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參、笑み、嘆く
笑み、嘆く①
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金曜の夜に地兎の襲撃を受けて以降、俺とアオは外出に際してやや警戒を持つようになった。不用意に外出しないこと。帰宅時には尾行に注意すること。頻繁に同じ道を使わないこと。出立と帰宅の時間を日毎にばらけさせること。などなど……アオには色々と釘を刺された。
理由は明白。地兎という得体の知れない連中に、住居を特定されるのは好ましくないからだ。
週明けの月曜を迎え、俺は常より遅い時間に、回り道で登校した。いつの間にかこの地域は梅雨入りしており、慣れない道に加えて雨にも降られ遅刻寸前。教室に入ったら、着席とほとんど同時にホームルームが開始された。いつもは向けられる視線を意識的に意識しないよう努めるところだが、今日に限っては本当に意識している暇がなかった。
しかし、休み時間や教室の移動時を経て、徐々に気づき始める。今日向けられる視線は、普段の敬遠とは少し違う。どちらかといえば……そう、これは好奇だ。俺がたまに月見里と談笑しているときなんかに向けられる視線に似ている。
けれども俺は今日、まだ月見里と話をしていない。どうやら彼女、今日はまだ学校に来ていないらしく、授業中も席がずっと空いていた。彼女の姿が見られないとなれば俺の学校生活の質は著しく低下するが、まあそれも致し方ないというものだ。彼女はあまり身体が丈夫でないようで、こうして学校を欠席することがたびたびある。
ただ、だからこそ余計に、周囲の好奇の視線の理由はわからないままだった。俺は若干首を捻りながらも、やはりそれらを気にしないように努めた。
昼。購買でパンを買って屋上へと向かう。最近はこれがパターン化してきた。階段を上り、屋上へと繋がる鉄扉に手を掛けようとしたとき、しかしその向こう側から声が聞こえる。
てっきり人はいないと思って来たものだから驚いた。
それでも、一度ここまで上ってきて引き返すというのも気怠かったので、結局、俺は屋上に足を踏み入れることにした。まあ別に、同じテーブルを囲むわけでもない。広い屋上で端の方に寄って食べれば、お互いさほど気にはならないだろう。
……と、考えていたのだが。
先客はなんと、俺がいつも陣取っていた給水タンクのわずかな日陰に座っていた。空は依然として一面の鼠色だが、朝方に降っていた雨はいつしか止んで、ところどころ雲間からカーテンのような細い陽光が差している。その影響か、一部のコンクリート床は既に乾いていた。
そしてもっと意外だったのは、そこに座っていたのが月見里紅音だったことだ。彼女はその膝の上に小さな弁当箱を広げて昼食を摂っていた。
「や、月見里……!?」
俺の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「これは……宮東さん。おはようございます。……と言っても、もうお昼ですが」
その通りだ。けれど、俺と月見里が今日会ったのはこれが初めてなので、それほど挨拶に違和感はなかった。どちらかといえば、俺が気になったのはそれよりも……。
「月見里、午前中はいなかったよな?」
「はい。気がつかれておりましたか」
月見里は少し恥ずかしそうに頷いた。気がつくも何も、月見里は本人が思っているよりも注目を集めているから、彼女の欠席にはだいたいの人が自然と気づくと思う。
「私は、どうも雨が続くと体調を崩しがちで……今朝は、家から出られませんでした」
「それ、大丈夫なのか? そういうときは堂々と欠席したらいいのに」
「大丈夫ですよ、よくあることですから。お昼近くになったら体調も回復したので、こうして登校しています」
月見里はそう言うと、小さく首を傾げて微笑む。
「そう、なのか。まあ、大丈夫ならいいけどさ」
「はい。ご心配、痛み入ります。本当は少し前に学校に着いたのですが、授業残り十分で静かな教室に入るのも躊躇われて、それで、一足先にここでお昼を頂いていた次第です」
なるほど。確かに、授業が終わる前では教室で弁当を食べるわけにはいかないし、かといって食堂に顔を出すもの不審がられる。人のいない場所を求めてこの屋上に流れ着いたのだろう。
「あれ、じゃあここには、月見里一人だけなのか?」
尋ねると彼女は当たり前のように「はい、一人ですよ」と答えた。
「そう、か」
じゃあ、誰かの話していたあの声は……気のせいだったのだろうか。
突っ立っている俺に、ふいに月見里はふわりと笑いかける。座る位置を少し横にずらし、場所を譲るような仕草とともに。
「よろしければ、ご一緒しませんか?」
その言葉をしかと俺は耳にし、それでも、意味を理解するまでにしばらくかかった。やがて信じられない思いで訊き返す。
「え……いいのか?」
「もちろん、構いませんよ。食堂ランチより、屋上ランチが先になってしまいましたね」
そうして再び柔らかく笑った彼女の、その可憐さといったらない。俺は喜びつつ、しかしそれをできるだけ表に出さずに、平静を装って彼女の隣に腰を下ろした。
「ところで昨日、友人からスマホのメッセージで、妙な話を聞いたのですが」
二人で食事をし始めて少数分、彼女はなんでもない顔でそう切り出した。
「ああ、友人というのは、同じクラスの日賀沙織という子で」
その子なら知っている。日賀は同じクラスで、月見里の一つ前の席に座っている女生徒だ。
「妙な話?」
それはもしかして、朝から向けられている慣れない視線の理由についてだろうか。
「珍しいな。月見里はどちらかといえば、そういうの気にしないタイプじゃなかったか?」
「そうですね。主に気にしているのは沙織さんの方なのですが……ただ、噂の毛色が今までとあまりに違いましたから、私も少し驚きまして。特段、悪い内容の話ではないと思うので、せっかくなら本人に直接訊いてみようかと」
思い返してみれば確かに、日賀沙織という子は賑やかでミーハーなタイプの女の子だ。月見里とはかなり親しいようだが性格は真逆で、もしかしたら月見里は、彼女に噂の真偽の確認でも頼まれたのかもしれない。
俺としても、噂の内容をここで月見里から聞けるなら渡りに船だ。そもそも俺の話なのに、周りが知っていて俺が知らないというのは頂けない。
「構わないよ。なんでも訊いてくれ」
俺は揚々とそう答え、手に持っていたパンを一口齧った。そもそもだ。そもそも月見里に限らず皆、変に有ること無いこと噂せずに、全部俺に直接聞いてくれたらいいのだ。それを本人のいないところでばかり話すものだから、曖昧な情報に乗せられて『無いこと』ばかりが膨らんでく。どうせ今回だってその類なのだろう。そう思って、たかを括っている。
しかし月見里の質問は、俺の予想外の方向から飛んだ。
「では、その……宮東さん、どなたかと交際を始められましたか?」
「ごふっ!」
「着物で銀髪でハーフの美人さんが、校門まで宮東さんを迎えにきていたという話なのですが」
そ、それは……残念ながら『有ること』だ。喉の変なところに入りかけていたパンをなんとか正常に飲み下し、大きな空咳を鳴らす。
忘れていた。そういえば先週の金曜の帰りに、アオが人の姿で学校に来たんだった。そして無駄に目立っていた。みんなその話をしているのか!
俺はとっさに立ち上がって月見里に向き直る。
「ま、待ってくれ! 誤解だ。あれは、えっと……親戚の……いとこ! そう、いとこで!」
「そ、そうなのですか」
「そうなんだ! たまたまうちに遊びに来てて、あの日は、放課後に行くところがあったんだ。でもあいつ、スマホとか持ってないから、仕方なく外で待ち合わせすることになって、それで……とにかく、付き合ってるとかじゃないから!」
怒涛の訂正。何しろこれは重大案件だ。断じて見過ごすわけにはいかない。
そんな俺の必死の否定は二人の間の空気を一瞬だけ硬直させたが、でもやがて、月見里は顔を綻ばせて笑ってくれた。
「そうでしたか。いえ、確かに、親戚とそういう関係を疑われるのは、複雑かもしれませんね」
上手く誤魔化せた……気がする。力が抜けて、俺は再びガタッと腰を下ろした。
「私は直接見てはいないのですが、どうやら沙織さんが目撃したようでして。それはもう、ものすごい剣幕で迫られました。なんと言っていたでしょうか……確か『めちゃ美人肌超綺麗もはやあれ後ろにLED仕込んでるじゃなきゃ照明当たってたもん彼女絶対芸能人とかそういうのだから訊いてきて!』と」
「句読点なしでか」
「はい、句読点なしで」
ご自分でお訊きになればよろしいのに、と月見里は苦笑いをする。
「彼女じゃないし、あと芸能人でもないよ」
ってか人じゃないし。
「そうでしたか。では、沙織さんにはそう伝えておきます。安心してください」
よかった。月見里が正しい情報を伝えてくれるなら、噂の方はじきに消えていくはずだ。
そして、きっと安心したからなのだろう。その安心が油断を招いた。
だから俺はふいに口に出してしまう。
「いやまあ、他の人のことは別にいいよ。月見里にさえ、誤解されなかったら」
「私ですか?」
彼女のきょとんとした顔がこちらに向くのを見て、俺の思考がカクッと止まった。
「あ……いや!」
あれ? 俺今なんて言った? 月見里にさえ、誤解されなかったら? それってつまり、彼女にだけは誤解されたくないってことだ。そりゃそうだ。だって、俺は彼女が好きなのだから。
でも、それを今、ここで、言っていいのだろうか。
今は昼休みに二人きり。ここはひとけのない屋上。そうだ。言って、いけないわけはない。
「だって、俺は……」
口が乾く。思うように言葉が出ない。思考が回らない。
そして俺は気づいた。『言っていいのか』じゃなくて『言えるのか』だ。
俺は言えるのか? 彼女に、好きだと。
もちろん軽い気持ちじゃない。昨日今日に始まった感情じゃあない。言いたくて、伝えたくて、その想いがふと胸をよぎって悶々としたことだって何度もある。
そうだ。言えば、もしかしたら彼女は笑って応えてくれるかもしれない。目の前の彼女を、その大きな黒い瞳を見つめ、言えば――。
「……友達、だから」
……無理だ。言えるわけがない。
俺は、月見里が誰かと付き合っているところを見たことがない。彼女はこれほどに可愛らしくて人望もあって、それゆえ交際の申し入れがあとを絶つことがない。けれど彼女は、今のところその全てに、首を横に振っているらしいのだ。
なんでも週に一回以上は必ず告白され、散った男は数知れず。既に百人斬りを達成したとかしないとか……いやまあ、後半はそれこそ『無いこと』だろうけど。
いずれにしても、彼女には数々の好意に頭を下げて断っている理由があると聞く。今ここで彼女に告白して、そのなにがしかの理由を覆すだけの要素が、俺にあるとは思えなかった。
彼女はたぶん、俺の好意には気づいていない。だから気まぐれに話しかけたり、一緒の昼食を提案したりと、そういった無防備な行動ができる。
でも、言えば否応なく気づかせる。告白すればきっと答えが返ってきてしまう。月見里のことだ、ちゃんとはっきり、丁寧に答えてくれるだろう。そうしたらもう、こうして話したり、笑い合ったりすることは、できなくなってしまうかもしれないのだ。
『伝えたい』よりも『怖い』。そう、気づく。
俺の言葉に彼女は屈託なく笑ってくれたが、対して俺は、曖昧な表情をするだけだった。
やがて昼休み終了の五分前の予鈴が鳴り、片づけた弁当箱を持って彼女は立ち上がる。
「もう時間ですね。そろそろ教室へ行きましょうか」
「……ああ」と俺も彼女に続いて立った。
けれどそのとき、視界の端に動くものが見えた。俺は足を止める。
「あ……悪い。やっぱり、先に戻っててくれるか。すぐ行くから」
「そうですか? わかりました。では、お先に失礼しますね」
そうして月見里の背中が扉の向こうに消えるのを待って、俺はぐるりと首を回した。侮るなかれ。もう以前のように驚かされたりはしない。右上後方、既にしかとその姿を捉えている。
「何か用か、アオ」
声をかけると、兎姿の彼女は、吸水タンクの陰から潔くひょっこりと現れた。
「へぇ。まさかバレちゃうとは」
アオは相変わらず、体躯に見合わない大きな風呂敷包みを背負っている。ついでにそこから、先日渡した仕込み刀の和傘が雑にはみ出しているのも見えた。『月影』などと立派な名前を冠されていても、あんなふうに扱われてしまっては形無しだ。
「あんたも多少は警戒してるようで、何よりね」
何よりなのだろうか。むしろこいつはこんな奇怪な姿で、よくもまあ見つからないものだ。
「お前ほんと、誰かに見つかっても助けてやれないぞ」
「そんな下手は打たないわよ」
アオはスンッと得意げに笑う。そしてその笑みに、わずかに呆れを交えて言った。
「しっかしあんた、相変わらず愉快にやってるわねぇ。『好き』ってただ一言を口にすることもできないなんて、初々しい限りだわ」
なっ!
「う、うう、うるさいな! お前には関係ないだろ!」
そんな指摘をされるなど想定外、そして心外だ。俺は上擦った声を戻すように、わざとらしく顎を引いてアオを睨む。
「……それよりお前、いつからいたんだよ」
「さぁて、いつからかしらねぇ? ま、あんたの警戒なんて、所詮はその程度よね」
くっ……もしかして初めからか? 初めからなのか? こいつ……。歯を軋ませつつ俺は、しかしこれ以上やり合っても益はないと判断して強引に話を終わらせる。
「ああ、もういいよ! 用がないなら、俺は行くからな」
昼休みの終了は目前だ。月見里に行くと言った以上、このあとの授業をサボるつもりはない。俺は扉に向かって歩みを進めると同時、アオを視界から追いやった。
「いいえ、用はあるわ」
なんだあるのか。てっきり俺をからかいに来ただけだと思っていたから、その明言は少し意外だった。
振り返ると、俺の目線よりやや上で話しているアオの顔には、逆光の影が降りていた。そのせいで表情が読み取り辛い。が、妙に硬い、冷めた表情をしているように見えた。
「ヤマナシアカネ……あのメス、あたしのことを知ってたわね?」
「はあ? そりゃそうだろ。だってお前、金曜にあれだけ目立ったんだから」
奇怪な質問と眩しさの両方に顔をしかめる俺。
対するアオは少しの間、何かを考えるように黙していた。じっと俺のことを見下ろし、やがてその白い四肢ですくっと立ち上がると、丸い尻尾を横に向ける。
「ねぇ……あんた。悪いことは言わないから、たぶんあのメスはやめておいた方がいいわ」
「は? それ、どういう意味……」
そして影の中、蒼く光る流し目で俺を見据え
「あんたとあれじゃあ、合わないわよ」
そう残してアオは消えた。
理由は明白。地兎という得体の知れない連中に、住居を特定されるのは好ましくないからだ。
週明けの月曜を迎え、俺は常より遅い時間に、回り道で登校した。いつの間にかこの地域は梅雨入りしており、慣れない道に加えて雨にも降られ遅刻寸前。教室に入ったら、着席とほとんど同時にホームルームが開始された。いつもは向けられる視線を意識的に意識しないよう努めるところだが、今日に限っては本当に意識している暇がなかった。
しかし、休み時間や教室の移動時を経て、徐々に気づき始める。今日向けられる視線は、普段の敬遠とは少し違う。どちらかといえば……そう、これは好奇だ。俺がたまに月見里と談笑しているときなんかに向けられる視線に似ている。
けれども俺は今日、まだ月見里と話をしていない。どうやら彼女、今日はまだ学校に来ていないらしく、授業中も席がずっと空いていた。彼女の姿が見られないとなれば俺の学校生活の質は著しく低下するが、まあそれも致し方ないというものだ。彼女はあまり身体が丈夫でないようで、こうして学校を欠席することがたびたびある。
ただ、だからこそ余計に、周囲の好奇の視線の理由はわからないままだった。俺は若干首を捻りながらも、やはりそれらを気にしないように努めた。
昼。購買でパンを買って屋上へと向かう。最近はこれがパターン化してきた。階段を上り、屋上へと繋がる鉄扉に手を掛けようとしたとき、しかしその向こう側から声が聞こえる。
てっきり人はいないと思って来たものだから驚いた。
それでも、一度ここまで上ってきて引き返すというのも気怠かったので、結局、俺は屋上に足を踏み入れることにした。まあ別に、同じテーブルを囲むわけでもない。広い屋上で端の方に寄って食べれば、お互いさほど気にはならないだろう。
……と、考えていたのだが。
先客はなんと、俺がいつも陣取っていた給水タンクのわずかな日陰に座っていた。空は依然として一面の鼠色だが、朝方に降っていた雨はいつしか止んで、ところどころ雲間からカーテンのような細い陽光が差している。その影響か、一部のコンクリート床は既に乾いていた。
そしてもっと意外だったのは、そこに座っていたのが月見里紅音だったことだ。彼女はその膝の上に小さな弁当箱を広げて昼食を摂っていた。
「や、月見里……!?」
俺の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「これは……宮東さん。おはようございます。……と言っても、もうお昼ですが」
その通りだ。けれど、俺と月見里が今日会ったのはこれが初めてなので、それほど挨拶に違和感はなかった。どちらかといえば、俺が気になったのはそれよりも……。
「月見里、午前中はいなかったよな?」
「はい。気がつかれておりましたか」
月見里は少し恥ずかしそうに頷いた。気がつくも何も、月見里は本人が思っているよりも注目を集めているから、彼女の欠席にはだいたいの人が自然と気づくと思う。
「私は、どうも雨が続くと体調を崩しがちで……今朝は、家から出られませんでした」
「それ、大丈夫なのか? そういうときは堂々と欠席したらいいのに」
「大丈夫ですよ、よくあることですから。お昼近くになったら体調も回復したので、こうして登校しています」
月見里はそう言うと、小さく首を傾げて微笑む。
「そう、なのか。まあ、大丈夫ならいいけどさ」
「はい。ご心配、痛み入ります。本当は少し前に学校に着いたのですが、授業残り十分で静かな教室に入るのも躊躇われて、それで、一足先にここでお昼を頂いていた次第です」
なるほど。確かに、授業が終わる前では教室で弁当を食べるわけにはいかないし、かといって食堂に顔を出すもの不審がられる。人のいない場所を求めてこの屋上に流れ着いたのだろう。
「あれ、じゃあここには、月見里一人だけなのか?」
尋ねると彼女は当たり前のように「はい、一人ですよ」と答えた。
「そう、か」
じゃあ、誰かの話していたあの声は……気のせいだったのだろうか。
突っ立っている俺に、ふいに月見里はふわりと笑いかける。座る位置を少し横にずらし、場所を譲るような仕草とともに。
「よろしければ、ご一緒しませんか?」
その言葉をしかと俺は耳にし、それでも、意味を理解するまでにしばらくかかった。やがて信じられない思いで訊き返す。
「え……いいのか?」
「もちろん、構いませんよ。食堂ランチより、屋上ランチが先になってしまいましたね」
そうして再び柔らかく笑った彼女の、その可憐さといったらない。俺は喜びつつ、しかしそれをできるだけ表に出さずに、平静を装って彼女の隣に腰を下ろした。
「ところで昨日、友人からスマホのメッセージで、妙な話を聞いたのですが」
二人で食事をし始めて少数分、彼女はなんでもない顔でそう切り出した。
「ああ、友人というのは、同じクラスの日賀沙織という子で」
その子なら知っている。日賀は同じクラスで、月見里の一つ前の席に座っている女生徒だ。
「妙な話?」
それはもしかして、朝から向けられている慣れない視線の理由についてだろうか。
「珍しいな。月見里はどちらかといえば、そういうの気にしないタイプじゃなかったか?」
「そうですね。主に気にしているのは沙織さんの方なのですが……ただ、噂の毛色が今までとあまりに違いましたから、私も少し驚きまして。特段、悪い内容の話ではないと思うので、せっかくなら本人に直接訊いてみようかと」
思い返してみれば確かに、日賀沙織という子は賑やかでミーハーなタイプの女の子だ。月見里とはかなり親しいようだが性格は真逆で、もしかしたら月見里は、彼女に噂の真偽の確認でも頼まれたのかもしれない。
俺としても、噂の内容をここで月見里から聞けるなら渡りに船だ。そもそも俺の話なのに、周りが知っていて俺が知らないというのは頂けない。
「構わないよ。なんでも訊いてくれ」
俺は揚々とそう答え、手に持っていたパンを一口齧った。そもそもだ。そもそも月見里に限らず皆、変に有ること無いこと噂せずに、全部俺に直接聞いてくれたらいいのだ。それを本人のいないところでばかり話すものだから、曖昧な情報に乗せられて『無いこと』ばかりが膨らんでく。どうせ今回だってその類なのだろう。そう思って、たかを括っている。
しかし月見里の質問は、俺の予想外の方向から飛んだ。
「では、その……宮東さん、どなたかと交際を始められましたか?」
「ごふっ!」
「着物で銀髪でハーフの美人さんが、校門まで宮東さんを迎えにきていたという話なのですが」
そ、それは……残念ながら『有ること』だ。喉の変なところに入りかけていたパンをなんとか正常に飲み下し、大きな空咳を鳴らす。
忘れていた。そういえば先週の金曜の帰りに、アオが人の姿で学校に来たんだった。そして無駄に目立っていた。みんなその話をしているのか!
俺はとっさに立ち上がって月見里に向き直る。
「ま、待ってくれ! 誤解だ。あれは、えっと……親戚の……いとこ! そう、いとこで!」
「そ、そうなのですか」
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怒涛の訂正。何しろこれは重大案件だ。断じて見過ごすわけにはいかない。
そんな俺の必死の否定は二人の間の空気を一瞬だけ硬直させたが、でもやがて、月見里は顔を綻ばせて笑ってくれた。
「そうでしたか。いえ、確かに、親戚とそういう関係を疑われるのは、複雑かもしれませんね」
上手く誤魔化せた……気がする。力が抜けて、俺は再びガタッと腰を下ろした。
「私は直接見てはいないのですが、どうやら沙織さんが目撃したようでして。それはもう、ものすごい剣幕で迫られました。なんと言っていたでしょうか……確か『めちゃ美人肌超綺麗もはやあれ後ろにLED仕込んでるじゃなきゃ照明当たってたもん彼女絶対芸能人とかそういうのだから訊いてきて!』と」
「句読点なしでか」
「はい、句読点なしで」
ご自分でお訊きになればよろしいのに、と月見里は苦笑いをする。
「彼女じゃないし、あと芸能人でもないよ」
ってか人じゃないし。
「そうでしたか。では、沙織さんにはそう伝えておきます。安心してください」
よかった。月見里が正しい情報を伝えてくれるなら、噂の方はじきに消えていくはずだ。
そして、きっと安心したからなのだろう。その安心が油断を招いた。
だから俺はふいに口に出してしまう。
「いやまあ、他の人のことは別にいいよ。月見里にさえ、誤解されなかったら」
「私ですか?」
彼女のきょとんとした顔がこちらに向くのを見て、俺の思考がカクッと止まった。
「あ……いや!」
あれ? 俺今なんて言った? 月見里にさえ、誤解されなかったら? それってつまり、彼女にだけは誤解されたくないってことだ。そりゃそうだ。だって、俺は彼女が好きなのだから。
でも、それを今、ここで、言っていいのだろうか。
今は昼休みに二人きり。ここはひとけのない屋上。そうだ。言って、いけないわけはない。
「だって、俺は……」
口が乾く。思うように言葉が出ない。思考が回らない。
そして俺は気づいた。『言っていいのか』じゃなくて『言えるのか』だ。
俺は言えるのか? 彼女に、好きだと。
もちろん軽い気持ちじゃない。昨日今日に始まった感情じゃあない。言いたくて、伝えたくて、その想いがふと胸をよぎって悶々としたことだって何度もある。
そうだ。言えば、もしかしたら彼女は笑って応えてくれるかもしれない。目の前の彼女を、その大きな黒い瞳を見つめ、言えば――。
「……友達、だから」
……無理だ。言えるわけがない。
俺は、月見里が誰かと付き合っているところを見たことがない。彼女はこれほどに可愛らしくて人望もあって、それゆえ交際の申し入れがあとを絶つことがない。けれど彼女は、今のところその全てに、首を横に振っているらしいのだ。
なんでも週に一回以上は必ず告白され、散った男は数知れず。既に百人斬りを達成したとかしないとか……いやまあ、後半はそれこそ『無いこと』だろうけど。
いずれにしても、彼女には数々の好意に頭を下げて断っている理由があると聞く。今ここで彼女に告白して、そのなにがしかの理由を覆すだけの要素が、俺にあるとは思えなかった。
彼女はたぶん、俺の好意には気づいていない。だから気まぐれに話しかけたり、一緒の昼食を提案したりと、そういった無防備な行動ができる。
でも、言えば否応なく気づかせる。告白すればきっと答えが返ってきてしまう。月見里のことだ、ちゃんとはっきり、丁寧に答えてくれるだろう。そうしたらもう、こうして話したり、笑い合ったりすることは、できなくなってしまうかもしれないのだ。
『伝えたい』よりも『怖い』。そう、気づく。
俺の言葉に彼女は屈託なく笑ってくれたが、対して俺は、曖昧な表情をするだけだった。
やがて昼休み終了の五分前の予鈴が鳴り、片づけた弁当箱を持って彼女は立ち上がる。
「もう時間ですね。そろそろ教室へ行きましょうか」
「……ああ」と俺も彼女に続いて立った。
けれどそのとき、視界の端に動くものが見えた。俺は足を止める。
「あ……悪い。やっぱり、先に戻っててくれるか。すぐ行くから」
「そうですか? わかりました。では、お先に失礼しますね」
そうして月見里の背中が扉の向こうに消えるのを待って、俺はぐるりと首を回した。侮るなかれ。もう以前のように驚かされたりはしない。右上後方、既にしかとその姿を捉えている。
「何か用か、アオ」
声をかけると、兎姿の彼女は、吸水タンクの陰から潔くひょっこりと現れた。
「へぇ。まさかバレちゃうとは」
アオは相変わらず、体躯に見合わない大きな風呂敷包みを背負っている。ついでにそこから、先日渡した仕込み刀の和傘が雑にはみ出しているのも見えた。『月影』などと立派な名前を冠されていても、あんなふうに扱われてしまっては形無しだ。
「あんたも多少は警戒してるようで、何よりね」
何よりなのだろうか。むしろこいつはこんな奇怪な姿で、よくもまあ見つからないものだ。
「お前ほんと、誰かに見つかっても助けてやれないぞ」
「そんな下手は打たないわよ」
アオはスンッと得意げに笑う。そしてその笑みに、わずかに呆れを交えて言った。
「しっかしあんた、相変わらず愉快にやってるわねぇ。『好き』ってただ一言を口にすることもできないなんて、初々しい限りだわ」
なっ!
「う、うう、うるさいな! お前には関係ないだろ!」
そんな指摘をされるなど想定外、そして心外だ。俺は上擦った声を戻すように、わざとらしく顎を引いてアオを睨む。
「……それよりお前、いつからいたんだよ」
「さぁて、いつからかしらねぇ? ま、あんたの警戒なんて、所詮はその程度よね」
くっ……もしかして初めからか? 初めからなのか? こいつ……。歯を軋ませつつ俺は、しかしこれ以上やり合っても益はないと判断して強引に話を終わらせる。
「ああ、もういいよ! 用がないなら、俺は行くからな」
昼休みの終了は目前だ。月見里に行くと言った以上、このあとの授業をサボるつもりはない。俺は扉に向かって歩みを進めると同時、アオを視界から追いやった。
「いいえ、用はあるわ」
なんだあるのか。てっきり俺をからかいに来ただけだと思っていたから、その明言は少し意外だった。
振り返ると、俺の目線よりやや上で話しているアオの顔には、逆光の影が降りていた。そのせいで表情が読み取り辛い。が、妙に硬い、冷めた表情をしているように見えた。
「ヤマナシアカネ……あのメス、あたしのことを知ってたわね?」
「はあ? そりゃそうだろ。だってお前、金曜にあれだけ目立ったんだから」
奇怪な質問と眩しさの両方に顔をしかめる俺。
対するアオは少しの間、何かを考えるように黙していた。じっと俺のことを見下ろし、やがてその白い四肢ですくっと立ち上がると、丸い尻尾を横に向ける。
「ねぇ……あんた。悪いことは言わないから、たぶんあのメスはやめておいた方がいいわ」
「は? それ、どういう意味……」
そして影の中、蒼く光る流し目で俺を見据え
「あんたとあれじゃあ、合わないわよ」
そう残してアオは消えた。
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