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一章 名のない花
1 二〇二四 水無月―末
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今日は、朝から雨が降っていた。夕暮れ時に映えるはずの太陽も、あの厚くて黒々とした雲たちを貫くほどの光を放つ気はないらしい。時計の短針が午後四時過ぎを示す今頃になってすら、外界の様子に変化はなかった。
それもそのはず。最近はどの放送局の天気予報を見ても、雨、雨、雨のオンパレード。画面には賑やかな傘マークが、所狭しと並んでいるのだ。閉じた傘、開いた傘、水滴に濡れた傘、他にもたくさん。もう放送局が持っている傘マークの種類に知らないものはないのではないかと思うくらい、僕らの地方の人間は、強弱様々に雨という天気を網羅していた。これも、梅雨時の宿命と言えばそれまでなのだが。
そんな空模様に辟易しつつも、僕は出先の病院から家までの道に踏み出そうとする。そんなところだった。
「あ……傘……」
そこで僕は、思わず呟く。理由は簡単。傘を、なくしてしまったのだ。
けれども、それは決して僕の落ち度ではない。僕は施設内に入る際、きちんと入り口の傘立てに閉じて立てかけたし、その場所も傘の特徴も、この頭に入っているのだ。
だとすれば答えは一つ。簡単だろう。
盗まれたのだ。
ただそれも、使い古されてくたびれたコンビニのビニール傘では、相手の抱く罪悪感なんて知れたものだろう。そして僕には、同じように他人のビニール傘を拝借する度胸がない。
とにかくこれで僕は、この止む気配のない降り続く雨の中を、何の装備もなしに帰る羽目になってしまったのだった。
どうしたものか、と悩み果てる。
結局のところ、止む気配がないと自分でわかっていながら、院外に設置された休憩所で雨宿りをしようとする。そんな行為が、濡れて帰る覚悟のなさを露呈している気にもなった。
迎えを呼ぶという選択肢もなしだ。濡れて帰る気力ならまだしも、誰かと話す気力の方が皆無だからだ。今は全然、気分ではない。
考えてみれば、今の僕はないない尽くしだった。
そうして降る雨粒の音を数えるうちに、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。それはもう、気付いたら時間が経っていたという感覚であって、まったくうたた寝をしてしまったというつもりはなかったのだけれど、再び目を開いたそのときには、景色は既に一変していた。
具体的には何が変わったかというと、まずは辺りが暗くなった。どのくらい寝入っていたのか検討もつかないが、次第に街の活気が消えていく雰囲気を察知できた。病院の入り口も、両開きのドアの片方が施錠されている。
そしてさらに変わったことといえば、雨宿り仲間が増えたことだった。目を覚ました瞬間から隣に人の気配を感じ、その人が話しかけてさえきたものだから、誰かが傍にいることはすぐにわかった。
「あら、おはよう。随分長いお昼寝だったわね」
女性の声だ。僕はその声に息を飲み、跳ねるように覚醒したが、とりあえずは返事をするべきだと思って口を開いた。
「お……おはようございます。でもどちらかというと、こんばんはって感じですけど」
眠ったら気力が回復したのか、人と会話をすることへの脱力感は、思うよりは少なかった。それに、相手の姿を視界にとらえた際の驚きで、些細なことは気にならなかったというのが、また一つの事実であった。
彼女は着物姿だったのだ。この暑くてじめついた季節の中、わざわざ病院を訪れるのに着物姿だなんて、風情を通り越して奇怪でしかないと思うが。
「そうね。こんばんはの方が、適切かもね。それよりもあなた、ここで誰かを待っているの?見たところ、ずっとここにいるようだけれど」
紡がれる言葉には、なぜだか妙な親近感が感じ取れた。
僕と同年か、わずかに上でしかないくらいの容姿。肩まで流れるセミロングの黒髪を束ねず流し、それをとても作り物には見えない一輪の花のかんざしで彩った優雅な姿だ。周囲との釣り合いのなさや、そぐわなさに気を取られがちになるが、外見の美しさという点では、大抵のものには引けを取らないだろう。そんな印象を受けた。
「雨が……止むのを待っていました。そうしたら、知らないうちに寝てしまったみたいで」
「そう。でもね、もしかしたら余計なことかもしれないけれど、今日の雨は止まないと思うわよ。このまま明け方まで降り続くわ」
「そうですね……。僕も、何となく止まない気もしていたんです。梅雨ですし」
「毎年毎年、この時期の雨は止まないものね。今日は休日だもの。お天道様もお休みなのよ」
語る口調から、その天気に対しての嫌悪は感じられなかった。繰り返すが、彼女は着物姿だ。そんな格好をして外出しているのであれば、雨は歓迎できない天気のように思うのだが……。しかしまあ、この雨は朝からずっと降っているのだから、彼女なりにそれに合わせた服装をした結果がこれなのかもしれない。無理やりそう考えることもできる。
「せっかくの休日も、通院で潰れてしまっては寂しいものです。ところで、僕がずっとここにいると知っているあなたの方も、相当長居をしているみたいですけど」
「私はさっきここへきたのよ。夕方から続いた野暮用が、ようやく終わったものだから」
なるほど。僕が眠りこけている姿を、彼女は病院を訪れたときから見ているのだ。そして今になって外の休憩所にやってきたらしい。
「お見舞いですか。優しいですね」
「そんなんじゃないわよ、野暮用だもの。どちらかと言えば、お仕事かな。ここへくるのは、だいたいお仕事」
こちらに関しても、まったく辟易する感じはない。休日まで仕事をして、それに不平一つないとは、とても殊勝なものだと思った。
「それで、あなたの方はどうしてここへ? 患者さんには見えないから、あなたこそ誰かのお見舞いなのかしら?」
彼女は気さくな笑顔で僕との話を続けようとする。
対して僕の方が、その笑顔の一割分の笑みも作れないことについては、何だか少し申し訳ない気持ちになった。
「そうだったら……いいですよね。でも実は、今日は僕が医者にかかりにきました。といっても軽いカウンセリングで、今日が初診だったんですけど」
「あらあら、どこか具合が悪いのかしら? とてもそんな必要があるようには見えないけれど」
そんなことを言われても、それは回答に困る質問だった。おそらくはきっと、僕の何処かには間違いなく欠陥があるのだろうが、それが何なのかは僕には答えられないからだ。わかれば、わざわざここへはこない。
だから僕は、そんな問いかけを誤魔化す意図も含め、会話の方向を変えることにした。
「あなた、面白いですね。こんな……見るからにつまらない話しかできなさそうな僕に声をかけて、そのまま話し込んでいるんですから」
彼女は問題なく、こちらの用意した話に乗ってきてくれる。
「つまらないかしら? そんなことないわ。あなたはとても魅力的よ。あなたのこと、もっと聞きたいわ。良ければ聞かせてくれないかしら?」
「いいですけど……きっと面白くも何ともないですよ」
初対面の人間とこんなにも距離の近い接し方をするなんて、僕には滅多にないことだった。あるいはもしかしたら、僕の感じている親近感のようなものを、彼女も感じているのではないだろうかと思うくらいだ。そう思うほどに、両者の間に漂う空気は穏やかで、共感や同調性に満たされている。
「少し前からなんです。僕ちょっと、慢性的に気分が沈んで、気怠いんです。小さなことがすぐに不安に繋がってしまって、無闇にそわそわして、落ち着かなくて……。まるで、そう。何か大事なものを失くしてしまって、それを忘れているような気持ちになって……胸に穴が空いたような気分が、消えないんです。実際は、何も失くしてなんていないと思うんですけど……」
「ふぅん。何かを失くしてしまったなら、やっぱり探すのがいいんじゃない? 自覚がないと、何かを失くしているのかどうかわからないけれど、あなたが何かの遺失を感じるなら、それはきっと正しい感覚だと思うから。自分の感覚は大事にするべきよ」
「そう、ですかね。じゃあ僕は、いったい何を失くしたんだろう。おかしなほど確かな喪失感が、胸の中から消えません。変な病気だったらとか思うと、また少し不安で、あんまり考えすぎて、明日いきなり死んじゃったりしたらどうしようとか思ったりして。まあ、そんなんだから母が、知り合いの医者に診てもらえと言ったんですけど……。死ぬって、どんなことなんでしょうね」
不安なこと、考えると止まらない。死ぬとか。死んだらどうなるとか。じゃあ死ぬって何だとか。そんな哲学的なこと、どこまでも矮小な人間一人という存在に、僕という存在に、わかるわけがないのに。
それでもひたすらに考え続けるのは、空いてしまった穴を見ないように、意識しないように、頭の中を何かで埋め尽くしておかなければならないからだろう。日々何かを考えようとして、けれどついに考えることもなくなって、こんなおかしなことを、きりのないことを考えようとしたのだ。
「気が滅入ったときは、そういうことを考えてしまうのかもしれないわ。不安なのは仕方がない。でも、大丈夫だから、元気を出して。死ぬなんて、考えちゃだめよ。人はそんな簡単に死んだりしない。死ぬべきじゃない。生きていれば、生きようとすれば、景色も変わるわ。難しいことを考える必要なんてないの。生きようとすれば、この世界はとても快適よ」
呟く僕を見て彼女は、励ましてくれる。元気づけようとしてくれたみたいだった。何かを考えようとして、難しいことをぐるぐる考えて陰鬱な気持ちでいる僕に対し、それを止めようとしてくれる彼女の言葉は、いくらか慰めになる。
しかしながら、その言葉だけで、このありありとした不安が拭えるということはないわけで。考えるのを止めてしまうよりは、それなりに真剣に考えてきたことへの、答えがほしいとも思うのだった。大仰ながら、人はどうして死ぬのだろう。少なからず、興味は、ある。
「そう……かもしれないですね。難しいことは、よくわからない。もちろん僕も死にたくはないです。生きることを考えた方が、何倍も楽しいと思う。でも、あなたの意見を否定するつもりはないですが、僕はその、疑問の答えを知りたいとも思っていて……。生きることにも、そしてもちろん死ぬことにも意味があって、僕はそれを感じてみたいんです。今までこんなこと、欠片も思ったことがなかったのに……本当にどうかしている自覚もあるんですけど……」
そして僕の小さな抵抗は、思いの外、彼女に対して強く届いたらしい。発言の刹那、虚を突かれたような表情をした彼女は、やがて優しく微笑むように口元を引き上げて、いっそう穏やかに言葉を返した。
「へぇ……。なるほどなるほど。落ち込んでる割には、芯はあるわね。思ってたよりは元気そうかも。しかもちょっと面白いわ。魅せるじゃない、あなた」
彼女は微笑みをみるみるうちに笑顔に変えて、無邪気な子供のように目を細めていく。嬉しそうで踊るように突然立ち上がり、片の掌をこちらに向かって差し出しつつ、突拍子もないことを口にする。
「ま、死んじゃったらどうのなんて考えちゃうのは、多分その喪失感にあてられたのよ。でも死ぬ方はともかく、生きる意味を考えるのは、大事なことね。あなたに声をかけてよかったわ。ねぇ、私についてこれば、その喪失感、綺麗さっぱり消し去ってあげる」
僕はその彼女の言葉に、そして彼女の動作に合わせるように顔を上げ、瞼を見開いて目を丸くした。
「い、いきなりどうしたんですか?」
「伝わらなかった? だから、あなたのその悩みを、私が何とかしてあげるって言っているのよ」
僕の悩みを、この喪失感を……消す? このどうしようもない空白の気持ちを……彼女が? そんなことが、果たして可能なのだろうか。
憶測でものを断言するつもりはないけれども、この着物姿の見知らぬ女性に、そんなことができるとはとても思えない。彼女は心理学者でもカウンセラーでも、はたまた陰陽師でも未来預言者でもないだろうから。いや、もし仮にその中の一つに当てはまるとしても、僕の件に関して、解決が見込めるかどうかは微妙なところだけれども。
「そんな、まさか。医者には、まるっきり異常はないと言って、帰されたんですよ」
「そりゃあそうね。あなたのそれは、お医者さんじゃあちょっと無理よ。分野が違うもの。遺失者の救済は、病気の治療とは勝手が違う」
「遺失……者……?」
なんて聞き慣れない響きなのだろうと、僕は思った。おそらくはきっと、僕のことをさして言った表現なのだろうが、しかしながらあまりピンとくることはなかった。
「勘違いではないと思うわ。あなたはやっぱり、失くしている。まあ、私も人のことを言えた立場では、ないのだけれどね」
彼女は何を言っているのだろう。僕は何を聞いているのだろう。会話のキャッチボールが、いまいち成り立っていない気がする。きっとそう感じているのは、僕一人だけなのだろうけれど、だからこそなおさら、会話を止めるタイミングが見つからなかった。
「特にね、寿命の遺失は、お医師さんには荷が重いわ」
「…………寿、命……?」
「そう、私にはわかる。あなたの器からこぼれ落ちたものの正体。それは、あなた自身の、寿命のことよ」
………………。
ついに僕の口は、いや脳は、オウム返しすらも不可能な領域の会話に困惑し、彼女から得られる情報の全てを遮断してしまいたいと嘆く。やがてぱたりと沈黙が落ちて、無言を通して僕が表すことができるのは、唖然の意思ただ一つだけだった。
「あら、あまりにびっくりして言葉がないかしら。それとも、信じてもらえなかったかな?」
その推測は、どちらも等しく正しいと言えた。彼女が僕の顔を覗き込む間も含め、数秒を通して思考が止まる。
ただ、笑顔の彼女は、たとえそうだとしても全然構わないといった様子で……これなら素直に答えても、気分を害する心配はないみたいだと、僕は感じた。
回らない神経信号を、必死に僕は動かそうとする。
「……半信半疑って、感じですかね。今は僕の心身の何もかもが、置き去りでついていけていないようです」
「そう。じゃあ、まずは落ち着いて、ちゃんと信じて、順応して頂戴ね。私の話をきっかけにして自覚が芽生えれば、あとは自然に飲み込めると思うから。とにもかくにも、あなたは寿命を失くしているわ。そのまま取り戻さなければ、遠くないうちに死が訪れる。程度からするに、余命は残り二年弱ってところかしら。どう? 少しは納得してもらえるといいな」
「えっと……まあ……」
その場凌ぎの反応だった。
冴えない返答に彼女は悪戯な笑みを浮かべ「本当かな」とからかう。
「やっぱり、今すぐには理解が追いつかないだろうし、わからないのも無理はないでしょうね。でも、これ以上わかりやすい説明は、私には不可能だわ。今夜一晩良く眠って、改めて考え直してみたらどうかしら。全ては、あなたの遺失の自覚から。自分が何を失くし、それを探そうという意志を、想起するところから」
そうして彼女の豊かな表情はまた移り、深く優しく、柔らかに輝く。
「大丈夫よ。なくしたものは、消えて散ってしまうわけではないの。今あなたの手元にないだけで、必ず何処かに存在する。だから探せばいいじゃない。私が手伝ったら百発百中よ? 根拠はないけど自信はあるわ!」
着物には到底似合うはずもない 、ガッツポーズという勇ましい姿。彼女にこそ自覚はないのだろうが、あまりの格好の非現実性に、僕の方は笑えてしまった。とても隠すことのできない衝動で、クスッと思わず破顔する。
「根拠のない自信を、どう信じたらいいんですか。逆に不安にさせますよ、相手を」
「経験則よ。そこに理由が伴わなくても、今までそうだったんだから、これからもそうなの」
「そんなもんかなぁ……」
彼女の言葉に、こちらを安心へと導く要素は少なかった。けれども、放っておいたところで、やはり僕の気持ちが晴れることはないのだから、これはこれで、駄目で元々の美味しい話なのかもしれなかった。
僕の表情を見て軽く頷くと、彼女はゆっくりと隣の椅子から立ち上がる。
「さて……雨はやっぱり止まないわね。この傘、あなたに貸してあげるから使いなさいよ。私は大丈夫だから」
差し出されたのは、白の下地に紅の花柄が入った、大きめの傘。彼女一人には十分すぎるほどの半径を持った、それはそれはさぞかし高価そうな和傘だった。
「え……こんな立派な傘、借りられませんよ。それなら僕は、走って帰りますから」
「遠慮しないで。気怠い中、お話に付き合ってくれたお礼だもの。それにあなたは、また私を訪ねるでしょうから、なんならそのときにでも返してもらうわ」
僕は、差し出されたものをやんわりと押し戻す仕草を取った。
「駅前にあるオフィス街のビルの中にね、一階がトワイライトっていう喫茶店になっているビルがあるの。午後の二時からしか営業しないおかしな店だから、すぐにわかると思う。そのビルの四階に事務所があるから、気が向いたら訪ねてみて。私はだいたいそこに居る」
彼女はニコッとしながら髪を跳ね除け、それと同時に、例の傘を持つ手を開いて放った。
落としてはいけないという思いから、僕は咄嗟にそれを受け取ってしまう。
だがきっとこれは、彼女の狙いの内だったのだろう。僕はそれには、傘を受け取ってから気付いたのだった。
「……わかりました。近いうちの晴れた日に、この傘を返しに行きますよ。ありがたくお借りします」
仕方なく僕は、受け取った傘を地につけないように提げて、彼女を見つめながら謝辞を述べる。
それを確認すると彼女は、コツコツと軽い草履の音を響かせ、野外休憩所の屋根伝いを歩き去ろうとするのだった。その前にふと、振り返ることなく一つの質問を残して。
「律儀ね、嬉しいわ。ところであなた、今日が初診だって言っていたわね。ということは、この病院へくるのも初めてなのかしら?」
「そうですよ。病院はあまり、好きではないんですけどね」
「そう……」
表情は見えない。あれだけ表情の変化に富んだ彼女なのに、それが見えなくなると、ただそれだけで何を考えるのかわからなくなる。彼女の声には、それくらいミステリアスな抑揚が含まれていた。
「あの……どうかしましたか?」
「いえ、以前からこの病院にあなたがきている気がしたのだけれど、気のせいだったのかなって」
「……? ええと、そうですね。それは気のせいだと思いますよ。僕がここへくるのは、間違いなく今日が初めてです」
嘘を言うつもりはない。できることなら病院なんて、僕にとってはたとえ一回でも来訪を避けたい場所なのだ。
「……そっか。とにかくありがとう。あなたに会えて、今日は良い日よ。楽しかったわ。再び会える日をまた、待っているわね」
「いえ、お礼を言うのは僕の方です。あなたに話を聞いてもらえて、よかったです」
「いえいえ、どういたしまして。それじゃあね、川澄詞くん」
そのとき不意に呼ばれた自身の名が、僕の中では強く響いた。なぜ名前を知っているのだろうという思いとともに。
「え……名前――」
「私は唯花よ。音瀬唯花。訪ねるときに必要でしょう?」
そして続きには、彼女の名が告げられる。
思うに彼女は、話しかけてきた当初から、僕の名前を知っていたに違いなかった。けれどもそれをあえて使わず、一般的な二人称で僕を呼んでいたのだ。彼女なりの、意味深なユーモアだったのかもしれない。
けれど、彼女はどうして僕の名前を知っていたのだろう? 気にならないはずはなかった。これも、次回訪ねたときにでも、種明かしをしてくれるだろうか。
再び歩み始めた彼女の足は、ついに僕が驚くうちに、視界から外れる曲がり角の直前まで届いていた。完全に姿が見えなくなったら僕も立ち去ろう。頭の隅ではそう考えていたが、最後の最後で彼女はわずかに振り返るのがわかった。目元は前髪で隠れ、わずかに口元だけが見える角度。そんな絶妙な位置まで首を回し、この世の何もかもを魅せるほどの妖艶を纏いながら、そっと囁く。
「また……ね」
彼女はやはり笑っていた、のだと思う。聞こえるはずのないその声が聞こえた。だからわかった。
先の未来に僕との絶対の再会を確信する声音。そこに込められた感情が何なのか、僕には伝わった。
感じたのは、彼女の胸にある期待――。
それもそのはず。最近はどの放送局の天気予報を見ても、雨、雨、雨のオンパレード。画面には賑やかな傘マークが、所狭しと並んでいるのだ。閉じた傘、開いた傘、水滴に濡れた傘、他にもたくさん。もう放送局が持っている傘マークの種類に知らないものはないのではないかと思うくらい、僕らの地方の人間は、強弱様々に雨という天気を網羅していた。これも、梅雨時の宿命と言えばそれまでなのだが。
そんな空模様に辟易しつつも、僕は出先の病院から家までの道に踏み出そうとする。そんなところだった。
「あ……傘……」
そこで僕は、思わず呟く。理由は簡単。傘を、なくしてしまったのだ。
けれども、それは決して僕の落ち度ではない。僕は施設内に入る際、きちんと入り口の傘立てに閉じて立てかけたし、その場所も傘の特徴も、この頭に入っているのだ。
だとすれば答えは一つ。簡単だろう。
盗まれたのだ。
ただそれも、使い古されてくたびれたコンビニのビニール傘では、相手の抱く罪悪感なんて知れたものだろう。そして僕には、同じように他人のビニール傘を拝借する度胸がない。
とにかくこれで僕は、この止む気配のない降り続く雨の中を、何の装備もなしに帰る羽目になってしまったのだった。
どうしたものか、と悩み果てる。
結局のところ、止む気配がないと自分でわかっていながら、院外に設置された休憩所で雨宿りをしようとする。そんな行為が、濡れて帰る覚悟のなさを露呈している気にもなった。
迎えを呼ぶという選択肢もなしだ。濡れて帰る気力ならまだしも、誰かと話す気力の方が皆無だからだ。今は全然、気分ではない。
考えてみれば、今の僕はないない尽くしだった。
そうして降る雨粒の音を数えるうちに、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。それはもう、気付いたら時間が経っていたという感覚であって、まったくうたた寝をしてしまったというつもりはなかったのだけれど、再び目を開いたそのときには、景色は既に一変していた。
具体的には何が変わったかというと、まずは辺りが暗くなった。どのくらい寝入っていたのか検討もつかないが、次第に街の活気が消えていく雰囲気を察知できた。病院の入り口も、両開きのドアの片方が施錠されている。
そしてさらに変わったことといえば、雨宿り仲間が増えたことだった。目を覚ました瞬間から隣に人の気配を感じ、その人が話しかけてさえきたものだから、誰かが傍にいることはすぐにわかった。
「あら、おはよう。随分長いお昼寝だったわね」
女性の声だ。僕はその声に息を飲み、跳ねるように覚醒したが、とりあえずは返事をするべきだと思って口を開いた。
「お……おはようございます。でもどちらかというと、こんばんはって感じですけど」
眠ったら気力が回復したのか、人と会話をすることへの脱力感は、思うよりは少なかった。それに、相手の姿を視界にとらえた際の驚きで、些細なことは気にならなかったというのが、また一つの事実であった。
彼女は着物姿だったのだ。この暑くてじめついた季節の中、わざわざ病院を訪れるのに着物姿だなんて、風情を通り越して奇怪でしかないと思うが。
「そうね。こんばんはの方が、適切かもね。それよりもあなた、ここで誰かを待っているの?見たところ、ずっとここにいるようだけれど」
紡がれる言葉には、なぜだか妙な親近感が感じ取れた。
僕と同年か、わずかに上でしかないくらいの容姿。肩まで流れるセミロングの黒髪を束ねず流し、それをとても作り物には見えない一輪の花のかんざしで彩った優雅な姿だ。周囲との釣り合いのなさや、そぐわなさに気を取られがちになるが、外見の美しさという点では、大抵のものには引けを取らないだろう。そんな印象を受けた。
「雨が……止むのを待っていました。そうしたら、知らないうちに寝てしまったみたいで」
「そう。でもね、もしかしたら余計なことかもしれないけれど、今日の雨は止まないと思うわよ。このまま明け方まで降り続くわ」
「そうですね……。僕も、何となく止まない気もしていたんです。梅雨ですし」
「毎年毎年、この時期の雨は止まないものね。今日は休日だもの。お天道様もお休みなのよ」
語る口調から、その天気に対しての嫌悪は感じられなかった。繰り返すが、彼女は着物姿だ。そんな格好をして外出しているのであれば、雨は歓迎できない天気のように思うのだが……。しかしまあ、この雨は朝からずっと降っているのだから、彼女なりにそれに合わせた服装をした結果がこれなのかもしれない。無理やりそう考えることもできる。
「せっかくの休日も、通院で潰れてしまっては寂しいものです。ところで、僕がずっとここにいると知っているあなたの方も、相当長居をしているみたいですけど」
「私はさっきここへきたのよ。夕方から続いた野暮用が、ようやく終わったものだから」
なるほど。僕が眠りこけている姿を、彼女は病院を訪れたときから見ているのだ。そして今になって外の休憩所にやってきたらしい。
「お見舞いですか。優しいですね」
「そんなんじゃないわよ、野暮用だもの。どちらかと言えば、お仕事かな。ここへくるのは、だいたいお仕事」
こちらに関しても、まったく辟易する感じはない。休日まで仕事をして、それに不平一つないとは、とても殊勝なものだと思った。
「それで、あなたの方はどうしてここへ? 患者さんには見えないから、あなたこそ誰かのお見舞いなのかしら?」
彼女は気さくな笑顔で僕との話を続けようとする。
対して僕の方が、その笑顔の一割分の笑みも作れないことについては、何だか少し申し訳ない気持ちになった。
「そうだったら……いいですよね。でも実は、今日は僕が医者にかかりにきました。といっても軽いカウンセリングで、今日が初診だったんですけど」
「あらあら、どこか具合が悪いのかしら? とてもそんな必要があるようには見えないけれど」
そんなことを言われても、それは回答に困る質問だった。おそらくはきっと、僕の何処かには間違いなく欠陥があるのだろうが、それが何なのかは僕には答えられないからだ。わかれば、わざわざここへはこない。
だから僕は、そんな問いかけを誤魔化す意図も含め、会話の方向を変えることにした。
「あなた、面白いですね。こんな……見るからにつまらない話しかできなさそうな僕に声をかけて、そのまま話し込んでいるんですから」
彼女は問題なく、こちらの用意した話に乗ってきてくれる。
「つまらないかしら? そんなことないわ。あなたはとても魅力的よ。あなたのこと、もっと聞きたいわ。良ければ聞かせてくれないかしら?」
「いいですけど……きっと面白くも何ともないですよ」
初対面の人間とこんなにも距離の近い接し方をするなんて、僕には滅多にないことだった。あるいはもしかしたら、僕の感じている親近感のようなものを、彼女も感じているのではないだろうかと思うくらいだ。そう思うほどに、両者の間に漂う空気は穏やかで、共感や同調性に満たされている。
「少し前からなんです。僕ちょっと、慢性的に気分が沈んで、気怠いんです。小さなことがすぐに不安に繋がってしまって、無闇にそわそわして、落ち着かなくて……。まるで、そう。何か大事なものを失くしてしまって、それを忘れているような気持ちになって……胸に穴が空いたような気分が、消えないんです。実際は、何も失くしてなんていないと思うんですけど……」
「ふぅん。何かを失くしてしまったなら、やっぱり探すのがいいんじゃない? 自覚がないと、何かを失くしているのかどうかわからないけれど、あなたが何かの遺失を感じるなら、それはきっと正しい感覚だと思うから。自分の感覚は大事にするべきよ」
「そう、ですかね。じゃあ僕は、いったい何を失くしたんだろう。おかしなほど確かな喪失感が、胸の中から消えません。変な病気だったらとか思うと、また少し不安で、あんまり考えすぎて、明日いきなり死んじゃったりしたらどうしようとか思ったりして。まあ、そんなんだから母が、知り合いの医者に診てもらえと言ったんですけど……。死ぬって、どんなことなんでしょうね」
不安なこと、考えると止まらない。死ぬとか。死んだらどうなるとか。じゃあ死ぬって何だとか。そんな哲学的なこと、どこまでも矮小な人間一人という存在に、僕という存在に、わかるわけがないのに。
それでもひたすらに考え続けるのは、空いてしまった穴を見ないように、意識しないように、頭の中を何かで埋め尽くしておかなければならないからだろう。日々何かを考えようとして、けれどついに考えることもなくなって、こんなおかしなことを、きりのないことを考えようとしたのだ。
「気が滅入ったときは、そういうことを考えてしまうのかもしれないわ。不安なのは仕方がない。でも、大丈夫だから、元気を出して。死ぬなんて、考えちゃだめよ。人はそんな簡単に死んだりしない。死ぬべきじゃない。生きていれば、生きようとすれば、景色も変わるわ。難しいことを考える必要なんてないの。生きようとすれば、この世界はとても快適よ」
呟く僕を見て彼女は、励ましてくれる。元気づけようとしてくれたみたいだった。何かを考えようとして、難しいことをぐるぐる考えて陰鬱な気持ちでいる僕に対し、それを止めようとしてくれる彼女の言葉は、いくらか慰めになる。
しかしながら、その言葉だけで、このありありとした不安が拭えるということはないわけで。考えるのを止めてしまうよりは、それなりに真剣に考えてきたことへの、答えがほしいとも思うのだった。大仰ながら、人はどうして死ぬのだろう。少なからず、興味は、ある。
「そう……かもしれないですね。難しいことは、よくわからない。もちろん僕も死にたくはないです。生きることを考えた方が、何倍も楽しいと思う。でも、あなたの意見を否定するつもりはないですが、僕はその、疑問の答えを知りたいとも思っていて……。生きることにも、そしてもちろん死ぬことにも意味があって、僕はそれを感じてみたいんです。今までこんなこと、欠片も思ったことがなかったのに……本当にどうかしている自覚もあるんですけど……」
そして僕の小さな抵抗は、思いの外、彼女に対して強く届いたらしい。発言の刹那、虚を突かれたような表情をした彼女は、やがて優しく微笑むように口元を引き上げて、いっそう穏やかに言葉を返した。
「へぇ……。なるほどなるほど。落ち込んでる割には、芯はあるわね。思ってたよりは元気そうかも。しかもちょっと面白いわ。魅せるじゃない、あなた」
彼女は微笑みをみるみるうちに笑顔に変えて、無邪気な子供のように目を細めていく。嬉しそうで踊るように突然立ち上がり、片の掌をこちらに向かって差し出しつつ、突拍子もないことを口にする。
「ま、死んじゃったらどうのなんて考えちゃうのは、多分その喪失感にあてられたのよ。でも死ぬ方はともかく、生きる意味を考えるのは、大事なことね。あなたに声をかけてよかったわ。ねぇ、私についてこれば、その喪失感、綺麗さっぱり消し去ってあげる」
僕はその彼女の言葉に、そして彼女の動作に合わせるように顔を上げ、瞼を見開いて目を丸くした。
「い、いきなりどうしたんですか?」
「伝わらなかった? だから、あなたのその悩みを、私が何とかしてあげるって言っているのよ」
僕の悩みを、この喪失感を……消す? このどうしようもない空白の気持ちを……彼女が? そんなことが、果たして可能なのだろうか。
憶測でものを断言するつもりはないけれども、この着物姿の見知らぬ女性に、そんなことができるとはとても思えない。彼女は心理学者でもカウンセラーでも、はたまた陰陽師でも未来預言者でもないだろうから。いや、もし仮にその中の一つに当てはまるとしても、僕の件に関して、解決が見込めるかどうかは微妙なところだけれども。
「そんな、まさか。医者には、まるっきり異常はないと言って、帰されたんですよ」
「そりゃあそうね。あなたのそれは、お医者さんじゃあちょっと無理よ。分野が違うもの。遺失者の救済は、病気の治療とは勝手が違う」
「遺失……者……?」
なんて聞き慣れない響きなのだろうと、僕は思った。おそらくはきっと、僕のことをさして言った表現なのだろうが、しかしながらあまりピンとくることはなかった。
「勘違いではないと思うわ。あなたはやっぱり、失くしている。まあ、私も人のことを言えた立場では、ないのだけれどね」
彼女は何を言っているのだろう。僕は何を聞いているのだろう。会話のキャッチボールが、いまいち成り立っていない気がする。きっとそう感じているのは、僕一人だけなのだろうけれど、だからこそなおさら、会話を止めるタイミングが見つからなかった。
「特にね、寿命の遺失は、お医師さんには荷が重いわ」
「…………寿、命……?」
「そう、私にはわかる。あなたの器からこぼれ落ちたものの正体。それは、あなた自身の、寿命のことよ」
………………。
ついに僕の口は、いや脳は、オウム返しすらも不可能な領域の会話に困惑し、彼女から得られる情報の全てを遮断してしまいたいと嘆く。やがてぱたりと沈黙が落ちて、無言を通して僕が表すことができるのは、唖然の意思ただ一つだけだった。
「あら、あまりにびっくりして言葉がないかしら。それとも、信じてもらえなかったかな?」
その推測は、どちらも等しく正しいと言えた。彼女が僕の顔を覗き込む間も含め、数秒を通して思考が止まる。
ただ、笑顔の彼女は、たとえそうだとしても全然構わないといった様子で……これなら素直に答えても、気分を害する心配はないみたいだと、僕は感じた。
回らない神経信号を、必死に僕は動かそうとする。
「……半信半疑って、感じですかね。今は僕の心身の何もかもが、置き去りでついていけていないようです」
「そう。じゃあ、まずは落ち着いて、ちゃんと信じて、順応して頂戴ね。私の話をきっかけにして自覚が芽生えれば、あとは自然に飲み込めると思うから。とにもかくにも、あなたは寿命を失くしているわ。そのまま取り戻さなければ、遠くないうちに死が訪れる。程度からするに、余命は残り二年弱ってところかしら。どう? 少しは納得してもらえるといいな」
「えっと……まあ……」
その場凌ぎの反応だった。
冴えない返答に彼女は悪戯な笑みを浮かべ「本当かな」とからかう。
「やっぱり、今すぐには理解が追いつかないだろうし、わからないのも無理はないでしょうね。でも、これ以上わかりやすい説明は、私には不可能だわ。今夜一晩良く眠って、改めて考え直してみたらどうかしら。全ては、あなたの遺失の自覚から。自分が何を失くし、それを探そうという意志を、想起するところから」
そうして彼女の豊かな表情はまた移り、深く優しく、柔らかに輝く。
「大丈夫よ。なくしたものは、消えて散ってしまうわけではないの。今あなたの手元にないだけで、必ず何処かに存在する。だから探せばいいじゃない。私が手伝ったら百発百中よ? 根拠はないけど自信はあるわ!」
着物には到底似合うはずもない 、ガッツポーズという勇ましい姿。彼女にこそ自覚はないのだろうが、あまりの格好の非現実性に、僕の方は笑えてしまった。とても隠すことのできない衝動で、クスッと思わず破顔する。
「根拠のない自信を、どう信じたらいいんですか。逆に不安にさせますよ、相手を」
「経験則よ。そこに理由が伴わなくても、今までそうだったんだから、これからもそうなの」
「そんなもんかなぁ……」
彼女の言葉に、こちらを安心へと導く要素は少なかった。けれども、放っておいたところで、やはり僕の気持ちが晴れることはないのだから、これはこれで、駄目で元々の美味しい話なのかもしれなかった。
僕の表情を見て軽く頷くと、彼女はゆっくりと隣の椅子から立ち上がる。
「さて……雨はやっぱり止まないわね。この傘、あなたに貸してあげるから使いなさいよ。私は大丈夫だから」
差し出されたのは、白の下地に紅の花柄が入った、大きめの傘。彼女一人には十分すぎるほどの半径を持った、それはそれはさぞかし高価そうな和傘だった。
「え……こんな立派な傘、借りられませんよ。それなら僕は、走って帰りますから」
「遠慮しないで。気怠い中、お話に付き合ってくれたお礼だもの。それにあなたは、また私を訪ねるでしょうから、なんならそのときにでも返してもらうわ」
僕は、差し出されたものをやんわりと押し戻す仕草を取った。
「駅前にあるオフィス街のビルの中にね、一階がトワイライトっていう喫茶店になっているビルがあるの。午後の二時からしか営業しないおかしな店だから、すぐにわかると思う。そのビルの四階に事務所があるから、気が向いたら訪ねてみて。私はだいたいそこに居る」
彼女はニコッとしながら髪を跳ね除け、それと同時に、例の傘を持つ手を開いて放った。
落としてはいけないという思いから、僕は咄嗟にそれを受け取ってしまう。
だがきっとこれは、彼女の狙いの内だったのだろう。僕はそれには、傘を受け取ってから気付いたのだった。
「……わかりました。近いうちの晴れた日に、この傘を返しに行きますよ。ありがたくお借りします」
仕方なく僕は、受け取った傘を地につけないように提げて、彼女を見つめながら謝辞を述べる。
それを確認すると彼女は、コツコツと軽い草履の音を響かせ、野外休憩所の屋根伝いを歩き去ろうとするのだった。その前にふと、振り返ることなく一つの質問を残して。
「律儀ね、嬉しいわ。ところであなた、今日が初診だって言っていたわね。ということは、この病院へくるのも初めてなのかしら?」
「そうですよ。病院はあまり、好きではないんですけどね」
「そう……」
表情は見えない。あれだけ表情の変化に富んだ彼女なのに、それが見えなくなると、ただそれだけで何を考えるのかわからなくなる。彼女の声には、それくらいミステリアスな抑揚が含まれていた。
「あの……どうかしましたか?」
「いえ、以前からこの病院にあなたがきている気がしたのだけれど、気のせいだったのかなって」
「……? ええと、そうですね。それは気のせいだと思いますよ。僕がここへくるのは、間違いなく今日が初めてです」
嘘を言うつもりはない。できることなら病院なんて、僕にとってはたとえ一回でも来訪を避けたい場所なのだ。
「……そっか。とにかくありがとう。あなたに会えて、今日は良い日よ。楽しかったわ。再び会える日をまた、待っているわね」
「いえ、お礼を言うのは僕の方です。あなたに話を聞いてもらえて、よかったです」
「いえいえ、どういたしまして。それじゃあね、川澄詞くん」
そのとき不意に呼ばれた自身の名が、僕の中では強く響いた。なぜ名前を知っているのだろうという思いとともに。
「え……名前――」
「私は唯花よ。音瀬唯花。訪ねるときに必要でしょう?」
そして続きには、彼女の名が告げられる。
思うに彼女は、話しかけてきた当初から、僕の名前を知っていたに違いなかった。けれどもそれをあえて使わず、一般的な二人称で僕を呼んでいたのだ。彼女なりの、意味深なユーモアだったのかもしれない。
けれど、彼女はどうして僕の名前を知っていたのだろう? 気にならないはずはなかった。これも、次回訪ねたときにでも、種明かしをしてくれるだろうか。
再び歩み始めた彼女の足は、ついに僕が驚くうちに、視界から外れる曲がり角の直前まで届いていた。完全に姿が見えなくなったら僕も立ち去ろう。頭の隅ではそう考えていたが、最後の最後で彼女はわずかに振り返るのがわかった。目元は前髪で隠れ、わずかに口元だけが見える角度。そんな絶妙な位置まで首を回し、この世の何もかもを魅せるほどの妖艶を纏いながら、そっと囁く。
「また……ね」
彼女はやはり笑っていた、のだと思う。聞こえるはずのないその声が聞こえた。だからわかった。
先の未来に僕との絶対の再会を確信する声音。そこに込められた感情が何なのか、僕には伝わった。
感じたのは、彼女の胸にある期待――。
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