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10-2 another side

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少し暗いお話が2話続きます。ご注意ください。


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ほんの軽い力で、その人は簡単に落ちていった。まさか後ろから押されるとは思わなかったのか、嘘みたいに簡単にその身を躍らせる。突き落とされた直後、黒髪の青年の顔には混乱と驚きの表情が張り付いていた。その顔を見た瞬間背筋が凍りついて、酷い後悔に襲われる。



抱きしめられたばかりの身体にはまだ彼の温もりが残っている。無条件に向けられた自分への『愛情表現』に久しく忘れていた感情が蘇る。でも、その喜びに気付いてしまえばきっと自分はもう生きていけやしない。





「……こうするしか、無いんだよ」




崖の下を見ることなく目を逸らす。感情を殺さないといけないのは今までで痛いほど理解した。もうこれ以上何も考えたくない。零れるように漏れたその小さな呟きはあまりに弱々しく、細い肩はせめぎ合う感情に応答するかのように震えた。





不意に一陣の風が吹いて、ミュアの髪を揺らした。不自然な風に目線を上げるとちょうど金色の髪の少年が崖へと身を投げる姿があった。先ほどまで行方をくらませていた少年は一切の迷いも見せることなく、自ら峡間へと飛び込んでいく。





「っ!ダメっ!!」




慌てて崖の下へと手を伸ばすがその手が届くはずもなく、音もなく落ちていった彼らにどうすることもできない。ただ茫然とその場に崩れ落ちる。恐る恐る下をのぞいても落ちていった二人の姿はもうない。気圧の差で谷の下には霧が立ち込めて下の様子など何も見えない。




_________大丈夫。これはこの世界のためにもなる。これは正しいことなんだ。間違いなんかじゃない。でも、




「僕……は、二人も、二人とも……」





殺してしまったんだ。そう声に出して、今しがた自分がしたことが恐ろしくなってミュアは自分の身体をかき抱く。もう残っていない温もりを求めて。温もりを与えてくれる人は自ら手を掛けてしまった。




「……これは、正しいことなの?お父さん、お母さん。僕にはもう……分からないよ」



宵闇色の空がゆっくりとあたりを包んでいく。桃色の瞳からは次々に雫がこぼれ、わずかな嗚咽と共に地面へと消えていった。





**********************************************






豊かな自然に囲まれた小さな村。朝目覚めれば鳥の囀りが聞こえ、日中は川のせせらぎと薪を割る音が何処かの家から聞こえてくる。よく言えば長閑、悪く言えば変化のない田舎にその子供は住んでいた。





「お母さん!見て!すっごく綺麗なお花でしょう?頑張って取ったんだ」





レンガ造りの小さな家で、小さな男の子がその丸い頬を紅色に染めて、自ら摘み取ってきた真っ白な花を女性に差し出す。





「まぁ、綺麗だこと。ミュアは相変わらず森歩きが得意ね」




女性は、花を受け取ると自身と同じ桃色の髪を優しく撫でる。愛しい我が子に向けられた視線はどこまでも優しく、慈悲深い。




「うふふ、くすぐったいよぉ」




嬉しそうに笑う子供は、大好きな母親に抱きついて照れるように顔を埋める。





「ただいま、今帰ったぞ」





「わぁっ!お父さん!お帰りなさい!」






ドアの軋む音を聞きつけて少年の顔には花開いたかのような笑顔が咲き誇る。ぱたぱたと軽い足音を響かせて仕事から帰ったばかりの父親の足にしがみ付く。




「ただいま、俺の可愛い天使は今日もいい子にしてたかな?」




健康的に焼けた肌のその男性は息子を抱き上げるとハシバミ色の目をこれ以上ないくらいに細めて抱き寄せる。どこにでもあるごく普通の幸せな家庭。決して裕福ではなかったが絵に描いたような幸せな時間が確かにそこには流れていた。



「うん!僕ね、今日はたくさん山菜取ってきたよ。あとね、木苺も取ってきたから後でお母さんとジャムを作るんだ!」




「それは楽しみだな。父さんにも食べさせてくれるかい?」




一生懸命に今日あったことを伝えてくれる子供がかわいくてたまらないといった様子で頬を摺り寄せる。その子供も嬉しそうに受け入れる。




「お父さんにはね、一番最初にあげるからね!楽しみにしてて!」





仲睦まじい理想の家族。幸せの絶頂にいる彼らには明日への希望だけがあった。





















それからわずか数か月後、国内で不穏な話が流れ始めた。そしてそれはすぐに彼らの暮らす田舎の村にも伝染した。







「お母さん、センソーってなぁに?お友達がね、センソーになるから別のところで暮らすんだって。センソーって戦うの?」




母親と二人の朝食の席で桃色の髪の子供はそう尋ねた。子供というのは大人のことを本当によく見ている。隣接する大国からの『開戦宣言』に動揺した周りの大人たちのほんの些細な行動の一つ一つが子供に得体の知れない不安を抱かせてた。子供ながらに良くないものを感じたのだろう。




「いい?ミュアよく聞いて。もし本当に戦争になったらたくさん怖い人がやってきて皆に暴力をふるうの。だから、ミュア。もし何かあったら逃げなさい。いい?何があってもよ。何があっても逃げるの。絶対に生き延びるのよ」



何時にない真剣な言葉にミュアはやはり一抹の不安を覚える。まだ幼い子供には、戦時中であっても土地を捨てて逃げることなど容易なことではないという貧困層ゆえの事情など分からない。母親の言葉に気おされるままにこくこくと首を振った。






























その日はいつものように森へ出かけていた。父親が気に入ってくれた木苺のジャムを作るために木苺を集める。バスケット一杯に木苺を詰めて、そろそろ帰ろうと道を引き返した時、偶然ちょうどよい陽だまりを見つけた。背の低い草がふわふわとした自然の絨毯になっていて、疲れていたミュアは誘惑に負けてその場に寝そべる。仰向けに倒れると花のにおいと太陽のにおいが優しく香った。その心地のよい環境についうとうとしてくる。





「少しならだいじょぶだよね……」





大切なバスケットを自分のすぐ真横に置いて静かに瞼を下ろす。ほんの昼寝のつもりが本人も知らぬ間に数時間もの深い眠りに落ちていた。





肌寒さに目を開けたとき、目の前はもうほとんど真っ暗だった。太陽は完全に沈んでいて、大急ぎでバスケットを手に家への道を走る。






「急がないと!お母さんたち心配する」




歩きなれた森だから暗くても迷うことなく家へ戻れる。家まであと少しというところでまるで昼間のようなオレンジ色の光が輝いていることに気付き足を止める。





「明るい?お祭りかな……」






その明かりは毎年決まった時期に開かれる収穫祭に似ていた。速度を落としてゆっくりと村へ近づく。





しかし、それはお祭りなどではなかった。




「なんで、みんなのおうち……燃えてるの?」






ぱちぱちと木材が焼け、はぜる音が聞こえる。信じられない熱気に包まれた自分の村。何もかもに理解が出来なくて、ただひたすら自分の家に向かって歩き続ける。





地獄を思わせるその光景に目を向けていたせいで地面に落ちている何かに足を取られ膝をすりむく。拾ってきた木苺は地面にばらまかれてバスケットは手を離れた。






「痛い……」




すりむいた膝をさすって立ち上がる。しかし、何につまずいたのかを確認してまたすぐに地面に腰をついてしまう。





「おじさん?おじさんどうしたの?」





近所に住むおじさんだった。よく、お菓子や野菜を分けてくれる気のいいおじさん。今は地面に倒れたまま全く動かない。おじさんの下には赤い水たまりがあった。おじさんがもう生きていないということは漠然と分かった。




「……っ!せんそう……早く、帰らなきゃ」




最悪の言葉がよぎって転びそうになりながら懸命に走る。家に帰るまでに色んな人を見た。みんな知っている人。でもみんなもう動かなくなっていた。




「お母さんっ!お父さん!」




ミュアの家も例外なく炎に包まれていた。あわててドアに手を置き力を込めるとじゅっと掌が焼けた。痛みに涙があふれ視界を悪くする。乱暴に拭って家の中へ入る。家具もなにもかも、ほとんどに火がついていた。




みんなで夕食を囲むはずだったダイニングで両親のこと切れた姿を目にする。真っ赤に染まった二人はまるで寄り添うようにして壁にもたれかかっていた。手遅れなのは一目瞭然で、確実だったが、そんなはずないとかぶりを振る。



「お母さん?お父さん?大丈夫?ここは熱いよ。村の人も集めて森に逃げよう」



そういって二人の手を引く。しかし、死人が口を利くわけもない。ミュアにも分かっていた。でも認められるはずがなかった。ようやく涙が感情に追い付いて堰を切ったようにとめどなく流れる。




「ねぇ!!逃げようよ!このままじゃ……このままじゃ……」





僕の話を聞いてよと二人の身体に縋りつく。家の中は気が狂うほど熱いのに二人の身体は氷のように冷たい。





「やだよ……一人にしないで、怖いよ……いやだ……」






ミュアの故郷の小さな村はこの日をもって存在を消した。


























村は明け方近くまで燃え続けた。ミュアは何時間もひたすら燃え盛る自分家をみつめていた。両手両足、皮膚がただれてとても痛かった。涙は枯れ果ててもう声も出ない。何もなくなった焼け野原に佇むしかない。ふと、昨日落とした木苺が目に入った。ほとんど燃えてなくなってしまったけれど、一つだけ地面に転がっていた。拾い上げて口に含む。




砂まみれの木苺は酷い味で、のどが刺すように痛んだ。




_____ジャムにしたら美味しいのにな。








逃げることなどできるはずがなかった。どこに行けばよいか、誰に助けを求めるのか。まだ幼い子供がたった一人取り残されてどうにかなるはずがない。焼け落ちた家の前に腰を下ろして顔を伏せる。何時間たったのかも分からず、身体の感覚もひどく鈍い。



もうろうとする意識の中でこのまま天国に行きたいと願う。一人は嫌だった。父親と母親が待つ天国に早くいきたいと心の底から思う。




しかし、現実はどこまでも非情で、年端もいかない子供にはあまりにむごい運命が待ち受けていた。




不意に大きな手が視界を覆った。ミュアは突然のことに驚いて暴れるがいとも簡単に地面に押し付けられて、手足を拘束される。



その乱暴な手つきで、相手が助けに来てくれた人間ではないとすぐに分かった。すでにどうしようもなかった。そのまま頭を強く殴られて意識が暗転する。





本当の地獄はここからだった。
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