ返してくる。
――間違いない。
愛理が「能力を使った」と言っていた少女。
おそらく、この子なのだろう。
愛理は、変わらぬ笑顔のまま、言葉を重ねる。
「ゆういちを、ここまで連れてきてくれて……ありがと♡」
「え……?
つ、連れてきた……?
どういう意味ですか……?
わ、私は言われたから来たわけじゃ……」
混乱した声。
当然だ。
何が起きているのか、理解が追いついていない。
「そうなんだ~?
まあ、いいけど♡」
その一言で、愛理の中から完全に関心が消えた。
それ以上、彼女を見ることはない。
まるで、役目を終えた道具を見るかのように。
愛理は、何事もなかったように視線を移す。
——如月聖へ。
聖は、ゆういちと仲良くなるよりも前からの俺の大切な友人だった。
そんな彼の前で、これから起こることを思うと、胸の奥がきりりと痛む。
だが、愛理はそんな感情など意に介さない。
「やっほ~、ひじりん。元気してた?
まさかさぁ……ゆういちの進路に“合わせて”
ひじりんまで進路変えるとは思わなかったよ?
できれば教えてほしかったな~」
軽やかで、無邪気な声音。
その裏にあるものを知っているからこそ、余計に狂気を感じた。
聖は、ほんの一瞬だけ間を置いてから、静かに答える。
「……愛理ちゃん、久しぶり。
僕は元気だよ」
そして――
愛理は、ゆういちへと向き直った。
ゆういちは、まだこちらをまっすぐには見ていない。
けれど、逃げるように視線を逸らすわけでもなかった。
愛理は、ひどく柔らかい声で言う。
「ゆういち……
あの時は、ごめんね?」
胸の奥が、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。
「……わたし、ちょっとどうにかしてたんだと思う。
だからさ……これからも、今まで通り。
昔みたいに、仲良くしよ?」
あまりにも軽い。
軽すぎる言葉だった。
俺は、思わず息を呑む。
それは謝罪というより――
火に油を注ぐ行為に近い。
だが、愛理自身は気づいていない。
その言葉が、どれほど深く相手を傷つけるものなのかを。
それを「異常」だと認識する感覚そのものが、もう欠けている。
――これが、EES共鳴現象ステージ2。
ゆういちは、目の前で起きていることの恐怖を、
はっきりと理解しているようだった。
「……なんで」
低い声。
思っていたよりも、ずっと低くて、冷たい。
その声音の奥で、
ゆういちの中に渦巻く大きな苦しみが、はっきりと伝わってくる。
「なんでお前らは……」
拳が、ぎゅっと握り締められる。
「“何事もなかった”みたいな顔で、
平然と話しかけてくるんだよ」
その言葉が落ちた瞬間、
空気が、ぴんと張り詰めた。
ゆういちの怒り。
憎しみ。
裏切られた痛み。
それらが、目に見えない渦となって、この場を支配していく。
俺は、思わず愛理の方を見た。
――訂正してくれるはずだ。
今の言葉を、少しでも和らげるような一言を。
そして、勝手にそう思っていた。
愛理もきっと、ゆういちを傷つけてしまったことに気づき、
悲しそうな顔をしているはずだ、と。
……けれど。
違った。
愛理は――
ゆういちのその苦しみに歪んだ表情を、
まるで誰よりも愛おしいものを見るかのように、じっと見つめていた。
慈しむように。
抱きしめたくて仕方がないものを見るように。
その視線に、俺は戦慄した。
――ああ。
愛理は、もう俺の知っている愛理じゃない。
……いや。
もしかしたら、これが本来の愛理なのかもしれない。
そんな考えが、胸をよぎる。
(……違う)
すぐに、俺は首を振る。
人間の本質は、そんな簡単に変わるものじゃない。
疑念が湧き上がる。
けれど、その直後――
屋上で、ゆういちを救ったあの愛理の姿が、鮮明に蘇った。
苦しむ彼に手を差し伸べ、
必死に寄り添っていた、あの姿。
――そうだ。
愛理は、誰かを苦しめる側の人間じゃない。
救う側の人間だ。
そう信じることだけは、
俺には、まだできていた。
ゆういちは、続けた。
「蓮也……お前、“親友の恋は応援する”って言ったよな」
低く、抑え込んだ声だった。
怒鳴ってはいない。
だからこそ、重い。
「じゃあ、なんでだよ」
一拍。
「俺が愛理に振られた“次の日”に、
平気で付き合えたんだよ?」
胸が、張り裂けそうになる。
心臓の奥を、鋭いもので抉られたような痛み。
「なぁ、愛理……」
ゆういちの声が、ほんの少しだけ震えた。
「どうして振った次の日に、蓮也と付き合って、
まるで俺に見せつけるみたいに手を繋いで歩いてたんだよ?」
その問いに――
愛理は、仮面を被るように答えた。
「ど、どうしたの……ゆういち……?」
わざとらしいほど、怯えた声。
「なんか……怖いよ……
私は、ただ――」
一歩、後ずさる。
その瞬間だった。
空気が、変わった。
ぞわり、と。
目に見えない何かが、この場を覆い尽くす。
――この感覚。
間違いない。
何かの能力が、発動している。
「……聞かせろよ」
ゆういちの声は、低く、鋭かった。
「“お前の本音”を」
――その瞬間。
俺の知らない“共鳴”が、ゆういちを中心に広がっていく。
そして予想外の出来事が、起きた。
「……私は」
一拍。
愛理の唇が、
ゆっくりと――歪む。
「ゆういちが――
苦しんでる姿が、好きなのよ……♡」
……一体何が、起きた?
思考が完全に停止した。
どう考えても、今の発言は――
ゆういちとの恋愛を成就させる上で、致命的な失言だった。
あり得ない。
言ってはいけない。
口にした瞬間、すべてが壊れる言葉だ。
俺は、反射的に愛理の方を見る。
すると――
愛理自身も、はっとしたように目を見開いていた。
まるで、
自分の口から出た言葉を、本人が理解できていないかのように。
……まさか。
これは――
心の奥に押し込めていた本音が、
能力によって、そのまま漏れ出たのか。
取り繕う前の。
嘘を重ねる前の。
誰にも見せるはずのなかった、
“剥き出しの感情”が――。
その場に、重たい沈黙が落ちた。
もう、
後戻りはできない。
愛理は、はっとしたように目を見開いた。
「ち、違う……!
なに、これ……!? ちがっ……!」
声が震える。
取り繕うように、必死に否定する。
けれど――その弁明は、次の瞬間、彼女自身によって裏切られた。
「……私は……」
言葉を止めようとしているのに、
唇が、勝手に動く。
愛理の声が、制御を失ったまま零れ落ちる。
「ゆういちの、あの顔が……
たまらなく、愛おしいの♡」
――空気が、凍りついた。
それは告白だった。
否定の仮面を突き破って現れた、
紛れもない本音。
愛理の“本性”が、その場で剥き出しになる。
俺は、背筋が粟立つのを感じながら、愛理を見た。
そして同時に、愛理自身も――
この不可解な現象の正体に、気づいたようだった。
彼女は、ゆっくりと目を細める。
俺も分かっていた。
これは――
EES共鳴現象。
恐らく本音が、強制的に引きずり出される能力。
そして愛理は、確信したように言った。
「……なんだ。
ゆういちも、“こっち側”の人間だったんだ」
その声音には、驚きよりも――
どこか、安堵に近い響きがあった。
愛理は、もう隠そうともしない。
ゆっくりと、自分自身の本音を語り始める。
「私はね……
ゆういちが大好きなの」
一歩、前に出る。
距離が縮まる。
逃げ場は、もうない。
「あの時――
上級生から、私を守ってくれた瞬間から。
ずっと……ずっと♡」
その声は、甘く、熱を帯びていた。
まるで、胸の奥に溜め込んできた想いを、
ようやく吐き出せたかのように。
愛理は、そのまま感情をぶつける。
「でもね?
ゆういちは、他の女の子と手を繋いだりするじゃない。
……私がいるのに」
その言葉に、
愛ではなく――支配の匂いが混じっていることを、
俺ははっきりと理解してしまった。
愛理は、とろんとした目でゆういちを見つめていた。
熱を帯びた視線。
まるで、長い間閉じ込めていた想いが、溢れ出してしまったかのように。
「だから、知ってほしかったの」
声は柔らかく、甘い。
けれど、その奥に潜むものは――冷たく、歪んでいた。
「“人”ってね……
地獄で手を差し伸べられると……
その人に、狂気的に依存するの」
言葉を選んでいる様子はない。
まるで、真理を語っているかのようだった。
「私は……
ゆういちには、私だけを見てほしかった」
淡々と。
感情を抑えるでもなく、飾るでもなく。
愛理は、ただ事実としてそれを口にした。
ゆういちは、完全に言葉を失っていた。
目を見開き、唇をわずかに震わせる。
理解が追いついていない――それが、はっきりと分かる表情だった。
そして俺もまた、
愛理の本音に、背筋を凍らせていた。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
ゆういちは、かすれた声で言う。
「……お前……
なにを、言って……」
問いというより、
現実を拒絶するための言葉だった。
だが、それに対して愛理は――
どこか昂揚した様子で、答える。
「クラスに、ゆういちの過去をバラしたの――
……私よ」
……は?
一瞬、世界から音が消えた。
風の音も、心臓の鼓動すら――遠のく。
聞き間違いだ。
そう、脳が必死に否定する。
理解するより先に、拒絶が走った。
けれど。
愛理の表情は、微塵も変わらない。
冗談でもなければ、挑発でもない。
そこにあるのは、ただ事実を告げているだけの顔だった。
俺の頭が、かっと熱くなる。
呼吸が荒れ、肺が上手く膨らまない。
胸の奥で――
何かが、音を立てて崩れていく。
(……じゃあ)
なら、あの時。
屋上で、壊れたゆういちに手を差し伸べる姿は――
全部嘘だったのか?
あれは、救済じゃなく。
自分で落とした地獄を、なぞって見せただけだったのか?
愛理は、救う側の人間じゃなかったのか。
いや――
(……違う)
もっと残酷な答えが、浮かび上がる。
俺が救った人間は、
結局――
また誰かを苦しめる側に回っていたという事実。
その現実に、
俺は心の底から、絶望した。
あれをバラしたのは、ヤンキーたち。
そう、ずっと思い込んでいた。
疑う余地なんて、なかった。
怒りの矛先も、憎しみの対象も、
すべて――そこに向けて整理してきた。
……違った。
あの地獄を作ったのは――
今、目の前に立っている。
俺の家族で。
俺が、守ると決めた存在で。
愛理だった。
そして俺もまた、
気づかぬうちに、
なんの意味にもならない理不尽な苦しみを、誰かに与える側に回っていた。
胸の奥が、音を立てて崩れていく。
そして彼女は、
何の躊躇もなく、言葉を重ねる。
「嫌なことがあると、
ゆういち、よく“無意識”に屋上に行くよね?」
その口調は、あまりにも自然だった。
「……あれ、自分の意思だと思ってた?」
首を傾げる、その仕草すら計算されたものに見える。
「どうして、
あの時、屋上に私がいたと思う?」
「偶然だと思った?」
――にこり。
その笑顔が、
何よりも恐ろしかった。
「全部、全部……
私が仕組んだの」
「あなたを、
私に“狂気的に依存”させるために♡」
言葉の意味を、
俺の脳が拒絶する。
「……どうして……
どうして、そんなことを……?」
震える声で、ようやく絞り出したゆういちの問い。
愛理は、その疑問に
一切の迷いもなく、本音で答えた。
「だって……
あなたが、大好きだからよ」
背筋が、凍りつく。
「前に屋上で言ったでしょ?
“私は、ゆういちを一人にしないよ?”って」
「……あれね。
一つだけ、欠けてたの」
一歩、距離が詰まる。
逃げ場が、消える。
「“私だけ”が、あなたの味方でいい。
他なんて……いらないの」
ゆういちは、震えていた。
いや――
それはもう、単なる震えじゃない。
絶望していた。
――自分が大好きだった人間が、
こんな“悪魔”だったと知ってしまったのだから。
「……なんだよ、それ……」
その声は、怒りでも拒絶でもなかった。
心が砕け落ちる音、そのものだった。
ゆういちの心は、もう限界だった。
その時の表情は、
かつて、すべての苦しみを一人で抱え込み、
誰にも助けを求めなかった――
あの父さんと、同じだった。
(……やめろ。もうやめてくれ。)
反射的に、身体が動いた。
俺は、ゆういちを救おうとした。
その手を握り、苦しみを引き受けるつもりだった。
もう、躊躇している場合じゃない。
今、止めなきゃ——取り返しがつかない。
——その瞬間。
愛理が、俺を睨みつけた。
そして、そのまま視線を逸らさない。
言葉は、なかった。
けれど、はっきりと伝わってくる。
——余計なことをするな。
剥き出しの殺意。
その瞬間、俺の身体は凍りついた。
そして俺は、
ゆういちを救うという選択を——手放した。
……いや、違う。
あれは、
自分の意思でやめたわけじゃない。
今、振り返ってようやく分かる。
あの瞬間の俺は――
やめるように、選ばされていた。
家族だと思っていた。
信じていた。
その家族に、
能力を向けられる日が来るなんて――
想像すらしていなかった。
そして、悟ってしまう。
もう、
あの時の優しい愛理は、どこにもいない。
――いいや。違う。
もしかしたら――
最初から、
愛理に“優しさ”なんてなかったのかもしれない。
そして、ゆういちは泣きそうな声で、
俺に問いかけた。
「……おい、蓮也。
お前……知ってたのかよ?」
「正義感が強くて、真っ直ぐで……
俺が、ずっと憧れてたお前なら……
こんなの、許せねぇだろ……?」
胸が、えぐられるように痛んだ。
もう限界だ。
ゆういちのその苦しみは、はっきりと“限界点”に達している。
――あと一言。
あと、たった一言。
それを投げかけられた瞬間、
彼の心は、完全に潰れてしまう。
俺には、それが分かってしまった。
自分の苦しみを分かち合う能力が
その残酷な未来が、はっきりと見えてしまったから。
そして――
その一言を、言わなければならないのは、俺だった。
俺が犠牲になり、
愛理とゆういちが結ばれて、幸せになって、
そしてまた誰かを救う。
そんな“綺麗な理想”は、
この場にはもう、どこにも残っていない。
俺は今から――
何の理想にも繋がらない、
ただの理不尽を。
ゆういちに、
強要しなければならない。
やめようとしても、
止めようとしても、
愛理の能力が――それを許さない。
愛理の能力の、最も恐ろしい点。
それは洗脳でもなければ、
いわゆる「選択の強要」でもない。
――無意識への介入。
自分が、自分の意思でそれを選んだと、
脳が認知してしまうこと。
誰かに選択を強要されるのなら、
まだマシだ。
自分のせいじゃない。
仕方ない。
あいつが悪い。
そう思うことで、
人はほんの少しだけ、救われる。
愛理の能力の、最も恐ろしい点。
それは洗脳でもなければ、
いわゆる「選択の強要」でもない。
——無意識への介入。
自分が、自分の意思でそれを選んだと、
脳が“認知してしまう”こと。
誰かに選択を強要されるのなら、
まだ、救いはある。
自分のせいじゃない。
仕方がなかった。
あいつが悪い。
そう思うことで、
人はほんの少しだけ、自分を守れる。
けれど、愛理の能力は違う。
本来なら——
その違和感に、気づくことすらできない。
あの時の俺は、
自分の意思で選択したと、
本気で、そう思っていた。
けれど。
愛理の能力を知っている、
“今の冷静になった俺”だからこそ、
後から、そのズレを認知できた。
……けど、この時の俺は違う。
口が、
まるで自分の意思であるかのように――
勝手に、開いていく。
逃げ場は、もうなかった。
自分の理想。
この世界のすべての人が、
穏やかに、幸せに生きられる世界。
その理想を、
自分の言葉で、
自分の手で――
壊していく。
感情だけが、はっきりと理解していた。
自分が今、
取り返しのつかないことをしようとしている――
その事実だけを。
(……止まってくれ)
心の奥で、
何度も、何度も叫ぶ。
それなのに。
俺は、その選択を――
自分の意思で、正しいものだと選んでしまう。
「俺は、お前を――
“親友”だと思ったことは、一度もない」
(……ごめん)
(……ごめん、ゆういち)
何に対して謝っているのかさえ、言語化できない。
ただ胸の奥の“拒絶”だけが、俺を謝らせていた。
正しいと認識してしまった今の選択。
その一方で、それを必死に否定する、本心。
胸の奥が、ぐしゃりと潰れた。
どれだけ自分の意思で選んだと、
思い込もうとしても。
心だけは、
その選択を、全力で拒絶していた。
けれど――
もう、止まらなかった。
ゆういちの表情が、
壊れたおもちゃみたいに歪む。
「……は?」
俺は、逃げるように、
それでも止まれずに、言葉を重ねてしまう。
「愛理が、お前を気に入っていたから。
俺は、その役を演じてただけだよ」
思考は、
その言葉が“正しい”と結論づけ続けている。
「俺は、愛理だけでいい。
友達なんて、いらない」
(……もう、やめてくれ)
感情は、何度も俺を引き止める。
けれど思考は、それを淡々と正当化する。
――これは自分で選んだことだ、と。
吐き捨てるように、
俺は続ける。
「昔から俺はさ……
人が、何を言ってほしいか。
何を求めてるか――
直感的に、わかるんだよ」
能力の副産物。
目の前の人間が抱えている苦しみの重さも、
その種類も、
そして――
どんな言葉を向けられたがっているのかも。
直感的に、理解できてしまう。
「お前、好きだろ?
“真っ直ぐなやつ”に救われる感じが」
乾いた笑みが、
俺の意思とは関係なく、勝手に浮かぶ。
「だから、
一番苦しい時こそ側にいるのが友達だって
言ってやったんだ」
「どうせ、すぐ落ちると思ってたけど……
まさか、ここまで簡単とはな」
胸が張り裂けそうだった。
俺は今、
かけがえのない親友を、
自分の言葉で、確実に傷つけている。
そのとき――
愛理は、その場にしゃがみ込み、
そっと、ゆういちへ手を差し伸べた。
「ゆういち……
私は、あなたを一人にしないよ?」
「もう、何も考えなくていいの」
「ずっと……
ずっと、私と一緒にいよう?」
耳元で囁くような、
優しい声。
「大丈夫。
私だけが……あなたの味方だから」
「学校も辞めちゃお?
私、もう結婚できる年齢だし……」
「ね?
もう……ずっと、二人でいよう?」
――完全に、壊れている。
はたから見ても、そう思えた。
そして俺の目にも、
ゆういちの心が、苦しみの渦に呑み込まれていくのが
はっきりと映っていた。
……その瞬間。
「……え?」
愛理の口から、
思わずというように声が零れた。
「どうしたの、ゆういち?」
予想とは違う行動に、
俺と愛理は同時に戸惑う。
そして――
ゆういちは、ゆっくりと顔を上げた。
その表情を見た瞬間、
俺は言葉を失った。
――壊れた人間の顔じゃない。
いや、正確には壊れている。
確かに、心はひび割れている。
それでも――
誰かが、その壊れかけた心を必死に支えていた。
感情は折れているのに、
今この瞬間だけ理性が、必死に立ち上がろうとしている。
ゆういちは、静かに口を開いた。
「……悪いな、愛理」
一拍。
「その手は……
俺は、もう取れない」
胸の奥が、ひくりと震える。
「ここでお前の手を取ったら、
俺がしてきた努力も、
過去の自分も……全部、なかったことになる」
淡々と、
けれど確かな意志を宿した声。
「それってさ……
“彼女”の存在すら、否定するってことになるだろ?」
――彼女。
それが今、この壊れかけたゆういちを、
かろうじて立たせている存在だと気付く。
「俺は……
愛理に愛されるために、
必死だった過去の自分を、誇りに思ってる」
その一言で、
愛理の表情が揺らいだ。
「……ゆういち、待ってよ」
縋るような声。
「なに、彼女って……?
……嘘でしょ?
ねぇ、嘘だって言ってよ……」
ゆういちは、ゆっくりと立ち上がり、
俺たちの横を――
静かに、通り過ぎていった。
「今まで……ありがとう」
一拍。
「もう、お前らとは……
これで最後だ」
その言葉とともに、
ゆういちは――
俺たちを、完全に断ち切った。
その背中を見ていた聖が、堪えきれないように声を荒げる。
「……なんでよ!」
「なんで、ゆういちにそんな嘘をついたの!?
あんな酷いこと……
どうして、平気でできるの……!?」
ゆういちが苦しんでいるときに、
本気で怒り、必死にそばにいようとする聖。
その姿を見て、
本来自分がしなければならなかったことを、
嫌でも突きつけられた気がした。
そして――
俺たちは、彼らと別れた。
そして時間が経ち、冷静になった俺は愛理を問い詰める。
「おい……!」
「ゆういちの過去をバラしたって……
どういうことだよ?」
拳を強く握りしめ、
下唇を噛み締める。
この話だけは、絶対に有耶無耶にさせない。
「ヤンキー達が勝手に広めたんじゃねぇのかよ?」
その言葉に、
愛理は足を止めることなく、淡々と答えた。
「違うわ」
夕焼けに染まる一本道。
愛理の声だけが、静かに落ちる。
「私がバラしたの。
ゆういちの過去を」
一瞬、
空気が凍りついた。
「……は?」
「なんで、そんなこと……」
その声を背に受けながらも、
愛理は歩みを止めなかった。
振り返りもしないまま、淡々と続ける。
「ゆういちを、
私以外の女に取られないためよ」
少しだけ間を置いて、
はっきりと言い切る。
「そして――
私に、強く依存させるため」
もう完全に“以前の愛理”ではなかった。
狂気的なまでに、過去の苦しみに囚われている。
「……このやり方がおかしいことくらい、分かってるわ」
愛理は、静かに言葉を重ねる。
「それでも、私は――
それを選ばざるを得なかった」
「私の“過去の苦しみ”が……
そう決断させたの」
――愛を、いつ失うかわからない恐怖。
――手を離した瞬間に、消えてしまう不安。
俺は、愛理の苦しみを分かち合ってしまった。
だからこそ――
彼女のすべてを、否定することができない。
そして、
そんなふうに“理解できてしまう”のに、
それを真正面から「間違っている」と断じきれない
自分自身の弱さが――
何よりも、情けなかった。
「私がお母さんに捨てられてから……
この苦しみから、私は一度も逃げられたことがない」
愛理の声は、震えていない。
それどころか、驚くほど落ち着いていた。
「だから私は、失う前に――縛る」
「私の苦しみを……
半分、受け負ったあなたなら……
理解できるでしょう?」
振り返らずに、
言葉だけが投げられる。
「でもね」
一拍置いて、
静かに突き刺す。
「あなたの能力は、
“苦しみを受け負う”だけ」
「私の過去を、
そのまま理解できるわけじゃない」
「そのときの室温も」
「空気の重さも」
「視界に映っていた景色も」
その通りだった。
俺の能力は、苦しみの“感覚”までは分かる。
そこから導き出される答えも、腑に落ちる。
――けれど。
その瞬間の実際の情景や、気温や、身体の感覚までは、
どうしても理解できない。
「全部、あなたには分からない」
彼女は、淡々と続ける。
「言葉としては理解できるでしょうね」
「理屈としても、分かると思う」
「でも――
感情では、理解できないの」
「だから私は、自分で選ぶ」
「間違っていても」
「歪んでいても」
「二度と、大切なものを失わないために」
そのとき、俺はようやく気づいた。
――愛理は、
心の底から俺を信用しているわけじゃなかった。
そしてそれは、
俺がどれだけ彼女の苦しみを受け負っても、
決して――越えられない壁だった。
「……俺は……」
言葉を探すように、声が震える。
喉の奥で、何かが引っかかっている。
親友を理不尽に傷つけてしまった自分。
そして――
“唯一の家族”だと思っていた愛理が、
心の底では俺を信用していなかったという事実。
その二つが、同時に押し寄せてきて、
思考が、うまく回らなかった。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
何が正しくて、
何を間違えたのか――
もう、整理する余裕すらない。
「……すまない」
かろうじて、それだけを絞り出す。
「少し……一人にさせてくれ」
それ以上、何も言えなかった。
次の瞬間、
俺は愛理とは反対の方向へと歩き出していた。
振り返らない。
振り返る勇気も、理由も、もうなかった。
そのまま帰宅し、
俺は――しばらく学校を休んだ。
考えるためでも、
立ち直るためでもない。
ただ――
何も、考えられなくなってしまったからだ。
それから数日が経った。
施設からの報告や、いくつもの雑事が絡み合い、
逃げ続けるわけにもいかなくなって、
俺は再び、学校へ向かうことになった。
けれど。
何日経っても、
感情は整理されるどころか、
ぐちゃぐちゃのままだった。
何度も何度も答えのない問題と向き合させられる感覚。
久しぶりに教室へ顔を出すと、
クラスの連中は、思った以上に俺を心配してくれた。
「蓮也君、大丈夫だった?」
「あんまり無理すんなよ」
「何かあったら言えよ。友達なんだから」
――優しい言葉。
けれど、そのどれもが、
俺を救ってはくれなかった。
どんなに手を差し伸べられても、
今の俺は、掴む力を失っていた。
同じクラスにいる愛理とは、
結局、一言も交わさないまま。
放課後、
俺は一人で教室を出た。
気がつくと、
公園のベンチに座っていた。
夕暮れの風が、
やけに冷たく感じる。
俺は、ぼんやりと空を見上げながら、
これまでのことを思い返していた。
大切な家族と、
大切な親友。
二人の幸せを願って、
俺は行動してきた――はずだった。
自分の理想を曲げてまで、
多少の犠牲を背負えた。
それでも。
得たのは、
家族の裏切りと、親友の涙。
あっちを立てれば、
こっちが立たない。
誰かを守れば、
誰かが傷つく。
そんな矛盾を、
俺はずっと、抱え続けていた。
どうすれば、
二人とも幸せになれるのか。
その答えは、
最後まで出ないまま――
夜が、訪れていた。
(……ああ。もう、夜か)
街灯が灯り、
空はすっかり暗くなっている。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
帰宅しよう――
そう思った、はずだった。
けれど。
部屋で一人になった瞬間、
また、あの負のループに沈んでいく未来が、
容易に想像できてしまった。
だから俺は、
静かで、ゆっくりできて、
それでいて――
完全に一人にならずに済む場所を選んだ。
向かった先は、図書館だった。
自動ドアをくぐり、
静かな空気に包まれる。
俺は、人目につかない端の方へと歩いていった。
――その時。
視界の端に、
見覚えのある制服が映った。
愛聖学園の生徒。
そして。
金色の髪に、
左右で色の違う瑠璃と琥珀の瞳。
オッドアイの女の子。
……オッドアイ。
それは、
俺にとって特別な象徴だった。
脳裏に、
一つの光景が、ふっと蘇る。
父さんの葬式。
涙を流していた、
“代表”と呼ばれていた男。
誰よりも強く、
誰よりも冷静で、
それでも――
確かに、泣いていた。
そして父さんを親友だと言っていた。
その姿が、
一瞬だけ、俺の脳裏をよぎる。
俺は、
その金髪のオッドアイから、どうしても目を離すことができなかった。
そして――
引き寄せられるように、
気づけば俺は、
彼女の隣の席へ腰を下ろしていた
心なしか、
隣に座る金髪のオッドアイの少女も、
こちらを気にしているようだった。
視線を感じる。
それでも俺の心の声は、
容赦なく、勝手に動き続ける。
(隣の子、愛聖学園の生徒か……
ゆういち、あいつは……大丈夫だったんだろうか……?
苦しんで、塞ぎ込んでないといいんだが……
いや、聖もいるし……大丈夫だ)
親友の心配。
大丈夫だとそう、必死に自分の脳に言い聞かせる。
不安を押し殺すみたいに、
何度も、何度も。
――その瞬間。
隣の席の金髪の少女が、
そっと口を開いた。
「あなた……どうかしたのかしら?
すごく、辛そうだけど」
驚いた。
あまりにも的確で、
あまりにも核心を突かれた言葉。
まるで――
自分の思考や、
心の声を、そのまま覗かれたみたいだった。
しばらく、沈黙が流れる。
図書館特有の、
音のない時間。
やがて、俺は視線を伏せたまま、
ぽつりと呟いた。
この子なら――
ゆういちの“その後”を、
何か知っているかもしれない。
そんな、淡い期待を胸に抱きながら。
「……君は愛聖学園の生徒かな?」
俺は、静かに問いかけた。
「ええ。そうよ。」
即答だった。
俺は、そのまま言葉を重ねる。
「何年生?」
「一年生よ」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に、ほんのかすかな――
希望が生まれた。
この子なら、
ゆういちがどうなったのか、
知っているかもしれない。
理由は分からない。
けれど――
それは確かに、“希望”だった。
……そしてその希望でさえ、
目の前のオッドアイの少女には、
見透かされているような気がした。
「……ならさ。
神田ゆういちってやつ、知ってるか?」
(この子なら……
ゆういちが、今どうしてるのか
知ってるんじゃないか?)
彼女は、少しも迷わず、
淡々と答えた。
「ええ。同じクラスよ。
……私の、大事な友達」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
俺は、不審がられないように、
努めて平静を装って続ける。
「あいつは、今も学校に来て、元気にしてるのか?」
問いを口にした瞬間、
胸が、張り裂けそうになる。
答えが怖い。
けれど、聞かずにはいられなかった。
彼女は、視線を逸らすこともなく、
静かに言った。
「ええ、学校にも、ちゃんと来てるわ。
今日もね、友達と一緒に……彼の家で勉強会してたの」
その言葉が、
ゆっくりと、胸の奥に沈み込んでいく。
重く、張りつめていた感情が、
まるで氷が溶けるみたいに、
少しずつ、ほどけていくのが分かった。
「……そうか」
(……よかった……)
(ゆういち、立ち直れたんだな……)
(……本当に、よかった……)
その瞬間だけは、
俺は確かに――
救われた気がした。
――けれど。
次の瞬間、
彼女の声が、静かに落ちる。
「どうして……彼に、あんな酷いことをしたの?」
心臓が、
どくんと、大きく跳ねた。
まるで、
その一言で――
さっきまで積み上げてきた安心が、
すべて撃ち抜かれたみたいに。
彼女のオッドアイが、
まっすぐに――逃げ場を断つように、俺を捉えていた。
視線を逸らすことができない。
その目には、怒りも、非難もない。
ただ――
すでに「知っている者」だけが向けられる、静かな問いがあった。
俺は、あの場にいなかったはずの彼女が、
どこまで知っているのかを探るように、慎重に口を開いた。
「……君は、どこまで知ってる?」
「如月さんから、全部聞いたわ。
彼の過去も……本郷愛理さんのことも……彼を傷つけたあなたの事も……」
その一言で、理解した。
――聖は、すべてを話したのだ。
そして同時に、
彼女が俺をどう見ているのかも、嫌というほど分かってしまった。
胸の奥が、ひりつく。
俺は、正直に答えるしかなかった。
「……聖から聞いた通りだよ。
俺はあいつを裏切ったんだよ。」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
感情に嘘をつくように、淡々と。
けれど内側では、
情けなさと動揺が、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
(もう……やめてくれ……)
(愛理のため、自分の大切な家族の幸せのために、大切な親友を傷つけてしまった……
そんなことを、これ以上俺に言わせないでくれ……)
自分の弱さが、ひどく醜く思えた。吐き気すらした。嫌悪が、喉の奥に溜まっていく。
彼女は、静かに息を吸うと、はっきりと口を開いた。
「……気に入らないわね」
その声音は、驚くほど冷たかった。
曖昧さのない拒絶。
はっきりとした嫌悪。
俺を否定する感情が、そこには確かに宿っていた。
思わず、目を見開く。
戸惑いのまま、彼女を見つめ返してしまう。
「大切な家族のために、大切な親友を傷つけたことに……罪悪感を感じてる?」
一歩、距離が詰まる。
「それって――虫が良すぎないかしら?」
心臓が、跳ねた。
――言っていない。
何も、口にはしていない。
それなのに彼女は、
俺の心の奥にある“本当の自分”を、正確になぞるように言い当てた。
オッドアイが、裁くように俺を見据える。
「誰かを傷つけたのなら――
そうすることを“自分で決断した”のなら」
彼女は、視線を逸らさない。
「最後まで、その悪役を演じなさい」
その言葉は、
俺が抱いていた“どちらも救いたい”という
綺麗な理想を、真正面から切り裂いた。
「中途半端に救われようなんて、思わないで。
最後まで、徹底的に嫌われなさい」
鋭く、冷たく、
けれど一切の迷いはない。
「その十字架を抱えたまま、地獄へ進みなさい。
“大切な家族のため”なんて耳触りのいい理由で、大切な親友を傷つけたんでしょう?」
逃がさない。怒り。
その意思が、声の端々に滲んでいた。
「私には――到底、理解できないけれどね」
静かに。
だが、確実に。
「誰かの幸せのために、誰かを傷つける?
そんな幸せ……」
彼女は、きっぱりと言い放った。
「――私が、否定するわ」
その言葉は、
間違いなく――俺を否定するものだった。
それなのに。
なぜだろう。
胸の奥が、
ほんのわずかに、軽くなった気がした。
責められたからじゃない。
――逃げ道を、塞がれたからだ。
そして、
逃げ道を塞がれたその瞬間。
俺の中で、負の思考が――止まった気がした。
だからこそ、
俺は彼女に、興味を抱いてしまった。
もし、この人が。
俺の正義を見たら――
どう、捉えるのか。
その答えを、
どうしても、知りたくなった。
「……君に、何がわかるんだ?」
俺はきゅっと下唇を噛みしめながら、言葉を紡いだ。
「俺と愛理は、小さい頃から施設で一緒に育ったんだ。本当の家族みたいに」
「家族の幸せを願って……それの、何が悪い?」
それは、過去の俺が選んだ答え。
そして――
ゆういちを傷つけてしまった、紛れもない選択。
今の俺は、それが正しかったのかどうかを、
彼女の言葉で確かめたかった。
その瞬間――
彼女は、一歩も引かなかった。
「ええ……悪いわ」
驚くほど、落ち着いた声だった。
「だってあなたは――
私の大切な人を、傷つけたもの」
胸が、ひくりと震える。
「あなたがどんな過去を背負っていようと、
どんな理由があろうと……関係ないわ」
彼女は、真っ直ぐ俺を見据えていた。
「罪悪感なんて、微塵もない」
冷静な声。
けれどその内側では、静かで強い熱が燃えているのが分かる。
「今こうして、あなたを傷つけていることにもね」
その視線に、
俺の心がわずかに揺れた。
「……私は、あなたに嫌われたって構わない」
言い切りだった。
「苦しいときに、ただ側にいるだけじゃ足りない。
苦しいときこそ、立ち上がることを信じて――
一緒に戦う。それが、本物よ。
……どっちも選ぼうなんて、虫がよすぎるわ」
その言葉は、
まるで俺の弱さに、引導を渡す刃のようだった。
――いや。
違う。
介錯してほしかったのは、俺自身だ。
だから俺は、続けてしまった。
「俺はもう……自分がわからないんだ」
声が、わずかに震える。
「……俺は、どうしたらいいんだ……」
それは、助けを乞う声だった。
答えを求めるというより――祈りに近い。
愛理と、ゆういち。
二人が同時に幸せになる未来が、
どこかに存在していたんじゃないか。
そんな、もうどうしようもない変えられない過去の幻想に、
俺は縋りつくように囚われていた。
彼女なら、今の俺をどう見るのか。
どう裁くのか。
それを、知りたかった。
彼女はしばらく沈黙し、
そして――そっと口を開く。
「……過去のあなたがね」
声は静かで、揺れがない。
「“自分の正義”のために、彼を傷つける選択をしたのなら――
それを、最後まで誇りに思いなさい」
思わず、顔を上げた。
「逃げないで。後悔もしないで。
その選択をした“自分自身”を、最後まで貫きなさい」
それは宣告だった。
親友を傷つけたという事実から、
決して逃げるなという――裁き。
彼女は、さらに続ける。
「そしたら――
私の正義が、あなたを打ち負かしてあげるわ」
胸の奥が、ひくりと震えた。
俺の罪を、
彼女が裁く。
そのことが、怖くて――
それ以上に、どうしようもなく嬉しかった。
理想が崩れて、
誰も救えず、
間違いだらけで、情けなくて、弱い自分。
それでも――
正面から向き合い、最後まで見届けると言ってくれる存在がいる。
暗闇の先に、
たとえ――地獄が待っていたとしても。
彼女の言葉に、
俺は一瞬だけ目を見開き――
そして、ふっと笑った。
乾いた、
どこか寂しさを含んだ笑み。
「……君は、優しいな」
(……許されないこと。
それ自体が、
俺が親友を傷つけたことへの――罰なんだ)
俺は、両方を救おうとした。
いや――
両方を救うことで、
自分自身を救おうとしていただけなのかもしれない。
そして、
彼女と出会って――ようやく、結論が出た。
誰かを救うということは、
誰かを救わないということ。
そして、
救わなかった者の正義から、
断罪される覚悟を持つことだ。
もう、時間は戻らない。
愛理か。
ゆういちか。
どちらを選んでも、
もう一方が地獄に落ちるのだとしても。
それでも、その選択を――
彼女の正義が裁いてくれる。
俺の先の見えない暗闇に、
無理やりでも折り合いをつけてくれる存在。
俺は、ゆっくりと息を吐き、続けた。
「……それで、
君の正義が、親友を傷つけた俺の罪を償わせる。
……結果的に、俺を救うってわけか」
視線を巡らせる。
いつの間にか、
図書館の静けさの中で、
いくつもの軽蔑の視線が俺に向けられていた。
「……まるで、今この瞬間みたいにさ」
そのとき、ようやく気づく。
――ゆういちが、壊れかけた瞬間。
そのすぐ傍で、
必死に彼を支えていた存在。
「あぁ……そうか」
視線を伏せたまま、
どこか腑に落ちたように、呟く。
「ゆういちが言ってた“彼女”って……君のことだったんだな」
こんなにも強い人間が、
あいつの味方でいてくれるなら――
もう、ゆういちは大丈夫だ。
その確信が、
ようやく俺の中で決断を形にした。
俺は、短く、噛みしめるように言う。
「……ありがとう」
「親友を、救ってくれて」
(……君なら、愛理のことも――)
胸の奥で芽生えたその考えを、
否定せず、飲み込む。
そして、俺は続けた。
もう、答えは出ている。
「俺は、家族のように一緒に育ってきた愛理のほうが大切だ。
親友のあいつよりもな。
だから、俺は愛理の幸せを願う。
……そのために、最後まで彼に嫌われることにするよ」
愛理は、
俺のことを家族だなんて思っていなかったのかもしれない。
それでもいい。
たとえ一方通行だったとしても、
俺は彼女の味方でいたい。
たとえ、地獄に落ちるとしても。
そう覚悟を決め、
俺は目を細めて微笑んだ。
「……本当に、ありがとう」
彼女は、
俺の真意を見抜いているかのように、
ほんのわずか口元を緩めて答える。
「礼なんて言わなくていいわ」
視線を逸らさず、
はっきりと。
「だって私は、あなたを許さないんだから」
不思議と、
その言葉は胸に重くはなかった。
俺はどこか吹っ切れたように立ち上がり、
鞄を手に取る。
そして、そのまま席を離れようとした――
その時。
「待ちなさい」
呼び止められ、
足を止める。
「如月さんから聞いたわ。
神田君……あなたの“真っ直ぐさ”に、ずっと憧れてたみたいよ?」
胸が、微かに震えた。
「冗談だろ?
俺なんかより、あいつの方がよっぽど真っ直ぐだよ?
むしろ俺の方が………」
「……あいつを憧れてるよ。」
短い沈黙。
それだけで、
十分だった。
俺は何も言わず、
吹っ切れたように図書館の出口へ向かう。
――けれど。
ふと、思い出したように足を止め、
振り返る。
「じゃあな……そうだ」
「……君、名前は?」
今まで感じたことのない感情。
咄嗟に、口をついて出た問いだった。
「安城恵梨香よ」
その名前を、
胸の奥に刻み込みながら、
俺は静かに言った。
「安城さん……ありがとう」
そう告げて、
俺は本当に、
一人で歩き出した。
——その夜。
俺は、眠れなかった。
目を閉じるたび、あの施設時代の共に過ごした てきた愛理の笑顔が浮かぶからだ。
次の日の早朝、俺は愛理の家へ向かっていた。
もう、迷いはなかった。
どれだけ間違っていようと――
家族の味方でいると、そう選んだ。
そんな俺の前に、偶然のように――いや、必然のように、愛理が現れた。
俺は反射的に、声をかけていた。
「……よぉ」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「何か用? 蓮也」
愛理の声は、ひどく平坦だった。
けれど、その表情がほんの一瞬だけ揺れる。
恐らく俺はもう、来ないと思っていたんだと。
だが、その感情はすぐに消え去る。
代わりに露わになる、冷たい殺気。
邪魔をするなら切り捨てる。
そんな意思が、はっきりと浮かんでいた。
俺は、その顔を見て――
ゆっくりと、手を差し伸べた。
愛理は一瞥だけして、吐き捨てるように言う。
「……何? その手」
一拍置いて、さらに冷たく。
「もしかして、私の今の苦しみを肩代わりしようとしてるの?」
その瞬間、愛理の内側から怒りが噴き上がるのが分かった。
「ふざけないで。
もう、あんたが肩代わりできるような苦しみじゃない」
吐き捨てるような言葉。
以前とは、比べものにならないほど冷え切った表情。
そして俺は、理解していた。
俺が側にいなかった、この数日のあいだに――
愛理は、EES共鳴現象・ステージ3に到達している。
それはもう、
“越界者”と呼ばれる領域にまで、
彼女が踏み込んでしまったことを意味していた。
自分には、決して到達できない場所。
その領域に辿り着いてしまった愛理に、
俺は、ほんのわずかな羨ましさすら覚えていた。
それでも――
俺は、声を荒げなかった。
もう決めたのだ。
たとえ道を誤っていたとしても、家族のために進むと。
「違うよ……愛理」
穏やかな声で、そう言った。
「俺、気づいたんだ」
少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶ。
「苦しみを、ただ肩代わりするだけじゃ……ダメなんだって」
「一緒にいるだけじゃ足りない。
相手を正面から理解して……一緒に戦わなきゃ、意味がない」
「自己犠牲じゃ、真に人は救えないことに」
胸の奥がざわつく。
それでも、俺は続けた。
「愛理のやったことは、肯定できない」
「これからやろうとしてることも……たぶん、肯定できない」
それでも――
俺は、目を逸らさなかった。
「けど、愛理は……俺の、たった一人の大切な家族だ」
「だからさ」
苦笑しながら、言う。
「一緒に地獄まで落ちてやるよ」
(……そして、そんな間違った選択をした俺と愛理を、きっと――安城さんが止めてくれる)
(最後を彼女に任せるなんて……
やっぱり、俺は弱いな)
結局、最後は誰かに委ねる。
以前なら嫌悪していたはずの弱さが――
このときは、不思議と心地よかった。
「……そう。わかったわ」
愛理は、静かに俺と握手を交わした。
だがそのときの彼女には――
そこに込められた優しさも、かすかな光明も、感じ取れなかった。
歩きながら、俺は愛理の計画を聞いた。
やはり、向かう先は――安城さんの所。
予感は、すでにあった。
ゆういちが語っていた――
“あの彼女”。
その正体に、
愛理が遅かれ早かれ辿り着くことを。
そして、俺は――
それを肯定もしない。
否定もしなかった。
ただ、隣を歩き、黙って聞いていた。
やがて学校に着き、
愛理は剣道部の道場へと向かう。
入口脇に立てかけられた竹刀。
彼女は迷わず一本を手に取った。
「……恐らく、ゆういちがここに来るわ」
背後の俺に、告げる。
「邪魔されたくないの。ここから先、行かせないで」
俺は目を閉じ、短い沈黙のあと――
静かに頷いた。
「ああ……わかった」
それ以上、何も聞かなかった。
数分後。
こちらへ向かってくる、慌ただしい足音。
俺は石の階段から立ち上がり、進路を塞ぐ。
「まさか、ゆういちだけじゃなく――聖まで一緒とはな」
二人は同時に足を止め、
重たい視線をこちらに向けた。
「……ここから先は、行かせないぜ」
――俺と、ゆういちは。
再び、向かい合った。
その瞬間、俺の頭の中にあった願いは、たったひとつだけだった。
愛理と、ゆういちが結ばれてほしい。
それ以外のことは、何も考えられなかった。
ゆういちがここに来ることは、事前に愛理から聞いていた。
彼の“友達の女の子”に能力を使って、ここへ導いたのだと。
正直に言えば――
そのやり方は、歪んでいるように見えた。
誰かの意思を、能力で動かす。
善意であっても、それは踏み越えてはいけない一線かもしれない。
それでも。
俺は、愛理の行動が理解できてしまった。
そして――
俺は、愛理のことを信じることができた。
思い出すのは、あの屋上だ。
過去に、俺が救った愛理が、今度はゆういちを救った。
その事実だけが、愛理の行動と未来を信じることができた。
救われた人間が、誰かを救う。
その連鎖が、本物だと知っているからこそ、
俺は今の彼女の選択を否定できなかった。
もし、二人が結ばれた未来で――
愛理とゆういちが、また別の誰かを救うのだとしたら。
そこへ至るまでの過程が、どれほど歪で、醜く、間違って見えたとしても。
未来に待つ幸せと、
未来で救われる人たちの存在を思えば――
この犠牲は、
強要できる。
それが、今の俺の出した答えだった。
そして――
ゆういちが、姿を現した。
「な……んで……?
どうして……お前らが、ここにいるんだよ……?」
ゆういちは、目を見開いたまま固まっていた。
驚き。困惑。
そして――隠しきれない嫌悪。
胸の奥で、感情が黒く渦を巻いているのが、見て取れた。
無理もない。
彼にとって目の前の存在は、すでに縁を切ったはずの――
過去そのものだったのだから。
「……にしし♡
ゆういち、久しぶりだね?」
その声を聞いた瞬間、
愛理は、今まで見たことがないほど幸せそうな顔をしていた。
頬は上気し、瞳は潤み、
まるで世界にゆういちしか映っていないみたいな――
恋する乙女の表情。
「わたしね……ず~っと、ずっと会いたかったんだよ?♡♡」
衝動を抑えきれないのか、
一歩、また一歩と距離を詰める。
そして――
逃げ場を与えない距離まで近づくと、
そのまま、ゆういちの胸元を指先で、
つん。
つん。
いたずらっぽく、軽く突いた。
「進路まで変えちゃうなんてさ~、さすがに予想外だったよ?
ちょっと……やりすぎちゃったかな?」
声は甘い。
けれど、その奥に宿る感情は、明らかにそれだけじゃなかった。
とろんと細められた瞳の奥には――
もう二度と逃がさないという、確固たる意志が滲んでいる。
「あれ?
身長、伸びた?」
じっと見上げるようにして、微笑む。
「なんだか前より、かっこよくなって……
学校じゃ、モテモテなんじゃない?」
そう言いながら、
愛理はちらりと――俺の方へ視線を向けた。
まるで、答え合わせでもするかのように。
「ねぇ、蓮也?」
その一言で理解した。
これは再会なんかじゃない。
捕まえ直しだ。
俺は計画をなぞるように続ける。
「ははっ。そりゃそうだろ。
ゆういちは昔から努力家だったし、モテ始めるのも時間の問題だよ」
ゆういちは、まだ状況を理解できないまま、ただ立ち尽くしていた。
愛理は、紫色の髪の少女へと、ゆっくり視線を向けた。
「やっほ~、お嬢ちゃん♡
ゲームセンターで会ったよね? 覚えてる?」
その声に、少女はびくっと肩を跳ねさせた。
戸惑いを隠せないまま、こちらを見つめ返してくる。
――間違いない。
愛理が「能力を使った」と言っていた少女。
おそらく、この子なのだろう。
愛理は、変わらぬ笑顔のまま、言葉を重ねる。
「ゆういちを、ここまで連れてきてくれて……ありがと♡」
「え……?
つ、連れてきた……?
どういう意味ですか……?
わ、私は言われたから来たわけじゃ……」
混乱した声。
当然だ。
何が起きているのか、理解が追いついていない。
「そうなんだ~?
まあ、いいけど♡」
その一言で、愛理の中から完全に関心が消えた。
それ以上、彼女を見ることはない。
まるで、役目を終えた道具を見るかのように。
愛理は、何事もなかったように視線を移す。
——如月聖へ。
聖は、ゆういちと仲良くなるよりも前からの俺の大切な友人だった。
そんな彼の前で、これから起こることを思うと、胸の奥がきりりと痛む。
だが、愛理はそんな感情など意に介さない。
「やっほ~、ひじりん。元気してた?
まさかさぁ……ゆういちの進路に“合わせて”
ひじりんまで進路変えるとは思わなかったよ?
できれば教えてほしかったな~」
軽やかで、無邪気な声音。
その裏にあるものを知っているからこそ、余計に狂気を感じた。
聖は、ほんの一瞬だけ間を置いてから、静かに答える。
「……愛理ちゃん、久しぶり。
僕は元気だよ」
そして――
愛理は、ゆういちへと向き直った。
ゆういちは、まだこちらをまっすぐには見ていない。
けれど、逃げるように視線を逸らすわけでもなかった。
愛理は、ひどく柔らかい声で言う。
「ゆういち……
あの時は、ごめんね?」
胸の奥が、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。
「……わたし、ちょっとどうにかしてたんだと思う。
だからさ……これからも、今まで通り。
昔みたいに、仲良くしよ?」
あまりにも軽い。
軽すぎる言葉だった。
俺は、思わず息を呑む。
それは謝罪というより――
火に油を注ぐ行為に近い。
だが、愛理自身は気づいていない。
その言葉が、どれほど深く相手を傷つけるものなのかを。
それを「異常」だと認識する感覚そのものが、もう欠けている。
――これが、EES共鳴現象ステージ2。
ゆういちは、目の前で起きていることの恐怖を、
はっきりと理解しているようだった。
「……なんで」
低い声。
思っていたよりも、ずっと低くて、冷たい。
その声音の奥で、
ゆういちの中に渦巻く大きな苦しみが、はっきりと伝わってくる。
「なんでお前らは……」
拳が、ぎゅっと握り締められる。
「“何事もなかった”みたいな顔で、
平然と話しかけてくるんだよ」
その言葉が落ちた瞬間、
空気が、ぴんと張り詰めた。
ゆういちの怒り。
憎しみ。
裏切られた痛み。
それらが、目に見えない渦となって、この場を支配していく。
俺は、思わず愛理の方を見た。
――訂正してくれるはずだ。
今の言葉を、少しでも和らげるような一言を。
そして、勝手にそう思っていた。
愛理もきっと、ゆういちを傷つけてしまったことに気づき、
悲しそうな顔をしているはずだ、と。
……けれど。
違った。
愛理は――
ゆういちのその苦しみに歪んだ表情を、
まるで誰よりも愛おしいものを見るかのように、じっと見つめていた。
慈しむように。
抱きしめたくて仕方がないものを見るように。
その視線に、俺は戦慄した。
――ああ。
愛理は、もう俺の知っている愛理じゃない。
……いや。
もしかしたら、これが本来の愛理なのかもしれない。
そんな考えが、胸をよぎる。
(……違う)
すぐに、俺は首を振る。
人間の本質は、そんな簡単に変わるものじゃない。
疑念が湧き上がる。
けれど、その直後――
屋上で、ゆういちを救ったあの愛理の姿が、鮮明に蘇った。
苦しむ彼に手を差し伸べ、
必死に寄り添っていた、あの姿。
――そうだ。
愛理は、誰かを苦しめる側の人間じゃない。
救う側の人間だ。
そう信じることだけは、
俺には、まだできていた。
ゆういちは、続けた。
「蓮也……お前、“親友の恋は応援する”って言ったよな」
低く、抑え込んだ声だった。
怒鳴ってはいない。
だからこそ、重い。
「じゃあ、なんでだよ」
一拍。
「俺が愛理に振られた“次の日”に、
平気で付き合えたんだよ?」
胸が、張り裂けそうになる。
心臓の奥を、鋭いもので抉られたような痛み。
「なぁ、愛理……」
ゆういちの声が、ほんの少しだけ震えた。
「どうして振った次の日に、蓮也と付き合って、
まるで俺に見せつけるみたいに手を繋いで歩いてたんだよ?」
その問いに――
愛理は、仮面を被るように答えた。
「ど、どうしたの……ゆういち……?」
わざとらしいほど、怯えた声。
「なんか……怖いよ……
私は、ただ――」
一歩、後ずさる。
その瞬間だった。
空気が、変わった。
ぞわり、と。
目に見えない何かが、この場を覆い尽くす。
――この感覚。
間違いない。
何かの能力が、発動している。
「……聞かせろよ」
ゆういちの声は、低く、鋭かった。
「“お前の本音”を」
――その瞬間。
俺の知らない“共鳴”が、ゆういちを中心に広がっていく。
そして予想外の出来事が、起きた。
「……私は」
一拍。
愛理の唇が、
ゆっくりと――歪む。
「ゆういちが――
苦しんでる姿が、好きなのよ……♡」
……一体何が、起きた?
思考が完全に停止した。
どう考えても、今の発言は――
ゆういちとの恋愛を成就させる上で、致命的な失言だった。
あり得ない。
言ってはいけない。
口にした瞬間、すべてが壊れる言葉だ。
俺は、反射的に愛理の方を見る。
すると――
愛理自身も、はっとしたように目を見開いていた。
まるで、
自分の口から出た言葉を、本人が理解できていないかのように。
……まさか。
これは――
心の奥に押し込めていた本音が、
能力によって、そのまま漏れ出たのか。
取り繕う前の。
嘘を重ねる前の。
誰にも見せるはずのなかった、
“剥き出しの感情”が――。
その場に、重たい沈黙が落ちた。
もう、
後戻りはできない。
愛理は、はっとしたように目を見開いた。
「ち、違う……!
なに、これ……!? ちがっ……!」
声が震える。
取り繕うように、必死に否定する。
けれど――その弁明は、次の瞬間、彼女自身によって裏切られた。
「……私は……」
言葉を止めようとしているのに、
唇が、勝手に動く。
愛理の声が、制御を失ったまま零れ落ちる。
「ゆういちの、あの顔が……
たまらなく、愛おしいの♡」
――空気が、凍りついた。
それは告白だった。
否定の仮面を突き破って現れた、
紛れもない本音。
愛理の“本性”が、その場で剥き出しになる。
俺は、背筋が粟立つのを感じながら、愛理を見た。
そして同時に、愛理自身も――
この不可解な現象の正体に、気づいたようだった。
彼女は、ゆっくりと目を細める。
俺も分かっていた。
これは――
EES共鳴現象。
恐らく本音が、強制的に引きずり出される能力。
そして愛理は、確信したように言った。
「……なんだ。
ゆういちも、“こっち側”の人間だったんだ」
その声音には、驚きよりも――
どこか、安堵に近い響きがあった。
愛理は、もう隠そうともしない。
ゆっくりと、自分自身の本音を語り始める。
「私はね……
ゆういちが大好きなの」
一歩、前に出る。
距離が縮まる。
逃げ場は、もうない。
「あの時――
上級生から、私を守ってくれた瞬間から。
ずっと……ずっと♡」
その声は、甘く、熱を帯びていた。
まるで、胸の奥に溜め込んできた想いを、
ようやく吐き出せたかのように。
愛理は、そのまま感情をぶつける。
「でもね?
ゆういちは、他の女の子と手を繋いだりするじゃない。
……私がいるのに」
その言葉に、
愛ではなく――支配の匂いが混じっていることを、
俺ははっきりと理解してしまった。
愛理は、とろんとした目でゆういちを見つめていた。
熱を帯びた視線。
まるで、長い間閉じ込めていた想いが、溢れ出してしまったかのように。
「だから、知ってほしかったの」
声は柔らかく、甘い。
けれど、その奥に潜むものは――冷たく、歪んでいた。
「“人”ってね……
地獄で手を差し伸べられると……
その人に、狂気的に依存するの」
言葉を選んでいる様子はない。
まるで、真理を語っているかのようだった。
「私は……
ゆういちには、私だけを見てほしかった」
淡々と。
感情を抑えるでもなく、飾るでもなく。
愛理は、ただ事実としてそれを口にした。
ゆういちは、完全に言葉を失っていた。
目を見開き、唇をわずかに震わせる。
理解が追いついていない――それが、はっきりと分かる表情だった。
そして俺もまた、
愛理の本音に、背筋を凍らせていた。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
ゆういちは、かすれた声で言う。
「……お前……
なにを、言って……」
問いというより、
現実を拒絶するための言葉だった。
だが、それに対して愛理は――
どこか昂揚した様子で、答える。
「クラスに、ゆういちの過去をバラしたの――
……私よ」
……は?
一瞬、世界から音が消えた。
風の音も、心臓の鼓動すら――遠のく。
聞き間違いだ。
そう、脳が必死に否定する。
理解するより先に、拒絶が走った。
けれど。
愛理の表情は、微塵も変わらない。
冗談でもなければ、挑発でもない。
そこにあるのは、ただ事実を告げているだけの顔だった。
俺の頭が、かっと熱くなる。
呼吸が荒れ、肺が上手く膨らまない。
胸の奥で――
何かが、音を立てて崩れていく。
(……じゃあ)
なら、あの時。
屋上で、壊れたゆういちに手を差し伸べる姿は――
全部嘘だったのか?
あれは、救済じゃなく。
自分で落とした地獄を、なぞって見せただけだったのか?
愛理は、救う側の人間じゃなかったのか。
いや――
(……違う)
もっと残酷な答えが、浮かび上がる。
俺が救った人間は、
結局――
また誰かを苦しめる側に回っていたという事実。
その現実に、
俺は心の底から、絶望した。
あれをバラしたのは、ヤンキーたち。
そう、ずっと思い込んでいた。
疑う余地なんて、なかった。
怒りの矛先も、憎しみの対象も、
すべて――そこに向けて整理してきた。
……違った。
あの地獄を作ったのは――
今、目の前に立っている。
俺の家族で。
俺が、守ると決めた存在で。
愛理だった。
そして俺もまた、
気づかぬうちに、
なんの意味にもならない理不尽な苦しみを、誰かに与える側に回っていた。
胸の奥が、音を立てて崩れていく。
そして彼女は、
何の躊躇もなく、言葉を重ねる。
「嫌なことがあると、
ゆういち、よく“無意識”に屋上に行くよね?」
その口調は、あまりにも自然だった。
「……あれ、自分の意思だと思ってた?」
首を傾げる、その仕草すら計算されたものに見える。
「どうして、
あの時、屋上に私がいたと思う?」
「偶然だと思った?」
――にこり。
その笑顔が、
何よりも恐ろしかった。
「全部、全部……
私が仕組んだの」
「あなたを、
私に“狂気的に依存”させるために♡」
言葉の意味を、
俺の脳が拒絶する。
「……どうして……
どうして、そんなことを……?」
震える声で、ようやく絞り出したゆういちの問い。
愛理は、その疑問に
一切の迷いもなく、本音で答えた。
「だって……
あなたが、大好きだからよ」
背筋が、凍りつく。
「前に屋上で言ったでしょ?
“私は、ゆういちを一人にしないよ?”って」
「……あれね。
一つだけ、欠けてたの」
一歩、距離が詰まる。
逃げ場が、消える。
「“私だけ”が、あなたの味方でいい。
他なんて……いらないの」
ゆういちは、震えていた。
いや――
それはもう、単なる震えじゃない。
絶望していた。
――自分が大好きだった人間が、
こんな“悪魔”だったと知ってしまったのだから。
「……なんだよ、それ……」
その声は、怒りでも拒絶でもなかった。
心が砕け落ちる音、そのものだった。
ゆういちの心は、もう限界だった。
その時の表情は、
かつて、すべての苦しみを一人で抱え込み、
誰にも助けを求めなかった――
あの父さんと、同じだった。
(……やめろ。もうやめてくれ。)
反射的に、身体が動いた。
俺は、ゆういちを救おうとした。
その手を握り、苦しみを引き受けるつもりだった。
もう、躊躇している場合じゃない。
今、止めなきゃ——取り返しがつかない。
——その瞬間。
愛理が、俺を睨みつけた。
そして、そのまま視線を逸らさない。
言葉は、なかった。
けれど、はっきりと伝わってくる。
——余計なことをするな。
剥き出しの殺意。
その瞬間、俺の身体は凍りついた。
そして俺は、
ゆういちを救うという選択を——手放した。
……いや、違う。
あれは、
自分の意思でやめたわけじゃない。
今、振り返ってようやく分かる。
あの瞬間の俺は――
やめるように、選ばされていた。
家族だと思っていた。
信じていた。
その家族に、
能力を向けられる日が来るなんて――
想像すらしていなかった。
そして、悟ってしまう。
もう、
あの時の優しい愛理は、どこにもいない。
――いいや。違う。
もしかしたら――
最初から、
愛理に“優しさ”なんてなかったのかもしれない。
そして、ゆういちは泣きそうな声で、
俺に問いかけた。
「……おい、蓮也。
お前……知ってたのかよ?」
「正義感が強くて、真っ直ぐで……
俺が、ずっと憧れてたお前なら……
こんなの、許せねぇだろ……?」
胸が、えぐられるように痛んだ。
もう限界だ。
ゆういちのその苦しみは、はっきりと“限界点”に達している。
――あと一言。
あと、たった一言。
それを投げかけられた瞬間、
彼の心は、完全に潰れてしまう。
俺には、それが分かってしまった。
自分の苦しみを分かち合う能力が
その残酷な未来が、はっきりと見えてしまったから。
そして――
その一言を、言わなければならないのは、俺だった。
俺が犠牲になり、
愛理とゆういちが結ばれて、幸せになって、
そしてまた誰かを救う。
そんな“綺麗な理想”は、
この場にはもう、どこにも残っていない。
俺は今から――
何の理想にも繋がらない、
ただの理不尽を。
ゆういちに、
強要しなければならない。
やめようとしても、
止めようとしても、
愛理の能力が――それを許さない。
愛理の能力の、最も恐ろしい点。
それは洗脳でもなければ、
いわゆる「選択の強要」でもない。
――無意識への介入。
自分が、自分の意思でそれを選んだと、
脳が認知してしまうこと。
誰かに選択を強要されるのなら、
まだマシだ。
自分のせいじゃない。
仕方ない。
あいつが悪い。
そう思うことで、
人はほんの少しだけ、救われる。
愛理の能力の、最も恐ろしい点。
それは洗脳でもなければ、
いわゆる「選択の強要」でもない。
——無意識への介入。
自分が、自分の意思でそれを選んだと、
脳が“認知してしまう”こと。
誰かに選択を強要されるのなら、
まだ、救いはある。
自分のせいじゃない。
仕方がなかった。
あいつが悪い。
そう思うことで、
人はほんの少しだけ、自分を守れる。
けれど、愛理の能力は違う。
本来なら——
その違和感に、気づくことすらできない。
あの時の俺は、
自分の意思で選択したと、
本気で、そう思っていた。
けれど。
愛理の能力を知っている、
“今の冷静になった俺”だからこそ、
後から、そのズレを認知できた。
……けど、この時の俺は違う。
口が、
まるで自分の意思であるかのように――
勝手に、開いていく。
逃げ場は、もうなかった。
自分の理想。
この世界のすべての人が、
穏やかに、幸せに生きられる世界。
その理想を、
自分の言葉で、
自分の手で――
壊していく。
感情だけが、はっきりと理解していた。
自分が今、
取り返しのつかないことをしようとしている――
その事実だけを。
(……止まってくれ)
心の奥で、
何度も、何度も叫ぶ。
それなのに。
俺は、その選択を――
自分の意思で、正しいものだと選んでしまう。
「俺は、お前を――
“親友”だと思ったことは、一度もない」
(……ごめん)
(……ごめん、ゆういち)
何に対して謝っているのかさえ、言語化できない。
ただ胸の奥の“拒絶”だけが、俺を謝らせていた。
正しいと認識してしまった今の選択。
その一方で、それを必死に否定する、本心。
胸の奥が、ぐしゃりと潰れた。
どれだけ自分の意思で選んだと、
思い込もうとしても。
心だけは、
その選択を、全力で拒絶していた。
けれど――
もう、止まらなかった。
ゆういちの表情が、
壊れたおもちゃみたいに歪む。
「……は?」
俺は、逃げるように、
それでも止まれずに、言葉を重ねてしまう。
「愛理が、お前を気に入っていたから。
俺は、その役を演じてただけだよ」
思考は、
その言葉が“正しい”と結論づけ続けている。
「俺は、愛理だけでいい。
友達なんて、いらない」
(……もう、やめてくれ)
感情は、何度も俺を引き止める。
けれど思考は、それを淡々と正当化する。
――これは自分で選んだことだ、と。
吐き捨てるように、
俺は続ける。
「昔から俺はさ……
人が、何を言ってほしいか。
何を求めてるか――
直感的に、わかるんだよ」
能力の副産物。
目の前の人間が抱えている苦しみの重さも、
その種類も、
そして――
どんな言葉を向けられたがっているのかも。
直感的に、理解できてしまう。
「お前、好きだろ?
“真っ直ぐなやつ”に救われる感じが」
乾いた笑みが、
俺の意思とは関係なく、勝手に浮かぶ。
「だから、
一番苦しい時こそ側にいるのが友達だって
言ってやったんだ」
「どうせ、すぐ落ちると思ってたけど……
まさか、ここまで簡単とはな」
胸が張り裂けそうだった。
俺は今、
かけがえのない親友を、
自分の言葉で、確実に傷つけている。
そのとき――
愛理は、その場にしゃがみ込み、
そっと、ゆういちへ手を差し伸べた。
「ゆういち……
私は、あなたを一人にしないよ?」
「もう、何も考えなくていいの」
「ずっと……
ずっと、私と一緒にいよう?」
耳元で囁くような、
優しい声。
「大丈夫。
私だけが……あなたの味方だから」
「学校も辞めちゃお?
私、もう結婚できる年齢だし……」
「ね?
もう……ずっと、二人でいよう?」
――完全に、壊れている。
はたから見ても、そう思えた。
そして俺の目にも、
ゆういちの心が、苦しみの渦に呑み込まれていくのが
はっきりと映っていた。
……その瞬間。
「……え?」
愛理の口から、
思わずというように声が零れた。
「どうしたの、ゆういち?」
予想とは違う行動に、
俺と愛理は同時に戸惑う。
そして――
ゆういちは、ゆっくりと顔を上げた。
その表情を見た瞬間、
俺は言葉を失った。
――壊れた人間の顔じゃない。
いや、正確には壊れている。
確かに、心はひび割れている。
それでも――
誰かが、その壊れかけた心を必死に支えていた。
感情は折れているのに、
今この瞬間だけ理性が、必死に立ち上がろうとしている。
ゆういちは、静かに口を開いた。
「……悪いな、愛理」
一拍。
「その手は……
俺は、もう取れない」
胸の奥が、ひくりと震える。
「ここでお前の手を取ったら、
俺がしてきた努力も、
過去の自分も……全部、なかったことになる」
淡々と、
けれど確かな意志を宿した声。
「それってさ……
“彼女”の存在すら、否定するってことになるだろ?」
――彼女。
それが今、この壊れかけたゆういちを、
かろうじて立たせている存在だと気付く。
「俺は……
愛理に愛されるために、
必死だった過去の自分を、誇りに思ってる」
その一言で、
愛理の表情が揺らいだ。
「……ゆういち、待ってよ」
縋るような声。
「なに、彼女って……?
……嘘でしょ?
ねぇ、嘘だって言ってよ……」
ゆういちは、ゆっくりと立ち上がり、
俺たちの横を――
静かに、通り過ぎていった。
「今まで……ありがとう」
一拍。
「もう、お前らとは……
これで最後だ」
その言葉とともに、
ゆういちは――
俺たちを、完全に断ち切った。
その背中を見ていた聖が、堪えきれないように声を荒げる。
「……なんでよ!」
「なんで、ゆういちにそんな嘘をついたの!?
あんな酷いこと……
どうして、平気でできるの……!?」
ゆういちが苦しんでいるときに、
本気で怒り、必死にそばにいようとする聖。
その姿を見て、
本来自分がしなければならなかったことを、
嫌でも突きつけられた気がした。
そして――
俺たちは、彼らと別れた。
そして時間が経ち、冷静になった俺は愛理を問い詰める。
「おい……!」
「ゆういちの過去をバラしたって……
どういうことだよ?」
拳を強く握りしめ、
下唇を噛み締める。
この話だけは、絶対に有耶無耶にさせない。
「ヤンキー達が勝手に広めたんじゃねぇのかよ?」
その言葉に、
愛理は足を止めることなく、淡々と答えた。
「違うわ」
夕焼けに染まる一本道。
愛理の声だけが、静かに落ちる。
「私がバラしたの。
ゆういちの過去を」
一瞬、
空気が凍りついた。
「……は?」
「なんで、そんなこと……」
その声を背に受けながらも、
愛理は歩みを止めなかった。
振り返りもしないまま、淡々と続ける。
「ゆういちを、
私以外の女に取られないためよ」
少しだけ間を置いて、
はっきりと言い切る。
「そして――
私に、強く依存させるため」
もう完全に“以前の愛理”ではなかった。
狂気的なまでに、過去の苦しみに囚われている。
「……このやり方がおかしいことくらい、分かってるわ」
愛理は、静かに言葉を重ねる。
「それでも、私は――
それを選ばざるを得なかった」
「私の“過去の苦しみ”が……
そう決断させたの」
――愛を、いつ失うかわからない恐怖。
――手を離した瞬間に、消えてしまう不安。
俺は、愛理の苦しみを分かち合ってしまった。
だからこそ――
彼女のすべてを、否定することができない。
そして、
そんなふうに“理解できてしまう”のに、
それを真正面から「間違っている」と断じきれない
自分自身の弱さが――
何よりも、情けなかった。
「私がお母さんに捨てられてから……
この苦しみから、私は一度も逃げられたことがない」
愛理の声は、震えていない。
それどころか、驚くほど落ち着いていた。
「だから私は、失う前に――縛る」
「私の苦しみを……
半分、受け負ったあなたなら……
理解できるでしょう?」
振り返らずに、
言葉だけが投げられる。
「でもね」
一拍置いて、
静かに突き刺す。
「あなたの能力は、
“苦しみを受け負う”だけ」
「私の過去を、
そのまま理解できるわけじゃない」
「そのときの室温も」
「空気の重さも」
「視界に映っていた景色も」
その通りだった。
俺の能力は、苦しみの“感覚”までは分かる。
そこから導き出される答えも、腑に落ちる。
――けれど。
その瞬間の実際の情景や、気温や、身体の感覚までは、
どうしても理解できない。
「全部、あなたには分からない」
彼女は、淡々と続ける。
「言葉としては理解できるでしょうね」
「理屈としても、分かると思う」
「でも――
感情では、理解できないの」
「だから私は、自分で選ぶ」
「間違っていても」
「歪んでいても」
「二度と、大切なものを失わないために」
そのとき、俺はようやく気づいた。
――愛理は、
心の底から俺を信用しているわけじゃなかった。
そしてそれは、
俺がどれだけ彼女の苦しみを受け負っても、
決して――越えられない壁だった。
「……俺は……」
言葉を探すように、声が震える。
喉の奥で、何かが引っかかっている。
親友を理不尽に傷つけてしまった自分。
そして――
“唯一の家族”だと思っていた愛理が、
心の底では俺を信用していなかったという事実。
その二つが、同時に押し寄せてきて、
思考が、うまく回らなかった。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
何が正しくて、
何を間違えたのか――
もう、整理する余裕すらない。
「……すまない」
かろうじて、それだけを絞り出す。
「少し……一人にさせてくれ」
それ以上、何も言えなかった。
次の瞬間、
俺は愛理とは反対の方向へと歩き出していた。
振り返らない。
振り返る勇気も、理由も、もうなかった。
そのまま帰宅し、
俺は――しばらく学校を休んだ。
考えるためでも、
立ち直るためでもない。
ただ――
何も、考えられなくなってしまったからだ。
それから数日が経った。
施設からの報告や、いくつもの雑事が絡み合い、
逃げ続けるわけにもいかなくなって、
俺は再び、学校へ向かうことになった。
けれど。
何日経っても、
感情は整理されるどころか、
ぐちゃぐちゃのままだった。
何度も何度も答えのない問題と向き合させられる感覚。
久しぶりに教室へ顔を出すと、
クラスの連中は、思った以上に俺を心配してくれた。
「蓮也君、大丈夫だった?」
「あんまり無理すんなよ」
「何かあったら言えよ。友達なんだから」
――優しい言葉。
けれど、そのどれもが、
俺を救ってはくれなかった。
どんなに手を差し伸べられても、
今の俺は、掴む力を失っていた。
同じクラスにいる愛理とは、
結局、一言も交わさないまま。
放課後、
俺は一人で教室を出た。
気がつくと、
公園のベンチに座っていた。
夕暮れの風が、
やけに冷たく感じる。
俺は、ぼんやりと空を見上げながら、
これまでのことを思い返していた。
大切な家族と、
大切な親友。
二人の幸せを願って、
俺は行動してきた――はずだった。
自分の理想を曲げてまで、
多少の犠牲を背負えた。
それでも。
得たのは、
家族の裏切りと、親友の涙。
あっちを立てれば、
こっちが立たない。
誰かを守れば、
誰かが傷つく。
そんな矛盾を、
俺はずっと、抱え続けていた。
どうすれば、
二人とも幸せになれるのか。
その答えは、
最後まで出ないまま――
夜が、訪れていた。
(……ああ。もう、夜か)
街灯が灯り、
空はすっかり暗くなっている。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
帰宅しよう――
そう思った、はずだった。
けれど。
部屋で一人になった瞬間、
また、あの負のループに沈んでいく未来が、
容易に想像できてしまった。
だから俺は、
静かで、ゆっくりできて、
それでいて――
完全に一人にならずに済む場所を選んだ。
向かった先は、図書館だった。
自動ドアをくぐり、
静かな空気に包まれる。
俺は、人目につかない端の方へと歩いていった。
――その時。
視界の端に、
見覚えのある制服が映った。
愛聖学園の生徒。
そして。
金色の髪に、
左右で色の違う瑠璃と琥珀の瞳。
オッドアイの女の子。
……オッドアイ。
それは、
俺にとって特別な象徴だった。
脳裏に、
一つの光景が、ふっと蘇る。
父さんの葬式。
涙を流していた、
“代表”と呼ばれていた男。
誰よりも強く、
誰よりも冷静で、
それでも――
確かに、泣いていた。
そして父さんを親友だと言っていた。
その姿が、
一瞬だけ、俺の脳裏をよぎる。
俺は、
その金髪のオッドアイから、どうしても目を離すことができなかった。
そして――
引き寄せられるように、
気づけば俺は、
彼女の隣の席へ腰を下ろしていた
心なしか、
隣に座る金髪のオッドアイの少女も、
こちらを気にしているようだった。
視線を感じる。
それでも俺の心の声は、
容赦なく、勝手に動き続ける。
(隣の子、愛聖学園の生徒か……
ゆういち、あいつは……大丈夫だったんだろうか……?
苦しんで、塞ぎ込んでないといいんだが……
いや、聖もいるし……大丈夫だ)
親友の心配。
大丈夫だとそう、必死に自分の脳に言い聞かせる。
不安を押し殺すみたいに、
何度も、何度も。
――その瞬間。
隣の席の金髪の少女が、
そっと口を開いた。
「あなた……どうかしたのかしら?
すごく、辛そうだけど」
驚いた。
あまりにも的確で、
あまりにも核心を突かれた言葉。
まるで――
自分の思考や、
心の声を、そのまま覗かれたみたいだった。
しばらく、沈黙が流れる。
図書館特有の、
音のない時間。
やがて、俺は視線を伏せたまま、
ぽつりと呟いた。
この子なら――
ゆういちの“その後”を、
何か知っているかもしれない。
そんな、淡い期待を胸に抱きながら。
「……君は愛聖学園の生徒かな?」
俺は、静かに問いかけた。
「ええ。そうよ。」
即答だった。
俺は、そのまま言葉を重ねる。
「何年生?」
「一年生よ」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に、ほんのかすかな――
希望が生まれた。
この子なら、
ゆういちがどうなったのか、
知っているかもしれない。
理由は分からない。
けれど――
それは確かに、“希望”だった。
……そしてその希望でさえ、
目の前のオッドアイの少女には、
見透かされているような気がした。
「……ならさ。
神田ゆういちってやつ、知ってるか?」
(この子なら……
ゆういちが、今どうしてるのか
知ってるんじゃないか?)
彼女は、少しも迷わず、
淡々と答えた。
「ええ。同じクラスよ。
……私の、大事な友達」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
俺は、不審がられないように、
努めて平静を装って続ける。
「あいつは、今も学校に来て、元気にしてるのか?」
問いを口にした瞬間、
胸が、張り裂けそうになる。
答えが怖い。
けれど、聞かずにはいられなかった。
彼女は、視線を逸らすこともなく、
静かに言った。
「ええ、学校にも、ちゃんと来てるわ。
今日もね、友達と一緒に……彼の家で勉強会してたの」
その言葉が、
ゆっくりと、胸の奥に沈み込んでいく。
重く、張りつめていた感情が、
まるで氷が溶けるみたいに、
少しずつ、ほどけていくのが分かった。
「……そうか」
(……よかった……)
(ゆういち、立ち直れたんだな……)
(……本当に、よかった……)
その瞬間だけは、
俺は確かに――
救われた気がした。
――けれど。
次の瞬間、
彼女の声が、静かに落ちる。
「どうして……彼に、あんな酷いことをしたの?」
心臓が、
どくんと、大きく跳ねた。
まるで、
その一言で――
さっきまで積み上げてきた安心が、
すべて撃ち抜かれたみたいに。
彼女のオッドアイが、
まっすぐに――逃げ場を断つように、俺を捉えていた。
視線を逸らすことができない。
その目には、怒りも、非難もない。
ただ――
すでに「知っている者」だけが向けられる、静かな問いがあった。
俺は、あの場にいなかったはずの彼女が、
どこまで知っているのかを探るように、慎重に口を開いた。
「……君は、どこまで知ってる?」
「如月さんから、全部聞いたわ。
彼の過去も……本郷愛理さんのことも……彼を傷つけたあなたの事も……」
その一言で、理解した。
――聖は、すべてを話したのだ。
そして同時に、
彼女が俺をどう見ているのかも、嫌というほど分かってしまった。
胸の奥が、ひりつく。
俺は、正直に答えるしかなかった。
「……聖から聞いた通りだよ。
俺はあいつを裏切ったんだよ。」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
感情に嘘をつくように、淡々と。
けれど内側では、
情けなさと動揺が、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
(もう……やめてくれ……)
(愛理のため、自分の大切な家族の幸せのために、大切な親友を傷つけてしまった……
そんなことを、これ以上俺に言わせないでくれ……)
自分の弱さが、ひどく醜く思えた。吐き気すらした。嫌悪が、喉の奥に溜まっていく。
彼女は、静かに息を吸うと、はっきりと口を開いた。
「……気に入らないわね」
その声音は、驚くほど冷たかった。
曖昧さのない拒絶。
はっきりとした嫌悪。
俺を否定する感情が、そこには確かに宿っていた。
思わず、目を見開く。
戸惑いのまま、彼女を見つめ返してしまう。
「大切な家族のために、大切な親友を傷つけたことに……罪悪感を感じてる?」
一歩、距離が詰まる。
「それって――虫が良すぎないかしら?」
心臓が、跳ねた。
――言っていない。
何も、口にはしていない。
それなのに彼女は、
俺の心の奥にある“本当の自分”を、正確になぞるように言い当てた。
オッドアイが、裁くように俺を見据える。
「誰かを傷つけたのなら――
そうすることを“自分で決断した”のなら」
彼女は、視線を逸らさない。
「最後まで、その悪役を演じなさい」
その言葉は、
俺が抱いていた“どちらも救いたい”という
綺麗な理想を、真正面から切り裂いた。
「中途半端に救われようなんて、思わないで。
最後まで、徹底的に嫌われなさい」
鋭く、冷たく、
けれど一切の迷いはない。
「その十字架を抱えたまま、地獄へ進みなさい。
“大切な家族のため”なんて耳触りのいい理由で、大切な親友を傷つけたんでしょう?」
逃がさない。怒り。
その意思が、声の端々に滲んでいた。
「私には――到底、理解できないけれどね」
静かに。
だが、確実に。
「誰かの幸せのために、誰かを傷つける?
そんな幸せ……」
彼女は、きっぱりと言い放った。
「――私が、否定するわ」
その言葉は、
間違いなく――俺を否定するものだった。
それなのに。
なぜだろう。
胸の奥が、
ほんのわずかに、軽くなった気がした。
責められたからじゃない。
――逃げ道を、塞がれたからだ。
そして、
逃げ道を塞がれたその瞬間。
俺の中で、負の思考が――止まった気がした。
だからこそ、
俺は彼女に、興味を抱いてしまった。
もし、この人が。
俺の正義を見たら――
どう、捉えるのか。
その答えを、
どうしても、知りたくなった。
「……君に、何がわかるんだ?」
俺はきゅっと下唇を噛みしめながら、言葉を紡いだ。
「俺と愛理は、小さい頃から施設で一緒に育ったんだ。本当の家族みたいに」
「家族の幸せを願って……それの、何が悪い?」
それは、過去の俺が選んだ答え。
そして――
ゆういちを傷つけてしまった、紛れもない選択。
今の俺は、それが正しかったのかどうかを、
彼女の言葉で確かめたかった。
その瞬間――
彼女は、一歩も引かなかった。
「ええ……悪いわ」
驚くほど、落ち着いた声だった。
「だってあなたは――
私の大切な人を、傷つけたもの」
胸が、ひくりと震える。
「あなたがどんな過去を背負っていようと、
どんな理由があろうと……関係ないわ」
彼女は、真っ直ぐ俺を見据えていた。
「罪悪感なんて、微塵もない」
冷静な声。
けれどその内側では、静かで強い熱が燃えているのが分かる。
「今こうして、あなたを傷つけていることにもね」
その視線に、
俺の心がわずかに揺れた。
「……私は、あなたに嫌われたって構わない」
言い切りだった。
「苦しいときに、ただ側にいるだけじゃ足りない。
苦しいときこそ、立ち上がることを信じて――
一緒に戦う。それが、本物よ。
……どっちも選ぼうなんて、虫がよすぎるわ」
その言葉は、
まるで俺の弱さに、引導を渡す刃のようだった。
――いや。
違う。
介錯してほしかったのは、俺自身だ。
だから俺は、続けてしまった。
「俺はもう……自分がわからないんだ」
声が、わずかに震える。
「……俺は、どうしたらいいんだ……」
それは、助けを乞う声だった。
答えを求めるというより――祈りに近い。
愛理と、ゆういち。
二人が同時に幸せになる未来が、
どこかに存在していたんじゃないか。
そんな、もうどうしようもない変えられない過去の幻想に、
俺は縋りつくように囚われていた。
彼女なら、今の俺をどう見るのか。
どう裁くのか。
それを、知りたかった。
彼女はしばらく沈黙し、
そして――そっと口を開く。
「……過去のあなたがね」
声は静かで、揺れがない。
「“自分の正義”のために、彼を傷つける選択をしたのなら――
それを、最後まで誇りに思いなさい」
思わず、顔を上げた。
「逃げないで。後悔もしないで。
その選択をした“自分自身”を、最後まで貫きなさい」
それは宣告だった。
親友を傷つけたという事実から、
決して逃げるなという――裁き。
彼女は、さらに続ける。
「そしたら――
私の正義が、あなたを打ち負かしてあげるわ」
胸の奥が、ひくりと震えた。
俺の罪を、
彼女が裁く。
そのことが、怖くて――
それ以上に、どうしようもなく嬉しかった。
理想が崩れて、
誰も救えず、
間違いだらけで、情けなくて、弱い自分。
それでも――
正面から向き合い、最後まで見届けると言ってくれる存在がいる。
暗闇の先に、
たとえ――地獄が待っていたとしても。
彼女の言葉に、
俺は一瞬だけ目を見開き――
そして、ふっと笑った。
乾いた、
どこか寂しさを含んだ笑み。
「……君は、優しいな」
(……許されないこと。
それ自体が、
俺が親友を傷つけたことへの――罰なんだ)
俺は、両方を救おうとした。
いや――
両方を救うことで、
自分自身を救おうとしていただけなのかもしれない。
そして、
彼女と出会って――ようやく、結論が出た。
誰かを救うということは、
誰かを救わないということ。
そして、
救わなかった者の正義から、
断罪される覚悟を持つことだ。
もう、時間は戻らない。
愛理か。
ゆういちか。
どちらを選んでも、
もう一方が地獄に落ちるのだとしても。
それでも、その選択を――
彼女の正義が裁いてくれる。
俺の先の見えない暗闇に、
無理やりでも折り合いをつけてくれる存在。
俺は、ゆっくりと息を吐き、続けた。
「……それで、
君の正義が、親友を傷つけた俺の罪を償わせる。
……結果的に、俺を救うってわけか」
視線を巡らせる。
いつの間にか、
図書館の静けさの中で、
いくつもの軽蔑の視線が俺に向けられていた。
「……まるで、今この瞬間みたいにさ」
そのとき、ようやく気づく。
――ゆういちが、壊れかけた瞬間。
そのすぐ傍で、
必死に彼を支えていた存在。
「あぁ……そうか」
視線を伏せたまま、
どこか腑に落ちたように、呟く。
「ゆういちが言ってた“彼女”って……君のことだったんだな」
こんなにも強い人間が、
あいつの味方でいてくれるなら――
もう、ゆういちは大丈夫だ。
その確信が、
ようやく俺の中で決断を形にした。
俺は、短く、噛みしめるように言う。
「……ありがとう」
「親友を、救ってくれて」
(……君なら、愛理のことも――)
胸の奥で芽生えたその考えを、
否定せず、飲み込む。
そして、俺は続けた。
もう、答えは出ている。
「俺は、家族のように一緒に育ってきた愛理のほうが大切だ。
親友のあいつよりもな。
だから、俺は愛理の幸せを願う。
……そのために、最後まで彼に嫌われることにするよ」
愛理は、
俺のことを家族だなんて思っていなかったのかもしれない。
それでもいい。
たとえ一方通行だったとしても、
俺は彼女の味方でいたい。
たとえ、地獄に落ちるとしても。
そう覚悟を決め、
俺は目を細めて微笑んだ。
「……本当に、ありがとう」
彼女は、
俺の真意を見抜いているかのように、
ほんのわずか口元を緩めて答える。
「礼なんて言わなくていいわ」
視線を逸らさず、
はっきりと。
「だって私は、あなたを許さないんだから」
不思議と、
その言葉は胸に重くはなかった。
俺はどこか吹っ切れたように立ち上がり、
鞄を手に取る。
そして、そのまま席を離れようとした――
その時。
「待ちなさい」
呼び止められ、
足を止める。
「如月さんから聞いたわ。
神田君……あなたの“真っ直ぐさ”に、ずっと憧れてたみたいよ?」
胸が、微かに震えた。
「冗談だろ?
俺なんかより、あいつの方がよっぽど真っ直ぐだよ?
むしろ俺の方が………」
「……あいつを憧れてるよ。」
短い沈黙。
それだけで、
十分だった。
俺は何も言わず、
吹っ切れたように図書館の出口へ向かう。
――けれど。
ふと、思い出したように足を止め、
振り返る。
「じゃあな……そうだ」
「……君、名前は?」
今まで感じたことのない感情。
咄嗟に、口をついて出た問いだった。
「安城恵梨香よ」
その名前を、
胸の奥に刻み込みながら、
俺は静かに言った。
「安城さん……ありがとう」
そう告げて、
俺は本当に、
一人で歩き出した。
——その夜。
俺は、眠れなかった。
目を閉じるたび、あの施設時代の共に過ごした てきた愛理の笑顔が浮かぶからだ。
次の日の早朝、俺は愛理の家へ向かっていた。
もう、迷いはなかった。
どれだけ間違っていようと――
家族の味方でいると、そう選んだ。
そんな俺の前に、偶然のように――いや、必然のように、愛理が現れた。
俺は反射的に、声をかけていた。
「……よぉ」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「何か用? 蓮也」
愛理の声は、ひどく平坦だった。
けれど、その表情がほんの一瞬だけ揺れる。
恐らく俺はもう、来ないと思っていたんだと。
だが、その感情はすぐに消え去る。
代わりに露わになる、冷たい殺気。
邪魔をするなら切り捨てる。
そんな意思が、はっきりと浮かんでいた。
俺は、その顔を見て――
ゆっくりと、手を差し伸べた。
愛理は一瞥だけして、吐き捨てるように言う。
「……何? その手」
一拍置いて、さらに冷たく。
「もしかして、私の今の苦しみを肩代わりしようとしてるの?」
その瞬間、愛理の内側から怒りが噴き上がるのが分かった。
「ふざけないで。
もう、あんたが肩代わりできるような苦しみじゃない」
吐き捨てるような言葉。
以前とは、比べものにならないほど冷え切った表情。
そして俺は、理解していた。
俺が側にいなかった、この数日のあいだに――
愛理は、EES共鳴現象・ステージ3に到達している。
それはもう、
“越界者”と呼ばれる領域にまで、
彼女が踏み込んでしまったことを意味していた。
自分には、決して到達できない場所。
その領域に辿り着いてしまった愛理に、
俺は、ほんのわずかな羨ましさすら覚えていた。
それでも――
俺は、声を荒げなかった。
もう決めたのだ。
たとえ道を誤っていたとしても、家族のために進むと。
「違うよ……愛理」
穏やかな声で、そう言った。
「俺、気づいたんだ」
少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶ。
「苦しみを、ただ肩代わりするだけじゃ……ダメなんだって」
「一緒にいるだけじゃ足りない。
相手を正面から理解して……一緒に戦わなきゃ、意味がない」
「自己犠牲じゃ、真に人は救えないことに」
胸の奥がざわつく。
それでも、俺は続けた。
「愛理のやったことは、肯定できない」
「これからやろうとしてることも……たぶん、肯定できない」
それでも――
俺は、目を逸らさなかった。
「けど、愛理は……俺の、たった一人の大切な家族だ」
「だからさ」
苦笑しながら、言う。
「一緒に地獄まで落ちてやるよ」
(……そして、そんな間違った選択をした俺と愛理を、きっと――安城さんが止めてくれる)
(最後を彼女に任せるなんて……
やっぱり、俺は弱いな)
結局、最後は誰かに委ねる。
以前なら嫌悪していたはずの弱さが――
このときは、不思議と心地よかった。
「……そう。わかったわ」
愛理は、静かに俺と握手を交わした。
だがそのときの彼女には――
そこに込められた優しさも、かすかな光明も、感じ取れなかった。
歩きながら、俺は愛理の計画を聞いた。
やはり、向かう先は――安城さんの所。
予感は、すでにあった。
ゆういちが語っていた――
“あの彼女”。
その正体に、
愛理が遅かれ早かれ辿り着くことを。
そして、俺は――
それを肯定もしない。
否定もしなかった。
ただ、隣を歩き、黙って聞いていた。
やがて学校に着き、
愛理は剣道部の道場へと向かう。
入口脇に立てかけられた竹刀。
彼女は迷わず一本を手に取った。
「……恐らく、ゆういちがここに来るわ」
背後の俺に、告げる。
「邪魔されたくないの。ここから先、行かせないで」
俺は目を閉じ、短い沈黙のあと――
静かに頷いた。
「ああ……わかった」
それ以上、何も聞かなかった。
数分後。
こちらへ向かってくる、慌ただしい足音。
俺は石の階段から立ち上がり、進路を塞ぐ。
「まさか、ゆういちだけじゃなく――聖まで一緒とはな」
二人は同時に足を止め、
重たい視線をこちらに向けた。
「……ここから先は、行かせないぜ」
――俺と、ゆういちは。
再び、向かい合った。
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