Dear “Dear”

りずべす

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第四章

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 あれから数日、翠は放課後になると風のように颯爽と消えた。どうやら珀に至ってはしばらく顔を合わせてすらいないようで、俺が先日、資料を押しつけられた話をすると
「あ、よかった。生きてたんだ。心配だなあ。元気そうだった?」
 などと尋ねてくる始末。いや、お前ら姉弟だろ。家で会わねーのかよ。と突っ込みたくもなったものだが、二人の境遇を考えると、それも冗談ではないのだろう。
 そんな調子で、一人で漠然と頼まれた調査のことを考えながら週末を迎える。翠が紙面で調査内容をまとめてきたので、俺もそれに合わせようとレポートソフトで文章を練った。
 とはいえ、こちらから提供できるネタのストックはもう既に尽き気味で……ゆえに俺は、ここまで得られた情報をまとめがてら、多少の憶測を含めつつ取り留めもなく書き連ねていくことにする。
 午後になってしばらく経ち、集中力の枯渇を感じた俺は、両親とそのディアが外出してしまって誰もいないリビングに下り、随分と遅めの昼食をとった。俺の両親はともにディアについての研究を仕事としており、大抵は休日でも出勤する。一人の家はもうすっかり慣れたもの。
 食べ終わった食事を片づけていると、突然シータに着信が入った。短いメッセージだった。
『シエスタ代わりにお茶でもいかが?』
 数個の文字だけが並ぶ簡易なそれ。発信元は不明。しかし、誰からのものかは直感で分かった。おそらくは雲の上のあの場所にいる、彼女――あれ? 連絡先なんて教えたっけ?
 わずかな疑問が一瞬だけ脳裏をよぎったが、しかしすぐに注意は別のところへ向く。俺は、自然と唇の片端が引き上がるのを自覚した。ちょうどいい。このまま翠に伝えるのはどうかと思っていた、憶測混じり見解を聞いてもらおう。
 俺は手早く外出の準備を済ませ、通い慣れた目的地を目指した。


 地下鉄で都心駅を訪れる。その周辺は、いつかと同じく、百貨店を中心として人でごった返していた。だが今回、それは既にわかっていたことだ。何しろ今日は、新型リングデバイスの受け渡し日なのだ。この百貨店で予約をした人たちが、与えられた整理番号にしたがって時間別の受け取りに訪れている。梅雨の大雨の中、わざわざご苦労なことである。
 聞けばどうやら、あのデバイスは非常に前評判が良く、人によっては数ヶ月待ちの状況なのだとか。まあ、俺もどちらかといえば欲しいのだが……ちょうどいいから今回の調査の報酬に、珀か翠にでもせびろうかと密かに考えている。
 俺は人混みをかいくぐりながら、百貨店の上にあるタワーの展望台を目指した。天高く聳えるその場所へと直接繋がるエレベータは、百貨店の正面入り口とは別の、少し脇の方にある。大層な予算がつぎ込まれたと見える、非常に瀟洒な様相のそれ。定員百人を上回る凄まじい積載力。高級感ある大理石のような床。全面ガラス張りの広大な空間。そういった立派なものに、しかし今となっては自分しか乗る気配がないというのは、まさしく栄枯盛衰の象徴のようではないか。
 俺が目指す最上階のボタンを押して扉を閉めると、いよいよ箱状の空間が揺れて浮き上がる。それと同時に、この心もふわりと踊る。いざ、地上を離れて空の旅へ。そう意気込みながら、眼下に広がる傘の花々をぼんやりと眺め――しかし不意に。
 その光景が目に飛び込んできたのは、まさしく偶然だったろう。
 大きめで無地の赤い傘。見覚えのある男性が持つ一本のそれに、さらに見覚えのある女性が一緒に入っている。記憶と格好が違うので一瞬だけ気づくのが遅れたが、間違いない。
 ――タカヤ先生と佐倉先生。
 落ち着いた色合いのカジュアルジャケットに細めのパンツ。タカヤ先生は長身なので、そういった格好がよく似合う。対して佐倉先生は、薄手のカーディガンにフレアタイプのロングスカートという清楚な出立ち。私服の二人、プライベートの二人を見るのは初めてだった。
 既に空の世界へ向きつつあった俺の意識が、驚きを伴って一手に地上へと引き戻される。俯瞰の際、ちらりと見えた二人の様子。互いにしかと手を繋ぎ、一つの傘の下で寄り添って行列に並び、慈しむような笑顔で目を細めて見つめ合う、その様子。どこからどう見てもまるで恋人同士にしか見えないそれは、遠く離れた場所にいる俺の胸に、強烈な齟齬を抱かせたのだ。
 一瞬だ。一瞬しか見えなかった。でも、感じた。
 あの二人の振る舞いは、明らかにディアと人間のものではない。ディアに対する、人間に対するものではない。違う。そうではなくて、もっと別の……それを越えた、似て非なるもの。
 では、それはいったい、何なのだろう? タカヤ先生が佐倉先生に触れる手に、込められたものは何だろう? 佐倉先生がタカヤ先生を見つめる眼差しに、込められたものは何だろう?
 おそらくそれは、導き出すに困難なものではないだろう。きっと俺は、それを知るのに必要なものを、もう既に持っているのだ。
 考えるうちにいつの間にか、視界は雲に包まれていた。透明な壁に打ち付ける雨粒。けれどそれも、徐々に量が減っている。この雲の層を突き抜ければ、上は赤々と輝く常晴れの世界。
 そして知らぬうちに、さきほど抱いた齟齬という感情が、俺の中である種の確信へと変わっていることに気づいた。これから向かう先で、彼女に聞いてもらう憶測の、その、根拠のない確信へと。


 エレベータが停止し、展望台への到着が告げられる。俺は静かに扉が開くのを待った。しかし、意外なことにそれよりも早く、扉を挟んだ向こう側から声が聞こえた。
「どうして、あなたが今ここにいるんですか!?」
 何だろう。いつも静かなこの場所にしては意外である。いや……違うな。真に意外なのは、その声に聞き覚えがあることだ。語尾を強め、少し苛立っているような印象を受けるそれは、普段俺が学校で、快活で晴れやかなものとして聞いている声。遠山翠の声と似ていた。
「一人での外出は、晴れた日の夕方だけという約束では?」
「あら、今はちゃんと夕方だし、ちゃんと晴れているじゃない?」
 対して、こちらは明らかにアイリスさん。咎めるような相手の語調を、まるで意に介さぬ飄々とした返事だ。
「ここは雲の上ですよ。晴れているのは当たり前です! 今、下は大雨、約束が違います!」
「まあまあ、いいじゃない」
「いいわけありません! あんなに揉めて、やっと決めたルールですよ!」
 そこまでを聞いて、俺は咄嗟に扉の脇へと姿を隠し、次いでエレベータの『閉』のボタンに指を乗せた。扉の陰で耳をそばだて、フロア内の会話に注意を向ける。
 本来ならば、ここは壁越しに盗み聞きができるような狭いフロアではない。しかし、今は彼女たち以外に誰もいないらしく、辛うじて聞き取ることができた。険悪かつ張りつめた間が流れて、のち、呆れた溜息混じりの追及が続く。
「では質問を変えます。なぜ私を呼んだのですか。あなたと違って、私は忙しいのですよ」
「あら、今日は学校、お休みなんでしょう?」
「学校が休みだからこそ、私は仕事をしています」
「仕事、ね。ああ、今は結婚式の準備だっけ。おめでとう」
「ありがとうございます。ですが、その言葉を頂くのはこれで五回目です」
 何とも冷めた祝辞に、これまた引けを取らない冷めた謝辞。互いの抱く嫌悪が見え隠れする――いや、これでは到底、隠れているとは言い難い。
「ねえ、その結婚式、私は招待してくれないの?」
「ご冗談を。あなたが私の結婚に興味があるとは思えませんが」
「そう? 自分を庇護する会社の、後を継ぐ人の結婚式よ? ちゃんと気にしているわよ」
「庇護だなんて、おかしな表現をしないでください。双方の立場的に、あなたを式へ呼ぶことは致しかねます」
「あ、そう。ま、別に構わないけれどね」
 そしてまた、とげとげしい沈黙。両者、口にするべき次なる言葉を考えているのか、途中挟まれた「座ったら?」「いえ、結構です」というやりとりは、社交辞令のこれ以上にないお手本のようでもあった。
 しばらくして、今度はアイリスさんの方から口を開く。
「そういえば、最近、何か調べてるのね?」
 その言葉に、相手は少しの驚きを示したようだった。空いてしまった妙な間を誤魔化しきれず、それでも平静を装うようにゆっくりと答える。
「……あなたは、本当に何でもご存知なんですね」
「ふふっ、そうね。この世界の人間がディアと、そしてあの塔に頼って生きている限りね」
 あの塔とは、紛れもなく世界樹のことだろう。確かにあれは、今の人類の世界全てを支えている。けれど、それとアイリスさんが物知りであることと、何か関係があるのだろうか。
 考えていると、そこで突然、景色が変わった。エレベータの扉が独りでに開いたのだと俺が理解したのは、やや遅れてのことだった。目の前に開けたフロアの奥から、よりいっそうクリアになった、悪戯に弾む声がする。
「と、言いたいところだけど、今回は別よ。彼に聞いたの。そうよね? 」
 その問いは、明らかに俺に向けられたものであった。動揺を抑えつつ見やれば、アイリスさんの視線が離れたこちらのエレベータ、俺の方へと向けられていた。真横からの夕陽に照らされた、俺の知るいつもの笑顔――穏やかで優しく、そして美しい表情で、ニコリ。
 ……バレてたか。
 隠れる術をなくした俺は、仕方なくその場をあとにして歩き出す。行く先にいるのは、テーブルに座るアイリスさんと、すぐ隣に姿勢良く立つ女性――やはり翠。
 アイリスさんと違って翠は、俺の姿を見ていくらか驚いた表情をしていた。今日の翠は、俺のよく知る制服ではなくスーツ姿だ。皺一つない黒のジャケットにスラックスという装いは、出来る仕事人を思わせる。
 俺が二人に近づくと、やがて翠が、アイリスさんに向けて言った。
「……彼は?」
「あら、二人はお知り合いでしょう?」
「そうではありません。彼とあなたは、どういうご関係ですか」
 アイリスさんは首を傾げ、わかりやすい思考中のポーズを示したのち、しれっと答える。
「彼は私のお茶飲み友達よ」
 お茶飲み友達などと言われて、俺の方は少し不思議な感覚を覚えてしまう。だが、なるほど確かに、それは彼女と俺の間柄の形容として、過不足なく正しい言葉のように思えた。俺と彼女はここでしか会わず、俺は、ここ以外での彼女の一切を知らないのだから。
 けれどそんな説明に納得するはずもない翠が、その端正な顔に目一杯の怪訝を浮かべる。
「那城さん。私からの依頼の件、この方に口外されたんですか?」
 ……那城さん? これはまた、なんと距離を置いた呼び方か。学校とは大違いだ。
 制服を脱いでスーツを纏った翠は、ガラテイアの後継者としての翠ということか。
「いや、確かに、雑談程度に話しはしたが……お前やガラテイアの名前はもちろん、何かを特定できるようなことは、一切話してないぞ」
 当然俺にだって、そのくらいの節度はあるつもりだった。俺がアイリスさんに言ったことなど、頼まれた調査の内容全体からすれば、非常に些細なことでしかない。しかしこの場でそれを簡単に信じるほど、翠は呑気な性格ではなかろう。視線には疑いの念が多分に含まれている。
「本当よ。彼はあなたが困るようなこと、何一つ口には出さなかった。でもほら、私って、何でもご存知だからさ」
 それは、窮した俺へのフォローだろうか。呟くようにアイリスさんは言い、そして笑った。彼女が俺へ向ける笑みと、翠へ向ける笑みは、同じ笑顔であっても大きく違う。前者は柔らかい悪戯なそれ。後者は鋭い挑戦的なそれ。翠を相手にするときのアイリスさんの笑顔は、まるで腹の探り合いに興じているかのようである。
「だって、ねえ? 他でもないこの私が、彼の話とあなたの挙動、その他諸々を組み合わせて考えれば、いとも簡単にわかることではなくて?」
「……そう、ですね」
 俺ではなくアイリスさんの方からからもたらされた疑念への返答に、翠は渋々の納得を示した。短い間に、わずかながら幾度も動いた翠の表情からは、そこへ至るまでの思索がいかに複雑であったかを物語る。ただ、翠が実際に何を納得したのか、俺にはよくわからなかった。
「それで、成果は出たかしら? 探偵さん」
 翠の追及に片が付いたと判断したのか、やがてアイリスさんは、俺にそんな質問をした。あえて何についての成果かは口に出さないが、言うまでもない。翠と俺が調べているガラテイアへのクラッキング、ひいては違法OS諸々の件であることは明らかだった。俺としても、ちょうどその話を聞いてもらおうと思っていた。まるで俺の心を読んだかのような先回りの質問だ。
「えっと、成果と言えるほどのものかはわかりませんが……一応は」
 するとアイリスさんは、引き上げた口元を閉じ無言で、俺へそっと目配せをする。続きをどうぞ、と。隣の翠の表情は未だ少し険しいままだが、同じく沈黙しているあたり、話しても問題はないということだろう。
 海のように広がる雲の上にぽっかり浮かぶ朱色の太陽は、依然その全身を隠すことなく保っている。どうやら宵は、もう少し先。俺は二人を前にして話し始めた。
「そうですね、お互い、どこまで事情が共有できているのかわかりませんけど……じゃあまずは、ざっくりとした経緯から」
 そう前置いて俺は、ちょうど今朝にまとめた内容を話し出す。
 過去の二回に渡るガラテイアへのクラッキング。そのうち一度目は、元研究員のアカウント情報を利用されてサーバー内に入り込まれたこと。また、くしくもそれと重なるようにして時の凍結が起こり、アクセス元がセラタイプのディアであるという情報以外にログを失ったこと。そして二度目は、同じくセラタイプのディアからの犯行でログも残っており、俺たちの高校に今年から赴任してきた佐倉先生が疑わしいこと。これが事の発端だ。
 さらに佐倉先生の元婚約者である鶴舞鷹弥氏は、クラッキングに利用されたアカウントの持ち主で、既に事故で亡くなっている。その上、鶴舞氏の事故死のショックで休職した佐倉先生の静養期間は、二度のクラッキングの時期とまるきり重なっているのである。
 語る俺の言葉を、二人は黙って静かに聞いた。翠は直立のまま、気難しい表情を湛えながら。アイリスさんは両手の頬杖に顎を乗せ、微笑んでこちらを見つめながら。
「実際、間接証拠の数は多い。とはいえ、ここまでの情報では佐倉先生がクラッカー本人なのか、あるいは第三者に意図せず利用されたのかを断定することはできません。ですが」
 俺はそこまでを一通り説明して言葉を切る。少しだけ大きく息を吸い、先を続けた。
「俺の見解では、佐倉先生とそのディアは、やはり怪しい。彼女がクラッキングを行った張本人だと考えます。理由は、動機です」
「……動機?」
 二人のうち、先に口を開いたのは翠だった。ここへ訪れてから初めて、翠が俺を正視する。その目はやはり、俺の知るいつもの翠のものとは違う。
「そう。佐倉先生には動機があった、と俺は思う。鶴舞鷹弥氏を取り戻すという動機が」
「取り戻すって……そんなことができるわけ」
「できる。ディアと、オリジナルの人格プログラムを……いや、ココロプログラムを使えば」
 俺が言うと、翠はあからさまに「わけがわからない」というような顔をした。至極妥当な反応だろう。おそらく誰だってそんな顔をする。俺の今の発言はそれくらいに奇怪な、世迷言だ。
 ただアイリスさんは、いっこうに眉一つ動かさない。
「二人とも耳にしたことくらいはあると思いますが、ディアにまつわる噂話には、ココロプログラムなんてものがありますね。ディアに人の心を与えるというプログラムです。実際のところ、ココロプログラムそのものは架空の存在だとされていますが、それを目指して作られたものは世にいくらか出回っている。あまりメジャーではないけれど、偉人や空想人物を再現しようと試みたプロジェクトなんかも、過去にはあったりしたみたいです」
 きっと他にも、そんなプログラムはピンからキリまであることだろう。プロが作ったもの、アマチュアが作ったもの。発想も違えば、使われた技術も違う。探し始めたら際限なく様々だ。
「鶴舞氏はガラテイアにおいて、非常に優秀な人格プログラムの研究者だったそうですね。その婚約者である佐倉先生なら、こういったものを使用するという発想に至ったとしても、おかしくはない。そして、佐倉先生のディアは現に違法改造が施されていて、セラではなくヴェイナーというOSを搭載しています。これは正規OSであるアヴェニールの改造OS。アヴェニールの、負荷を一切省みずに指示を処理するバグを利用した改造OSです」
 アヴェニールの名前を出すと、翠ははっとして目を見開いた。
「……それは、我が社の過去の製品ですね。もう何百年も前のものだというのに……那城さん、そんなものをよくご存知で」
 そう零す翠の声は、非常に苦々しいものだった。
「アヴェニールは、私たちガラテイアでは代々語り継がれる身内の恥。私自身は直接見たことはありませんが、捨て身のOSなんて揶揄が本当にしっくりくるようなものだったと聞いています。リミッターやセーフティという概念が欠落していて、特定の状況下では、一度指示を出すと壊れるまでそれを実行し続けるような……」
 形の良い顎に右手を添え、翠は思案し、そして呟く。
「捨て身のOS……なるほど。それを利用することで、本来は実行できないような負荷の大きい人格プログラムを実行する……?」
 やがて導き出したらしい結論は、今、俺の胸にあるものにかなり近しい。俺は静かに頷く。
「ガラテイアはクラッキングの被害に遭いはしたが、実質的な被害ほぼなかった。そこには、盗めば悪用できるデータなんていくらでもあったのに、です。けれど、佐倉先生の探していたものが怪しげな人格プログラムであったなら、辻褄は合う。さすがのガラテイアにも、ディアの機能を害するほどに人間を模すような人格プログラムはないでしょうから。だから先生は、ただ退いた。そしてその後、何らかの方法で自分の眼鏡に適うプログラムを手に入れ、ディアのOSがセラからヴェイナーに、後天的に書き換えられたんです」
 翠はおそらく、混乱している。俺の語る憶測の真偽を、上手く判断できないでいるのだ。
 俺は再び翠を見る。
「佐倉先生のディア、調べたが、中にはほとんど何も入っていない。インフラとの接続アプリとか、ディアデバイスのドライバーとか、アンチウィルスソフトすら入ってなかった」
「……そんな状態では、ディアとしての機能は、ほとんどまともに使えませんね」
「まずグローバルネットワークには繋げられない。でも、佐倉先生にとってはそれでよかったんだ。おそらく先生は、ディアに、ディアとしての役目を求めている訳じゃあないから」
「ディアにディアとしての役目を求めていない……ならば、先生がディアに求めた役目は……」
 ――人間として。
 ひとたびそういう考えを持つと、佐倉先生とディアの様子は違って見える。話し方、触れ合い方。そういったものに、違った側面が浮かんでくる。
「佐倉先生は、現在所有しているディアのことを『タカヤ』と、呼んでいる。しかも、その容姿には亡くなった鶴舞氏の面影が、非常に多くある」
 たとえば、そう。失った最愛の人にそっくりなディアに、同じ名前で呼びかける。すると記憶の中にある彼の声で、そして仕草で、応えてくれる。ふとしたときに、ディアは彼の癖を真似る。彼と同じように笑い、彼と同じように泣き、彼と同じものを好み、彼と同じ息遣いをする。そんな存在が隣にいたら……それはもうきっと、彼そのもの。初めはディアだと感じていても、接するたびに、日を追うごとにその認識は変化してゆくことだろう。そしていつか疑うことなく思うのだ。今、自分の隣には、かつてのように愛する人がいるのだと。
「学校での先生は極めて明るく、朗らかな先生と評判だ。俺も実際に接してみて、その印象に間違いはなかった。でも同時に、過去、最愛の人を亡くし、最近まで周囲と隔絶状態にあった人には、とても見えなかった。思うにあれは、愛する婚約者を亡くした悲しみを、克服した明るさじゃない。愛する婚約者を、取り戻した明るさだ」
 その言葉を最後に、しばらく辺りは沈黙に包まれた。強い西日が、この場にいる三人を真横から照らし、目が眩むほどに陰陽の激しい世界を作り出す。
 やがて翠が、夕陽の色に染まったその唇を鈍く動かし、胸中の困惑を露わにして言う。
「……失った婚約者を、ディアで代替……? そんなことを、本気で……?」
 疑う気持ちを、拭い切れないのは無理のないことだ。震えるその声は翠の葛藤の現れでもあった。
 あり得ない。でも否定はできない。可能なわけない。けれど、絶対にとは言い切れない。
 俺は無言のまま、視線をゆっくりと翠の隣へ移動させた。その先ではアイリスさんが、最初とまったく同じ笑顔で、こちらを見つめて座っている。やがて彼女が「へえ」と小さく零し、瞳を閉じるまでには三十秒ほどの空白があった。
「探偵ごっこも案外、様になっているのね。 依頼主兼被害者としてはどうかしら?」
 アイリスさんはほとんど体勢を動かすことなく、瞳だけを横に動かして翠に問う。
「どうと言われましても、あまりに飛躍的過ぎます。ですが……安易な否定で覆すことのできない話だというのは……わかりました」
「あら、随分と回りくどい評価だこと。でも、そうね。悪くない推測だと、私も思うわ。少なくとも私の知っている事実と照らし合わせて、矛盾も不可解な点もない。まさかあれだけの少ない情報から、今の話を組み立てるなんて。聡明な洞察、突飛な発想。ええ、とても面白いわ」
 返ってきたのは、おそらくは賞賛の言葉だった。俺はそれらを耳にして、二人が自分の憶測にいくらかの同意を示してくれたのだと、かなり遅れて理解した。
 ただ、それでも喜びという感情をこの胸に抱かないのは、その憶測が『現実であったら嬉しい内容』ではないからだろう。この筋書きの行き着く果ては、決して明るいものではないのだ。
「じゃあ、お返しに私は、遅ればせながら最初の質問にお答えするわ。私がなぜ、あなたたちを今日、ここへ呼んだのか」
 言うと、アイリスさんは立ち上がった。そのままフロア外周へと歩いてゆき、ガラス張りの窓に手を添え下を見る。
「実はその、佐倉先生とお連れのディア。今、この下に来ているわ。そしておそらく、もうじきタイムリミットを迎えることになる」
「……タイムリミット?」
「そう、タイムリミット」
 尋ねた翠に、アイリスさんは振り向くことなく、同じ言葉を返して答えとした。もちろんのこと、翠は不可解な表情を呈す。
 けれど一方で、このときの俺には、 その言葉の意味が極めて的確に感じ取れてしまった。それはともすれば、一種のテレパシーのようにすら思えるものであり――俺は無意識に息を飲む。
 アイリスさんは、肩越しにこちらを振り返って不適な笑みを見せる。
「ねえ、歴史は繰り返すもの、らしいわよ? 」
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