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二章 同魂の双子
3 二〇二四 葉月―中
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夏休みも、随分消化されてしまった。だいたい半分だ。まだ半分、とは思えない。もう半分だ。特に忙しくも充実してもいない毎日なのに、休みというだけで体感時間は短いものだった。
そんな貴重な時間を使って、僕は今日も唯花と見舞いにやってくる。悠斗くんや悠那ちゃんの問題を解決するには、僕らの方から積極的に二人に関わっていかなければならない。でも、それも別段、悪いとも面倒だとも感じてはいなかった。僕の貴重な時間が、唯花や悠那ちゃん、そして悠斗くんのために消費されていくのなら全然、文句なんてありはしない。一人でいてもどうぜ僕は、無為に過ごしてしまうのだろうから。
こんな風に考えながら、見舞いも既に何度目かになる。唯花と二人で行くこともあったし、僕一人で行くこともあった。悠那ちゃんにせがまれて、連日で訪れたこともあるくらいだった。だからもう、複雑だった彼女の個室への道も、とっくに頭に入っている。
ただ、この日に至っては、少々予想に反した展開が僕らを待っていた。そのためにか、僕らは今、個室の前で二人して聞き耳を立てている。初めてここへきたときに、桂祐くんに促されてしたように。
「唯花……どうしよう。入り辛いよ」
「おかしいわねぇ。今日は平日のはずなのに、こんな時間から悠斗くんがいるなんて」
室内からは、記憶に刻みついた、あの甘い囁きが聞こえる。
時刻は午後二時。夏休みではあっても、中学三年である受験生の悠斗くんは学校で夏期講習を受けているはずの時間だった。
そんな彼が、どういうわけか異常に早い時間から悠那ちゃんに会いにきている。
「今入ったら、多分悠斗くんは嫌がるだろうなぁ」
初対面の日の、少し影のかかった彼のしかめっ面が、僕の脳裏には浮かんでいた。いくらこちらが見舞客だとはいえ、わかっていてそんな顔をさせるのは、何だかちょっと申し訳ない。
「そうでしょうけど、でもこれはむしろ、私たちには好都合かもしれないわ。悠斗くんと話せる機会は、あまりないと思うから」
まあ、それはそれで正論だ。
遺失をしているのは悠斗くんの方だと、以前に唯花は言っていた。つまり、僕らの仕事のターゲットは、悠那ちゃんよりもどちらかと言えば悠斗くんの方。好都合というのは、そういう意味を含めてのことだろう。
だからといって、やっぱりあの二人の間に入るのは……うーん……どうにも気が進まないというか、後ろめたいというか……怖いというか。
「こうしていても仕方がないわね。さて、じゃあいくわよ」
それでも唯花は、未だに戸惑いを見せる僕に一言放って、悠那ちゃんの個室の扉をノックした。コンコン、と軽く二回。そのあとに、中へと踏み込みながら挨拶をする。
「悠那ちゃんこんにちは~! またきちゃった~!」
出会い頭の明るい挨拶は、唯花なりの社交スタイルなのだろうか。その素早い行動に僕は少々遅れを取りながら、慌ててあとに続こうとする。タイミングを見失わないうちに、室内に入って笑顔を作る。こんにちは、悠那ちゃん。そう言って笑う。
すると、期待した通りの快活な彼女の声が返ってくる。
「お姉さん! それにお兄さんも! いらっしゃいー」
最初に僕の目に飛び込んできたのは、悠那ちゃんの後ろ姿だった。清流のように光る黒い長髪が、注意を引惹きつけてやまない。どこまでも癖のない真っ直ぐなその髪が、綺麗にまとまってベッドの上にせせらいでいた。
「ごめんねー。もうすぐこれ終わるから、少し待って。悠斗もほら、二人に挨拶しなさい」
普段は結われている悠那ちゃんの黒髪が今はほどかれて、悠斗くんがその手入れをしていたのだ。左手でそっと持ち上げ、右手の櫛で優しく研ぐ。ゆっくりと丁寧に、繰り返し繰り返し。
その途中に、僕らは入室してしまったようだった。
「……こんにちは」
悠斗くんは、横目で僕と唯花を一瞥し、興味のなさそうな乾いた声でそう言った。よく見ると彼は制服姿だ。
僕と唯花が彼に対して挨拶を返すも、彼は一瞬たりとも悠那ちゃんの髪を研ぐ行為に休みを入れない。幸せそうに彼女の髪に触れ、手先からは目一杯の愛おしさが零れる。そうやって、十分に長い髪の毛先まで丹念に世話をすると、最後に両手でさっと整えながら尋ねた。
「じゃあ悠那、今日はどうする? ポニーテールにする? それとも三つ編み?」
さきほどの僕らへの挨拶とは、雲泥の差があろうかというほどの、穏やかな声。
「うーん、そうだね~。難しくしなくていいから、軽くふわっと結ってくれる?」
「うん、わかった。それならゴムはやめて、リボンにしようね、悠那」
「うんと可愛くしてね!」
「悠那は、どんな髪型でも可愛いよ。任せて」
思わず目を逸らしてしまいそうな甘々なやり取りだ。見ていて僕はひどい疎外感を味わう。もちろん実際のところ、今の僕らはお邪魔虫以外の何者でもないのだけれど……。
唯花はどうだか知らないが、少なくとも僕は、こんな空気に免疫はなかった。この二人の逢瀬の妨害は、もう本当に、気まずい。気まずい。気まずすぎる。特に悠斗くんのあの視線をもらってしまうと、僕に立つ瀬などあろうはずもなく……悠那ちゃんの髪が結い上がるのを、呼吸すら止めて待っていたほどだ。
「はい、できたよ。ゆったり結び」
やがて悠斗くんは慣れた手つきで丁寧に髪をまとめ、動作の拍子に解けない程度の軽い結び方を仕上げてみせる。難しくしないと言っていたが、僕からすれば随分と凝った結び方に思えたものだった。
「いつもありがとう。すごく気持ち良かったよ。悠斗は、理容師さんの才能があるかもね」
「だとしても、悠那の髪以外は触りたくないから、それはいいや」
整った髪の悠那ちゃんは、それはそれは可愛らしかった。女の子って、髪型一つで変わるものだ。よく唯花がお洒落で服装や髪型を変えて遊んでいるから、そういった変化には慣れているつもりだったけれど、それでも驚く。ふわっとした清楚な髪型になった悠那ちゃんは、とても年下とは思えないほど淑やかで大人っぽくて、どこかの令嬢のような雰囲気を放った。
「悠那ちゃん、それ、とっても可愛わ~。私ももっと髪が伸びたら、やってみようかしら」
「本当に、よく似合うね。悠斗くんのコーディネートの賜物かな」
悠那ちゃんは頬を染めて「えへへ」とはにかんでいた。
けれどもそんな風に僕らが会話に加わると、悠斗くんの方は微妙に曇った表情になって、面倒そうに口を開く。
「悠那はどんな格好でも似合うんだよ。それより、俺はもう今日は戻るから。さよなら」
脇に置いてある鞄を持ち、スタスタと出口まで歩いていく。扉の前までいくと、最後にこう言って。
「悠那、またくるよ。あれ、確かに渡したからね」
僕らに問い掛ける隙も与えず、彼は去っていった。
僕たちは数秒の間、その去ったあとに閉ざされた扉を見ていたが、やがて悠那ちゃんが口を開く。
「あの、ごめんね。悠斗が帰ったのは、お兄さんたちのせいじゃないから。怒らないであげて」
心配そうに、苦笑いで悠斗くんを庇う。
「いや、僕たちこそ邪魔だったかな。謝るよ」
「そんなことないよ。そもそも今日は平日で、悠斗はここにはこられないはずなんだから。今日、悠斗はね、夏期講習をすっぽかしてきたんだよ」
なるほど、そういうことだったのか。ならば確かに、この時間に訪れる僕らと鉢合わせたことにも頷ける。こ
「学校が終わる時間には帰らないと、桂兄にばれて、怒られちゃうかもしれないでしょう。だからだよ」
きっと、朝に家を出て、学校へ行くふりをしながら、その足でこの病院にきていたのだろう。だから彼は制服を着ていて、わざわざ鞄を持っていたのもそのためだ。
「悠斗くんは、よくこうして、ここへきているのかしら?」
唯花も彼の態度を気にしている様子はなかった。ただその行動を気にかけているがゆえの質問だろう。
「ううん、違うよ。最近では珍しい方かな。前に一時期、頻繁に学校を休んでここへきていたことはあったけど……それが桂兄に知れたときは、色々言われていたみたい」
「そう。それが今日は、またどうして?」
「家でね、こんなものを見つけたみたいなの。一日も早く、届けたかったんじゃないかな」
唯花の問いかけに対し、悠那ちゃんは嫌な顔一つせずに答えてくれる。傍の引き出しから、錆び付いた小さなペアリングを取り出した。
それはいわゆる、シルバーアクセサリというやつだ。おそらく、元は鮮やかな銀の光沢を放っていたのであろうが、しかし今悠那ちゃんの手のひらに収まるそれは、特有の黒い煤を纏った哀れな姿をしていた。
彼女は目を細め、まつげを落とし、優しげな笑みを浮かべて囁く。手のひらの上にある銀の輪に、遠い昔を見るようにして。
「これは私たちの、思い出の指輪。エンゲージリングだから」
二つ一組の小さなリングは、彼女の片手の上でわずかに重なり、そっと揺れるたびにしゃらしゃらと鳴った。耳をつくその淡い音は、彼女にとって心地良いものだったのだろう。口元を綻ばせながら、穏やかな表情で話し続けた。
「でもこれ、もう小さ過ぎて、ダメなんだ。左手の薬指には、もう入らないの。はまらないエンゲージリングなんて、皮肉だよね。大きくなったら、幼い日の幻想には、もう縋っちゃいけないんだって」
その追憶の彼方は、いったいいつのことなのだろう。きっと、まだ恋人の意味すら知らない時代のことだ。遠い遠い昔の約束を、悠那ちゃんは思い起こして語っている。
過去の二人はその指輪に、どんな風にして願ったのだろう。祈ったのだろう。望んだのだろう。
「あ、あのさ。悠那ちゃんはもしかして、悠斗くんと……えっと、結婚とか、したいと思ったりするの……?」
だがそれは、聞くまでもなかった質問だ。僕の方が、口にしただけ野暮だったのかもしれないと思ったほどに。
躊躇いながら尋ねた僕への返答は、まるで当たり前でしょうとでも言いたげな、そんな意味を含む冗談めいた悠那ちゃんの笑い声。
「ふふっ、どうかなー。でもね、間違いなく悠斗はそう思ってるよ。小さい頃の、ままごとみたいな約束を、今もずっと信じてる。これっぽっちも、疑ってなんかいない。私には分かる」
輝くような笑顔だった。真に無邪気で、無垢そのもののような。
そして彼女の言うことは、間違いなく事実だろう。面識の浅い僕ですらわかる。悠斗くんは、幼き日にしたという悠那ちゃんとの結婚の約束を、幼いが故の戯言などとは思っていない。何よりも堅い誓いとして信じている。今日、朝から真っ先に例のリングを届けにきたことが、その想像に確かな裏付けを与える。
「もちろん、悠斗も私も、それが不可能なことだってのは、わかってる。いけないことだって、知ってるよ。頭では理解してるんだ、そんなこと。私たちは双子で、家族で……だから結婚はできない。だから、この世界で、私と悠斗が一緒になることはないよ。法も世間もそれを許さない。運命だって、許してなんてくれない。どうしたって、離れ離れだよ」
そう、確かに、この現実において二人が一緒になることは難しい。そして、一緒になれないことを離れ離れだとするならば、悠那ちゃんの言うことは正しいのだろう。言葉通り、彼女はちゃんとわかっている。
でも淡々と語る口調には、その現実に対する不満も、非難も、絶望も含まれてはいなかった。
「わかっているのに、じゃあどうして……」
僕にはその微笑む顔が、その意図がわからない。感覚が、理解できない。
「わかっていても、我慢できない、抑えられない。どうにもできない。そんな気持ちなんだよ。理性じゃ説明しきれないの。私たちは、互いを諦めきれないの」
悠那ちゃんの言葉は、僕の頭の中で消化不良の残留物として積み重なった。僕は彼女の声を聞き、それを記憶してはいるものの、そこからは何一つとして読み取ることができないのだ。
諦めきれないと言う彼女。それなのに、全てを悟ったような表情をする彼女。
いったい、何を考えているのだろう。
「だから二人で、ここじゃない場所に、いくことにしたんだ。私と悠斗が、一緒になれる場所。幸せになれる場所。すごく、楽しみだよ」
形の良い綺麗な唇から、白く光る歯をちらりと見せ、彼女は嬉しそうに微笑んだ。幸せそうに目を細めて、穏やかに温かく。
ここでない場所にいくこと。この世界を出ていくということ。それは、とてもではないが、あんな喜悦に満ちた表情で語ることとは思えないのに。
「つまり……この世界での生を、諦めるってこと……?」
僕の問いに、彼女は流暢な言葉遣いで答える。
「諦めるのとは、少し違う。私がもうじきいかなければならないところへ、悠斗も一緒に連れていくだけ。あの子がそれを望み、私がそれを受け入れたから。あの子がそれを願い、私がそれを叶えるから」
窓から差す陽光は、次第に横薙ぎになっていた。わずかに朱の色を帯び始め、室内の光と影の部分を明確に分ける。その明暗は、悠那ちゃんの表情の上でもコントラストを奏で、目元を隠し、口元だけを露わにした。
彼女は笑う。ただ、笑う。笑い続ける。でもきっと、その感情は、喜悦ではない。
そこから僕に伝わってくる感情は、心は……溢れるほどの“何か”だった。僕には理解できない“何か”。僕が生きて得た知識には、一切該当しない“何か”。もう喜悦を通り越してしまって、まったく別の想いになっている。
そしてその得体の知れない想いに対しては、戸惑う僕に代わって唯花が、至極直線的な返答をするのだった。
「駄目よ。そんなの駄目。死ぬことを考えるなんて、いけないわ。良くないことよ。それは何の解決にもならない。あなたは生きることを、考えるべきだわ」
真剣な眼差しだった。唯花はいつになく、深く低い声で言葉を紡ぐ。入室の際におどけていた彼女はもう、そこにはいなかった。
しかし相も変わらず悠那ちゃんは、異常なほどに穏やかに話す。
「ううん、生きているうちしか、死ぬときのことは考えられない。お姉さん、これは大事なことなんだよ。そのときがくるまでに、決めておかなければならないの」
「違うわ、悠那ちゃん。あなたを助けようとしている人間が、あなたに生きてほしいと願っている人間が、あなたの周りにいっぱいいるでしょう。悠斗くんだって、本当はあなたと一緒に死んでしまうより、生きていたいと思うはずよ。連れていくなんて間違ってる。それは、あなたたちがこの世界で一緒になることよりも、禁忌に近しい行為なのよ」
「ふふっ。うん……それは、そうかもしれないね。でもさ、お姉さんたちは、悠斗がどんなに私のことを好いているか、知っている? ちょっと想像してみてよ。もし私が死んで、悠斗だけが残されたら……あの子だけが、この世界で一人、生きることになったら」
悠那ちゃんは微笑みを崩さず、首をかしげて僕らに問う。さらにほどなくして先を語った。
「私が死んでしまったら、あの子がどんなに求めても、そのとき私はもういない。この世界のどこにもいない。悠斗と同じ世界にはね。大海の真ん中で、あの子が縋ってきた藁のような私は、もう消えてなくなってしまっているの。そうなったら、誰があの子を救ってあげるの? 誰が、あの子を癒してあげるの? 慰めてあげるの? そんなことになったら、きっと悠斗は壊れちゃうよ。おかしくなっちゃう。絶望の海に沈んじゃう。なんて可哀想。可哀想すぎて、とても見ていられない。ずっとずっと昔からあの子は、私が触れてあげなきゃ、撫でてあげなきゃ、抱いてあげなきゃ……ダメなんだから。そうしないと、喋らない、動かない。まるで、そう……心のない、人形になっちゃう」
期待でいっぱいの彼女の笑み。悠斗くんを想いながら、幸福そうに話す声音。澄んだ真っさらな瞳。
冗談とは到底思えない。このままの調子でその時がこれば、より禁忌に近しい行為を、躊躇なく実際に行うだろう。
僕は、その狂おしいほどに純真で無垢な白い笑顔が、ただひたすらに怖かった。怖くて怖くて、たまらなかった。
ああ、文字通り、狂っている。
殺すほどに愛しい。死に引きずり込むほどに離れ難い。深く深く、どこまでも大切。そんな想いを、人間が他人に抱くことなんて、あるのだろうか。想像を絶する悲哀と情愛が、そんな想いを生んだのだろうか。
「いいえ、あなたは死なない。二度とそんなことを口にしないで。それに、もし仮に、たとえそんなことになったとしても、悠斗くんは、大丈夫よ。一人の悲しみを、彼はこの世界で乗り越える。そういう風に生きていく。そうしなければいけないの」
しかし唯花は、頑なに死をほのめかす悠那ちゃんの言葉を否定する。強い語調で諭すように、悠那ちゃんを正視して。
「そう……随分と、辛いことを悠斗に課すんだね。でもそれはね、多分無理だよ。あの子はこの先、死ぬまで私を忘れられない。大好きな私といられないことに、あの子は絶対に耐えられない」
「大丈夫よ。生きていれば、生きてさえいれば、どんな傷だって必ず癒えるわ。彼がこの先に生きる時間が、彼を救う。時間が全てを解決する。私はそれを知っている」
「ううん。一人で生きれば生きるだけ、悠斗の悲しみは続くんだよ。悠斗はずっと、私だけ。私の虜。それはこの先も絶対、変わらない。目覚めるたび、新しい朝を迎えるたび、あの子は私だけのものになる。どんどん私だけしか、見えなくなっていくの。昨日より今日、今日より明日、そしてこれからもずっと、永遠にね」
「聞き分けがないわね。ええ、確かに、悠斗くんはあなたを好いているでしょう。ぞっこんでしょうね。でもだったら、なおさらあなたは彼のために、この世界に留まろうとするべきじゃないの? この世界で、あなたたち二人は、めいっぱい好き合えばいい。私はそれを、頭ごなしに否定したりしないわ。だからあなたは、この世界から逃げないで」
「あのね……お姉さん。どうしようもないことって、この世界にはあるんだって。仕方ないことって、あるんだって。私の身体は囁いてる、もうすぐだって。悠斗の心は叫んでる、一緒に終わりたいって。もう、どうにもならないんだよ」
いくら論を重ねても、いっこうに二人は平行線だ。
先にとうとう、唯花の方が言葉を失った。固く唇を結び、顎を引きながら悠那ちゃんを見据えたままになった。
同じ言語を話していながら、これほどまで意思疎通が成立しないことに、隣で僕は混乱を覚える。発言をしようと言葉を選びつつも、それは上手く音にならない。喉につかえた幾つもの声を、混乱と恐怖がまた奥へ通し戻してしまう。
影は光をゆっくりと埋め尽くし、気付けば室内は、ほとんどが闇の包む空間となっていた。シンとして止まった時が、ますますそれを僕たちに意識させる。
「この髪……綺麗でしょう?」
傍に流れる自分の髪を、悠那ちゃんはそっと持ち上げて言った。
「いつも悠斗が手入れしてくれるの。さっきみたいに、丁寧に丁寧に、いっぱいいっぱい時間をかけてね。そのときのあの子の表情といったら……幸せそうで嬉しそうで。私のこと、愛しくて愛しくてたまらないって顔。そう、思うでしょう?」
彼女の視線は、言うと同時に僕らから外れた。向けられた先は、彼女の白い両手の上。そこにある漆黒の髪。闇に同化してなお存在がよく分かる。わずかな光沢のある黒色が、まるで鏡のように僕らの様子を映している。
「……だったら、その悠斗くんのためにも、死ぬような道を選んではいけないわ。さっきからそう言っているじゃない。考え直すべきよ。あなただって悠斗くんのこと、好きなんでしょう?」
「………………」
悠那ちゃんは答えない。
二人の会話はもう既に、ばらばらに崩されたパズルピースのようになっていた。あるべき場所に問の答えがない。問いに対して問いを重ねる。答えが答えになっていない。
「考え直すのも、今更だね。悠斗も私も、何度泣いたかわからない。私たちの今の気持ちは、そうやって何度も考えた末の結論だよ。たとえそれが最善ではなかったとしても、悠斗と私が、二人で一番に望んだことなんだ」
悠那ちゃんは唯花に告げ、同時に自分に告げているようにも見える。
「どう考えたら、そんな結論になるのか理解できないわ」
唯花はあくまで冷静だが、わずかに苦々しい声で否定を放った。ささくれ立って、心にこびりついてくるような、そんなざらついた想いを感じる。
やがて完全に言葉が途切れた。悠那ちゃんは反論をしないし、唯花も次なる発言をしなかった。体感では何十分にも感じる静寂が流れる。
これ以上続きはないと悟ったのだろう。唯花はくるりと振り返って、悠那ちゃんに背を向けた。
「……ごめんなさい。今日は、もう失礼するわね」
詞、行こう。そう言って扉に手をかけ、すぐに廊下へと消えていく。ちらりと見えた横顔は、眉を付せ、少し悲しそうな表情で何かを呟いていた。
「そう? よかったら、またきてね。いつでも、待ってるから。お兄さんも、ね」
悠那ちゃんは去っていく唯花と、そして僕に、穏やかな別れの挨拶をした。唯花の代わりに僕が答える。
「……うん、またくるよ。必ず。それまでに、君の言ったことを、少し考えておく。それが正しいのか、間違っているのか。君がどんなことを、思っているのか」
唯花と悠那ちゃんの会話の端で、僕はずっとそんなことを考えていた。恐怖と狂気を感じながらも、頭に流れ込んでくる疑問があったのだ。死を否定する唯花。死を受け入れようとする悠那ちゃん。いったい、どちらが正しいのか。
本当は、こんな疑問に正解はない。そして意味も、きっとない。わかっている。それでも僕は、無意味だと思えてなお、考えざるを得なかった。思考を止めることができなかった。なぜだろう。それを考えることが、僕が今ここにいる理由だと、思えてならなかったのだ。
「そっか、わかった。うん、楽しみにしてるよ。素敵な答えを――」
悠那ちゃんは、笑うととても可愛らしい。そして華やかな声を持つ。でも今日は、その笑顔が同時に恐ろしくもあることを知った。その声が、まるで濃厚な毒のように甘すぎるものだと知った。
見るたびに、聞くたびに、背筋が張り詰めてぞくぞくする。魂を引き抜かれるみたいな、抗えない浮遊感と危機感がある。魅入って飲み込まれてしまったら、きっともう戻ることはできないだろう。
だから僕は、できる限り平静を装い、内心では怯えながら、悠那ちゃんの病室をあとにするのだった。先に行ってしまった唯花を追うために、当惑する頭を凍ったように止めて、静かにゆっくりと足を動かす。
彼女と本気で話し合おうとするならば、唯花はともかく、僕にはまだ覚悟が足りない。心の準備が足りなかった。
悠那ちゃんは、そして悠斗くんは、言っていた通り本当に、長い時間をかけて真剣に悩んだのだろう。喉が擦り切れそうになるほど喘ぎ、胸が潰れそうになるほどに苦しんだのだろう。そうしてやっとのことで一つの結論にたどり着いたのだ。
でも、このままではいけない。唯花は二人を死なせまいと思っている。それに悠斗くんの遺失だって、解決しなければならないのだから。
もしそのために、二人の結論を否定しなければならないのなら、変えなければならないのなら、きっと同じように、僕らは真剣な覚悟をもって考えなければならないだろう。二人の苦悩を知り、愛を知り、そうして初めて、僕らの言葉は届くようになる。そうしなければ、二人にとって僕らの言葉は、どこまでも他人の綺麗事と変わらない。
きっと僕は答えを出さなければならないのだ。
そんな貴重な時間を使って、僕は今日も唯花と見舞いにやってくる。悠斗くんや悠那ちゃんの問題を解決するには、僕らの方から積極的に二人に関わっていかなければならない。でも、それも別段、悪いとも面倒だとも感じてはいなかった。僕の貴重な時間が、唯花や悠那ちゃん、そして悠斗くんのために消費されていくのなら全然、文句なんてありはしない。一人でいてもどうぜ僕は、無為に過ごしてしまうのだろうから。
こんな風に考えながら、見舞いも既に何度目かになる。唯花と二人で行くこともあったし、僕一人で行くこともあった。悠那ちゃんにせがまれて、連日で訪れたこともあるくらいだった。だからもう、複雑だった彼女の個室への道も、とっくに頭に入っている。
ただ、この日に至っては、少々予想に反した展開が僕らを待っていた。そのためにか、僕らは今、個室の前で二人して聞き耳を立てている。初めてここへきたときに、桂祐くんに促されてしたように。
「唯花……どうしよう。入り辛いよ」
「おかしいわねぇ。今日は平日のはずなのに、こんな時間から悠斗くんがいるなんて」
室内からは、記憶に刻みついた、あの甘い囁きが聞こえる。
時刻は午後二時。夏休みではあっても、中学三年である受験生の悠斗くんは学校で夏期講習を受けているはずの時間だった。
そんな彼が、どういうわけか異常に早い時間から悠那ちゃんに会いにきている。
「今入ったら、多分悠斗くんは嫌がるだろうなぁ」
初対面の日の、少し影のかかった彼のしかめっ面が、僕の脳裏には浮かんでいた。いくらこちらが見舞客だとはいえ、わかっていてそんな顔をさせるのは、何だかちょっと申し訳ない。
「そうでしょうけど、でもこれはむしろ、私たちには好都合かもしれないわ。悠斗くんと話せる機会は、あまりないと思うから」
まあ、それはそれで正論だ。
遺失をしているのは悠斗くんの方だと、以前に唯花は言っていた。つまり、僕らの仕事のターゲットは、悠那ちゃんよりもどちらかと言えば悠斗くんの方。好都合というのは、そういう意味を含めてのことだろう。
だからといって、やっぱりあの二人の間に入るのは……うーん……どうにも気が進まないというか、後ろめたいというか……怖いというか。
「こうしていても仕方がないわね。さて、じゃあいくわよ」
それでも唯花は、未だに戸惑いを見せる僕に一言放って、悠那ちゃんの個室の扉をノックした。コンコン、と軽く二回。そのあとに、中へと踏み込みながら挨拶をする。
「悠那ちゃんこんにちは~! またきちゃった~!」
出会い頭の明るい挨拶は、唯花なりの社交スタイルなのだろうか。その素早い行動に僕は少々遅れを取りながら、慌ててあとに続こうとする。タイミングを見失わないうちに、室内に入って笑顔を作る。こんにちは、悠那ちゃん。そう言って笑う。
すると、期待した通りの快活な彼女の声が返ってくる。
「お姉さん! それにお兄さんも! いらっしゃいー」
最初に僕の目に飛び込んできたのは、悠那ちゃんの後ろ姿だった。清流のように光る黒い長髪が、注意を引惹きつけてやまない。どこまでも癖のない真っ直ぐなその髪が、綺麗にまとまってベッドの上にせせらいでいた。
「ごめんねー。もうすぐこれ終わるから、少し待って。悠斗もほら、二人に挨拶しなさい」
普段は結われている悠那ちゃんの黒髪が今はほどかれて、悠斗くんがその手入れをしていたのだ。左手でそっと持ち上げ、右手の櫛で優しく研ぐ。ゆっくりと丁寧に、繰り返し繰り返し。
その途中に、僕らは入室してしまったようだった。
「……こんにちは」
悠斗くんは、横目で僕と唯花を一瞥し、興味のなさそうな乾いた声でそう言った。よく見ると彼は制服姿だ。
僕と唯花が彼に対して挨拶を返すも、彼は一瞬たりとも悠那ちゃんの髪を研ぐ行為に休みを入れない。幸せそうに彼女の髪に触れ、手先からは目一杯の愛おしさが零れる。そうやって、十分に長い髪の毛先まで丹念に世話をすると、最後に両手でさっと整えながら尋ねた。
「じゃあ悠那、今日はどうする? ポニーテールにする? それとも三つ編み?」
さきほどの僕らへの挨拶とは、雲泥の差があろうかというほどの、穏やかな声。
「うーん、そうだね~。難しくしなくていいから、軽くふわっと結ってくれる?」
「うん、わかった。それならゴムはやめて、リボンにしようね、悠那」
「うんと可愛くしてね!」
「悠那は、どんな髪型でも可愛いよ。任せて」
思わず目を逸らしてしまいそうな甘々なやり取りだ。見ていて僕はひどい疎外感を味わう。もちろん実際のところ、今の僕らはお邪魔虫以外の何者でもないのだけれど……。
唯花はどうだか知らないが、少なくとも僕は、こんな空気に免疫はなかった。この二人の逢瀬の妨害は、もう本当に、気まずい。気まずい。気まずすぎる。特に悠斗くんのあの視線をもらってしまうと、僕に立つ瀬などあろうはずもなく……悠那ちゃんの髪が結い上がるのを、呼吸すら止めて待っていたほどだ。
「はい、できたよ。ゆったり結び」
やがて悠斗くんは慣れた手つきで丁寧に髪をまとめ、動作の拍子に解けない程度の軽い結び方を仕上げてみせる。難しくしないと言っていたが、僕からすれば随分と凝った結び方に思えたものだった。
「いつもありがとう。すごく気持ち良かったよ。悠斗は、理容師さんの才能があるかもね」
「だとしても、悠那の髪以外は触りたくないから、それはいいや」
整った髪の悠那ちゃんは、それはそれは可愛らしかった。女の子って、髪型一つで変わるものだ。よく唯花がお洒落で服装や髪型を変えて遊んでいるから、そういった変化には慣れているつもりだったけれど、それでも驚く。ふわっとした清楚な髪型になった悠那ちゃんは、とても年下とは思えないほど淑やかで大人っぽくて、どこかの令嬢のような雰囲気を放った。
「悠那ちゃん、それ、とっても可愛わ~。私ももっと髪が伸びたら、やってみようかしら」
「本当に、よく似合うね。悠斗くんのコーディネートの賜物かな」
悠那ちゃんは頬を染めて「えへへ」とはにかんでいた。
けれどもそんな風に僕らが会話に加わると、悠斗くんの方は微妙に曇った表情になって、面倒そうに口を開く。
「悠那はどんな格好でも似合うんだよ。それより、俺はもう今日は戻るから。さよなら」
脇に置いてある鞄を持ち、スタスタと出口まで歩いていく。扉の前までいくと、最後にこう言って。
「悠那、またくるよ。あれ、確かに渡したからね」
僕らに問い掛ける隙も与えず、彼は去っていった。
僕たちは数秒の間、その去ったあとに閉ざされた扉を見ていたが、やがて悠那ちゃんが口を開く。
「あの、ごめんね。悠斗が帰ったのは、お兄さんたちのせいじゃないから。怒らないであげて」
心配そうに、苦笑いで悠斗くんを庇う。
「いや、僕たちこそ邪魔だったかな。謝るよ」
「そんなことないよ。そもそも今日は平日で、悠斗はここにはこられないはずなんだから。今日、悠斗はね、夏期講習をすっぽかしてきたんだよ」
なるほど、そういうことだったのか。ならば確かに、この時間に訪れる僕らと鉢合わせたことにも頷ける。こ
「学校が終わる時間には帰らないと、桂兄にばれて、怒られちゃうかもしれないでしょう。だからだよ」
きっと、朝に家を出て、学校へ行くふりをしながら、その足でこの病院にきていたのだろう。だから彼は制服を着ていて、わざわざ鞄を持っていたのもそのためだ。
「悠斗くんは、よくこうして、ここへきているのかしら?」
唯花も彼の態度を気にしている様子はなかった。ただその行動を気にかけているがゆえの質問だろう。
「ううん、違うよ。最近では珍しい方かな。前に一時期、頻繁に学校を休んでここへきていたことはあったけど……それが桂兄に知れたときは、色々言われていたみたい」
「そう。それが今日は、またどうして?」
「家でね、こんなものを見つけたみたいなの。一日も早く、届けたかったんじゃないかな」
唯花の問いかけに対し、悠那ちゃんは嫌な顔一つせずに答えてくれる。傍の引き出しから、錆び付いた小さなペアリングを取り出した。
それはいわゆる、シルバーアクセサリというやつだ。おそらく、元は鮮やかな銀の光沢を放っていたのであろうが、しかし今悠那ちゃんの手のひらに収まるそれは、特有の黒い煤を纏った哀れな姿をしていた。
彼女は目を細め、まつげを落とし、優しげな笑みを浮かべて囁く。手のひらの上にある銀の輪に、遠い昔を見るようにして。
「これは私たちの、思い出の指輪。エンゲージリングだから」
二つ一組の小さなリングは、彼女の片手の上でわずかに重なり、そっと揺れるたびにしゃらしゃらと鳴った。耳をつくその淡い音は、彼女にとって心地良いものだったのだろう。口元を綻ばせながら、穏やかな表情で話し続けた。
「でもこれ、もう小さ過ぎて、ダメなんだ。左手の薬指には、もう入らないの。はまらないエンゲージリングなんて、皮肉だよね。大きくなったら、幼い日の幻想には、もう縋っちゃいけないんだって」
その追憶の彼方は、いったいいつのことなのだろう。きっと、まだ恋人の意味すら知らない時代のことだ。遠い遠い昔の約束を、悠那ちゃんは思い起こして語っている。
過去の二人はその指輪に、どんな風にして願ったのだろう。祈ったのだろう。望んだのだろう。
「あ、あのさ。悠那ちゃんはもしかして、悠斗くんと……えっと、結婚とか、したいと思ったりするの……?」
だがそれは、聞くまでもなかった質問だ。僕の方が、口にしただけ野暮だったのかもしれないと思ったほどに。
躊躇いながら尋ねた僕への返答は、まるで当たり前でしょうとでも言いたげな、そんな意味を含む冗談めいた悠那ちゃんの笑い声。
「ふふっ、どうかなー。でもね、間違いなく悠斗はそう思ってるよ。小さい頃の、ままごとみたいな約束を、今もずっと信じてる。これっぽっちも、疑ってなんかいない。私には分かる」
輝くような笑顔だった。真に無邪気で、無垢そのもののような。
そして彼女の言うことは、間違いなく事実だろう。面識の浅い僕ですらわかる。悠斗くんは、幼き日にしたという悠那ちゃんとの結婚の約束を、幼いが故の戯言などとは思っていない。何よりも堅い誓いとして信じている。今日、朝から真っ先に例のリングを届けにきたことが、その想像に確かな裏付けを与える。
「もちろん、悠斗も私も、それが不可能なことだってのは、わかってる。いけないことだって、知ってるよ。頭では理解してるんだ、そんなこと。私たちは双子で、家族で……だから結婚はできない。だから、この世界で、私と悠斗が一緒になることはないよ。法も世間もそれを許さない。運命だって、許してなんてくれない。どうしたって、離れ離れだよ」
そう、確かに、この現実において二人が一緒になることは難しい。そして、一緒になれないことを離れ離れだとするならば、悠那ちゃんの言うことは正しいのだろう。言葉通り、彼女はちゃんとわかっている。
でも淡々と語る口調には、その現実に対する不満も、非難も、絶望も含まれてはいなかった。
「わかっているのに、じゃあどうして……」
僕にはその微笑む顔が、その意図がわからない。感覚が、理解できない。
「わかっていても、我慢できない、抑えられない。どうにもできない。そんな気持ちなんだよ。理性じゃ説明しきれないの。私たちは、互いを諦めきれないの」
悠那ちゃんの言葉は、僕の頭の中で消化不良の残留物として積み重なった。僕は彼女の声を聞き、それを記憶してはいるものの、そこからは何一つとして読み取ることができないのだ。
諦めきれないと言う彼女。それなのに、全てを悟ったような表情をする彼女。
いったい、何を考えているのだろう。
「だから二人で、ここじゃない場所に、いくことにしたんだ。私と悠斗が、一緒になれる場所。幸せになれる場所。すごく、楽しみだよ」
形の良い綺麗な唇から、白く光る歯をちらりと見せ、彼女は嬉しそうに微笑んだ。幸せそうに目を細めて、穏やかに温かく。
ここでない場所にいくこと。この世界を出ていくということ。それは、とてもではないが、あんな喜悦に満ちた表情で語ることとは思えないのに。
「つまり……この世界での生を、諦めるってこと……?」
僕の問いに、彼女は流暢な言葉遣いで答える。
「諦めるのとは、少し違う。私がもうじきいかなければならないところへ、悠斗も一緒に連れていくだけ。あの子がそれを望み、私がそれを受け入れたから。あの子がそれを願い、私がそれを叶えるから」
窓から差す陽光は、次第に横薙ぎになっていた。わずかに朱の色を帯び始め、室内の光と影の部分を明確に分ける。その明暗は、悠那ちゃんの表情の上でもコントラストを奏で、目元を隠し、口元だけを露わにした。
彼女は笑う。ただ、笑う。笑い続ける。でもきっと、その感情は、喜悦ではない。
そこから僕に伝わってくる感情は、心は……溢れるほどの“何か”だった。僕には理解できない“何か”。僕が生きて得た知識には、一切該当しない“何か”。もう喜悦を通り越してしまって、まったく別の想いになっている。
そしてその得体の知れない想いに対しては、戸惑う僕に代わって唯花が、至極直線的な返答をするのだった。
「駄目よ。そんなの駄目。死ぬことを考えるなんて、いけないわ。良くないことよ。それは何の解決にもならない。あなたは生きることを、考えるべきだわ」
真剣な眼差しだった。唯花はいつになく、深く低い声で言葉を紡ぐ。入室の際におどけていた彼女はもう、そこにはいなかった。
しかし相も変わらず悠那ちゃんは、異常なほどに穏やかに話す。
「ううん、生きているうちしか、死ぬときのことは考えられない。お姉さん、これは大事なことなんだよ。そのときがくるまでに、決めておかなければならないの」
「違うわ、悠那ちゃん。あなたを助けようとしている人間が、あなたに生きてほしいと願っている人間が、あなたの周りにいっぱいいるでしょう。悠斗くんだって、本当はあなたと一緒に死んでしまうより、生きていたいと思うはずよ。連れていくなんて間違ってる。それは、あなたたちがこの世界で一緒になることよりも、禁忌に近しい行為なのよ」
「ふふっ。うん……それは、そうかもしれないね。でもさ、お姉さんたちは、悠斗がどんなに私のことを好いているか、知っている? ちょっと想像してみてよ。もし私が死んで、悠斗だけが残されたら……あの子だけが、この世界で一人、生きることになったら」
悠那ちゃんは微笑みを崩さず、首をかしげて僕らに問う。さらにほどなくして先を語った。
「私が死んでしまったら、あの子がどんなに求めても、そのとき私はもういない。この世界のどこにもいない。悠斗と同じ世界にはね。大海の真ん中で、あの子が縋ってきた藁のような私は、もう消えてなくなってしまっているの。そうなったら、誰があの子を救ってあげるの? 誰が、あの子を癒してあげるの? 慰めてあげるの? そんなことになったら、きっと悠斗は壊れちゃうよ。おかしくなっちゃう。絶望の海に沈んじゃう。なんて可哀想。可哀想すぎて、とても見ていられない。ずっとずっと昔からあの子は、私が触れてあげなきゃ、撫でてあげなきゃ、抱いてあげなきゃ……ダメなんだから。そうしないと、喋らない、動かない。まるで、そう……心のない、人形になっちゃう」
期待でいっぱいの彼女の笑み。悠斗くんを想いながら、幸福そうに話す声音。澄んだ真っさらな瞳。
冗談とは到底思えない。このままの調子でその時がこれば、より禁忌に近しい行為を、躊躇なく実際に行うだろう。
僕は、その狂おしいほどに純真で無垢な白い笑顔が、ただひたすらに怖かった。怖くて怖くて、たまらなかった。
ああ、文字通り、狂っている。
殺すほどに愛しい。死に引きずり込むほどに離れ難い。深く深く、どこまでも大切。そんな想いを、人間が他人に抱くことなんて、あるのだろうか。想像を絶する悲哀と情愛が、そんな想いを生んだのだろうか。
「いいえ、あなたは死なない。二度とそんなことを口にしないで。それに、もし仮に、たとえそんなことになったとしても、悠斗くんは、大丈夫よ。一人の悲しみを、彼はこの世界で乗り越える。そういう風に生きていく。そうしなければいけないの」
しかし唯花は、頑なに死をほのめかす悠那ちゃんの言葉を否定する。強い語調で諭すように、悠那ちゃんを正視して。
「そう……随分と、辛いことを悠斗に課すんだね。でもそれはね、多分無理だよ。あの子はこの先、死ぬまで私を忘れられない。大好きな私といられないことに、あの子は絶対に耐えられない」
「大丈夫よ。生きていれば、生きてさえいれば、どんな傷だって必ず癒えるわ。彼がこの先に生きる時間が、彼を救う。時間が全てを解決する。私はそれを知っている」
「ううん。一人で生きれば生きるだけ、悠斗の悲しみは続くんだよ。悠斗はずっと、私だけ。私の虜。それはこの先も絶対、変わらない。目覚めるたび、新しい朝を迎えるたび、あの子は私だけのものになる。どんどん私だけしか、見えなくなっていくの。昨日より今日、今日より明日、そしてこれからもずっと、永遠にね」
「聞き分けがないわね。ええ、確かに、悠斗くんはあなたを好いているでしょう。ぞっこんでしょうね。でもだったら、なおさらあなたは彼のために、この世界に留まろうとするべきじゃないの? この世界で、あなたたち二人は、めいっぱい好き合えばいい。私はそれを、頭ごなしに否定したりしないわ。だからあなたは、この世界から逃げないで」
「あのね……お姉さん。どうしようもないことって、この世界にはあるんだって。仕方ないことって、あるんだって。私の身体は囁いてる、もうすぐだって。悠斗の心は叫んでる、一緒に終わりたいって。もう、どうにもならないんだよ」
いくら論を重ねても、いっこうに二人は平行線だ。
先にとうとう、唯花の方が言葉を失った。固く唇を結び、顎を引きながら悠那ちゃんを見据えたままになった。
同じ言語を話していながら、これほどまで意思疎通が成立しないことに、隣で僕は混乱を覚える。発言をしようと言葉を選びつつも、それは上手く音にならない。喉につかえた幾つもの声を、混乱と恐怖がまた奥へ通し戻してしまう。
影は光をゆっくりと埋め尽くし、気付けば室内は、ほとんどが闇の包む空間となっていた。シンとして止まった時が、ますますそれを僕たちに意識させる。
「この髪……綺麗でしょう?」
傍に流れる自分の髪を、悠那ちゃんはそっと持ち上げて言った。
「いつも悠斗が手入れしてくれるの。さっきみたいに、丁寧に丁寧に、いっぱいいっぱい時間をかけてね。そのときのあの子の表情といったら……幸せそうで嬉しそうで。私のこと、愛しくて愛しくてたまらないって顔。そう、思うでしょう?」
彼女の視線は、言うと同時に僕らから外れた。向けられた先は、彼女の白い両手の上。そこにある漆黒の髪。闇に同化してなお存在がよく分かる。わずかな光沢のある黒色が、まるで鏡のように僕らの様子を映している。
「……だったら、その悠斗くんのためにも、死ぬような道を選んではいけないわ。さっきからそう言っているじゃない。考え直すべきよ。あなただって悠斗くんのこと、好きなんでしょう?」
「………………」
悠那ちゃんは答えない。
二人の会話はもう既に、ばらばらに崩されたパズルピースのようになっていた。あるべき場所に問の答えがない。問いに対して問いを重ねる。答えが答えになっていない。
「考え直すのも、今更だね。悠斗も私も、何度泣いたかわからない。私たちの今の気持ちは、そうやって何度も考えた末の結論だよ。たとえそれが最善ではなかったとしても、悠斗と私が、二人で一番に望んだことなんだ」
悠那ちゃんは唯花に告げ、同時に自分に告げているようにも見える。
「どう考えたら、そんな結論になるのか理解できないわ」
唯花はあくまで冷静だが、わずかに苦々しい声で否定を放った。ささくれ立って、心にこびりついてくるような、そんなざらついた想いを感じる。
やがて完全に言葉が途切れた。悠那ちゃんは反論をしないし、唯花も次なる発言をしなかった。体感では何十分にも感じる静寂が流れる。
これ以上続きはないと悟ったのだろう。唯花はくるりと振り返って、悠那ちゃんに背を向けた。
「……ごめんなさい。今日は、もう失礼するわね」
詞、行こう。そう言って扉に手をかけ、すぐに廊下へと消えていく。ちらりと見えた横顔は、眉を付せ、少し悲しそうな表情で何かを呟いていた。
「そう? よかったら、またきてね。いつでも、待ってるから。お兄さんも、ね」
悠那ちゃんは去っていく唯花と、そして僕に、穏やかな別れの挨拶をした。唯花の代わりに僕が答える。
「……うん、またくるよ。必ず。それまでに、君の言ったことを、少し考えておく。それが正しいのか、間違っているのか。君がどんなことを、思っているのか」
唯花と悠那ちゃんの会話の端で、僕はずっとそんなことを考えていた。恐怖と狂気を感じながらも、頭に流れ込んでくる疑問があったのだ。死を否定する唯花。死を受け入れようとする悠那ちゃん。いったい、どちらが正しいのか。
本当は、こんな疑問に正解はない。そして意味も、きっとない。わかっている。それでも僕は、無意味だと思えてなお、考えざるを得なかった。思考を止めることができなかった。なぜだろう。それを考えることが、僕が今ここにいる理由だと、思えてならなかったのだ。
「そっか、わかった。うん、楽しみにしてるよ。素敵な答えを――」
悠那ちゃんは、笑うととても可愛らしい。そして華やかな声を持つ。でも今日は、その笑顔が同時に恐ろしくもあることを知った。その声が、まるで濃厚な毒のように甘すぎるものだと知った。
見るたびに、聞くたびに、背筋が張り詰めてぞくぞくする。魂を引き抜かれるみたいな、抗えない浮遊感と危機感がある。魅入って飲み込まれてしまったら、きっともう戻ることはできないだろう。
だから僕は、できる限り平静を装い、内心では怯えながら、悠那ちゃんの病室をあとにするのだった。先に行ってしまった唯花を追うために、当惑する頭を凍ったように止めて、静かにゆっくりと足を動かす。
彼女と本気で話し合おうとするならば、唯花はともかく、僕にはまだ覚悟が足りない。心の準備が足りなかった。
悠那ちゃんは、そして悠斗くんは、言っていた通り本当に、長い時間をかけて真剣に悩んだのだろう。喉が擦り切れそうになるほど喘ぎ、胸が潰れそうになるほどに苦しんだのだろう。そうしてやっとのことで一つの結論にたどり着いたのだ。
でも、このままではいけない。唯花は二人を死なせまいと思っている。それに悠斗くんの遺失だって、解決しなければならないのだから。
もしそのために、二人の結論を否定しなければならないのなら、変えなければならないのなら、きっと同じように、僕らは真剣な覚悟をもって考えなければならないだろう。二人の苦悩を知り、愛を知り、そうして初めて、僕らの言葉は届くようになる。そうしなければ、二人にとって僕らの言葉は、どこまでも他人の綺麗事と変わらない。
きっと僕は答えを出さなければならないのだ。
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