33 / 36
Menu 5『Assam』
『Assam』③
しおりを挟む
久しぶりに訪れて、カフェ『TEAS 4u』は少し雰囲気が変わっていた。
内装は変わらずダークブラウンでアンティークなイメージに統一されているが、南の窓には可愛らしいサンキャッチャーが吊るされていてきらきらと光を跳ねている。ボックス席前の本棚の上にはお店の雰囲気を崩すかどうかギリギリというくらいの賑やかなぬいぐるみたちが並んでおり、カウンターの奥には写真が二枚――真っ青で上下のシンメトリーが印象的な湖の景色と、店の前で撮った店主さんと女の子のツーショット。
二年前は、たぶんもっと、ずっと質素だった。必要なもの以外はほとんど置いていないような、シックというか閑寂というか、そんな感じの店だった。
「お店の中、ちょっと華やかになったんじゃないですか?」
私がカウンターに座りながら尋ねると、店主さんは何やらふっと笑みをこぼす。
「バイトを一人雇ったんですが、そいつがまあ、色々と物を増やしていくんですよ」
「へぇー、そうなんですね!」
「店の雰囲気に合わないものばっか持ってくるんで、困りものなんですけどね」
店主さんはやれやれと憎まれ口で答えたが、相変わらず表情は柔らかかった。おそらくそのバイトというのは、後ろの写真の女の子なんだろうな、とすぐにわかる。
「面白い子じゃないですか」
私がそう言うと、店主さんは洗い物から顔を上げてこちらを向き「まあ、そうですね。可愛いやつです」ともう一度小さく笑った。
そのささやかな微笑み一つで、店主さんのその子への好意がよくわかる。
私は同じように笑って相槌を打とうとして、しかし笑顔が、わずかに歪んだ。ああ、嫌だな、と反射的に思う。今の私は、こういうことに敏感になりすぎている。
「少し、浮かない顔ですね」
そして、せめてうまく隠せたと思った内心をそんなふうに言い当てられてしまい、私の表情はみるみる曇った。
「あ……えっと、実は……」
口にしようとして一瞬迷ったが、結局のところ止まらなかった。
「二年前にこのお店に来たとき、ジンクスのお話を、してもらったじゃないですか。そのお話通りに、あれから出会った方がいて……それで、付き合うことになったんです。少し前から近くのアパートで同棲していて、今日は、その人との結婚式の打ち合わせをしてきたところで……」
「それは、お疲れ様です。それから、大変おめでとうございます」
「はい。でも……」
私はここへ来る前に目にしてしまった柊一郎さんの指輪のことをぽつぽつと話した。私の口から落ちていく言葉たちは自分でも驚くくらいにひどく沈みきっていて、かつ要領を得ないものだった。
店主さんは洗い物をやめてカウンターの向かいまできてくれる。
俯いたまま先を続けた。
「結婚したいって言ったとき、彼は喜んでくれましたけど……でも今思えば、両親への挨拶のときも、式の準備を始めるときも、結婚指輪を選んでいるときも、なんだか、あんまり……乗り気じゃなかったような気がして……」
思い返すと、何から何まで不安になってくる。ああ、そうだ。私の中に溢れんばかりに渦巻いているのは、きっと不安だ。私は不安で仕方がないのだ。
私にとっての結婚は、喩えるなら、窓の明かりのようなものだった。夕暮れの中、小さな家の窓にふっと灯る淡い明かり。幸せな家庭を象徴するかのようなその明かり。
こんなことを思い始めたのは、社会人として勤め出して少しの頃だ。私は毎日、慣れない環境に疲弊しつつ駅から実家へ歩いて帰っていて。
あるときその帰り道の傍らに、こじんまりとした新居が建った。昔からずっと田畑だったその土地に現れた綺麗な家は、私の高校の同級生が結婚して建てたものなのだと母から聞いた。
就活のさなか、無理くり予定を調整して参列した彼女の式を思い出す。そして彼女の新居からいつも必ず洩れている優しい明かりは、未だ私の知らない至上の幸福を想像させた。
私は、それがたまらなく羨ましかった。
いつからだろう。他人の幸せを祝う影に、ちくりと嫉妬が見え隠れするようになったのは。
いつからだろう。ただ窓に灯る明かりなんてありふれたものが、遠くなってしまったのは。
その暖かい、心に灯るような幸せに、私も手を伸ばしたかった。柊一郎さんと結婚すれば、それが手に入るのだと思っていた。
でも、本当にそうだろうか。彼の思い描いた幸せは、私の思い描いた幸せと重なっているのだろうか。私は柊一郎さんを、運命の人だと思っている。けど……彼は?
人は誰しも出会うべき人と出会って、添い遂げて、幸せになる。現実がそんな夢物語ではないことくらい、私だってわかっている。夢見る少女のような部分だけで、私ができているわけではない。
好きだから、結婚する。その通りだけど、それだけじゃない。自分のことばかりではいけない。私が甘えるばかりでは、私が支えてもらうばかりでは、私ばっかりが彼を好きじゃあ……。
抱く『好き』の量があまりにかけ離れた二人の結婚は、はたしてうまくいくのだろうか。こんな私は、本当に彼に相応しいだろうか。胸の中で小さな不安の芽が育ち、やがて恐怖の実を付けるそのさまを、私は止めることができない。
「彼との交際は、私の告白で始まりました。そもそも出会ったときに声をかけたのも私からで、同棲だって、私が一緒に住みたいって彼にお願いした結果です。そして今回の結婚も……いつもいつも、私からです。もしかして、好きなのは私ばっかりだったのかな。彼は私のこと、別にそこまで好きじゃないんじゃないかな。そんなふうに、思えてきちゃって……」
「……そうでしたか」
しかし店主さんは、ただ一言、そう答えただけだった。
いや、考えてみれば当たり前か。こんな話、いきなり他人にされたって困る話だ。最後のほうなんかほとんど声になっていなくて、聞き取れなかったかもしれないし。
それから、店主さんは湯を沸かして何か作業をし始めた。
一方私はといえば、身勝手に弱音を吐露してしまった恥ずかしさから、静かに肩を縮めていることしかできない。
しばらくしてまた戻ってきた店主さんは、穏やかな声で言った。
「そういえば、まだご注文をお伺いしてなかったですね。どうでしょう。よければ今日は、僕のほうからおすすめをご提供しても?」
「え、あ……はい」
私はつい反射で答えてしまった。
それでも店主さんは嬉しそうに頷いて、既に手元に用意してあったらしきポットに気持ちよく湯を注ぐ。そしてきっかり三分後、メニューが目の前に現れた。さっぱりした薄い緑色の、お洒落なデザインカップと一緒に。
「では、どうぞ。こちらはインド産のアッサム、中でもゴールデンティップスという収穫量の少ない枝先の新芽を集めた、フラワリー・オレンジ・ペコーという等級のものでございます。深い褐色が美しく、どっしりとしたコクと渋みに加え、まるで糖蜜を思わせるような香りが売りの紅茶ですね。それから――」
続いて出てきたのはミルクピッチャーだ。手のひらサイズの可愛いピッチャーに、真っ白いミルクがたっぷりと用意されている。
「アッサムはこうした特徴から、紅茶の中でもミルクティーに非常に適した銘柄ですので、ぜひそちらも、お楽しみ頂ければと思います」
「……はい、ありがとうございます」
「ところでお客さんは普段、ミルクと紅茶、どちらを先にカップに注ぎますか?」
「え?」
出し抜けに尋ねられて私は呆けた声を出してしまった。店主さんの意図がわからなくて、またしてもただただ答えることしかできない。
「えっと……紅茶、ですかね」
「それはどうしてですか?」
どうして、と聞かれても……正直そんなことは一度も考えたことがなかった。みんながそうするから、流れで自分もそうしていただけだ。うーん、と首を捻って続ける。
「あの、だって……そう、薄める前の紅茶がどのくらい濃いのかわからないと、ミルクを入れる量は、決められないじゃないですか? そもそも私は、ミルクを入れるかどうかも、紅茶の味見をしてから決めることのほうが多いです」
「ええ、そうですよね」
場当たり的に出た私の言葉に、店主さんは笑顔で同意を示す。そして言った。
「かつてイギリスの作家であり、紅茶にとても詳しかったジョージ・オーウェルという人物が『おいしい紅茶をいれるための十一ヶ条』なるものを提唱しているんですよ。その中で彼は『紅茶を先にカップに入れ、あとからミルクを入れる』――つまりは『ミルクインアフター』を主張しています。ですが、それ以前のイギリスの家事指南書によれば、紅茶よりも先にミルクを入れる『ミルクインファースト』が正しいとされていたんです」
「そ……そう、なんですか」
「はい。でも、やっぱりお客さんみたいに考える方だってたくさんいました。そうやってイギリスでは百五十年もの間、ミルクの後先を決める論争が続いているんです」
「ひゃ、百五十年!?」
私は驚いてたまらず声を上げる。
店主さんはそんな反応を予想していたのか、くすっと笑ってさらに続けた。
「ええ、ずーっとです。で、ついにはイギリス王立化学協会が出てきて『一杯の完璧な紅茶のいれ方』を決めました」
王立化学協会って……もうなんというかスケールが違う。紅茶のためにそこまでするの?
「……すごいですね。それで、どうなったんですか?」
「会の結論は『ミルクインファースト』。理由は、熱い紅茶の中にミルクを注ぐと、初めのほうに入れたミルクが沸騰してタンパク質の変質が起こり、滑らかさを失うだけでなく、硫化水素の臭いが紅茶の香りの邪魔をするから。逆に、冷めたミルクの中に少しずつ紅茶を注ぐ場合は、これが起こらないという見解らしいです」
「はあ……じゃあ、ミルクを先に入れるのが、本当のマナーなんですね」
「まあでも、僕はいつも、あとからミルクを入れますよ。僕の知る限り、だいたいの人はあとに入れます」
「え、ええっ!?」再三、声を上げてしまう私。「それじゃあ話が違うじゃないですか」
店主さんも面白がっているのか「ははっ」とこぼす。
「はい。でもやっぱりミルクが先だと、好みの濃さに調節するのが難しいんですよね。ミルクが少なければちょうどいい濃さのときに、紅茶はカップの半分くらいしかないかもしれない。反対にミルクが多ければ、紅茶はカップから溢れます」
「それは……そう、ですけど……」
「あと、そもそもミルクインファーストだと、ワンカップ用のティーバッグも使いにくくなりますし。なんだかんだ総合的に考えて、あんまり現実的ではないんですよ」
そう言われてしまうと、確かにそんな気もしてくる不思議。
「なぁんだ。じゃあ結局、先でもあとでも、どっちでもいいんですねー」
私はがくっと肩を落とし、言って――自分でふと気づいた。
店主さんはそんな私を見て、いっそう柔らかい笑みを浮かべる。
「そうですね。どっちでもいいと、僕は思いますよ。好きになるのが、先でも、あとでも」
ああ、この人は初めからこれが言いたかったんだと、ここまでこればさすがにわかる。でもこんなの、なんて回りくどいっていうか抽象的っていうか……いや、この場合は粋というのか。
たぶん私は、あの泣き言の直後にあからさまな諭され方をされても、まともに受け止められなかっただろう。不安に取り憑かれたときの心というのは、とかくそういうものだから。
店主さんがそれをわかっていてこんな話をしたのかはわからないが、少なくとも今、私の心は驚くほど軽い。あまりに自然に、ふわっと落ち着いた声が出た。
「そっか……好きになるのが先でもあとでも、別にいいんだ。私だって、彼を疑いたいわけじゃない。私が自分に自信がないから、不安で不安で……だけど、彼への気持ちが一方通行だって、決まったわけじゃないですよね」
「おっしゃる通りです。相手の気持ちを考えるのと、決めつけるのは違います。あまり憶測で判断しすぎず、大事なことは相手に直接訊くべきではないでしょうか。相手がまだそばにいるのであれば、その行動に隠れた真意を、あなたは尋ねることができるはずです」
私はもう一度、店主さんの顔を見て「はい」と答える。
「私、逃げずにちゃんと話します。それで結婚、考え直さなくていいように、頑張りたいです」
意識的に笑みを作った、そのときだ。
背後で大きな音がした。耳をつんざくドアベルの音。そして――。
「陽凪さん!」
と私の名前が叫ばれる。
驚いて咄嗟に振り向いた先、そこにあったのは、これまで見たこともないほどの動揺を露わに駆け込んできた、柊一郎さんの姿だった。
内装は変わらずダークブラウンでアンティークなイメージに統一されているが、南の窓には可愛らしいサンキャッチャーが吊るされていてきらきらと光を跳ねている。ボックス席前の本棚の上にはお店の雰囲気を崩すかどうかギリギリというくらいの賑やかなぬいぐるみたちが並んでおり、カウンターの奥には写真が二枚――真っ青で上下のシンメトリーが印象的な湖の景色と、店の前で撮った店主さんと女の子のツーショット。
二年前は、たぶんもっと、ずっと質素だった。必要なもの以外はほとんど置いていないような、シックというか閑寂というか、そんな感じの店だった。
「お店の中、ちょっと華やかになったんじゃないですか?」
私がカウンターに座りながら尋ねると、店主さんは何やらふっと笑みをこぼす。
「バイトを一人雇ったんですが、そいつがまあ、色々と物を増やしていくんですよ」
「へぇー、そうなんですね!」
「店の雰囲気に合わないものばっか持ってくるんで、困りものなんですけどね」
店主さんはやれやれと憎まれ口で答えたが、相変わらず表情は柔らかかった。おそらくそのバイトというのは、後ろの写真の女の子なんだろうな、とすぐにわかる。
「面白い子じゃないですか」
私がそう言うと、店主さんは洗い物から顔を上げてこちらを向き「まあ、そうですね。可愛いやつです」ともう一度小さく笑った。
そのささやかな微笑み一つで、店主さんのその子への好意がよくわかる。
私は同じように笑って相槌を打とうとして、しかし笑顔が、わずかに歪んだ。ああ、嫌だな、と反射的に思う。今の私は、こういうことに敏感になりすぎている。
「少し、浮かない顔ですね」
そして、せめてうまく隠せたと思った内心をそんなふうに言い当てられてしまい、私の表情はみるみる曇った。
「あ……えっと、実は……」
口にしようとして一瞬迷ったが、結局のところ止まらなかった。
「二年前にこのお店に来たとき、ジンクスのお話を、してもらったじゃないですか。そのお話通りに、あれから出会った方がいて……それで、付き合うことになったんです。少し前から近くのアパートで同棲していて、今日は、その人との結婚式の打ち合わせをしてきたところで……」
「それは、お疲れ様です。それから、大変おめでとうございます」
「はい。でも……」
私はここへ来る前に目にしてしまった柊一郎さんの指輪のことをぽつぽつと話した。私の口から落ちていく言葉たちは自分でも驚くくらいにひどく沈みきっていて、かつ要領を得ないものだった。
店主さんは洗い物をやめてカウンターの向かいまできてくれる。
俯いたまま先を続けた。
「結婚したいって言ったとき、彼は喜んでくれましたけど……でも今思えば、両親への挨拶のときも、式の準備を始めるときも、結婚指輪を選んでいるときも、なんだか、あんまり……乗り気じゃなかったような気がして……」
思い返すと、何から何まで不安になってくる。ああ、そうだ。私の中に溢れんばかりに渦巻いているのは、きっと不安だ。私は不安で仕方がないのだ。
私にとっての結婚は、喩えるなら、窓の明かりのようなものだった。夕暮れの中、小さな家の窓にふっと灯る淡い明かり。幸せな家庭を象徴するかのようなその明かり。
こんなことを思い始めたのは、社会人として勤め出して少しの頃だ。私は毎日、慣れない環境に疲弊しつつ駅から実家へ歩いて帰っていて。
あるときその帰り道の傍らに、こじんまりとした新居が建った。昔からずっと田畑だったその土地に現れた綺麗な家は、私の高校の同級生が結婚して建てたものなのだと母から聞いた。
就活のさなか、無理くり予定を調整して参列した彼女の式を思い出す。そして彼女の新居からいつも必ず洩れている優しい明かりは、未だ私の知らない至上の幸福を想像させた。
私は、それがたまらなく羨ましかった。
いつからだろう。他人の幸せを祝う影に、ちくりと嫉妬が見え隠れするようになったのは。
いつからだろう。ただ窓に灯る明かりなんてありふれたものが、遠くなってしまったのは。
その暖かい、心に灯るような幸せに、私も手を伸ばしたかった。柊一郎さんと結婚すれば、それが手に入るのだと思っていた。
でも、本当にそうだろうか。彼の思い描いた幸せは、私の思い描いた幸せと重なっているのだろうか。私は柊一郎さんを、運命の人だと思っている。けど……彼は?
人は誰しも出会うべき人と出会って、添い遂げて、幸せになる。現実がそんな夢物語ではないことくらい、私だってわかっている。夢見る少女のような部分だけで、私ができているわけではない。
好きだから、結婚する。その通りだけど、それだけじゃない。自分のことばかりではいけない。私が甘えるばかりでは、私が支えてもらうばかりでは、私ばっかりが彼を好きじゃあ……。
抱く『好き』の量があまりにかけ離れた二人の結婚は、はたしてうまくいくのだろうか。こんな私は、本当に彼に相応しいだろうか。胸の中で小さな不安の芽が育ち、やがて恐怖の実を付けるそのさまを、私は止めることができない。
「彼との交際は、私の告白で始まりました。そもそも出会ったときに声をかけたのも私からで、同棲だって、私が一緒に住みたいって彼にお願いした結果です。そして今回の結婚も……いつもいつも、私からです。もしかして、好きなのは私ばっかりだったのかな。彼は私のこと、別にそこまで好きじゃないんじゃないかな。そんなふうに、思えてきちゃって……」
「……そうでしたか」
しかし店主さんは、ただ一言、そう答えただけだった。
いや、考えてみれば当たり前か。こんな話、いきなり他人にされたって困る話だ。最後のほうなんかほとんど声になっていなくて、聞き取れなかったかもしれないし。
それから、店主さんは湯を沸かして何か作業をし始めた。
一方私はといえば、身勝手に弱音を吐露してしまった恥ずかしさから、静かに肩を縮めていることしかできない。
しばらくしてまた戻ってきた店主さんは、穏やかな声で言った。
「そういえば、まだご注文をお伺いしてなかったですね。どうでしょう。よければ今日は、僕のほうからおすすめをご提供しても?」
「え、あ……はい」
私はつい反射で答えてしまった。
それでも店主さんは嬉しそうに頷いて、既に手元に用意してあったらしきポットに気持ちよく湯を注ぐ。そしてきっかり三分後、メニューが目の前に現れた。さっぱりした薄い緑色の、お洒落なデザインカップと一緒に。
「では、どうぞ。こちらはインド産のアッサム、中でもゴールデンティップスという収穫量の少ない枝先の新芽を集めた、フラワリー・オレンジ・ペコーという等級のものでございます。深い褐色が美しく、どっしりとしたコクと渋みに加え、まるで糖蜜を思わせるような香りが売りの紅茶ですね。それから――」
続いて出てきたのはミルクピッチャーだ。手のひらサイズの可愛いピッチャーに、真っ白いミルクがたっぷりと用意されている。
「アッサムはこうした特徴から、紅茶の中でもミルクティーに非常に適した銘柄ですので、ぜひそちらも、お楽しみ頂ければと思います」
「……はい、ありがとうございます」
「ところでお客さんは普段、ミルクと紅茶、どちらを先にカップに注ぎますか?」
「え?」
出し抜けに尋ねられて私は呆けた声を出してしまった。店主さんの意図がわからなくて、またしてもただただ答えることしかできない。
「えっと……紅茶、ですかね」
「それはどうしてですか?」
どうして、と聞かれても……正直そんなことは一度も考えたことがなかった。みんながそうするから、流れで自分もそうしていただけだ。うーん、と首を捻って続ける。
「あの、だって……そう、薄める前の紅茶がどのくらい濃いのかわからないと、ミルクを入れる量は、決められないじゃないですか? そもそも私は、ミルクを入れるかどうかも、紅茶の味見をしてから決めることのほうが多いです」
「ええ、そうですよね」
場当たり的に出た私の言葉に、店主さんは笑顔で同意を示す。そして言った。
「かつてイギリスの作家であり、紅茶にとても詳しかったジョージ・オーウェルという人物が『おいしい紅茶をいれるための十一ヶ条』なるものを提唱しているんですよ。その中で彼は『紅茶を先にカップに入れ、あとからミルクを入れる』――つまりは『ミルクインアフター』を主張しています。ですが、それ以前のイギリスの家事指南書によれば、紅茶よりも先にミルクを入れる『ミルクインファースト』が正しいとされていたんです」
「そ……そう、なんですか」
「はい。でも、やっぱりお客さんみたいに考える方だってたくさんいました。そうやってイギリスでは百五十年もの間、ミルクの後先を決める論争が続いているんです」
「ひゃ、百五十年!?」
私は驚いてたまらず声を上げる。
店主さんはそんな反応を予想していたのか、くすっと笑ってさらに続けた。
「ええ、ずーっとです。で、ついにはイギリス王立化学協会が出てきて『一杯の完璧な紅茶のいれ方』を決めました」
王立化学協会って……もうなんというかスケールが違う。紅茶のためにそこまでするの?
「……すごいですね。それで、どうなったんですか?」
「会の結論は『ミルクインファースト』。理由は、熱い紅茶の中にミルクを注ぐと、初めのほうに入れたミルクが沸騰してタンパク質の変質が起こり、滑らかさを失うだけでなく、硫化水素の臭いが紅茶の香りの邪魔をするから。逆に、冷めたミルクの中に少しずつ紅茶を注ぐ場合は、これが起こらないという見解らしいです」
「はあ……じゃあ、ミルクを先に入れるのが、本当のマナーなんですね」
「まあでも、僕はいつも、あとからミルクを入れますよ。僕の知る限り、だいたいの人はあとに入れます」
「え、ええっ!?」再三、声を上げてしまう私。「それじゃあ話が違うじゃないですか」
店主さんも面白がっているのか「ははっ」とこぼす。
「はい。でもやっぱりミルクが先だと、好みの濃さに調節するのが難しいんですよね。ミルクが少なければちょうどいい濃さのときに、紅茶はカップの半分くらいしかないかもしれない。反対にミルクが多ければ、紅茶はカップから溢れます」
「それは……そう、ですけど……」
「あと、そもそもミルクインファーストだと、ワンカップ用のティーバッグも使いにくくなりますし。なんだかんだ総合的に考えて、あんまり現実的ではないんですよ」
そう言われてしまうと、確かにそんな気もしてくる不思議。
「なぁんだ。じゃあ結局、先でもあとでも、どっちでもいいんですねー」
私はがくっと肩を落とし、言って――自分でふと気づいた。
店主さんはそんな私を見て、いっそう柔らかい笑みを浮かべる。
「そうですね。どっちでもいいと、僕は思いますよ。好きになるのが、先でも、あとでも」
ああ、この人は初めからこれが言いたかったんだと、ここまでこればさすがにわかる。でもこんなの、なんて回りくどいっていうか抽象的っていうか……いや、この場合は粋というのか。
たぶん私は、あの泣き言の直後にあからさまな諭され方をされても、まともに受け止められなかっただろう。不安に取り憑かれたときの心というのは、とかくそういうものだから。
店主さんがそれをわかっていてこんな話をしたのかはわからないが、少なくとも今、私の心は驚くほど軽い。あまりに自然に、ふわっと落ち着いた声が出た。
「そっか……好きになるのが先でもあとでも、別にいいんだ。私だって、彼を疑いたいわけじゃない。私が自分に自信がないから、不安で不安で……だけど、彼への気持ちが一方通行だって、決まったわけじゃないですよね」
「おっしゃる通りです。相手の気持ちを考えるのと、決めつけるのは違います。あまり憶測で判断しすぎず、大事なことは相手に直接訊くべきではないでしょうか。相手がまだそばにいるのであれば、その行動に隠れた真意を、あなたは尋ねることができるはずです」
私はもう一度、店主さんの顔を見て「はい」と答える。
「私、逃げずにちゃんと話します。それで結婚、考え直さなくていいように、頑張りたいです」
意識的に笑みを作った、そのときだ。
背後で大きな音がした。耳をつんざくドアベルの音。そして――。
「陽凪さん!」
と私の名前が叫ばれる。
驚いて咄嗟に振り向いた先、そこにあったのは、これまで見たこともないほどの動揺を露わに駆け込んできた、柊一郎さんの姿だった。
0
あなたにおすすめの小説
12年目の恋物語
真矢すみれ
恋愛
生まれつき心臓の悪い少女陽菜(はるな)と、12年間同じクラス、隣の家に住む幼なじみの男の子叶太(かなた)は学校公認カップルと呼ばれるほどに仲が良く、同じ時間を過ごしていた。
だけど、陽菜はある日、叶太が自分の身体に責任を感じて、ずっと一緒にいてくれるのだと知り、叶太から離れることを決意をする。
すれ違う想い。陽菜を好きな先輩の出現。二人を見守り、何とか想いが通じるようにと奔走する友人たち。
2人が結ばれるまでの物語。
第一部「12年目の恋物語」完結
第二部「13年目のやさしい願い」完結
第三部「14年目の永遠の誓い」←順次公開中
※ベリーズカフェと小説家になろうにも公開しています。
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
まだ見ぬ未来へ駆け抜けて!
小林汐希
ライト文芸
2年5組の生徒:松本花菜(17歳 高校2年生)
2年5組の担任:長谷川啓太(23歳 教師歴1年目)
幼い頃から、様々な悩みを抱えながら過ごしてきた花菜。
それは幼い頃に父との離別を経験した家庭環境だったり、小学校の最後に作ってしまった体の古傷であったり。
学校外の時間を一人で過ごすことになった彼女の唯一、かつ絶対的な味方でいてくれたのが、近所に住む啓太お兄ちゃんだった。
しかし年の離れた二人の関係では仕方ないとはいえ、啓太の大学進学や環境変化とともに、その時間は終わりを迎えてしまう。
ふさぎ込む花菜を前に、啓太は最後に「必ず迎えに来る」という言葉を残して街を離れた。
言葉を受け取った花菜は、自分を泣かせないための慰めだったという諦めも入りつつ、一方で微かな希望として心の中で温め続けていた。
数年の時を経て二人が再び顔を合わせたものの、もはや運命の意地悪とでもいうべき「担任教師と生徒」という関係。
最初は様子伺いだったけれど、往時の気持ちが変わっていないことを再確認してからは、「一人じゃない」と嬉しいこと・辛いことも乗り越えていく二人には少しずつ背中を押してくれる味方も増えていく。
再会した当初は「おとなしい終末的運命キャラ」になっていた花菜も次第に自信を取り戻し、新米教師の啓太も花菜のサポートを裏で受けつつ堂々と教壇に立ち続けた。
そんな互いを支えあった二人の前に開けた世界は……。
たった一つだけの約束を胸に、嬉しいときは一緒に喜び、悲しいときは支えあって走り抜けた二人の物語です。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
どんなあなたでも愛してる。
piyo
恋愛
遠征から戻った夫の姿が変わっていたーー
騎士である夫ディーノが、半年以上の遠征を終えて帰宅した。心躍らせて迎えたシエラだったが、そのあまりの外見の変わりように失神してしまう。
どうやら魔女の呪いでこうなったらしく、努力しなければ元には戻らないらしい。果たして、シエラはそんな夫を再び愛することができるのか?
※全四話+後日談一話。
※毎日夜9時頃更新(予約投稿済)&日曜日完結です。
※なろうにも投稿しています。
紙の上の空
中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。
容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。
欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
✿ 私は夫のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
『 ゆりかご 』
設楽理沙
ライト文芸
- - - - - 非公開予定でしたがもうしばらく公開します。- - - -
◉2025.7.2~……本文を少し見直ししています。
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
――――
「静かな夜のあとに」― 大人の再生を描く愛の物語
『静寂の夜を越えて、彼女はもう一度、愛を信じた――』
過去の痛み(不倫・別離)を“夜”として象徴し、
そのあとに芽吹く新しい愛を暗示。
[大人の再生と静かな愛]
“嵐のような過去を静かに受け入れて、その先にある光を見つめる”
読後に“しっとりとした再生”を感じていただければ――――。
――――
・・・・・・・・・・
芹 あさみ 36歳 専業主婦 娘: ゆみ 中学2年生 13才
芹 裕輔 39歳 会社経営 息子: 拓哉 小学2年生 8才
早乙女京平 28歳 会社員
(家庭の事情があり、ホストクラブでアルバイト)
浅野エリカ 35歳 看護師
浅野マイケル 40歳 会社員
❧イラストはAI生成画像自作
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる