アデルの子

新子珠子

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第一章 静かな目覚め

4. キス

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 お茶会を終えると、そろそろハリスの帰る時間が近づいてきた。2人でガゼボを出てラッパ水仙の咲く丘を降る。僕は楽しかった余韻に浸るよりも、まずはお茶会が無事に終わる事にほっとしていた。

 スノードロップの散策路に戻り、屋敷が目前に近づくと、ハリスが少し悩んだ様子で立ち止まる。そしてこちらに振り返った。微かにライラックの香りがする。
 ハリスは不安そうに瞳を揺らしていた。そしてそっと口を開いた。


「ティト様…口づけをしていただけませんか。」



 ああ、なるほど。

 彼の一言で何となく納得してしまった。
 やはり彼は自分の意志ではなく、中々進展しない息子たちに業を煮やしたカイザーリング伯に言われて、ここに一人でやってきたのだ。そしてきっとキスの一つでもして来いと言われたのだろう。

 別にキス自体はしても良い。しかし彼はおそらく人生でアデルには僕にしか会ったことがない。経験が少ない彼は見た目よりも幼い。僕がアデルとして問題があることも気付けない状況だ。
 それを理解させないまま、母に言われるがままの彼に手を出すことが良いこととは思えなかった。けれど変な断り方をしても彼を傷つけることになる。


 僕は少し悩んでハリスの手を取り、手の甲に唇を落とした。ハリスは目を見開いて僕の行動を理解すると顔を歪ませて俯いた。

「ティト様は…私とそういう仲になるのはお嫌ですか?」

 ハリスは体を震わせる。今の行動を拒絶と捉えたのだろう。僕はすぐに首を振った。

「そうではないのです。ただ僕はまだ子供で不安なことが多くて…もう少しだけ時間をいただけませんか?」
「不安な事?」

 ハリスは堪えきれなかった様に瞼を震わせてはらりと涙を落とした。ふわりとライラックの香りが強くなる。まずい。僕は顔が強張りそうになるのを何とか抑えてハリスと向き合った。手が震えない様に最新の注意を払う。誠実に伝えなければいけない場面だ。

「僕は身体が弱いです。それに……事件があってから、まだエバの方と触れ合うのが少し怖い時があります。」

 ハリスはハッとした様に身を固くした。一瞬ライラックの香りが弱まる。しかし感情に歯止めがきかなくなったのだろう。ライラックの香りと共にハリスの長い睫毛からはぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「僕…なんてこと……どうしようっ。」
「泣かないで、ハリス様は何も悪くありません。」

 彼はまだ誰とも経験がないエバだ。おそらく感情が高まるとフェロモンをコントロールができないのだろう。ライラックの香りに当てられて気が遠くなりそうになるが、ここで気絶してしまったら彼を傷つけてしまう。何とか食いしばってハリスの目の縁の涙をぬぐった。手はもうガタガタに震えている。

「僕はアデルとして致命的な欠陥があります。…だから将来、貴方を幸せにできるアデルになれるのか……不安なのです。」
「っ……。」
「……ワガママを言って申し訳ありません。貴方に時間がないのは分かっています……でも今の状態ではあなたの願いに……誠実に答える事ができない。だから……あと少しだけ時間をください。」

 ハリスは可哀そうなほど身を固くして僕の話を聞いていた。そして耐えきれなくなったのか両手で顔を覆って、肩を震わせた。

 完全にフェロモンは制御できなくなったのだろう。彼のフェロモンの香りがますます濃くなってきた。どんどん意識が遠のいていく。頭では大丈夫だと分かっていても身体がトラウマを思い出して恐怖してしまう。僕は後ろに倒れこみそうになる所を誰かに支えられた。

「ハリス様、ご出立前に少しサロンで休憩をしましょう。」
「…っめんな…さい。」
「ハリス様は何も悪いことはしていらっしゃいません。どうぞこちらへ。」

 アズレトの声だ。嗚咽するハリスをあやしながら屋敷へ案内する声がする。僕はアズレトに感謝しつつも、立っていることができずに崩れ落ちそうになる。するとアズレトと入れ違いに誰かが僕を支えた。



「ティト様、よく頑張られましたね。」

 ああ、リノだ。僕はその声に安心して、どうしようもなく泣きたくなった。


「ごめん…っ上手にできなかった…っ」
「大丈夫です。何も心配はありません。ご立派でいらっしゃいましたよ。」

 リノはそっと僕を抱きかかえた。微かにビターオレンジの香りがする。僕は泣きそうになるのを必死に堪えた。今泣いてしまうとハリスが僕の顔を見た時にきっと悲しむ。

「少しだけ休憩をしましょう。」
「でも…見送りをしないと…」
「そんなお顔だとハリス様も悲しまれますよ。少しだけ休みましょう。」
「うん……」

 リノは僕を抱えたまま散策路に置かれたベンチに座った。僕は膝抱っこをされたままリノにしがみつく。本当に情けないがまだ震えが止まらない。

「焦らなくて大丈夫です。深呼吸して。」

 ぽんぽんと背中をさすられてゆっくりと呼吸をする。もうすでに体裁はガタガタだが、どうにかハリスを見送らなくてはいけない。

「…いつも迷惑をかけてごめんね。」
「ティト様に迷惑を掛けられたと思ったことはありませんよ。もっと甘えて欲しいくらいです。」
「今日はずっと甘えてるよ…。」
「ふふ、そうですね。」

 朝からずっとリノに甘えてばかりだ。情けないし、恥ずかしい。そう思っているとリノは僕をそっと抱きしめて、赤子をあやすように体を揺らした。

「ティト様、急に大人にならなくても大丈夫ですよ。失敗したり上手くいったりを繰り返しながら大人になりましょう。」
「…うん。」
「ずっとお支えしますからね。」
「うん。」

 リノの優しさにじんわりと心が温かくなる。寄り辺の少ない僕にとってリノの存在は本当に大きい。
 しばらくリノの温もりに触れていると、いつのまにか身体の震えは止まっていた。





 なんとか落ち着いた僕はリノと手をつないで屋敷に戻った。リノはさっと僕の乱れた身だしなみを整える。

「そばにおります。すぐに呼んでください。」
「うん、でも大丈夫。」

 リノのおかげで僕は随分と落ち着きを取り戻すことができた。ちゃんとハリスを見送りたいし、なによりこのまま彼を悲しませたまま帰らせたくない。僕はしっかりとした足取りでサロンに向かった。

 サロンのソファに座ったハリスが顔を上げた。彼も泣き止んで少し落ち着いた様子だ。僕は申し訳なさそうにしているハリスの前に屈み込み、彼の手を取った。縮こまった彼の手は指先まで冷え切っている。本当に可哀想なことをしてしまった。

「ハリス様、今日は申し訳ありませんでした。」

 ハリスはふるふると頭を振った。

「僕こそティト様のお気持ちを慮れず、困らせてしまいました。」
「ハリス様は何も悪くありません。でも仲直りをしていただけますか。」
「もちろんです。ごめんなさい。お身体は大丈夫ですか。」
「ええ、何ともありません。」
「良かった…。」

  ハリスはほっとしている。僕はそっと彼の目元に触れた。

「目が赤くなってしまいましたね。」
「お恥ずかしいです…。」

  僕は申し訳なさそうにしている彼の目元をなぞる。このままだと彼にとって今日は悲しい思い出になってしまうかもしれない。
 今日の事を思い出す度に悲しい気持ちになってしまう彼を想像すると、あまりにも可哀そうだった。僕に問題があるだけで、彼が悪いわけではないのだ。出来れば悲しくない思い出で終わらせてあげたい。

 そう思うと僕は自然と彼に口付けをしたいと思った。先ほどあんな風に泣かせてしまったのに今更と思われるだろうか。
 僕はハリスの隣に座って彼の頬に触れた。



「ハリス様、口付けをしてもいいですか。」

 ゆっくりと顔を近づける。触れるか触れないかの近さで吐息が混ざり合う。ハリスは何を言われたのか分からないといった風に目を見開いていた。でも拒絶するそぶりはない。僕は少しだけ笑ってそっと囁いた。

「ハリス、目閉じて。」
「…あ……。」

 ハリスが少し口を開けた時にそっと唇を合わせた。彼が怯えない様にできるだけ優しく触れるだけのキスをする。少し離して何度か優しく口付けを重ねるとハリスの長い睫毛が伏せられて段々と力が抜けてきた。少しだけライラックの香りがしてくる。僕は一旦唇を離した。

「フェロモンを出さない様に我慢できる?」
「ぁ、………うん…。」

 ハリスは僕の胸に手をきゅっと寄せるとライラックの香りが弱まった。僕は彼の行動を褒めるかのように背中をそっと撫でながらもう一度唇を重ねた。ふるっと彼の身体が震える。ちゅっちゅっと音を立てながら何度か角度を変えて口付けた。
 ハリスは力が抜けて僕に身を委ねている。僕は彼の手を自分の背中に回して、緩く開かれた彼の唇にそっと舌を差し入れた。どうすればいいか分からない様子の彼の舌をできるだけ優しく絡ませる。

「……ん、はぁ…」
「鼻で…息するんだよ…」
「ん…ぅ…」

 少しだけ頷いた彼の舌の裏や上顎を優しく愛撫する。ハリスはふるりと身体を震わせて、少し戸惑いながらも舌を差し出した。舌を絡み合わせてお互いの気持ち良い場所を探る。ハリスはキスに夢中で僕の背に縋り付く。どちらのものとも分からない唾液が溢れそうになる前にそっと唇を離した。

「んっ、はぁ……。」

 ハリスはこくんと唾液を飲み込み、とろんとした顔で名残惜しそうに声を漏らした。頬は紅潮してふわりとライラックの香りがする。これ以上の触れ合いをすると、またフェロモンに当てられてしまうだろう。僕は意識が恐怖に行かないように少し息を吐いた。


「ハリス、今日の事を思い出す時は、楽しかった事を思い出して欲しい…もしそれが難しかったら最後にキスをした事を思い出して。」

 ハリスは僕の腕で乱れた息を整えながらこくりと頷いた。

「ありがとう。」

 僕が彼の額に口づけると、彼は潤んだ瞳で僕を見た。

「ぁ…ティト様…好きです…。貴方の不安が無くなるまで…僕ちゃんと待ってます。」

 その瞳は完全に僕を信じてくれている瞳だった。彼の無垢な言葉に泣きそうになる。

「社交界デビューした後になっても構いません。貴方に何人相手ができようと構いません。幸せにしてくださらなくても構いません。……それでも…僕は貴方がいい。」

 泣きそうな顔で彼はそう言った。彼の想いに本心ではない言葉を紡ぐのは不誠実になってしまう様な気がした。

「…ありがとう。ごめんね。」

 ハリスはふるふると首を振った。ぽろりと片目から涙が零れる。

「謝らないで。大好きです、ティト様。」
「うん……。」



 僕たちは言葉の代わりにもう一度触れるだけのキスをした。


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