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後編
第三十話 捜索
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懐中電灯は、深海魚の目のごとく暗闇を走査する。白地の海底は永遠と滑らかに続いており、生命の気配はない。ここは、月の光すらも届かぬ夜の底。旅館でもらったカイロはもう冷たくなっている。
「雪、止んでるな」
清家は塗りつぶされた空を見上げた。旅館を出た時には、すでに降雪はなかった。
宿から田舎道を歩き続けて二十五分、ついに例の柵が見えてくる。そして、山との境界に沿って歩くと、例の聖域の看板を見つける。看板は照らされると、白く発光するようだった。ここからさらに西へ向かえば、聖域内部への抜け穴がある。彼らは足を止めずに目的地を目指した。
「子供が嫌いなのか」
彼は彼女の雪の子に対する扱いが雑なのが気になった。
「別にそうでもない」
「怯えてた」
「誰が」
「旅館に置いてきた子供だ。乱暴じゃないか」
彼女は、両手をしまい込むように、腕を組んだ。
「思い当たることがある。私の親は教育熱心で、幼いころから詰め込み教育だった。それで、その教育とやらはひどくはなかったが、やや強引なやり方で、机にひもで固定されたりしたものだ。母は神経質だったから、子供的奔放さに、まいってしまっていたのだろう。手をあげられたこともある」
と語りつつ、彼女は流れていく地面を眺めている。
「虐待じゃないか」
「虐待ではない。虐待といえるほどではなかった。お前が考えるほど、悲惨ではない。あれは矯正だ。私が心底そう思うのだから、この一件について部外者であるお前は否定のしようがない」
話者は、その話の間、目を合わせようとしなかった。黒井は悲しくなった。彼女には、感情的、主観的といった心の防衛機構が備わっていない。彼女は、自分ですらも自身の味方ではないのかもしれない。
「同情されるのが嫌いなのか」
「勘違いするな。決して不幸ではなかった。おかげで良い大学にいけたんだ。世の中には、もっと悲劇がある。それにくらべれば端数にしかすぎない」
学者は幽霊少女のことを思い浮かべていた。幽霊ならば、死んでしまったということである。あの若さで亡くなるのは、無念だったであろう。
「不幸の深さは関係ない。致命的なのは幸福じゃないということさ。幸福ではないという点で、どの悲劇も同じなんだよ」
この学者は、己に働きかけようとする彼に、なされるがままにしておいた。大切にされていることがうれしいというのは、清家にとって意外な発見だった。
「お前は今、幸せか」
「今回の件と、妹の一件の犯人が捕まるまでは、幸福になれない」
「犯人が捕まれば、幸せになれるのか」
黒井は、どうだろう、と考える。神宮寺が逮捕されたからといって、失われた生活へ帰還するわけでなし。その向こうにあるのは、妹のいない日常のみ。しかし、彼との決着がつかねば、そこにも進めない。
そうこう考えているうちに、『聖域』の入り口にやってきた。
しゃがみこんで、靴にスパイクを装備する。柵に開いた、小さな抜け穴。ここから先は彼らの領域。雪と夜、禁域。普段立ち入ることのない、法と常識の機能しない、人間社会にある飛び地。ここから先は別世界だ。
「ここをくぐるのは、なぜだかいつも緊張するな」
背後で清家が云った。鉄網と藪の狭間である。藪のトンネルは、なんだか童話の導入のようだ。行って帰ってくる童話には、帰れなくなる不安が漂う。漏斗の裏側、木々の模様は竹かごを連想させた。
「俺もだよ」
境を越えて、立ち上がると、雪の森というのは幻想的だ。木々の間隔は昼間と相も変わらずそろっており、はっきりとした色彩は油絵じみている。二人は早速、緩やかな斜面を登りはじめた。ここを登り詰めた平地に、遺跡が鎮座していて、そこに、死んでしまった少女、の姉がいるらしい。
「生きているだろうか」
黒井は疑問を口にした。疑問すら、吐くなり白くなるこの寒さである。
「奴らは双子だと言っていたな。同様の条件が死んでいるのだから、息絶えていても不思議はない」
「奇跡に期待しよう」
旅館の幽霊はどうしているだろうか、彼は思った。あの少女は姉の無事を願って震えているだろうか。
「足跡だ。足跡がある」
彼は叫びながら、雪に足を取られないよう大股で、その小さな痕跡へといそいだ。
「雪、止んでるな」
清家は塗りつぶされた空を見上げた。旅館を出た時には、すでに降雪はなかった。
宿から田舎道を歩き続けて二十五分、ついに例の柵が見えてくる。そして、山との境界に沿って歩くと、例の聖域の看板を見つける。看板は照らされると、白く発光するようだった。ここからさらに西へ向かえば、聖域内部への抜け穴がある。彼らは足を止めずに目的地を目指した。
「子供が嫌いなのか」
彼は彼女の雪の子に対する扱いが雑なのが気になった。
「別にそうでもない」
「怯えてた」
「誰が」
「旅館に置いてきた子供だ。乱暴じゃないか」
彼女は、両手をしまい込むように、腕を組んだ。
「思い当たることがある。私の親は教育熱心で、幼いころから詰め込み教育だった。それで、その教育とやらはひどくはなかったが、やや強引なやり方で、机にひもで固定されたりしたものだ。母は神経質だったから、子供的奔放さに、まいってしまっていたのだろう。手をあげられたこともある」
と語りつつ、彼女は流れていく地面を眺めている。
「虐待じゃないか」
「虐待ではない。虐待といえるほどではなかった。お前が考えるほど、悲惨ではない。あれは矯正だ。私が心底そう思うのだから、この一件について部外者であるお前は否定のしようがない」
話者は、その話の間、目を合わせようとしなかった。黒井は悲しくなった。彼女には、感情的、主観的といった心の防衛機構が備わっていない。彼女は、自分ですらも自身の味方ではないのかもしれない。
「同情されるのが嫌いなのか」
「勘違いするな。決して不幸ではなかった。おかげで良い大学にいけたんだ。世の中には、もっと悲劇がある。それにくらべれば端数にしかすぎない」
学者は幽霊少女のことを思い浮かべていた。幽霊ならば、死んでしまったということである。あの若さで亡くなるのは、無念だったであろう。
「不幸の深さは関係ない。致命的なのは幸福じゃないということさ。幸福ではないという点で、どの悲劇も同じなんだよ」
この学者は、己に働きかけようとする彼に、なされるがままにしておいた。大切にされていることがうれしいというのは、清家にとって意外な発見だった。
「お前は今、幸せか」
「今回の件と、妹の一件の犯人が捕まるまでは、幸福になれない」
「犯人が捕まれば、幸せになれるのか」
黒井は、どうだろう、と考える。神宮寺が逮捕されたからといって、失われた生活へ帰還するわけでなし。その向こうにあるのは、妹のいない日常のみ。しかし、彼との決着がつかねば、そこにも進めない。
そうこう考えているうちに、『聖域』の入り口にやってきた。
しゃがみこんで、靴にスパイクを装備する。柵に開いた、小さな抜け穴。ここから先は彼らの領域。雪と夜、禁域。普段立ち入ることのない、法と常識の機能しない、人間社会にある飛び地。ここから先は別世界だ。
「ここをくぐるのは、なぜだかいつも緊張するな」
背後で清家が云った。鉄網と藪の狭間である。藪のトンネルは、なんだか童話の導入のようだ。行って帰ってくる童話には、帰れなくなる不安が漂う。漏斗の裏側、木々の模様は竹かごを連想させた。
「俺もだよ」
境を越えて、立ち上がると、雪の森というのは幻想的だ。木々の間隔は昼間と相も変わらずそろっており、はっきりとした色彩は油絵じみている。二人は早速、緩やかな斜面を登りはじめた。ここを登り詰めた平地に、遺跡が鎮座していて、そこに、死んでしまった少女、の姉がいるらしい。
「生きているだろうか」
黒井は疑問を口にした。疑問すら、吐くなり白くなるこの寒さである。
「奴らは双子だと言っていたな。同様の条件が死んでいるのだから、息絶えていても不思議はない」
「奇跡に期待しよう」
旅館の幽霊はどうしているだろうか、彼は思った。あの少女は姉の無事を願って震えているだろうか。
「足跡だ。足跡がある」
彼は叫びながら、雪に足を取られないよう大股で、その小さな痕跡へといそいだ。
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