アデルの子

新子珠子

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第一章 静かな目覚め

7. 婚約者

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 初めてのことに僕のキャパシティは限界を迎えてしまったらしい。アズレトが部屋にやってきた時にはすでに電池切れ寸前だった。うとうととしている僕にアズレトが薬を飲ませてくれて、そのままことりと眠った。
 自分でもよくこんなに眠れるものだと感心してしまう。夜中に一度、誰かに頭を撫でられている感触を感じたが、結局起きることはできなかった。


 目が覚めると寝室のドレープカーテンの隙間からは光が差していた。どうやら朝までぐっすりと眠ったようだ。長い時間寝たせいか、身体は熱が引いてすっきりとしていた。これなら今朝は礼拝をすることもできそうな気がする。けれど、まだなんとなく起き上がる気になれなくて、ごろごろと何度か寝返りを打った。
 しばらく、そうしていると寝室の扉が開いた。



「ティト様、起きていらっしゃったのですか。」
「うん、おはよう。」

 部屋に入ってきたのはリノだった。リノは挨拶をすると寝室のカーテンを開けた。朝の光が部屋に差し込む。レースカーテン越しに陽の光が当たったリノの髪はキラキラとしている。今日のリノはアッシュブラウンの柔らかな髪をゆったりと後ろで編み込んでいる。陶器のような滑らかな肌には赤みがさしていて顔色はかなり良くなっていた。

「リノ、体調は良くなった?」

 リノはきょとんとした後、申し訳なさそうに笑った。

「はい、休ませて頂いたのですっかり元気になりました。」
「良かった…沢山ワガママ言って困らせてごめんね。」
「いいえ、私の方こそ焦ってティト様を不安にさせてしまいました。これからはティト様が沢山ワガママが言える様に私も休ませていただきますね。」
「ふふふ、うん。」

 僕は笑って頷く。リノは僕の体調を確認するために体温を計った。やはり熱は下がっていた。

「もう礼拝に行けそうだよ。」
「そうですね…でも礼拝はもう少し様子を見てからにしましょうか。今日はゆっくりお過ごしください。」
「分かった。」

 きっと大事を取らせるつもりなのだろう。いつもの事なので僕は特に抗議もしなかった。

「他に体調の気になる所はありますか。」
「他に?」

 リノはあえて言わないが、おそらく昨日の出来事から体調を心配しているのだろう。僕はエバのフェロモンに当てられると必ず体調を崩していたから当然と言えば当然だ。けれど、今回は一晩寝たら興奮状態も抜け、体調は問題がなかった。

「昨日のこと聞いた?」
「はい、レヴィル様から。」
「そう、その…兄上からはほんの少ししか匂いがしなかったから…多分体調を崩すほどじゃない。」
「そうでしたか。」

 リノは少し驚いた様子だ。僕が酩酊状態になったと聞いてかなりの量のフェロモンを浴びたと思ったのだろう。普通アデルは相当濃厚なフェロモンを浴びない限りは酩酊はしない。

「やっぱり僕おかしいのかな。」

 今までは恐怖しか感じていなかったから分からなかったが、もしあんな少量のフェロモンで誰にでも酩酊してしまうのなら恐ろしい事だ。社交界に行けば常時誰にでも発情してしまう事になる。

「大丈夫、おかしな事はありませんよ。体調が優れない時は弱くなってしまうものです。」
「うん……。」
「それに…私から言うのもおかしいのですが…おそらく、レヴィル様とティト様の相性が良かったのだと思いますよ。」
「え?」

 僕が聞き返すとリノは少し恥ずかしそうに笑った。

「その、相性が良いもの同士だと少しのフェロモンでもアデルは誘惑されてしまうと聞いたことがあります。」
「あ、うん…そうか…。」

 レヴィルの匂いは頭が沸き立つほど良い匂いだった。相性は間違いなく良いだろう。リノの言う事はすごく納得できた。なんとなく昨日の兄の姿を思い出してゴクリと唾を飲み込む。

「ティト様の体調がよろしければ、レヴィル様もこちらのお部屋で一緒に朝食を召し上がりたいと。どうされますか。」
「…うん、ご一緒したい。僕、兄上とリノに話があるんだ。」
「私にもですか?」
「うん。」
「承知しました。レヴィル様にもお話がある旨をお伝えいたします。」
「ありがとう。」

 リノは使用人に伝言を伝えて、僕の身支度の手伝いをしてくれた。身支度と言っても今日もこの部屋で過ごすだけなので身を清めて、部屋着の上から温かいカーディガンを羽織る程度だ。僕が身支度をしている間に従僕が朝食のセッティングをしてくれている。

「お腹空いてきた…。」
「ふふ、良かった。」



 セッティングが終わると、ちょうど兄がやってきた。彼は部屋に入ると温かそうなウールコートを従者に預けた。きっと僕の代わりに礼拝をしてくれたのだろう。

「兄上、おはようございます。」
「おはよう。」

 兄は少しだけ微笑むと僕の前へしゃがみ込んだ。

「体調は大丈夫か?」
「はい、その、昨日は申し訳ありませんでした。」
「悪いのは俺だ。昨日はごめんな。」

 僕はふるふると頭を振った。兄は微笑んで僕の頭を撫でた。兄の形の良い唇を間近で見てると何となくそわそわしてしまって、僕は誤魔化すように慌てて兄をテーブルへ導く。テーブルにはすでに2人分のカトラリーが並んでいた。

「ティト、リノにも話があるのだろう?」
「はい。」
「リノの分も朝食を用意させよう。リノも座れ。」
「はい、失礼します。」

 兄が従者に目で合図すると、兄の従者はすぐに退室した。きっとリノの分の朝食の準備を伝えてくれるのだろう。席に着くとすぐに従僕が3人分の紅茶を入れてくれる。

「リノと一緒にご飯食べるの久しぶりだね。」
「はい、秋以来でしょうか。」

 僕が嬉しくてにこにこと笑うと、リノも笑顔で答えてくれた。

 普通、使用人が家人と同じ食卓で食事をすることはないが、リノは兄が屋敷にいる時は一緒に食事をする事があった。彼の本当の身分が使用人ではないからだ。
 リノは僕が生まれた時に行儀見習いとしてこの家にやってきた。

 リノの本当の身分は、西方ウィッグス伯爵の次男。
 そして僕の婚約者だ。

 アデルの少ないこの世界では、結婚は貴族だけが行う贅沢だ。当然アデルは1人のエバだけを愛することは許されておらず、必ず複数の妻を娶らなくてはいけない。
 いずれ僕は兄とリノ以外にも妻を娶るし、妻ではないエバとも子供を作ることになる。しかしこの家の跡継ぎに関しては、兄かリノのどちらかが生んだ子供が継ぐと言うことが決まっている。リノは亡くなった母が見込んだ婚約者だ。


 紅茶を飲んでいるとすぐに従僕が3人分の朝食を運んできた。今日は兄がいる上に僕の体調も良いので、ポーチドエッグやアスパラのソテー、ベーコンやサーモンなどしっかりめの朝食が並んだ。とても美味しそうだ。
 僕はトーストにバターを塗りながら口を開いた。

「僕、兄上とリノにご相談したい事があります。」
「なんだ?」

 僕はベーコンにナイフを入れるリノをチラリと見た。

「その、もしリノが嫌じゃなければ、リノを今の従者待遇ではなくて、婚約者の待遇にしていただきたいと思ってるのですが…。」

 リノと兄はびっくりした様に僕の方を見た。少し居心地が悪い。

「ただ、今の僕はリノ以外に従者についてもらうのは、多分まだ怖くて難しいと思います。だからどうすれば良いのか、ご相談したくて。」

 リノはこの家のしきたりを学ぶために、行儀見習いとして少年期をこの家で過ごした。行儀見習いの間は僕の従者として多くの時間を過ごし、成人後はウィッグス家に戻った。
 そして将来、僕が成人をした時に、妻としてこの家に嫁いでくる予定だった。

 けれど彼がウィッグス家に戻った後に、母が死んで、さらに僕は誘拐事件に巻き込まれた。兄は家督継承や議会に出るために王都から身動きが取れなかった。けれど、当時の僕は兄とアズレト以外のエバが側にいるだけで、恐ろしくて失神をする状態で、とても王都に居れる状況ではなかった。

 そんな状況を見かねたウィッグス伯爵がリノをこの家に戻してくれたのだ。婚約者ではなく、信頼ができる従者として。もし僕の心の傷が癒えなくてもその時はありのままを受け入れると、伯爵とリノが許してくれたおかげで、僕はこの屋敷に戻り、静かな生活を送る事ができた。

 きっとリノは僕の傷が癒えずに、生涯従者のまま過ごしても良いと言う覚悟を持って、この家に戻って来てくれた。
 僕はそのあまりにも寛大で優しいリノの心にちゃんと向き合いたいと思っていた。


「……それは婚約者としてリノを受け入れると言う意味か?」

  兄はダークブルーの瞳でまっすぐに僕を見ていた。僕はナイフを置いて姿勢を正した。

「はい。」

 僕はしっかりと頷いた。リノは何が起きたのか分からないと言う顔をしている。僕は兄の方にもう一度向き直った。

「そしてこれは兄上も同じです。これからは兄弟や僕の庇護者としてではなくて、婚約者として接したいです。」
「……そうか。」

 兄は頷いた後、何とも言えない表情をした。

「本当にそれでいいのか?確かに俺とリノは母上が決めた婚約者だが、お前に強要するつもりはない。誰を選んでも良いんだ。」
「私も…妻にならなくても一生ティト様をお助けしますよ。」

 2人は僕を諭す様に静かにそういった。2人とも自分の事より僕の幸せを一番に考えてくれている。だからこそ簡単に僕の言葉を受け入れてはくれない。

「僕は…僕のためにずっと心を砕いてくれている2人を幸せにできる大人になりたいです。」

 僕はありのまま思っている事を言葉にする。

「まだそこまでの気持ちじゃないかもしれないけど…でも大好きな2人と夫婦として愛し合えたらどんなに良いだろうって思います。」

 僕はだんだんと自信がなくなってきて、2人とは目を合わせられなくて朝食の皿を見つめる。

「僕はアデルとしては出来損ないです。怖いけど…将来はちゃんとアデルの役目を果たせる様になりたいです。その為に2人に助けて欲しい…兄や従者ではなくて婚約者として。…ちゃんとしたアデルじゃなくて申し訳ないけど、兄上とリノが許してくれるなら…僕は2人と一緒に生きて行きたい…。」

 僕は2人と視線を合わせるために上を向いた。緊張のあまり声が上ずりそうになる。


「だから…どうか僕の婚約者になってください。」


 言い切った後、2人を見ていられなくて思わず下を向いた。余りにも情けない告白だ。僕はもうそれ以上何も言えなかった。
 かなりの長い間、沈黙が続いた後、リノが椅子から立ち上がる音がした。



「ティト様。」

 リノがそっと跪き、僕の手を握った。

「私は貴方のような優しくて強い方の婚約者になれてとても幸せです。」

 リノはそっと僕の手に頬を寄せた。その温かさに僕はぽろりと涙を零した。


「ありがとう…。」

 僕は椅子から降りて、リノの横に跪く。そしてしっかりと視線を合わせた。

「リノ…僕の妻になってくれませんか。」

 リノは本当に美しく優しく微笑んだ。

「はい。」

 彼の瞳からも涙が溢れた。僕はその涙を指で拭い、頬を撫でた。見つめ合うと自然と引き寄せられて、僕たちは初めて、触れ合うだけの優しいキスをした。




 唇が離れるとリノは照れたように少し微笑む。
 そして僕の手を引いて、兄の前に導いた。リノを見ると彼は優しく頷いて手を離す。僕は兄の側に跪き、目をまっすぐ見つめる。

「兄上、貴方を愛し、幸せにしたいです。…どうか僕の妻になってください。」

 兄はしばらく何も言わなかった。

「……フェロモンに当てられて、そう思ってしまっただけじゃないのか?」
「違います。これは本当の僕の気持ちです。」
「……。」

 兄は苦しそうな表情をする。

「……俺に気を遣ってそういってるなら、無理はしなくていい。」
「無理はしていません、妻にするなら貴方とリノがいいんです。」
「それでも、今のタイミングで決めなくてもいいだろう。」
「成人前に貴方の事をちゃんと愛するようになりたいんです。」

 兄は押し黙ってしまう。長い時間の沈黙の後、静かに口を開いた。

「本当にそれでいいのか。」
「はい、絶対に後悔しません。」
「……一度、俺をその気にさせたら取返しはつかないぞ。」
「え?」

 僕が聞き返すと、兄は諦めたようにため息をついた。

「…俺の愛は、重いぞ。」


 その一言に僕は思わず笑ってしまう。リノも後ろでクスクスと笑っていた。僕は兄の手を取る。

「はい、僕もきっと兄上に夢中になると思います。一生貴方を大切にすると約束します。」

 そう口にすると兄にぐいっと引っ張られた。兄の膝に座るような格好で額を合わせる。
 僕はそのまま兄の頬に手を添えて、そっとキスをした。



 それはあまりにも幸せな時間だった。



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