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一章 名のない花
2 二〇二四 文月―末
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自動扉をくぐると、乾いた冷気が体を包んだ。
ここへくるのはまだ少し緊張する。学生が歩き回る区画ではないし、高そうな和傘を抱えて目的地を探した数日前の感覚が残っているのだ。
そんな記憶が脳裏をかすめる中で、活気付く喫茶店には脇目も振らず、僕は奥のエレベーターを目指した。その中から関係者用のものを選び、4Fのボタンを点灯させる。ちなみに、このビルにエレベーターは三つあるが、関係者用のエレベーターは一つだけだ。僕がわざわざそれを選んだのは、残りの客人用のものが、四階で止まらない仕様になっているからだった。
小さな箱に吊られてスムーズに四階まで辿り着く。次いで短い廊下を行き、焦げ茶色の手動扉を引いて開いた。
「あぁ唯花、やっときたか。お前に渡そうと思っていたこれを――」
静寂にガチャリと音が響くなり、姿を確認するまでもなく声がかかる。ただし、相手は僕を誰かと取り違えているようだ。
「……いや、済まない。君だったか」
「すみません、僕で」
「悪い悪い。そんなつもりはないんだよ。まだいささか、アポもなしにここを訪ねるのが、唯花くらいだという認識が消えなくてね」
机に座ったまま話すのは、ここの管理者である音瀬灯華という女性だ。
そして予想通り、唯花の姿は見られなかった。
「次からはとった方がいいですかね、アポ」
僕は少しの皮肉を交えながら、挨拶代わりの冗談を返した。
対して向こうは、爽やかなショートヘアを揺らし、かける眼鏡を持ち上げながら笑みを返す。
「意地が悪いな、君も。済まないと言ったじゃないか。是非歓迎だよ、川澄くんも」
「はは……それは、ありがとうございます」
「で、見ての通り、唯花はいないよ。残念だがね」
灯華さんは僕の方から視線を外すと、再び手元の書類の束に目を向ける。どれも同じに見えてしまう白い紙束を、彼女にだけわかる基準に従って分類しているようだった。
「いやまあ、いないとは思っていましたよ。いて欲しいときに唯花がここにいたことなんて、ほとんどないくらいですから」
以前に、だいたい事務所に居ると言っていたのはどの口だったか。だいたい居るのは灯華さんだ。
僕はソファーの傍に荷物を置き、棚に並ぶ数々のファイルの中から、ピンク色のそれを取り出した。同じファイルでも、灯華さんの扱うものとは似ても似つかない薄さに軽さ。これは唯花のものだ。とは言っても、ほとんど持ち主には触れられていない。
「あはは、そう言ってやるな。あれでも君が訪れ始めるより以前は、結構な出席率を誇っていたんだぞ」
「それはつまり、唯花が僕を避けているということでしょうか」
「まさか、むしろ逆だよ。君が世話を焼いて彼女を家まで呼びに行くものだから、癖になってしまっているのさ。君はいいパートナーだな」
愉快に笑いを零しながら、灯華さんは僕をからかった。人を食ったようなこの性格は、どうにもこうにもやりにくい。その点に関しては、唯花と似ていると思うものだ。
「…………嬉しくないです」
「顔が赤いが、空調が弱いかな?」
こうやってまた、すぐからかう。困りものだ。
「意地が悪いのは、灯華さんの方ですね」
僕はファイルに目を落としつつ、小さな声で口を尖らせた。
「はは、悪い悪い。ところで話しついでに申し訳ないのだが、用が済んだらその唯花に届け物をしてくれないか」
「本人の携帯に直接、電話をすればいいと思いますけど」
「したところでどうせ、君に届けさせるように言われると思うが?」
確かに、言えている。僕がここにきていると知ったらなおさらだろう。そしてきっと灯華さんは、そのことをわざわざ内緒になどしない。
「…………あとで、行きます」
彼女の質問には、反論どころか同意の言葉を返すまでもなく、僕はうなだれて了承した。
「助かるよ」
そうしてしばらく紙をめくる音と、ペンを走らせる音だけが耳をつく。夕方にはうるさいオフィス街も、ビル四階の隔離空間となれば関係ないものだ。そこでは互いの些細な行動が、物音だけで手に取るようにわかる。
だからだろうか、このとき灯華さんはふと、僕の手が止まった際に質問を投げかけた。
「川澄くん、学校は順調かな?」
決して気まずい空気の沈黙ではなかった。灯華さんの作業にも区切りがついたのか、それともぱたりと集中力が切れてしまったのか。質問のきっかけは、とても些細なものに思われた。
「どうしたんですか? 急に。まあ、そうですね、特に問題はないですよ。ですが……」
僕は手元のファイルを閉じつつ応答する。丁度良い、と思った。彼女の仕事の邪魔にならない今なら、今日僕がここへきた目的を果たすタイミングとしてはベストだろう。
「その……今日、学校で噂を聞きました。この街には、どんななくしものでも見つけてくれる人がいるって」
話を切り出すと、彼女は顔を上げて、少し目を見開いた。驚いた、という表現にはほど遠いが、それでも興味を引いたようだ。
「君のことじゃないか。その噂の主はなかなかの情報通だな」
「あるいは、あなたのことでしょう。いいんですか? これって、非公式のお仕事ですよね?」
そこまで話すと、彼女は僕の意図を察したらしく、しかしなぜだか軽く口の端を引き上げる。
「構わないさ。所詮噂じゃないか。仮に公に活動したって、悪いことではないんだ。ただ、ちょっとばかり多めにもらっている報酬が、減ったりすることはあるかもしれないが、ね」
「そう……ですかね……」
「まあ元は便利屋みたいなもので、長いことこの街でやっていることだしな。唯花を雇ってから探しものに仕事が偏って、説明のし辛い方向に仕事の幅が広がったのは事実だが、それにしたって別に後ろめたいことでもない。私は一向に構いやしないよ、この街風彩に我等あり、と謳っても」
微塵もそんな気はないだろうに、冗談半分に笑われても困る。だいたい、この風彩という街は決して小さい街ではない。あまり軽々と街の名前を背負うとか言わないでほしいものだ。いくら灯華さんにそれだけの社会に対する影響力があろうとも、僕はあまり目立ちたくはない。
そう。実際のところの可能性を考えれば、先の噂の対象は、ほぼ間違いなく灯華さんだ。唯花という線もないこともないが、いや……表だって動くのは唯花だから、噂の伝播の直接因子は唯花かもしれないが、それでも責任者は灯華さんだ。悠長に笑っていていいものかどうか。
ちなみに、灯華さんは僕のことだと言ったけれども、その可能性はかなり低い。僕が彼女ら二人と関わり出したのは、本当にごく最近のことだからだ。
「いや、それはちょっと……。それより何ですか? 説明のし辛いことって」
「それは、そうだな……。さっきも言った通り隠すことではないんだが、君に対しても同様に説明が難しい。心配しなくても、後々わかるさ」
「はあ……そうですか」
今のように含みのある言い方で濁す節もある。きっと僕にもわからないことは、とてもとても多いのだろう。
この通り、つまり噂の通りだが、灯華さんと唯花は仕事をしている。探し屋という仕事だ。それはいうなれば、噂の通り探しもののプロと表現するのが適切である。
ただ厄介なのは、この仕事が、裏商売というほどではないが公の商売とも言い難い絶妙な分類にあるということだ。主な理由には、回ってくる依頼の中に警察等の公的機関が手を上げて投げた仕事が含まれるという点が挙がる。彼女たちの仕事自体がばれて問題なわけではないが、だからといって何でもかんでもさらせる情報ばかりではないらしい。
内情に詳しくない僕であっても、想像する分には難しくなかった。公的機関が未解決の仕事を放り、一般市民にそれを流すというのは、色々な面で問題だろうから。信用とか、面子とか、そういったものを守る義務が、公的機関にはありそうだから。
またもちろんだが、様々なルートを通ってごく普通の依頼も回ってくる。パイプ役は灯華さんだ。こちらの場合は、お手上げとまではいかなくても、手っ取り早い解決を望んでのことだと思う。
何にしても一つはっきりと言えることは、本来ならば一介の高校生であるところの僕が関わるはずのない世界の話だということだ。唯花に出会った時点で、僕の人生がそこはかとなく曲がりくねってきている。
「もしかして君が今日ここを訪ねたのは、その噂を聞いたからか?」
「えっと……はい。いいのかな、と思って」
当然、知られない方が良いと思って僕は心配したというのに。それなのに……。
「いいさ、気にするな。心配症だな、君は」
楽観的過ぎるのもどうかと思う。心配性ならぬ楽観症なんて言葉があるのかどうかは知らないが、灯華さんも、そして唯花も、だいたいそれだ。新参者の僕が気にする必要はないと言えばそれまでだが、そのあまりのラフな対応には不安が募って仕方がない。
「さて、じゃあもしや、君の用はこれで済んだのかな? ならば唯花への用事を頼みたいのだが」
だが言ったところで所詮無駄だろう。わかっているのだ。きっと、いや、間違いなく灯華さんも唯花も、二人してどこまでも笑い飛ばし、問題視などしないのだから。心労の軽減には、杞憂だと自身に言い聞かせるしかないと思った。
僕はそうして一人で渋々納得に至ると、灯華さんの言葉にこれまた渋々と従った。ファイルを片付け、手渡しで唯花への配達物を受け取る。
「これを頼む。それから、こっちは君のだ。あとは、そうだな……最近寂しいからな、もう少し顔を見せてもバチは当たらないぞ、とでも伝えてくれ」
灯華さんは、からっと笑ってそう告げた。優しく目を細めるその表情は、まるで母が娘へ向けるそれのようにも見える。唯花の笑顔とはまた別の暖かさを感じた。
僕が手元に視線を移すと、二つの封筒が目に入った。ちょうど懐に収まるくらいの、名前の書かれた茶封筒。
これは、もしかして……。
「給料、ですか?」
「そうだよ。何、小遣いみたいなものさ。とっておけ」
「唯花の小遣いはわかりますけど、どうして僕まで?」
「うちは職能給制でね。まだわずかだが、君も役に立ってくれているようだからさ。二人いっぺんに渡す方が楽だしな」
職能給、ねぇ……。
確かに僕がここへくるようになってから、二、三度くらいは唯花の手伝いをした記憶がある。しかしながら、その成果が職能という評価に足るかどうかは自分でもいささか疑問だった。
察するにこの給料の中身は、唯花の手伝いというよりもむしろ、面倒な事務作業や雑用の分が大半を占めるのではないかと思うのだ。その観点で見れば、子供の小遣いというのは非常に的を射た表現だ。
要件を承ると、静かな事務所から足を踏み出し、僕は再び暑く湿った外界を歩くことになる。夏の夕方だ。どれだけ太陽が傾こうが、日が見えてさえいれば光は強い。もうしばらく、街灯の出番は先送りだった。
この場所から唯花の住居、とあるマンションまでは、わずかばかりの距離がある。学校から事務所ほどではないにしても、オフィス街を出て歩いて行くその道のりは、軽い散歩には十分過ぎるくらいである。僕自身の帰路に重なっているという若干の救いさえなければ、いくら灯華さんの頼みでも後日に回したことだろう。
うなだれる僕は正直なところ、この遣いに嫌悪の想いを感じている。この場合、面倒だとか億劫だとかいうよりも、明確に嫌だと感じる点が重要だ。
もちろん言うまでもなく遣い走りは面倒なものだが、それでもさすがに職能給までもらっておいて、訳もなく嫌だなんてのたまう口は持っていない。これにはちゃんと、理由があるのだ。
ただそれを、今歩きながら考えることに意味があるのかと問われれば、おそらくきっとないのだろうと思う。だからそれは、よしておこう。到着すれば、それこそ嫌というほど感じることなのだから。
代わりにここでは、もっと別のことを考えたいと思う。何かすごく楽しくて考え甲斐があり、それでいて有意義かつ心踊ることを。僕のこの日常に潜む、希望と可能性に満ち溢れる素敵なことを。さあ、是非是非、考えようじゃないか。
…………………………。
できるなら、このうだる暑さも忘れるような、そんな魅力的なことが良い。
……………………………………。
……はぁ……。
いやまあ、いい加減認めよう。わかっていたことだ。そう、その通りだ。
僕の日常は、めっきり印象の薄い淡白で枯れた日常に他ならず、悲しくもわざわざ振り返って考えるようなことはありはしない。くだらなくも楽しい友人との談笑も、燃える学校のイベント行事も一切ない。何もないのだ。
ただ、一つの事柄を除いては――。
しかしあるいはここで、一つだけでも思い出すに足る出来事があるのなら、それは喜ぶべきことだと思うこともできるかもしれない。当然そう思えるのなら、僕だってきっと嘆きはしない。
でもその一つの事柄は、今さっき僕が思考から追い出そうと足掻いていた唯花のこと。そのことなのであった。
はっと気付けば、今この時点で、僕の日常は唯花一色だ。これが例えば、僕は唯花にぞっこんだとか、僕の瞳にはもう唯花しか映らないとか、そういう意味の表現だったなら、まだ幸せかもしれないけれど、残念ながらまったく違う。いや、あんな人の虜になることが果たして幸せなことなのかどうかは、この際横に置いておくとして。
とにかく、現状で僕の毎日が彼女で染まっていることに関して、それは他に考えるべきことがないからという、非常に消極的かつ面白くもない事情によるものであった。
ああ、彼女の存在は、ただただ強い。強く強く輝き過ぎる。穴の空いた僕の日常に、矢のように突然降りかかってきた彼女。そしてすぐさま、僕の意識の中心になった彼女。そんな彼女の眩い印象は、辛うじて灰色に色付いていた僕の世界を一瞬で無色に書き換え、全ての感覚を一点に集約させた。彼女はまるで、暗い暗い舞台の上、スポットライトを浴びて光る一輪の花。注がれる視点は、捉える視野は、嫌でもその凛とした花を無視できない。そして同時に、それ以外のものなんて、もう舞台の上にはないも同然だ。
僕ら二人は、まだ出会って一週間ほどで、どうにも新鮮さという補正から彼女の印象が普段より増して色濃く残るのは仕方がない。そう自分に言い聞かせてみても、さすがに異常な自覚はあった。
覚えている。全てはあの、梅雨の闇夜からだ。
あれから僕は灯華さんの事務所を訪ね、改めて自分の現状を知ったのだ。そして聞いていた通り、唯花は僕の失くしものを探し出すと約束してくれた。そういう契約を彼女らと結んだ。特別な依頼だと言っていたが、内容はあまり記憶にない。詳しいことは、解決の目処がついたら教えてくれるとこのことだった。それはもう実にざっくりとした契約で、どちらかといえば解約予備段階の口約束程度でしかない。
そんな半端な関係にありつつも、えらく親しげだった唯花に言い寄られ、流されるように僕はこうして彼女と時間を共にしているという次第。ただ、言い寄られたとは言っても、それは仕事の手伝いについてだけれども。
正直、唯花の考えていることは、僕にはよくわからないのだ。
このところの僕の生活はといえば、やはりというか想像通り、唯花に振り回されっぱなし。今まで一人でやっていたらしいのに、突然僕を雇いたがった心理についてはめっぽう謎だが、その扱いについても大概だ。パートナーと言えば聞こえは良いが、客観的には手下という表現がぴったりくる。百歩譲って、良いところが部下だろう。まあ、仕事場の後輩と考えれば、別に文句のつけどころはないのだが。
唯花と僕の具体的な活動記録としてはまず、猫を二匹探して見つけた。あと他には、いきなり夕刻に呼びつけられて迷子の子供を探したなんてこともあった。猫の方は、警察にも届け出ていた捜索依頼だったために正式な報酬があったらしいが、子供の方は完全な慈善活動だった。困って探し回っていた母親に出くわした唯花が、任せろと言ってその場で引き受けたらしいのだ。ちなみに、お礼に何処かのお土産っぽい饅頭がもらえたが、結果として喜んだのは灯華さんだった。
僕が実際に探したのは、まだこのくらいだ。
唯花の場合はこれ以外にも、ニュース沙汰寸前の行方不明者の捜索依頼や、地方議員の汚職についての調査依頼をこなしたらしいが、それについては僕は関与していない。
一人の間に僕がやっていたのは、本来は唯花のすべき報告書の記入と整理、そして本来は灯華さんのすべき事務所の掃除だったと記憶している。
ままごとのような現場仕事と、小間使いのような事務仕事が、今のところの僕にとっての活動記録だ。ただその割には、先ほどの“給料”の額には驚くものがある。高校生のバイトでもらえる金額としては十二分に満足できた。
こういった経験からするに、今から訪れる唯花の住む部屋の質にも、不思議と納得できるものがあった。それはもう実に設備が良いのだ。家賃がいくらかなんて無粋なことは聞いたことがないけれども、外観を見ただけでも相当のものだろうと予想がつく。むしろ家賃なんて怖くて聞けないというのが本音だった。
僕はちょうど、唯花の住むマンションのオートロックエントランスをくぐる。何度見ても飽きることのない高級感だ。あからさまなセレブマンションほどではないが、それなりの稼ぎがある家族が願って住むほどの環境は整っている。彼女に渡されたカードキーを持っていなかったら、僕は雰囲気に気圧されて踏み入る気にもならないに違いなかった。
エレベーターまで直行し、目的の階のボタンを押す。今度は事務所のときのように甘くはない。選ぶボタンは十二階行きだ。そんなところまで暑い中階段で上るはずもなく、文明の利器は素晴らしいとしみじみ思う。
動き出すとすぐに、小さな空間が重力に逆らって釣り上がる。辿り着いたテラスからの眺めを見れば……うん、圧巻だ。この高さまでよじ登る泥棒もそうそういまい。治安的な不安など、抱くべくもないだろう。
ただそれも、僕に言わせればどうかと思う節もあった。こんな作りなのだから、毎日の外出にはとにかく手間だし、災害時には逃げ場もない。まさか飛び降りるわけにはいかないだろうし。
さらに、一番の疑問の中心となる案件は、また別にある。やっとのことで扉一枚隔てるまでに迫った向こうの部屋に住む彼女にとって、そんなセキュリティが果たして真に必要なのかという点だ。仮に僕が犯罪者でも、その対象を唯花にとろうなんて考えない。そんなの愚かしいにもほどがある行為だ。何しろ、身の安全を豪勢な機械のセキュリティに委ねるほど、彼女がか弱いはずもないのだから。
だからお願いだ。もう少し訪ねやすい場所に住んで欲しい。心の中で懇願しながら、僕は渋々とインターホンを響かせる。
とはいえ案の定、中からの反応はない。これもまあ、毎回ではないがよくあることだ。
溜息と共に僕はもう一度だけインターホンを押し鳴らし、その後には待つこともせずドアノブに手をかけた。
信じられるだろうか。その僕の手は、厚い扉を容易く開けることができるのだ。
鍵? チェーン? そんなもの、使わなければただの鉄塊。ご大層な錠の数々が、揃いも揃ってガラクタ同前。無機物だけど泣かれても一切驚くまい。
ほとほと呆れつつも僕は靴を脱いで玄関に上がり、唯花がいつも使っている部屋に真っ直ぐ向かった。3LDKの、軽く迷ってしまうくらいの立派な内装の中、彼女の部屋は一番奥の隅っこにある。
皮肉なことに、その扉にさえも錠が設けられているのであったが、機能しているはずもないので目もくれない。僕はノックもなしに部屋のドアを開け放った。
そして静寂。出迎えの言葉など論外だろう。唯花は僕という侵入者に気付く様子もなく、無防備な寝姿をさらすのだった。
気が抜ける、というか気力が抜ける眺めである。
けれどもそれ以上に僕の気力を萎えさせるのは、彼女の部屋の様相の方だったりもする。目を背けてしまいたいが、嫌でも目に付く服、本、これに加えて電子機器。脱ぎっぱなし、出しっぱなし、開きっぱなしで粗雑に山積み。つなげっぱなしのつきっぱなし。
「はあ…………」
そりゃあ、溜息くらい簡単に出る。何度だって出る。量産できる。こんな有様の部屋でよくも生活ができるものだ。せめてものフォローを述べるなら、散らかってはいるが汚いわけではないというくらいか。清潔といえば清潔だが、ただし、あまりにも物が多い。多過ぎるのだ。それがどのくらいかというと、本人が寝ているベッドの上にさえも、服や本が散乱しているくらいだ。完全に物に居場所を乗っ取られている。
「唯花。唯花、起きて」
まさかとは思うが、携帯とかそういうものを下敷きにしていないだろうな……。
不安に思いながら僕は、邪魔な物をベッドから下ろして彼女を起こす。本当は肩でも揺すって起こしたいのだけれど……夏だからだろう、彼女の格好はあまりにも薄着で、とてもではないが触れられるようなそれではなかった。
「……ん、ん~~……」
「唯花! 僕だよ! 詞だ!」
一通りベッドの上だけを綺麗にすると、僕は彼女から目を逸らして声を張った。
「……ん、つかさぁ……?」
対しては、これまた随分府抜けた反応が返ってくる。眠そうに目をこすりながら、三半規管の覚醒を待たずに起き上がる努力をしているようだ。
ちなみに、起き上がった彼女の姿を見て、頭にピンクの花のかんざしがついていることを認識する。お気に入りらしく、それは彼女のトレードマークでもあるものだが、昼寝のときくらいは外せばいいのにと思わなくもない。
「……なんで、つかさが……?」
「灯華さんに頼まれた。渡すものがあるから、起きたら着替えてリビングにきて」
「ふぁ~……。灯華にー? 何を?」
「すぐにわかるよ。手渡しの方がいいものだからね。あと、ちょっとした伝言もあるし」
あくび混じりに返答をする唯花を残し、僕は足早に部屋を立ち去ろうとした。
けれども彼女は、そんな僕の様子を見て呼び止める。片手をパタパタさせながら、やっとのことでまともな調子の声を出す。
「あー、待って待って。リビングは暑いから、この部屋で話しましょうよ」
入ったときから、気付いてはいた。確かにこの部屋は涼しい。クーラーが効いているのだ。一方のリビングは、まあ野外ほどではないにしろ暑いだろう。今の時期、クーラーなしでは室内でもかなり蒸し暑い。
いやしかし、だからといってこの部屋では……。
「この部屋じゃあ無理だよ。僕の座る場所がないじゃないか。リビングのクーラーをつければいいでしょ」
「やーよ。面倒だし、涼しくなるまで時間かかるもの。この部屋がいいわ」
「あのね、唯花」
「部屋、片付ける。片付けるから」
なんと。これはまた意外な発言が飛び出したものだ。蒸し暑さと片付ける手間を天秤にかけて、後者を取ったということだろうか。思考としては、それも良しとしよう。
だが、実際には少々問題がある。本人がどう思っているかは知らないが、僕の記憶によれば、唯花は片付けが下手だ。いやもう、ものすごく致命的に下手だ。基本生活においての要領は良い方でも、こと片付けに関してだけはその限りではない。そんな唯花が本当に片付けをする気でいるのか、僕にはどうしても疑わしかった。
「片付け…………唯花が?」
「…………詞が」
「帰る」
ほら見たことか。思った通りだ。
僕は廊下に出て、すぐに部屋の扉を閉めようとした。
「わーー! 待った! 嘘よ、嘘! 私が片付けるから!」
「本当だろうねぇ……今からしっかり片付けるの?」
「うん、だから詞も手伝って」
……何よりもまず、来客に部屋を片付けさせるスタンスがいけない。
「ほんの最近、手伝ったばかりじゃないか。しかも、あのときはほとんど僕が片付けたし」
「最近っていつのことよ?」
「三日くらい前じゃなかったかな。それが何の痕跡もなくまた元通りに散らかっているのはどういうことさ」
「三日前でしょ? 三日っていったら七十二時間よ? 私はほとんどこの部屋で生活しているんだから、それだけあったら少しくらい散らかるわよ」
「家から出ようよ……いくら仕事がなくてもさ……。だいいち、これのどの辺りが“少し”なのかすごく疑問だよ」
片付けのヘルプは、これで何度目になるだろう。このペースでいくと、唯花と関わる中でそう遠くないうちに、まず両手の指の数を越える。そしてすぐにでも、何回目か忘れてしまうほどの数になることだろう。
かといって僕は、彼女を相手にするとどうも断れない。正直これは大問題だ。
「とにかく! 散らかってる程度がちょっとかそこそこかなんてどうでもいいの。細かいことはどうでもいいのよ」
どうでもいい。もうこの際どうでもいいが、それでも程度を表すなら“かなり”だ。
「仕方ないなぁ……じゃあ手伝うから、早く始めよう」
そして結局こうなってしまう。内心わかっているのなら、僕としては抗議をするだけ無駄にエネルギーを使うことになるのだが、せめて口だけでもうるさくしておかなくては癪だ。それにもしかしたら、限りなく低い可能性だとしても、こうしていれば彼女に片付け癖がつくかもしれない。いつかそのうち。いつか……きっと。
「えーっと……本は全部本棚でいい? とりあえずジャンルは分けずにしまうから、あとから自分で揃えておきなよ」
「はぁ~い」
僕の片付けと整理整頓のスキルは普通だ。けれども、唯花と比べれば相対的にかなり優秀と言える。つまり結論としては、彼女の手際の悪さが格別だということになる。他の生活力に関してはむしろある方なのに、本当にどうしてか、片付けだけは苦手らしいのだ。
「あ! イヤホンだ! でも、あれ……? 繋がってたはずのプレーヤーがないなぁ……」
理由の一つには、見つけたものにこうしていちいちコメントをしていくことが挙がる。放っておくといつまでも彼女の手は止まったままなので、僕は早急に対処する。ぶっちゃけかなり面倒だが、無視をすると彼女はいつまでも片付けに戻ってこない。
「プレーヤーってこれのこと? それともこっち?」
「あー……今使ってるのは、そのオレンジの方」
「本の下から掘り出したんだけど……本当に使ってるの? 携帯も何個か落ちてたけど、いくつもあるなら整理しておきなよ。わからなくなるよ」
「携帯は、前使っていた機種をとっておいてるだけよ。同時に何個も使ってるわけじゃないわ」
「あ、そう。しかし本当に、ガジェットマニアみたいだね……」
唯花の部屋を片付けていると、街の電気屋で売っているめぼしい電子機器は、大体の割合で拝見できた。女の子には珍しいと思うのだけれど、そういうものが好きらしい。
「いやー、新しいのが出ると、ついつい欲しくなっちゃうのよね~。分解してどこが新しくなってるか見るのが楽しくて」
「そんなの調べてどうするのさ」
「別にどうもしないけど……いろーんな会社がこういうの作ってるから、どんな工夫してスペック上げてるのか比べてニヤニヤするのよ」
「……さいですか」
正直、理解に苦しむ趣味だと思う。唯花の給料のうちいくらかは、こういう商品に変わるのだろう。
部屋の片付けは順調に続く。いや、彼女は相変わらず手よりも口の方が活発だから、順調なのは僕の方だけなのだけれど、作業自体は進んでいく。
それでもたまには、僕の順調なペースが乱れることもあった。正しくは乱されたというべきかもしれないが、幸か不幸か、僕は思考を持たないお片付けマシーンではなかった。
「ちょっ! ちょっと唯花!」
仮にお片付けマシーンであったなら、彼女に即刻購入されただろう。まあそれも嫌だけど。
「散らかすのも、服までならいいよ! でもこれはダメでしょ! 早くしまって!」
「えー? なんか変なものあったー?」
「変なものっていうか、さすがにこれは僕じゃ扱えない!」
唯花は僕の声を聞いて、いったい何が出てきたのだろうと、そんな期待溢れる表情をして寄ってきた。でも僕の差し出したものは、唯花にとっては別に大したものではなかったらしい。
「ってなんだ、私のブラか。部屋の中だと鬱陶しくて、上だけはよく脱いじゃうのよね。下着はタンスの上から二段目だから、畳んでそこにしまっておいて」
自分の下着の発見者が僕だということも、唯花にとっては別に大したことではなかったらしい。
「いやいや、気にしてよ! 僕は一応、男なんだからね! 唯花は恥ずかしくないの!?」
「恥ずかしくって……あぁ、そういうこと? やぁねー詞ったら」
下着を見つけられて唯花が赤面し、僕が平手をもらうとかなら、まだありだ。いや、掃除をさせられてそんな扱いも御免だけど……。
でも違う。彼女は笑う、僕の動揺する姿を見て。こんなことがあって良いのだろうか? 何かが根本的に間違っている気がする。
諸悪の根源である桜色のブラジャーを拾い上げつつ持ち場に戻る彼女は、僕に向かってこう続けた。
「まあでも、詞くらいだとちょうど、そういう年頃かもしれないわね~。欲しかったら一つくらいあげてもいいわよー。探せばそれとセットの下の方もあると思うから」
「いらないよ! 断じていらない! いるもんか! だいたい、唯花だって僕より少し年上なだけでしょう? お願いだから気にしようよ!」
あまりの空回りに、僕はなぜだか悲しさすら覚える。
「少し年上? ……ああ、まあそうね。そうかもしれないけど。何よ、詞は私になんて興味ないってことかしら?」
僕の言葉に、わずかな間をもって唯花が答える。脊髄反射の発言で、少し失礼なことを言ってしまったからだろうか。もしかして怒った、のかな……?
でも、だとしてもあれは、彼女が悪い。僕としては早くあの桜色のブラジャーを視界から消してほしかったのだった。
「ないよ! 興味ない! だからほら、早くこれしまって!」
「そっか、なぁんだ。残念」
唯花は、悪戯っぽく笑っていた。なんだじゃないよ、もう。別に彼女は僕の言葉なんて気にしないのかもしれないけれど……本当に唯花の本心はわからない。
とにもかくにも、こんな調子で片付けは終わる。その代償は、僕の体力ゲージの八割と、唯花のそれの二割といったところだった。何という理不尽。割に合わないにもほどがある。
しかしながら綺麗になった部屋を見て、彼女がお礼に桃を剥いて出してくれた。これによって僕の体力ゲージが回復する。我ながら実にコストパフォーマンスがいいというか、ちょっと短絡過ぎやしないか。
ちなみに、唯花は桃を部屋で剥いた。目の前で見せて、手際の良さで名誉挽回なのかと思ったけれど、二十秒くらいでキッチンが暑くて嫌だったからという結論に至った。
「ふぅ~。とりあえずはこんなものかな。整った部屋の方が気持ちがいいよね。小腹も満たされたし、満足かな。あとは頼むから、少しでも長くこの状態を保ってほしいな」
「詞、片付けるの早いんだもーん。お姉さん尊敬するわ」
最後の一切れを飲み込んだ唯花は、それはもうご機嫌だった。
「まあくだらない軽口は無視しつつ……はい、これ。灯華さんからだよ」
頃合いを見て、僕は本題の届けものを机上に差し出す。表に“唯花”と名の書かれた茶封筒だ。
「ああ、お金ね。でもこれくらいわざわざ届けなくても、いつでも良かったのに。灯華も律儀ねー」
「唯花が最近、事務所に行かないからじゃないの? たまには顔を出してほしいっていう伝言も、一緒に預かってるんだけど」
「ん~? そんなにご無沙汰だったかしら。仕事はしっかりこなしてるんだけどな」
唯花は、ベッドの上でごろごろ回りながら、指折りで日にちを数えていた。その様子を、僕は笑いながら眺める。片付けのついでに着替えてもらったから、もう目のやり場に困ることはなかった。
「単純に、顔が見たいんじゃないかな? 近いうちに会いに行くことをお勧めするよ」
「なるほどね。終わった仕事の報告もあるし、出席率も大事ってことかしらね」
僕の方も、唯花への用事が事務所に出向いて事足りるのであれば嬉しい。これは期待だ。
「それはそうとさ、さっき片付けしてるときのことなんだけど……詞って、私にはあまり興味ない?」
う、何だろう。とても唐突だ……。しかも、よりによってその話題か……。
「あれは……その、悪かったよ。そのときは動揺していたから、ないって言い切っちゃったけど」
面と向かって異性に対して興味ないだなんて、いくら何でもひどい言葉だ。まあ、その前後では唯花が悪いのだけれど、僕も反省はすべきだと思う。
「あら、そう。じゃあ、ないこともない、と」
「ま、まあ…………そう、だね」
なくはない。これまた面と向かって興味があると言える度胸も僕にはないけれど、それでもどちらかと聞かれればある方だ。唯花はたぶん、そこそこという評価を通り越して、かなり可愛い部類に入る女の子なのだから。欲を言えば、これでもう少しお淑やかならすごくモテそうだ。口が裂けても本人には言わないけれど、僕は心底から思う。
「あのね。私、自分のことをあなたにどこまで話したか、あまり覚えてないのだけれど、詞は私のことを、知っているのかしら? 例えばほら、灯華に聞いたりとかして」
ただ、当の唯花の雰囲気は何だか違った。興味がないと言われて傷ついたとか、自分が女としてどうだということを問題にしたい感じではなかった。
「何? その質問。知っているか知らないかで言ったら、間違いなく僕は唯花のことを知らない方だと思うけど。灯華さんは、不必要なことまで話したりしないし、唯花に関してあの人から聞いたことは、ほとんどないよ」
「そっか……じゃあ、私から話しておかないといけないのね」
「……? そうなの? 別に言いたくないことなら、無理に話さなくてもいいと思うけど」
いわゆる、真面目モードの口調、みたいな。唯花がこういう話し方をするときは、多くはこちらも真面目に聞くべき話題なのだ。まるで初めて彼女に会ったときのような。
「そういうわけじゃないわ。詞には知っておいてほしいことだと思ったから、一度ちゃんと話しておこうとかなって。それにあなた自身にも、少しだけど影響するかもしれないしね」
「僕に影響? それはつまり……遺失絡みってこと?」
「そうそう。どうしてこんなことになってるのか、知りたくないわけじゃないでしょう?」
「まあ……そりゃ、ね」
それは、そもそもがこうなった大元の話だ。もちろん気になる。気にはなるが……。
「だから、その辺についての話をしてあげるわ。順序立てて説明するとね、私があなたに声をかけたのは……」
「待った。それってけっこう時間かかる? 長くなる話?」
「え? そうね……短くは、ないわね」
「じゃあさ、悪いけどそれ、また今度でいいや。もう外も暗いし、そろそろ帰らないと」
気にはなるが、見上げた先の壁掛け時計の短針は、既に八の文字盤に迫ろうとしている。こんな時間になっているなんて、今の今まで気付かなかった。午後八時。もう、夜だ。
「あら、そうなの? 泊まっていけばいいじゃない。もう今日から夏休みなんでしょう? ピザ頼むからさ! 食べながら話しましょうよ!」
唯花は、またしても僕を引き留める。さらにあろうことか、容易く泊まっていけと言い放つ。確かにこの家、部屋は多いけれど……。
彼女の方こそ、僕のことをどう思っているのだろう。男性としての意識はあるのだろうか。
「ピザって……そんな軽い雰囲気で話せることなの? それに、夏休みなのは間違いないんだけど……明日の午前中、僕は学校に行かなくちゃならないんだ。だから今日は帰るよ」
「学校? どうして?」
「ちょっと、ね」
「ふぅん、なーんだ」
本当なら、僕だって夏休み初日に学校へ出向きたくはない。でも、そうしないわけにはいかない用事があるのだ。
提出を先延ばしにし続けた進路希望調査という紙切れを、僕は出さなくてはならない。本当は今日までが期限だったらしいと帰り際に知った。明日、先生に謝って出すつもりだ。
「あっ! じゃあさ、午後からなら時間ある?」
唯花は、登校の理由までは聞かなかった。しかし代わりに、別の予定を提案する。
「あるけど……明日も呼びつけるつもりなの?」
「呼びつけるだなんて、人聞き悪いわね。明日は私も出るわ! デートをしましょう!」
……何だって?
「デー、ト……?」
「そう! 街に遊びに行くの! さっきの話も、そのときにするわ!」
「か、構わないけど……まあ、暇だし」
驚いたことに、デートに誘われてしまった。冗談か本気か定かではないが、言葉の響きにいささか戸惑ってしまう自分がいる。
「ぃやったー! 詞と遊ぶのって、初めてなのよね~」
「そうだっけ。いつも出歩いてるのも、似たようなものだと思うけど」
「あれは仕事よ。全然違うんだから」
「そんなものかな」
こんな話をしながら、はしゃぐ唯花の姿を横目に、僕は鞄を持って席を立った。
その動作に僕の意図を察したのだろう、扉に近い側にいた彼女は、丁寧にドアを開けてくれる。同時に楽しそうに口を開く。
「そんなものよ! それで待ち合わせは、明日の午後一時。街の公園の日時計ね! あの、花壇のいっぱいあるところ」
指定の場所は、オフィス街とは反対の華やかな区画だった。それは確かに、デートにはうってつけの、定番とも言えるほどの待ち合わせ場所。だいたいどこの街にもある、カップルが集まりそうな見栄えのいい目立つ場所だ。そう。カップルが集まりそうな……ね。
……危ない。ニヤけては駄目だ。
「わかった、一時だね。でも、都合で少し遅れるかもしれないから、もしそうなったら周辺の建物にいてくれるかな。暑いだろうしね。携帯があるから、近くにいればまず会えるよね」
「うん、了解! じゃあ詞が学校に行っている間に、私は灯華のところへ行ってこようかな」
「そうだね、それがいいよ」
廊下をスキップで移動しながら、唯花は玄関まで送ってくれた。迎えるときはぞんざいなのに、送るときはいつもそうしてくれるのだ。僕がテラスまで出ると、中から優しく手を振って、彼女は言う。
「じゃあ、詞。明日、楽しみにしてるわ」
「あはは……それは何より。相手が僕で申し訳ないけど」
「何言ってるのよ。詞とデート、嬉しいわよ?」
「はいはい。じゃあ、また明日ね」
僕の方も片手を振って、そしてエレベーターに向かって歩き出す。
いい加減、唯花にからかわれるのにも、耐性をつけないといけないな。見てくれが美人だから難しいけれど、そうしないとこの先、僕の方の身が持たない気がする。
「バイバイ、また明日。うーんとおめかしして行くからねっ!」
その言葉には、立ち止まって再度手を振るだけに留めた。振り返らなかったのは、まだ僕が、彼女の悪戯な笑顔に順応しきれていないからだ。
ここへくるのはまだ少し緊張する。学生が歩き回る区画ではないし、高そうな和傘を抱えて目的地を探した数日前の感覚が残っているのだ。
そんな記憶が脳裏をかすめる中で、活気付く喫茶店には脇目も振らず、僕は奥のエレベーターを目指した。その中から関係者用のものを選び、4Fのボタンを点灯させる。ちなみに、このビルにエレベーターは三つあるが、関係者用のエレベーターは一つだけだ。僕がわざわざそれを選んだのは、残りの客人用のものが、四階で止まらない仕様になっているからだった。
小さな箱に吊られてスムーズに四階まで辿り着く。次いで短い廊下を行き、焦げ茶色の手動扉を引いて開いた。
「あぁ唯花、やっときたか。お前に渡そうと思っていたこれを――」
静寂にガチャリと音が響くなり、姿を確認するまでもなく声がかかる。ただし、相手は僕を誰かと取り違えているようだ。
「……いや、済まない。君だったか」
「すみません、僕で」
「悪い悪い。そんなつもりはないんだよ。まだいささか、アポもなしにここを訪ねるのが、唯花くらいだという認識が消えなくてね」
机に座ったまま話すのは、ここの管理者である音瀬灯華という女性だ。
そして予想通り、唯花の姿は見られなかった。
「次からはとった方がいいですかね、アポ」
僕は少しの皮肉を交えながら、挨拶代わりの冗談を返した。
対して向こうは、爽やかなショートヘアを揺らし、かける眼鏡を持ち上げながら笑みを返す。
「意地が悪いな、君も。済まないと言ったじゃないか。是非歓迎だよ、川澄くんも」
「はは……それは、ありがとうございます」
「で、見ての通り、唯花はいないよ。残念だがね」
灯華さんは僕の方から視線を外すと、再び手元の書類の束に目を向ける。どれも同じに見えてしまう白い紙束を、彼女にだけわかる基準に従って分類しているようだった。
「いやまあ、いないとは思っていましたよ。いて欲しいときに唯花がここにいたことなんて、ほとんどないくらいですから」
以前に、だいたい事務所に居ると言っていたのはどの口だったか。だいたい居るのは灯華さんだ。
僕はソファーの傍に荷物を置き、棚に並ぶ数々のファイルの中から、ピンク色のそれを取り出した。同じファイルでも、灯華さんの扱うものとは似ても似つかない薄さに軽さ。これは唯花のものだ。とは言っても、ほとんど持ち主には触れられていない。
「あはは、そう言ってやるな。あれでも君が訪れ始めるより以前は、結構な出席率を誇っていたんだぞ」
「それはつまり、唯花が僕を避けているということでしょうか」
「まさか、むしろ逆だよ。君が世話を焼いて彼女を家まで呼びに行くものだから、癖になってしまっているのさ。君はいいパートナーだな」
愉快に笑いを零しながら、灯華さんは僕をからかった。人を食ったようなこの性格は、どうにもこうにもやりにくい。その点に関しては、唯花と似ていると思うものだ。
「…………嬉しくないです」
「顔が赤いが、空調が弱いかな?」
こうやってまた、すぐからかう。困りものだ。
「意地が悪いのは、灯華さんの方ですね」
僕はファイルに目を落としつつ、小さな声で口を尖らせた。
「はは、悪い悪い。ところで話しついでに申し訳ないのだが、用が済んだらその唯花に届け物をしてくれないか」
「本人の携帯に直接、電話をすればいいと思いますけど」
「したところでどうせ、君に届けさせるように言われると思うが?」
確かに、言えている。僕がここにきていると知ったらなおさらだろう。そしてきっと灯華さんは、そのことをわざわざ内緒になどしない。
「…………あとで、行きます」
彼女の質問には、反論どころか同意の言葉を返すまでもなく、僕はうなだれて了承した。
「助かるよ」
そうしてしばらく紙をめくる音と、ペンを走らせる音だけが耳をつく。夕方にはうるさいオフィス街も、ビル四階の隔離空間となれば関係ないものだ。そこでは互いの些細な行動が、物音だけで手に取るようにわかる。
だからだろうか、このとき灯華さんはふと、僕の手が止まった際に質問を投げかけた。
「川澄くん、学校は順調かな?」
決して気まずい空気の沈黙ではなかった。灯華さんの作業にも区切りがついたのか、それともぱたりと集中力が切れてしまったのか。質問のきっかけは、とても些細なものに思われた。
「どうしたんですか? 急に。まあ、そうですね、特に問題はないですよ。ですが……」
僕は手元のファイルを閉じつつ応答する。丁度良い、と思った。彼女の仕事の邪魔にならない今なら、今日僕がここへきた目的を果たすタイミングとしてはベストだろう。
「その……今日、学校で噂を聞きました。この街には、どんななくしものでも見つけてくれる人がいるって」
話を切り出すと、彼女は顔を上げて、少し目を見開いた。驚いた、という表現にはほど遠いが、それでも興味を引いたようだ。
「君のことじゃないか。その噂の主はなかなかの情報通だな」
「あるいは、あなたのことでしょう。いいんですか? これって、非公式のお仕事ですよね?」
そこまで話すと、彼女は僕の意図を察したらしく、しかしなぜだか軽く口の端を引き上げる。
「構わないさ。所詮噂じゃないか。仮に公に活動したって、悪いことではないんだ。ただ、ちょっとばかり多めにもらっている報酬が、減ったりすることはあるかもしれないが、ね」
「そう……ですかね……」
「まあ元は便利屋みたいなもので、長いことこの街でやっていることだしな。唯花を雇ってから探しものに仕事が偏って、説明のし辛い方向に仕事の幅が広がったのは事実だが、それにしたって別に後ろめたいことでもない。私は一向に構いやしないよ、この街風彩に我等あり、と謳っても」
微塵もそんな気はないだろうに、冗談半分に笑われても困る。だいたい、この風彩という街は決して小さい街ではない。あまり軽々と街の名前を背負うとか言わないでほしいものだ。いくら灯華さんにそれだけの社会に対する影響力があろうとも、僕はあまり目立ちたくはない。
そう。実際のところの可能性を考えれば、先の噂の対象は、ほぼ間違いなく灯華さんだ。唯花という線もないこともないが、いや……表だって動くのは唯花だから、噂の伝播の直接因子は唯花かもしれないが、それでも責任者は灯華さんだ。悠長に笑っていていいものかどうか。
ちなみに、灯華さんは僕のことだと言ったけれども、その可能性はかなり低い。僕が彼女ら二人と関わり出したのは、本当にごく最近のことだからだ。
「いや、それはちょっと……。それより何ですか? 説明のし辛いことって」
「それは、そうだな……。さっきも言った通り隠すことではないんだが、君に対しても同様に説明が難しい。心配しなくても、後々わかるさ」
「はあ……そうですか」
今のように含みのある言い方で濁す節もある。きっと僕にもわからないことは、とてもとても多いのだろう。
この通り、つまり噂の通りだが、灯華さんと唯花は仕事をしている。探し屋という仕事だ。それはいうなれば、噂の通り探しもののプロと表現するのが適切である。
ただ厄介なのは、この仕事が、裏商売というほどではないが公の商売とも言い難い絶妙な分類にあるということだ。主な理由には、回ってくる依頼の中に警察等の公的機関が手を上げて投げた仕事が含まれるという点が挙がる。彼女たちの仕事自体がばれて問題なわけではないが、だからといって何でもかんでもさらせる情報ばかりではないらしい。
内情に詳しくない僕であっても、想像する分には難しくなかった。公的機関が未解決の仕事を放り、一般市民にそれを流すというのは、色々な面で問題だろうから。信用とか、面子とか、そういったものを守る義務が、公的機関にはありそうだから。
またもちろんだが、様々なルートを通ってごく普通の依頼も回ってくる。パイプ役は灯華さんだ。こちらの場合は、お手上げとまではいかなくても、手っ取り早い解決を望んでのことだと思う。
何にしても一つはっきりと言えることは、本来ならば一介の高校生であるところの僕が関わるはずのない世界の話だということだ。唯花に出会った時点で、僕の人生がそこはかとなく曲がりくねってきている。
「もしかして君が今日ここを訪ねたのは、その噂を聞いたからか?」
「えっと……はい。いいのかな、と思って」
当然、知られない方が良いと思って僕は心配したというのに。それなのに……。
「いいさ、気にするな。心配症だな、君は」
楽観的過ぎるのもどうかと思う。心配性ならぬ楽観症なんて言葉があるのかどうかは知らないが、灯華さんも、そして唯花も、だいたいそれだ。新参者の僕が気にする必要はないと言えばそれまでだが、そのあまりのラフな対応には不安が募って仕方がない。
「さて、じゃあもしや、君の用はこれで済んだのかな? ならば唯花への用事を頼みたいのだが」
だが言ったところで所詮無駄だろう。わかっているのだ。きっと、いや、間違いなく灯華さんも唯花も、二人してどこまでも笑い飛ばし、問題視などしないのだから。心労の軽減には、杞憂だと自身に言い聞かせるしかないと思った。
僕はそうして一人で渋々納得に至ると、灯華さんの言葉にこれまた渋々と従った。ファイルを片付け、手渡しで唯花への配達物を受け取る。
「これを頼む。それから、こっちは君のだ。あとは、そうだな……最近寂しいからな、もう少し顔を見せてもバチは当たらないぞ、とでも伝えてくれ」
灯華さんは、からっと笑ってそう告げた。優しく目を細めるその表情は、まるで母が娘へ向けるそれのようにも見える。唯花の笑顔とはまた別の暖かさを感じた。
僕が手元に視線を移すと、二つの封筒が目に入った。ちょうど懐に収まるくらいの、名前の書かれた茶封筒。
これは、もしかして……。
「給料、ですか?」
「そうだよ。何、小遣いみたいなものさ。とっておけ」
「唯花の小遣いはわかりますけど、どうして僕まで?」
「うちは職能給制でね。まだわずかだが、君も役に立ってくれているようだからさ。二人いっぺんに渡す方が楽だしな」
職能給、ねぇ……。
確かに僕がここへくるようになってから、二、三度くらいは唯花の手伝いをした記憶がある。しかしながら、その成果が職能という評価に足るかどうかは自分でもいささか疑問だった。
察するにこの給料の中身は、唯花の手伝いというよりもむしろ、面倒な事務作業や雑用の分が大半を占めるのではないかと思うのだ。その観点で見れば、子供の小遣いというのは非常に的を射た表現だ。
要件を承ると、静かな事務所から足を踏み出し、僕は再び暑く湿った外界を歩くことになる。夏の夕方だ。どれだけ太陽が傾こうが、日が見えてさえいれば光は強い。もうしばらく、街灯の出番は先送りだった。
この場所から唯花の住居、とあるマンションまでは、わずかばかりの距離がある。学校から事務所ほどではないにしても、オフィス街を出て歩いて行くその道のりは、軽い散歩には十分過ぎるくらいである。僕自身の帰路に重なっているという若干の救いさえなければ、いくら灯華さんの頼みでも後日に回したことだろう。
うなだれる僕は正直なところ、この遣いに嫌悪の想いを感じている。この場合、面倒だとか億劫だとかいうよりも、明確に嫌だと感じる点が重要だ。
もちろん言うまでもなく遣い走りは面倒なものだが、それでもさすがに職能給までもらっておいて、訳もなく嫌だなんてのたまう口は持っていない。これにはちゃんと、理由があるのだ。
ただそれを、今歩きながら考えることに意味があるのかと問われれば、おそらくきっとないのだろうと思う。だからそれは、よしておこう。到着すれば、それこそ嫌というほど感じることなのだから。
代わりにここでは、もっと別のことを考えたいと思う。何かすごく楽しくて考え甲斐があり、それでいて有意義かつ心踊ることを。僕のこの日常に潜む、希望と可能性に満ち溢れる素敵なことを。さあ、是非是非、考えようじゃないか。
…………………………。
できるなら、このうだる暑さも忘れるような、そんな魅力的なことが良い。
……………………………………。
……はぁ……。
いやまあ、いい加減認めよう。わかっていたことだ。そう、その通りだ。
僕の日常は、めっきり印象の薄い淡白で枯れた日常に他ならず、悲しくもわざわざ振り返って考えるようなことはありはしない。くだらなくも楽しい友人との談笑も、燃える学校のイベント行事も一切ない。何もないのだ。
ただ、一つの事柄を除いては――。
しかしあるいはここで、一つだけでも思い出すに足る出来事があるのなら、それは喜ぶべきことだと思うこともできるかもしれない。当然そう思えるのなら、僕だってきっと嘆きはしない。
でもその一つの事柄は、今さっき僕が思考から追い出そうと足掻いていた唯花のこと。そのことなのであった。
はっと気付けば、今この時点で、僕の日常は唯花一色だ。これが例えば、僕は唯花にぞっこんだとか、僕の瞳にはもう唯花しか映らないとか、そういう意味の表現だったなら、まだ幸せかもしれないけれど、残念ながらまったく違う。いや、あんな人の虜になることが果たして幸せなことなのかどうかは、この際横に置いておくとして。
とにかく、現状で僕の毎日が彼女で染まっていることに関して、それは他に考えるべきことがないからという、非常に消極的かつ面白くもない事情によるものであった。
ああ、彼女の存在は、ただただ強い。強く強く輝き過ぎる。穴の空いた僕の日常に、矢のように突然降りかかってきた彼女。そしてすぐさま、僕の意識の中心になった彼女。そんな彼女の眩い印象は、辛うじて灰色に色付いていた僕の世界を一瞬で無色に書き換え、全ての感覚を一点に集約させた。彼女はまるで、暗い暗い舞台の上、スポットライトを浴びて光る一輪の花。注がれる視点は、捉える視野は、嫌でもその凛とした花を無視できない。そして同時に、それ以外のものなんて、もう舞台の上にはないも同然だ。
僕ら二人は、まだ出会って一週間ほどで、どうにも新鮮さという補正から彼女の印象が普段より増して色濃く残るのは仕方がない。そう自分に言い聞かせてみても、さすがに異常な自覚はあった。
覚えている。全てはあの、梅雨の闇夜からだ。
あれから僕は灯華さんの事務所を訪ね、改めて自分の現状を知ったのだ。そして聞いていた通り、唯花は僕の失くしものを探し出すと約束してくれた。そういう契約を彼女らと結んだ。特別な依頼だと言っていたが、内容はあまり記憶にない。詳しいことは、解決の目処がついたら教えてくれるとこのことだった。それはもう実にざっくりとした契約で、どちらかといえば解約予備段階の口約束程度でしかない。
そんな半端な関係にありつつも、えらく親しげだった唯花に言い寄られ、流されるように僕はこうして彼女と時間を共にしているという次第。ただ、言い寄られたとは言っても、それは仕事の手伝いについてだけれども。
正直、唯花の考えていることは、僕にはよくわからないのだ。
このところの僕の生活はといえば、やはりというか想像通り、唯花に振り回されっぱなし。今まで一人でやっていたらしいのに、突然僕を雇いたがった心理についてはめっぽう謎だが、その扱いについても大概だ。パートナーと言えば聞こえは良いが、客観的には手下という表現がぴったりくる。百歩譲って、良いところが部下だろう。まあ、仕事場の後輩と考えれば、別に文句のつけどころはないのだが。
唯花と僕の具体的な活動記録としてはまず、猫を二匹探して見つけた。あと他には、いきなり夕刻に呼びつけられて迷子の子供を探したなんてこともあった。猫の方は、警察にも届け出ていた捜索依頼だったために正式な報酬があったらしいが、子供の方は完全な慈善活動だった。困って探し回っていた母親に出くわした唯花が、任せろと言ってその場で引き受けたらしいのだ。ちなみに、お礼に何処かのお土産っぽい饅頭がもらえたが、結果として喜んだのは灯華さんだった。
僕が実際に探したのは、まだこのくらいだ。
唯花の場合はこれ以外にも、ニュース沙汰寸前の行方不明者の捜索依頼や、地方議員の汚職についての調査依頼をこなしたらしいが、それについては僕は関与していない。
一人の間に僕がやっていたのは、本来は唯花のすべき報告書の記入と整理、そして本来は灯華さんのすべき事務所の掃除だったと記憶している。
ままごとのような現場仕事と、小間使いのような事務仕事が、今のところの僕にとっての活動記録だ。ただその割には、先ほどの“給料”の額には驚くものがある。高校生のバイトでもらえる金額としては十二分に満足できた。
こういった経験からするに、今から訪れる唯花の住む部屋の質にも、不思議と納得できるものがあった。それはもう実に設備が良いのだ。家賃がいくらかなんて無粋なことは聞いたことがないけれども、外観を見ただけでも相当のものだろうと予想がつく。むしろ家賃なんて怖くて聞けないというのが本音だった。
僕はちょうど、唯花の住むマンションのオートロックエントランスをくぐる。何度見ても飽きることのない高級感だ。あからさまなセレブマンションほどではないが、それなりの稼ぎがある家族が願って住むほどの環境は整っている。彼女に渡されたカードキーを持っていなかったら、僕は雰囲気に気圧されて踏み入る気にもならないに違いなかった。
エレベーターまで直行し、目的の階のボタンを押す。今度は事務所のときのように甘くはない。選ぶボタンは十二階行きだ。そんなところまで暑い中階段で上るはずもなく、文明の利器は素晴らしいとしみじみ思う。
動き出すとすぐに、小さな空間が重力に逆らって釣り上がる。辿り着いたテラスからの眺めを見れば……うん、圧巻だ。この高さまでよじ登る泥棒もそうそういまい。治安的な不安など、抱くべくもないだろう。
ただそれも、僕に言わせればどうかと思う節もあった。こんな作りなのだから、毎日の外出にはとにかく手間だし、災害時には逃げ場もない。まさか飛び降りるわけにはいかないだろうし。
さらに、一番の疑問の中心となる案件は、また別にある。やっとのことで扉一枚隔てるまでに迫った向こうの部屋に住む彼女にとって、そんなセキュリティが果たして真に必要なのかという点だ。仮に僕が犯罪者でも、その対象を唯花にとろうなんて考えない。そんなの愚かしいにもほどがある行為だ。何しろ、身の安全を豪勢な機械のセキュリティに委ねるほど、彼女がか弱いはずもないのだから。
だからお願いだ。もう少し訪ねやすい場所に住んで欲しい。心の中で懇願しながら、僕は渋々とインターホンを響かせる。
とはいえ案の定、中からの反応はない。これもまあ、毎回ではないがよくあることだ。
溜息と共に僕はもう一度だけインターホンを押し鳴らし、その後には待つこともせずドアノブに手をかけた。
信じられるだろうか。その僕の手は、厚い扉を容易く開けることができるのだ。
鍵? チェーン? そんなもの、使わなければただの鉄塊。ご大層な錠の数々が、揃いも揃ってガラクタ同前。無機物だけど泣かれても一切驚くまい。
ほとほと呆れつつも僕は靴を脱いで玄関に上がり、唯花がいつも使っている部屋に真っ直ぐ向かった。3LDKの、軽く迷ってしまうくらいの立派な内装の中、彼女の部屋は一番奥の隅っこにある。
皮肉なことに、その扉にさえも錠が設けられているのであったが、機能しているはずもないので目もくれない。僕はノックもなしに部屋のドアを開け放った。
そして静寂。出迎えの言葉など論外だろう。唯花は僕という侵入者に気付く様子もなく、無防備な寝姿をさらすのだった。
気が抜ける、というか気力が抜ける眺めである。
けれどもそれ以上に僕の気力を萎えさせるのは、彼女の部屋の様相の方だったりもする。目を背けてしまいたいが、嫌でも目に付く服、本、これに加えて電子機器。脱ぎっぱなし、出しっぱなし、開きっぱなしで粗雑に山積み。つなげっぱなしのつきっぱなし。
「はあ…………」
そりゃあ、溜息くらい簡単に出る。何度だって出る。量産できる。こんな有様の部屋でよくも生活ができるものだ。せめてものフォローを述べるなら、散らかってはいるが汚いわけではないというくらいか。清潔といえば清潔だが、ただし、あまりにも物が多い。多過ぎるのだ。それがどのくらいかというと、本人が寝ているベッドの上にさえも、服や本が散乱しているくらいだ。完全に物に居場所を乗っ取られている。
「唯花。唯花、起きて」
まさかとは思うが、携帯とかそういうものを下敷きにしていないだろうな……。
不安に思いながら僕は、邪魔な物をベッドから下ろして彼女を起こす。本当は肩でも揺すって起こしたいのだけれど……夏だからだろう、彼女の格好はあまりにも薄着で、とてもではないが触れられるようなそれではなかった。
「……ん、ん~~……」
「唯花! 僕だよ! 詞だ!」
一通りベッドの上だけを綺麗にすると、僕は彼女から目を逸らして声を張った。
「……ん、つかさぁ……?」
対しては、これまた随分府抜けた反応が返ってくる。眠そうに目をこすりながら、三半規管の覚醒を待たずに起き上がる努力をしているようだ。
ちなみに、起き上がった彼女の姿を見て、頭にピンクの花のかんざしがついていることを認識する。お気に入りらしく、それは彼女のトレードマークでもあるものだが、昼寝のときくらいは外せばいいのにと思わなくもない。
「……なんで、つかさが……?」
「灯華さんに頼まれた。渡すものがあるから、起きたら着替えてリビングにきて」
「ふぁ~……。灯華にー? 何を?」
「すぐにわかるよ。手渡しの方がいいものだからね。あと、ちょっとした伝言もあるし」
あくび混じりに返答をする唯花を残し、僕は足早に部屋を立ち去ろうとした。
けれども彼女は、そんな僕の様子を見て呼び止める。片手をパタパタさせながら、やっとのことでまともな調子の声を出す。
「あー、待って待って。リビングは暑いから、この部屋で話しましょうよ」
入ったときから、気付いてはいた。確かにこの部屋は涼しい。クーラーが効いているのだ。一方のリビングは、まあ野外ほどではないにしろ暑いだろう。今の時期、クーラーなしでは室内でもかなり蒸し暑い。
いやしかし、だからといってこの部屋では……。
「この部屋じゃあ無理だよ。僕の座る場所がないじゃないか。リビングのクーラーをつければいいでしょ」
「やーよ。面倒だし、涼しくなるまで時間かかるもの。この部屋がいいわ」
「あのね、唯花」
「部屋、片付ける。片付けるから」
なんと。これはまた意外な発言が飛び出したものだ。蒸し暑さと片付ける手間を天秤にかけて、後者を取ったということだろうか。思考としては、それも良しとしよう。
だが、実際には少々問題がある。本人がどう思っているかは知らないが、僕の記憶によれば、唯花は片付けが下手だ。いやもう、ものすごく致命的に下手だ。基本生活においての要領は良い方でも、こと片付けに関してだけはその限りではない。そんな唯花が本当に片付けをする気でいるのか、僕にはどうしても疑わしかった。
「片付け…………唯花が?」
「…………詞が」
「帰る」
ほら見たことか。思った通りだ。
僕は廊下に出て、すぐに部屋の扉を閉めようとした。
「わーー! 待った! 嘘よ、嘘! 私が片付けるから!」
「本当だろうねぇ……今からしっかり片付けるの?」
「うん、だから詞も手伝って」
……何よりもまず、来客に部屋を片付けさせるスタンスがいけない。
「ほんの最近、手伝ったばかりじゃないか。しかも、あのときはほとんど僕が片付けたし」
「最近っていつのことよ?」
「三日くらい前じゃなかったかな。それが何の痕跡もなくまた元通りに散らかっているのはどういうことさ」
「三日前でしょ? 三日っていったら七十二時間よ? 私はほとんどこの部屋で生活しているんだから、それだけあったら少しくらい散らかるわよ」
「家から出ようよ……いくら仕事がなくてもさ……。だいいち、これのどの辺りが“少し”なのかすごく疑問だよ」
片付けのヘルプは、これで何度目になるだろう。このペースでいくと、唯花と関わる中でそう遠くないうちに、まず両手の指の数を越える。そしてすぐにでも、何回目か忘れてしまうほどの数になることだろう。
かといって僕は、彼女を相手にするとどうも断れない。正直これは大問題だ。
「とにかく! 散らかってる程度がちょっとかそこそこかなんてどうでもいいの。細かいことはどうでもいいのよ」
どうでもいい。もうこの際どうでもいいが、それでも程度を表すなら“かなり”だ。
「仕方ないなぁ……じゃあ手伝うから、早く始めよう」
そして結局こうなってしまう。内心わかっているのなら、僕としては抗議をするだけ無駄にエネルギーを使うことになるのだが、せめて口だけでもうるさくしておかなくては癪だ。それにもしかしたら、限りなく低い可能性だとしても、こうしていれば彼女に片付け癖がつくかもしれない。いつかそのうち。いつか……きっと。
「えーっと……本は全部本棚でいい? とりあえずジャンルは分けずにしまうから、あとから自分で揃えておきなよ」
「はぁ~い」
僕の片付けと整理整頓のスキルは普通だ。けれども、唯花と比べれば相対的にかなり優秀と言える。つまり結論としては、彼女の手際の悪さが格別だということになる。他の生活力に関してはむしろある方なのに、本当にどうしてか、片付けだけは苦手らしいのだ。
「あ! イヤホンだ! でも、あれ……? 繋がってたはずのプレーヤーがないなぁ……」
理由の一つには、見つけたものにこうしていちいちコメントをしていくことが挙がる。放っておくといつまでも彼女の手は止まったままなので、僕は早急に対処する。ぶっちゃけかなり面倒だが、無視をすると彼女はいつまでも片付けに戻ってこない。
「プレーヤーってこれのこと? それともこっち?」
「あー……今使ってるのは、そのオレンジの方」
「本の下から掘り出したんだけど……本当に使ってるの? 携帯も何個か落ちてたけど、いくつもあるなら整理しておきなよ。わからなくなるよ」
「携帯は、前使っていた機種をとっておいてるだけよ。同時に何個も使ってるわけじゃないわ」
「あ、そう。しかし本当に、ガジェットマニアみたいだね……」
唯花の部屋を片付けていると、街の電気屋で売っているめぼしい電子機器は、大体の割合で拝見できた。女の子には珍しいと思うのだけれど、そういうものが好きらしい。
「いやー、新しいのが出ると、ついつい欲しくなっちゃうのよね~。分解してどこが新しくなってるか見るのが楽しくて」
「そんなの調べてどうするのさ」
「別にどうもしないけど……いろーんな会社がこういうの作ってるから、どんな工夫してスペック上げてるのか比べてニヤニヤするのよ」
「……さいですか」
正直、理解に苦しむ趣味だと思う。唯花の給料のうちいくらかは、こういう商品に変わるのだろう。
部屋の片付けは順調に続く。いや、彼女は相変わらず手よりも口の方が活発だから、順調なのは僕の方だけなのだけれど、作業自体は進んでいく。
それでもたまには、僕の順調なペースが乱れることもあった。正しくは乱されたというべきかもしれないが、幸か不幸か、僕は思考を持たないお片付けマシーンではなかった。
「ちょっ! ちょっと唯花!」
仮にお片付けマシーンであったなら、彼女に即刻購入されただろう。まあそれも嫌だけど。
「散らかすのも、服までならいいよ! でもこれはダメでしょ! 早くしまって!」
「えー? なんか変なものあったー?」
「変なものっていうか、さすがにこれは僕じゃ扱えない!」
唯花は僕の声を聞いて、いったい何が出てきたのだろうと、そんな期待溢れる表情をして寄ってきた。でも僕の差し出したものは、唯花にとっては別に大したものではなかったらしい。
「ってなんだ、私のブラか。部屋の中だと鬱陶しくて、上だけはよく脱いじゃうのよね。下着はタンスの上から二段目だから、畳んでそこにしまっておいて」
自分の下着の発見者が僕だということも、唯花にとっては別に大したことではなかったらしい。
「いやいや、気にしてよ! 僕は一応、男なんだからね! 唯花は恥ずかしくないの!?」
「恥ずかしくって……あぁ、そういうこと? やぁねー詞ったら」
下着を見つけられて唯花が赤面し、僕が平手をもらうとかなら、まだありだ。いや、掃除をさせられてそんな扱いも御免だけど……。
でも違う。彼女は笑う、僕の動揺する姿を見て。こんなことがあって良いのだろうか? 何かが根本的に間違っている気がする。
諸悪の根源である桜色のブラジャーを拾い上げつつ持ち場に戻る彼女は、僕に向かってこう続けた。
「まあでも、詞くらいだとちょうど、そういう年頃かもしれないわね~。欲しかったら一つくらいあげてもいいわよー。探せばそれとセットの下の方もあると思うから」
「いらないよ! 断じていらない! いるもんか! だいたい、唯花だって僕より少し年上なだけでしょう? お願いだから気にしようよ!」
あまりの空回りに、僕はなぜだか悲しさすら覚える。
「少し年上? ……ああ、まあそうね。そうかもしれないけど。何よ、詞は私になんて興味ないってことかしら?」
僕の言葉に、わずかな間をもって唯花が答える。脊髄反射の発言で、少し失礼なことを言ってしまったからだろうか。もしかして怒った、のかな……?
でも、だとしてもあれは、彼女が悪い。僕としては早くあの桜色のブラジャーを視界から消してほしかったのだった。
「ないよ! 興味ない! だからほら、早くこれしまって!」
「そっか、なぁんだ。残念」
唯花は、悪戯っぽく笑っていた。なんだじゃないよ、もう。別に彼女は僕の言葉なんて気にしないのかもしれないけれど……本当に唯花の本心はわからない。
とにもかくにも、こんな調子で片付けは終わる。その代償は、僕の体力ゲージの八割と、唯花のそれの二割といったところだった。何という理不尽。割に合わないにもほどがある。
しかしながら綺麗になった部屋を見て、彼女がお礼に桃を剥いて出してくれた。これによって僕の体力ゲージが回復する。我ながら実にコストパフォーマンスがいいというか、ちょっと短絡過ぎやしないか。
ちなみに、唯花は桃を部屋で剥いた。目の前で見せて、手際の良さで名誉挽回なのかと思ったけれど、二十秒くらいでキッチンが暑くて嫌だったからという結論に至った。
「ふぅ~。とりあえずはこんなものかな。整った部屋の方が気持ちがいいよね。小腹も満たされたし、満足かな。あとは頼むから、少しでも長くこの状態を保ってほしいな」
「詞、片付けるの早いんだもーん。お姉さん尊敬するわ」
最後の一切れを飲み込んだ唯花は、それはもうご機嫌だった。
「まあくだらない軽口は無視しつつ……はい、これ。灯華さんからだよ」
頃合いを見て、僕は本題の届けものを机上に差し出す。表に“唯花”と名の書かれた茶封筒だ。
「ああ、お金ね。でもこれくらいわざわざ届けなくても、いつでも良かったのに。灯華も律儀ねー」
「唯花が最近、事務所に行かないからじゃないの? たまには顔を出してほしいっていう伝言も、一緒に預かってるんだけど」
「ん~? そんなにご無沙汰だったかしら。仕事はしっかりこなしてるんだけどな」
唯花は、ベッドの上でごろごろ回りながら、指折りで日にちを数えていた。その様子を、僕は笑いながら眺める。片付けのついでに着替えてもらったから、もう目のやり場に困ることはなかった。
「単純に、顔が見たいんじゃないかな? 近いうちに会いに行くことをお勧めするよ」
「なるほどね。終わった仕事の報告もあるし、出席率も大事ってことかしらね」
僕の方も、唯花への用事が事務所に出向いて事足りるのであれば嬉しい。これは期待だ。
「それはそうとさ、さっき片付けしてるときのことなんだけど……詞って、私にはあまり興味ない?」
う、何だろう。とても唐突だ……。しかも、よりによってその話題か……。
「あれは……その、悪かったよ。そのときは動揺していたから、ないって言い切っちゃったけど」
面と向かって異性に対して興味ないだなんて、いくら何でもひどい言葉だ。まあ、その前後では唯花が悪いのだけれど、僕も反省はすべきだと思う。
「あら、そう。じゃあ、ないこともない、と」
「ま、まあ…………そう、だね」
なくはない。これまた面と向かって興味があると言える度胸も僕にはないけれど、それでもどちらかと聞かれればある方だ。唯花はたぶん、そこそこという評価を通り越して、かなり可愛い部類に入る女の子なのだから。欲を言えば、これでもう少しお淑やかならすごくモテそうだ。口が裂けても本人には言わないけれど、僕は心底から思う。
「あのね。私、自分のことをあなたにどこまで話したか、あまり覚えてないのだけれど、詞は私のことを、知っているのかしら? 例えばほら、灯華に聞いたりとかして」
ただ、当の唯花の雰囲気は何だか違った。興味がないと言われて傷ついたとか、自分が女としてどうだということを問題にしたい感じではなかった。
「何? その質問。知っているか知らないかで言ったら、間違いなく僕は唯花のことを知らない方だと思うけど。灯華さんは、不必要なことまで話したりしないし、唯花に関してあの人から聞いたことは、ほとんどないよ」
「そっか……じゃあ、私から話しておかないといけないのね」
「……? そうなの? 別に言いたくないことなら、無理に話さなくてもいいと思うけど」
いわゆる、真面目モードの口調、みたいな。唯花がこういう話し方をするときは、多くはこちらも真面目に聞くべき話題なのだ。まるで初めて彼女に会ったときのような。
「そういうわけじゃないわ。詞には知っておいてほしいことだと思ったから、一度ちゃんと話しておこうとかなって。それにあなた自身にも、少しだけど影響するかもしれないしね」
「僕に影響? それはつまり……遺失絡みってこと?」
「そうそう。どうしてこんなことになってるのか、知りたくないわけじゃないでしょう?」
「まあ……そりゃ、ね」
それは、そもそもがこうなった大元の話だ。もちろん気になる。気にはなるが……。
「だから、その辺についての話をしてあげるわ。順序立てて説明するとね、私があなたに声をかけたのは……」
「待った。それってけっこう時間かかる? 長くなる話?」
「え? そうね……短くは、ないわね」
「じゃあさ、悪いけどそれ、また今度でいいや。もう外も暗いし、そろそろ帰らないと」
気にはなるが、見上げた先の壁掛け時計の短針は、既に八の文字盤に迫ろうとしている。こんな時間になっているなんて、今の今まで気付かなかった。午後八時。もう、夜だ。
「あら、そうなの? 泊まっていけばいいじゃない。もう今日から夏休みなんでしょう? ピザ頼むからさ! 食べながら話しましょうよ!」
唯花は、またしても僕を引き留める。さらにあろうことか、容易く泊まっていけと言い放つ。確かにこの家、部屋は多いけれど……。
彼女の方こそ、僕のことをどう思っているのだろう。男性としての意識はあるのだろうか。
「ピザって……そんな軽い雰囲気で話せることなの? それに、夏休みなのは間違いないんだけど……明日の午前中、僕は学校に行かなくちゃならないんだ。だから今日は帰るよ」
「学校? どうして?」
「ちょっと、ね」
「ふぅん、なーんだ」
本当なら、僕だって夏休み初日に学校へ出向きたくはない。でも、そうしないわけにはいかない用事があるのだ。
提出を先延ばしにし続けた進路希望調査という紙切れを、僕は出さなくてはならない。本当は今日までが期限だったらしいと帰り際に知った。明日、先生に謝って出すつもりだ。
「あっ! じゃあさ、午後からなら時間ある?」
唯花は、登校の理由までは聞かなかった。しかし代わりに、別の予定を提案する。
「あるけど……明日も呼びつけるつもりなの?」
「呼びつけるだなんて、人聞き悪いわね。明日は私も出るわ! デートをしましょう!」
……何だって?
「デー、ト……?」
「そう! 街に遊びに行くの! さっきの話も、そのときにするわ!」
「か、構わないけど……まあ、暇だし」
驚いたことに、デートに誘われてしまった。冗談か本気か定かではないが、言葉の響きにいささか戸惑ってしまう自分がいる。
「ぃやったー! 詞と遊ぶのって、初めてなのよね~」
「そうだっけ。いつも出歩いてるのも、似たようなものだと思うけど」
「あれは仕事よ。全然違うんだから」
「そんなものかな」
こんな話をしながら、はしゃぐ唯花の姿を横目に、僕は鞄を持って席を立った。
その動作に僕の意図を察したのだろう、扉に近い側にいた彼女は、丁寧にドアを開けてくれる。同時に楽しそうに口を開く。
「そんなものよ! それで待ち合わせは、明日の午後一時。街の公園の日時計ね! あの、花壇のいっぱいあるところ」
指定の場所は、オフィス街とは反対の華やかな区画だった。それは確かに、デートにはうってつけの、定番とも言えるほどの待ち合わせ場所。だいたいどこの街にもある、カップルが集まりそうな見栄えのいい目立つ場所だ。そう。カップルが集まりそうな……ね。
……危ない。ニヤけては駄目だ。
「わかった、一時だね。でも、都合で少し遅れるかもしれないから、もしそうなったら周辺の建物にいてくれるかな。暑いだろうしね。携帯があるから、近くにいればまず会えるよね」
「うん、了解! じゃあ詞が学校に行っている間に、私は灯華のところへ行ってこようかな」
「そうだね、それがいいよ」
廊下をスキップで移動しながら、唯花は玄関まで送ってくれた。迎えるときはぞんざいなのに、送るときはいつもそうしてくれるのだ。僕がテラスまで出ると、中から優しく手を振って、彼女は言う。
「じゃあ、詞。明日、楽しみにしてるわ」
「あはは……それは何より。相手が僕で申し訳ないけど」
「何言ってるのよ。詞とデート、嬉しいわよ?」
「はいはい。じゃあ、また明日ね」
僕の方も片手を振って、そしてエレベーターに向かって歩き出す。
いい加減、唯花にからかわれるのにも、耐性をつけないといけないな。見てくれが美人だから難しいけれど、そうしないとこの先、僕の方の身が持たない気がする。
「バイバイ、また明日。うーんとおめかしして行くからねっ!」
その言葉には、立ち止まって再度手を振るだけに留めた。振り返らなかったのは、まだ僕が、彼女の悪戯な笑顔に順応しきれていないからだ。
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