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第五章 霹靂:ブルースカイ
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「おいどういうことだコノヤロウ!」
報告を聞くなり、みるみる鬼の形相となった梅田が沢の襟首を締め上げる。
事態の詳細については、遅れてやってきた白坂の説明で少しばかり明らかになった。ちなみに僕は、息を切らせて走る彼女にも、漏れなく踏みつけられそうになった。みんな廊下は走らないように!
まあ、とはいえ、走らずにはいられないのも理解はできよう。沢と白坂の卒業論文の肝となる実験会が急に中止になったとあらば、さすがの僕も心配である。白坂の話によると、どうやら、実験会は『中止になった』というよりは『既に中止になっていた』ということらしい。
「事務局の人には、逆に驚かれてしまいました。三日ほど前に電話で中止の連絡があったらしくて、そのときから参加予定だった人への連絡や、掲示板での中止の告知もしていたそうです」
「なんだそりゃ! うちの研究室の誰かが、中止の連絡をしたってのか?」
「いえ、実際に連絡があったのは、共同研究をしているという企業からだったようで……」
白坂は事務局で聞いたという企業の名を述べる。それを聞くと、梅田の眉がピクッと動いた。
「その話では、私たちは今日、研究室総出でその企業主催の講演会に出席することになっているらしいです。私、全然知らない話だったのでびっくりして……ひとまず、実験会ができないってことだけでも伝えなきゃいけないと思って……だから、それで……戻って、きました……」
白坂の声は、話すほどに小さく萎んでゆく。肩を落として俯く彼女は、不安と混乱を綯交ぜにしたような表情をしていた。
梅田は依然、沢を宙に持ち上げながらも、思案顔になって言う。
「その企業とつるんでる研究室には、心当たりがある」
「え……?」
「まあ早い話が、反蓮川派の研究室の一つだ」
すると梅田は突然、沢を持ち上げる手をパッと離した。落下した沢は床に尻餅をつき、首を押さえてゴホゴホ咳き込む。
その隙に梅田は短く深呼吸をすると、素早く踵を返して部屋の出口に向かった。開きっぱなしだった扉のへりに手を掛けて、そのまま振り返らず、いやに落ち着いた声で告げる。
「この件は、いったん蓮川さんにも話そう。実験会については、私の方で代替案を考えてみる。その間、お前らはしばらく待機だ。だが待機といっても、やれることはやっておけよ。卒論の書ける部分を書き進めるもよし。論文紹介のネタを探すもよし。必要な実験だってまだあるはずだ。時間は有効に使え」
片手で白衣のポケットからスマホを取り出し、去っていこうとする梅田。おそらくは蓮川と連絡を取るつもりなのだろう。しかしそれを、床から起き上がった沢の声が止める。
「ちょっと先生! そんなんでいいんすか! 今の話が本当なら、これ、めちゃめちゃはめられてるじゃないっすか!」
梅田は少々、溜息混じりに答えた。
「まあそうだな。なんでこのタイミングかは知らんが、紛うことなき嫌がらせだ」
「だったら!」
「言いたいことはわかる。喧嘩ふっかけてきた暇人研究室にも、くだらん喧嘩に名前を貸すアホ企業にも、素性のわからん電話一本で簡単に予定を変えちまうボンクラ事務局にも、言いたいことは山ほどある。だが、そんな時間はないだろ、お前にも私にも。挑発に乗ったって得することは一つもない。疲れるだけだ」
梅田はいつもよりも少しだけ早口に話した。それがどういうことなのか、僕にはわかる。本当は梅田も、内心穏やかでないのだ。だが、ここで沢たちと一緒になって騒いだって、事態は何も変わらない。だから梅田は努めて冷静を装った。そこは若くともさすが、先生である。
「まあ、たぶん今回はお前らの失敗じゃない。気に病む必要はないぞ」
そして梅田は、また歩き出して廊下に消える。残る沢と、そして非常に暗い顔をしている白坂を目の端で気にかけながら。
結局このあと、沢と白坂は二人でもう一度だけ事務局の方に出向いたが、戻ったときの消沈した顔から、無駄足だったと察しはついた。
それから一週間。傍目には、今までと変わらない時間が過ぎた。沢と白坂は、梅田に言われた通り真面目にルーチンワークをこなしていたが、そこかしこに不安そうな様子は垣間見える。
一度僕は、痺れを切らした二人が梅田を呼び止める場面を目撃したが、
「心配すんな。B4の卒論くらい、どうにでもなるもんだ。どうにでもしてやるさ」
などと答える梅田に、それ以上の追求ができないようだった。
ここ最近、梅田はいつもに増して帰宅するのが遅くなった。実験会の再実施について、スケジュール的に難しいことは想定できる。そのあたりの調整や方向性の検討に加え、何が起こったのかも可能な範囲で解明しようと動いているのだろう。僕の読みではおそらく、実験会で得るはずだったデータを使わないで、どうにか沢と白坂の卒業論文を形にすることを考えている。非常に悩ましい決断であるし、そう簡単でもないと思うが、苦肉の策といったところか。
梅田が研究室に現れない日が増えたのも、きっと無関係ではないのだろう。
不安があると、なんでもない日々はそれを増長させる種になるものだ。悪戯に過ぎる時間を、どうしたって気にせずにはいられない。
ある日、沢は朝から、あっちにフラフラこっちにフラフラと落ち着きがいないのが見え見えだった。気持ちはわかるけれども、まったく、そんなことでいいのだろうか。注意喚起をしようと僕が傍に出向いてみれば、今度はぼんやりしていてこちらに気づかないという始末。このままではそのうち、その辺ですっ転んでポックリ逝ってしまうのではないかと心配になる。
そんなわけで僕はその日、ずっと沢のあとについていた。研究室はガランとしていて、なぜかとびきり人が少なかった。皆、用事があったり授業に出たりで席を外しているのだろう。
そんな中、沢が気紛れに足を向けたのは実験室で、扉を開けると、伏屋が一人で作業をしているところだった。長身の伏屋の、すっと背筋を伸ばした佇まいは美しい。人の良さそうな表情を浮かべながら実験台の上を見つめていたかと思うと、沢の姿に気づいたのだろう、その理知的な瞳を彼へと向けた。
「やあ、沢くん」
「お疲れ様です、伏屋先生」
「調子はどうですか?」
「え、あ……あー」
伏屋の何気ない問いかけに、しかし沢は首を捻りながら言葉を濁す。
「暇……っすね」
すると伏屋は「こらこら」と笑いながら彼を咎めた。
「今の時期、君はそんなことを言っていられる立場ではないはずですよ」
「いや、まあ、そうなんすけど」
伏屋が意図しているのは、もちろん卒業論文のことである。細かい決まりはないが、人によっては五十ページ以上も書くことになる、言うなれば特大の実験レポートだ。
締切は確か、年が明けた一月の中旬。対して今は、もうじき十一月を迎えようというところ。四年生の沢としては、いよいよ一分一秒を惜しむ精神を持って然るべきところであるが、そんな彼があろうことか「暇」などとのたまうのだから、これは非常に困りものである。
とはいえ、実験会の件から状況は依然、やや複雑。伏屋は伏屋で典型的な優しい先生であるからして、梅田のように激しく怒ったりはしないのだ。
伏屋は甘い笑みを浮かべると、引き続き実験台に視線を落とし、作業の続きに取り組み始める。それを見ていた沢は手近な椅子を引っ張ってきて、何気ない様子でそこに座した。
「先生は……なんで、こんなことしてんすんか?」
「ん? これですか? これは、次に僕のグループで――橋原さんと白坂さんの行う実験で、必要な機材なんです。ちょっと難しいセッティングがありまして、そこだけは先に僕がやっておくべきかなと」
「ああ……いや、俺が聞いたのは、もっとざっくりしたことで……なんで伏屋先生は、こんな理不尽な職業やってんのかなって」
伏屋の作業の手が、一瞬止まる。
おっと沢。随分と失礼なことを、しかも自覚もなしに問うものだ。相手が梅田なら、返しはもちろん「喧嘩売ってんのか?」となるところだが、しかし伏屋の場合はそうはならない。「はは。直球ですね、沢くんは」と、やはり微笑む。
「でも確かに、今の君の立場なら、それを言う資格があるかもしれない。自分とはまったく関係のないところで起こっているごたごたで、自分の大事な研究が邪魔されたんですからね」
見れば、沢の顔は、普段の冗談を言っているときのそれではなかった。珍しく真顔で、伏屋の手が動き続ける実験台の上を注視している。
「まあ、もちろん、あの実験会のこともありますけど……でも、俺はもっと前から思ってましたよ。研究者って、なるのすっげー難しいのに、なったあともすっげー大変じゃないですか。だって伏屋先生、毎日始発で来てるんすよね? 梅田先生も、いつもめちゃめちゃ遅くまで仕事してるし。蓮川先生は、色んなところで名前、たくさん見る。たまにここに来たときはなんでもなさそうにしてるけど、あれ、相当忙しいって俺でもわかります」
「そうですね。私が早く研究室に来ているのは、夜、早めに帰らせて頂くためでもありますが」
「確か、寝る前のお子さんに会うためなんでしたっけ?」
「ええ。あと妻もです。研究者というのは、なかなか家庭を顧みることの難しい職種なもので、話せるときに話しておくのが、家庭円満のためには大切なんです」
「へぇ、そんなもんすか」
沢は椅子の背を正面で抱きかかえるような姿勢になると、そのまま伏屋の顔を見上げる。
「先生って、やっぱり奥さんの尻に敷かれてるんすか?」
「やっぱりという言葉は少し気になりますが……まあ、否定はしませんね」
「じゃあ喧嘩とかは? しないんすか?」
「当然、しません」
「マジすか。たまには言いたいこと言ってやればいいのに。仕事なんだから大目に見ろよとか」
「いいえ、やりあっても疲れるだけですよ。最後に出てくる『私と仕事どっちが大事なの』っていう言葉で、全部終わりですからね」
それを聞いた沢は思わず「ああ……」とげんなりした声を出した。
「……魔法の言葉っすね」
「ええ、黒魔法です」
会話が途切れると、伏屋の作業の発する音だけが部屋に満ちる。沢は相変わらず前のめりで椅子にもたれたまま、ただただ前後に揺れながら、伏屋の手際に見入っていた。「おぉ」とか「へぇ」という言葉が時折口から漏れ出ているのは、たぶん無意識なのだろう。どうにも邪魔になっていそうに思えたが、伏屋は特に気にした様子もなさそうだった。
しばらくしてまた、沢が尋ねる。
「それでも先生が研究者をやってるのは……楽じゃあなさそうだから……儲かるからとか?」
またも直球な質問だったが、伏屋としては意外だったのか、珍しく声まで出して大きく笑う。
「はっはっは。研究者は、楽でもなければ儲かりもしませんねぇ」
それは傍で聞いている僕としても、とても不思議な返答に思えた。普通、仕事なんてのは、楽で儲からないか、儲かって楽じゃないかのどちらかではないのだろうか。僕は伏屋のことを昔からよく知っているわけではないけれども、それでも彼が非常に優秀な人間だということはわかっている。そんな彼ならば、仕事はいくらでも選べただろう。それこそ、楽で儲かる仕事だって、もしかしたらあったかもしれないのに。なのに伏屋が、笑って今の自分の研究者という職を、楽でも儲かりもしないと言える理由はなんだろう。
伏屋は続ける。
「研究すれば成果は出て当たり前。そして成果が出れば予算のおかげで、出なければ研究者の失態です。その上、残業代は出ないし福利厚生も少ない。世間的に見て収入は、決して少なくはないけれど、私に限った話で言えば、そのほとんどは妻と子供に回します。結果、私の小遣いは月に二万円、といった具合です」
「げっ……でも先生、この前の飲み会のとき、参加費に上乗せして万札置いていきましたよね? まさかあれは……」
「いやあ、羽振り良く札束置いていければよかったんですが、見栄を張るのも大変ですね」
答えに反して、やはり伏屋は楽しそうだ。月の小遣いが二万で飲み会に万札を置いていくと、僕の計算では手持ちが半分になるんだけど……いったいそれのどこがそんなに面白いのか。厳しいお財布事情にしか聞こえない。
沢も僕と同じように、伏屋の話し方とその内容に、いくらかの乖離を感じている。そんな沢の疑問に溢れた表情は、そのまま伏屋に対する問いとして受け取られたようだった。
伏屋はフッと笑みを消し、途端に穏やかそうな顔をして言った。
「けれど私は、それでもいいと、心から言うことができます。“Who cares about money when three meals a day are taken care of? Not me.”です」
突然飛び出した異国語に、沢は戸惑う。
「え、な、なんすか? すいません、俺、英語苦手で……」
「私の好きな小説の言葉です。訳すとするならば『一日三食満足に食べられるなら金がなんだというのだ? 金なんてどうだっていい』とかでしょう」
伏屋は相変わらず、作業をするその手を止めない。視線はずっと実験台に注がれている。それでも、言葉はまっすぐに沢へと届く。
「好きなことをして生きているんです。これに勝る幸福はありません。毎日毎日、自分が生きている意味を、これでもかってくらい感じられる。周りになんと言われたって構わない。これが私の生きる道。これが私の、レゾンデートルです」
「レゾン、デートル……」
「ええ。意味は……わからなければあとで調べてみてください。決め台詞の説明を自分でするのは、恥ずかしいですからね」
呟いた言葉を、沢はしっかりと記憶するように口の中で繰り返し重ねた。
やがて、伏屋は一区切りとばかりに身体の正面で軽く両手を合わせて言う。
「さて。私の仕事はここまでですね。あとは、橋原さんと白坂さんに任せるとしましょう」
実験台の上に広げられていた機器や道具たちは、いつの間にか整然と片付けられていた。おそらくは作業と片付けを並行していたのだろう。
伏屋が沢をちらりと見やるが、沢はといえば、伏屋の決め台詞とやらを聞いてからというものずっと、真剣な顔で考え込んでいる。だから伏屋はそれ以上、沢に声をかけることはなかった。穏やかな微笑を深め、足取り静かに背を向けると、そのまま実験室から去った。
報告を聞くなり、みるみる鬼の形相となった梅田が沢の襟首を締め上げる。
事態の詳細については、遅れてやってきた白坂の説明で少しばかり明らかになった。ちなみに僕は、息を切らせて走る彼女にも、漏れなく踏みつけられそうになった。みんな廊下は走らないように!
まあ、とはいえ、走らずにはいられないのも理解はできよう。沢と白坂の卒業論文の肝となる実験会が急に中止になったとあらば、さすがの僕も心配である。白坂の話によると、どうやら、実験会は『中止になった』というよりは『既に中止になっていた』ということらしい。
「事務局の人には、逆に驚かれてしまいました。三日ほど前に電話で中止の連絡があったらしくて、そのときから参加予定だった人への連絡や、掲示板での中止の告知もしていたそうです」
「なんだそりゃ! うちの研究室の誰かが、中止の連絡をしたってのか?」
「いえ、実際に連絡があったのは、共同研究をしているという企業からだったようで……」
白坂は事務局で聞いたという企業の名を述べる。それを聞くと、梅田の眉がピクッと動いた。
「その話では、私たちは今日、研究室総出でその企業主催の講演会に出席することになっているらしいです。私、全然知らない話だったのでびっくりして……ひとまず、実験会ができないってことだけでも伝えなきゃいけないと思って……だから、それで……戻って、きました……」
白坂の声は、話すほどに小さく萎んでゆく。肩を落として俯く彼女は、不安と混乱を綯交ぜにしたような表情をしていた。
梅田は依然、沢を宙に持ち上げながらも、思案顔になって言う。
「その企業とつるんでる研究室には、心当たりがある」
「え……?」
「まあ早い話が、反蓮川派の研究室の一つだ」
すると梅田は突然、沢を持ち上げる手をパッと離した。落下した沢は床に尻餅をつき、首を押さえてゴホゴホ咳き込む。
その隙に梅田は短く深呼吸をすると、素早く踵を返して部屋の出口に向かった。開きっぱなしだった扉のへりに手を掛けて、そのまま振り返らず、いやに落ち着いた声で告げる。
「この件は、いったん蓮川さんにも話そう。実験会については、私の方で代替案を考えてみる。その間、お前らはしばらく待機だ。だが待機といっても、やれることはやっておけよ。卒論の書ける部分を書き進めるもよし。論文紹介のネタを探すもよし。必要な実験だってまだあるはずだ。時間は有効に使え」
片手で白衣のポケットからスマホを取り出し、去っていこうとする梅田。おそらくは蓮川と連絡を取るつもりなのだろう。しかしそれを、床から起き上がった沢の声が止める。
「ちょっと先生! そんなんでいいんすか! 今の話が本当なら、これ、めちゃめちゃはめられてるじゃないっすか!」
梅田は少々、溜息混じりに答えた。
「まあそうだな。なんでこのタイミングかは知らんが、紛うことなき嫌がらせだ」
「だったら!」
「言いたいことはわかる。喧嘩ふっかけてきた暇人研究室にも、くだらん喧嘩に名前を貸すアホ企業にも、素性のわからん電話一本で簡単に予定を変えちまうボンクラ事務局にも、言いたいことは山ほどある。だが、そんな時間はないだろ、お前にも私にも。挑発に乗ったって得することは一つもない。疲れるだけだ」
梅田はいつもよりも少しだけ早口に話した。それがどういうことなのか、僕にはわかる。本当は梅田も、内心穏やかでないのだ。だが、ここで沢たちと一緒になって騒いだって、事態は何も変わらない。だから梅田は努めて冷静を装った。そこは若くともさすが、先生である。
「まあ、たぶん今回はお前らの失敗じゃない。気に病む必要はないぞ」
そして梅田は、また歩き出して廊下に消える。残る沢と、そして非常に暗い顔をしている白坂を目の端で気にかけながら。
結局このあと、沢と白坂は二人でもう一度だけ事務局の方に出向いたが、戻ったときの消沈した顔から、無駄足だったと察しはついた。
それから一週間。傍目には、今までと変わらない時間が過ぎた。沢と白坂は、梅田に言われた通り真面目にルーチンワークをこなしていたが、そこかしこに不安そうな様子は垣間見える。
一度僕は、痺れを切らした二人が梅田を呼び止める場面を目撃したが、
「心配すんな。B4の卒論くらい、どうにでもなるもんだ。どうにでもしてやるさ」
などと答える梅田に、それ以上の追求ができないようだった。
ここ最近、梅田はいつもに増して帰宅するのが遅くなった。実験会の再実施について、スケジュール的に難しいことは想定できる。そのあたりの調整や方向性の検討に加え、何が起こったのかも可能な範囲で解明しようと動いているのだろう。僕の読みではおそらく、実験会で得るはずだったデータを使わないで、どうにか沢と白坂の卒業論文を形にすることを考えている。非常に悩ましい決断であるし、そう簡単でもないと思うが、苦肉の策といったところか。
梅田が研究室に現れない日が増えたのも、きっと無関係ではないのだろう。
不安があると、なんでもない日々はそれを増長させる種になるものだ。悪戯に過ぎる時間を、どうしたって気にせずにはいられない。
ある日、沢は朝から、あっちにフラフラこっちにフラフラと落ち着きがいないのが見え見えだった。気持ちはわかるけれども、まったく、そんなことでいいのだろうか。注意喚起をしようと僕が傍に出向いてみれば、今度はぼんやりしていてこちらに気づかないという始末。このままではそのうち、その辺ですっ転んでポックリ逝ってしまうのではないかと心配になる。
そんなわけで僕はその日、ずっと沢のあとについていた。研究室はガランとしていて、なぜかとびきり人が少なかった。皆、用事があったり授業に出たりで席を外しているのだろう。
そんな中、沢が気紛れに足を向けたのは実験室で、扉を開けると、伏屋が一人で作業をしているところだった。長身の伏屋の、すっと背筋を伸ばした佇まいは美しい。人の良さそうな表情を浮かべながら実験台の上を見つめていたかと思うと、沢の姿に気づいたのだろう、その理知的な瞳を彼へと向けた。
「やあ、沢くん」
「お疲れ様です、伏屋先生」
「調子はどうですか?」
「え、あ……あー」
伏屋の何気ない問いかけに、しかし沢は首を捻りながら言葉を濁す。
「暇……っすね」
すると伏屋は「こらこら」と笑いながら彼を咎めた。
「今の時期、君はそんなことを言っていられる立場ではないはずですよ」
「いや、まあ、そうなんすけど」
伏屋が意図しているのは、もちろん卒業論文のことである。細かい決まりはないが、人によっては五十ページ以上も書くことになる、言うなれば特大の実験レポートだ。
締切は確か、年が明けた一月の中旬。対して今は、もうじき十一月を迎えようというところ。四年生の沢としては、いよいよ一分一秒を惜しむ精神を持って然るべきところであるが、そんな彼があろうことか「暇」などとのたまうのだから、これは非常に困りものである。
とはいえ、実験会の件から状況は依然、やや複雑。伏屋は伏屋で典型的な優しい先生であるからして、梅田のように激しく怒ったりはしないのだ。
伏屋は甘い笑みを浮かべると、引き続き実験台に視線を落とし、作業の続きに取り組み始める。それを見ていた沢は手近な椅子を引っ張ってきて、何気ない様子でそこに座した。
「先生は……なんで、こんなことしてんすんか?」
「ん? これですか? これは、次に僕のグループで――橋原さんと白坂さんの行う実験で、必要な機材なんです。ちょっと難しいセッティングがありまして、そこだけは先に僕がやっておくべきかなと」
「ああ……いや、俺が聞いたのは、もっとざっくりしたことで……なんで伏屋先生は、こんな理不尽な職業やってんのかなって」
伏屋の作業の手が、一瞬止まる。
おっと沢。随分と失礼なことを、しかも自覚もなしに問うものだ。相手が梅田なら、返しはもちろん「喧嘩売ってんのか?」となるところだが、しかし伏屋の場合はそうはならない。「はは。直球ですね、沢くんは」と、やはり微笑む。
「でも確かに、今の君の立場なら、それを言う資格があるかもしれない。自分とはまったく関係のないところで起こっているごたごたで、自分の大事な研究が邪魔されたんですからね」
見れば、沢の顔は、普段の冗談を言っているときのそれではなかった。珍しく真顔で、伏屋の手が動き続ける実験台の上を注視している。
「まあ、もちろん、あの実験会のこともありますけど……でも、俺はもっと前から思ってましたよ。研究者って、なるのすっげー難しいのに、なったあともすっげー大変じゃないですか。だって伏屋先生、毎日始発で来てるんすよね? 梅田先生も、いつもめちゃめちゃ遅くまで仕事してるし。蓮川先生は、色んなところで名前、たくさん見る。たまにここに来たときはなんでもなさそうにしてるけど、あれ、相当忙しいって俺でもわかります」
「そうですね。私が早く研究室に来ているのは、夜、早めに帰らせて頂くためでもありますが」
「確か、寝る前のお子さんに会うためなんでしたっけ?」
「ええ。あと妻もです。研究者というのは、なかなか家庭を顧みることの難しい職種なもので、話せるときに話しておくのが、家庭円満のためには大切なんです」
「へぇ、そんなもんすか」
沢は椅子の背を正面で抱きかかえるような姿勢になると、そのまま伏屋の顔を見上げる。
「先生って、やっぱり奥さんの尻に敷かれてるんすか?」
「やっぱりという言葉は少し気になりますが……まあ、否定はしませんね」
「じゃあ喧嘩とかは? しないんすか?」
「当然、しません」
「マジすか。たまには言いたいこと言ってやればいいのに。仕事なんだから大目に見ろよとか」
「いいえ、やりあっても疲れるだけですよ。最後に出てくる『私と仕事どっちが大事なの』っていう言葉で、全部終わりですからね」
それを聞いた沢は思わず「ああ……」とげんなりした声を出した。
「……魔法の言葉っすね」
「ええ、黒魔法です」
会話が途切れると、伏屋の作業の発する音だけが部屋に満ちる。沢は相変わらず前のめりで椅子にもたれたまま、ただただ前後に揺れながら、伏屋の手際に見入っていた。「おぉ」とか「へぇ」という言葉が時折口から漏れ出ているのは、たぶん無意識なのだろう。どうにも邪魔になっていそうに思えたが、伏屋は特に気にした様子もなさそうだった。
しばらくしてまた、沢が尋ねる。
「それでも先生が研究者をやってるのは……楽じゃあなさそうだから……儲かるからとか?」
またも直球な質問だったが、伏屋としては意外だったのか、珍しく声まで出して大きく笑う。
「はっはっは。研究者は、楽でもなければ儲かりもしませんねぇ」
それは傍で聞いている僕としても、とても不思議な返答に思えた。普通、仕事なんてのは、楽で儲からないか、儲かって楽じゃないかのどちらかではないのだろうか。僕は伏屋のことを昔からよく知っているわけではないけれども、それでも彼が非常に優秀な人間だということはわかっている。そんな彼ならば、仕事はいくらでも選べただろう。それこそ、楽で儲かる仕事だって、もしかしたらあったかもしれないのに。なのに伏屋が、笑って今の自分の研究者という職を、楽でも儲かりもしないと言える理由はなんだろう。
伏屋は続ける。
「研究すれば成果は出て当たり前。そして成果が出れば予算のおかげで、出なければ研究者の失態です。その上、残業代は出ないし福利厚生も少ない。世間的に見て収入は、決して少なくはないけれど、私に限った話で言えば、そのほとんどは妻と子供に回します。結果、私の小遣いは月に二万円、といった具合です」
「げっ……でも先生、この前の飲み会のとき、参加費に上乗せして万札置いていきましたよね? まさかあれは……」
「いやあ、羽振り良く札束置いていければよかったんですが、見栄を張るのも大変ですね」
答えに反して、やはり伏屋は楽しそうだ。月の小遣いが二万で飲み会に万札を置いていくと、僕の計算では手持ちが半分になるんだけど……いったいそれのどこがそんなに面白いのか。厳しいお財布事情にしか聞こえない。
沢も僕と同じように、伏屋の話し方とその内容に、いくらかの乖離を感じている。そんな沢の疑問に溢れた表情は、そのまま伏屋に対する問いとして受け取られたようだった。
伏屋はフッと笑みを消し、途端に穏やかそうな顔をして言った。
「けれど私は、それでもいいと、心から言うことができます。“Who cares about money when three meals a day are taken care of? Not me.”です」
突然飛び出した異国語に、沢は戸惑う。
「え、な、なんすか? すいません、俺、英語苦手で……」
「私の好きな小説の言葉です。訳すとするならば『一日三食満足に食べられるなら金がなんだというのだ? 金なんてどうだっていい』とかでしょう」
伏屋は相変わらず、作業をするその手を止めない。視線はずっと実験台に注がれている。それでも、言葉はまっすぐに沢へと届く。
「好きなことをして生きているんです。これに勝る幸福はありません。毎日毎日、自分が生きている意味を、これでもかってくらい感じられる。周りになんと言われたって構わない。これが私の生きる道。これが私の、レゾンデートルです」
「レゾン、デートル……」
「ええ。意味は……わからなければあとで調べてみてください。決め台詞の説明を自分でするのは、恥ずかしいですからね」
呟いた言葉を、沢はしっかりと記憶するように口の中で繰り返し重ねた。
やがて、伏屋は一区切りとばかりに身体の正面で軽く両手を合わせて言う。
「さて。私の仕事はここまでですね。あとは、橋原さんと白坂さんに任せるとしましょう」
実験台の上に広げられていた機器や道具たちは、いつの間にか整然と片付けられていた。おそらくは作業と片付けを並行していたのだろう。
伏屋が沢をちらりと見やるが、沢はといえば、伏屋の決め台詞とやらを聞いてからというものずっと、真剣な顔で考え込んでいる。だから伏屋はそれ以上、沢に声をかけることはなかった。穏やかな微笑を深め、足取り静かに背を向けると、そのまま実験室から去った。
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