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陸、月の世界
月の世界④
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「あてて……いや、こりゃ、まいったな。本当にただ素通りしようとしてるわけじゃあないとは、思ったけどさ」
目の前には尻餅をついた白兎が一匹。気怠そうに両手を上げようとして、ピクッと止まる。
「あ、駄目だ。身体動かないや。まあ気を失わなかっただけでもすごい方じゃない? 僕」
誰も答えない。
アオは黙って遠くに飛んでいった薙刀の方へと歩き、拾ったその場で真っ二つに叩き斬った。
「別に、その薙刀が何か特別ってわけじゃないから、壊されても痛くはないけど……んあっ! ……ってて、身体の方がよっぽど痛いね」
首を振ろうとして勝手に痛がっている。こうしていると、ただひょうきんなだけの兎だ。
そいつはアオと月見里が揃って無言で出口に向かうのを見て言った。
「あれ、殺さないの?」
すると月見里が振り返って澄ました顔をする。
「はい。無血革命ですから」
けれども続いて踵を返したアオは、これまた無言で奴に近づいて刀の切っ先を向けた。
「でも追ってきたら今度は殺すわ」
「よく言うね。もう一回やり合ったら、キミたち、僕に勝てないでしょ」
対して奴は悠長に笑うばかり。
「ま、でも、追わないよ。僕一応、頑張ったし。やれるだけはやったんだから、仕方ないよね」
こいつやっぱり、真面目なんだか不真面目なんだかよくわからない。最後までそんな想いで眺めていると、奴は俺の視線に気づいて。
「安心してよ。動けるようになったら追いかけて後ろから……とかじゃないから。僕、嘘はつかない主義なんだ」
確かに、そう言われたら不思議と納得できた。こいつは自分にとても正直な気がする。
「でも、僕がとっても強いのはよくわかったでしょ? もし月の世界がキミたちのものになったら、そのときは是非、仲良くしてね」
だからこれも、嘘ではないのだろう。相当に太い神経だ。
俺たちは皆、なんとも言えない表情を浮かべて部屋を去った。
出口から続いた階段は長く、それを上りきって辿り着いた先は最上階だった。
半球型天井。白一色のフロアの直径をなぞるように敷かれた、参道のようなメインストリート。その両脇には、灯籠らしきものがいくつも並んでいる。これは……。
「あんたの家に似てるわね。今思えば」
俺の右肩に乗るアオが言ったのは、つまりはうちの神社のことだろう。確かに似た構造だ。
そして参道の先には、低めの階段が設けられた聖火台のようなものがあった。台上に煌々と輝く、美しく大きな白い灯火。俺は一つの疑問もなく、それが何物か理解する。
「あの正面にでっかくあるのが『燭台』ね。ずっと話に出てきてたのは、あれのこと。あと、道の脇にある灯籠の中にも、それぞれ別に小さな燭台があるの。本来、灯詞の儀の遣いはその小さな燭台を持って地上に降りて、人間に祝詞を授かり、ここに帰り着いたらあの大きな燭台――大燭台に炎を移す」
なるほど。さすがに数メートルもある燭台を持ち運ぶことはできないから、そういうやり方をするわけだ。
「大燭台の後ろは、回り込むと街が見渡せる露台になってるわ。遣いが持ち帰った炎は、あの場所で大燭台に移される。すると街全体に、炎の元となった言葉が祝詞として響き渡って、兎たちに届くの。そして大燭台には、絶えず炎が灯り続ける。あの大燭台の炎こそ、天兎が祝福を受け、月に住むことを是とする証明。教えではそう言われてる」
「へぇ……教えでは、か」
聞こえよがしにアオが皮肉を零したので、俺はすかさず拾ってやった。
「そ。もはやどこまで本当かはわかんないけど……とにかく重要なのは、確かにあの炎はそうしてずっとずっと消えることなく継がれてきて、天兎のみんなが、祝詞を信じてるってこと」
「だから私たちは、それを逆手に取るのですね」
左肩に乗る月見里がさらりと、アオの言葉の先を続けた。
その通り。俺たちがここまで上ってきた目的は、それだ。
天兎たち皆が、あの炎に灯された人間の言葉を信じている。白兎だけが神に、ひいては月に祝福され、月に住むことを許されているという祝詞を。
そうやって、この天兎の世界が回っている。
だったらそれを上書きすればいい。
天兎たちにとって神の代行である人間。その人間からの祝詞が、天兎だけではなく、地兎にも向けられたものであると。全ての兎に向けられたものであると。
そうはっきり宣言するのだ。
俺が――人間が、直接、この月で。
この無血革命は、そういう算段。
「じゃ、紅音。あんた、あの火、消してくれる?」
しれっとそんな発言をするアオに、月見里はきょとんとしながら少しだけ困り顔を向けた。
「……随分と軽いですね。そんな簡単に言いますけど、どうやって……」
「火なんだから水で消えるでしょ。それで消してよ」
アオは月見里の左手にはまった指輪を示す。指輪の水弾で炎を消せと言うのだ。
「本当ですか……それ」
半信半疑に呟いた月見里が肩から飛び降り、一番手前の灯籠に近づいていく。しかし、やってみると意外にも簡単だったようですぐに「……消えました」と拍子の抜けた声が返った。
「じゃ、その調子で全部よろしく」
そうしてアオは月見里に灯籠の火消しを任せ、自分はといえば、既に炎の消えた小さな燭台を一つ、灯籠から取り出して持ってきた。両手で胸の前に握り、数秒、祈るようにしてユエを込める。やがて仄かに光を放ち始めたそれをついっと、片手でこちらに差し出した。
じっと蒼い二つの瞳に、俺を映しながら。
「ねぇ、あたしね……たぶん半分くらいは、こんなとこまで来られっこないって、思ってたわ」
ぽつりと呟く、彼女の言葉。それは非常に淡々としていたが、同時にとても穏やかだった。
「でも、来ちゃった。きっと紅音の伸ばした手に、連れてこられたの」
伸ばした手――月見里が、彼女自身の強く望むものに向かって伸ばした手に。
俺も、そうなんだと思った。
「だからこの博打は、紅音の勝ちね」
俺は身体を屈め、アオから燭台を受け取ろうとする。取っ手を握ると、しかし、アオはそれでも反対側を握る手を離さなかった。
「ところであんたさ。結局あのこに、まだ好きって言ってないでしょ」
突然の詰問にカクッと、俺は硬直する。アオの口調は、まるで子供の悪戯を咎めるかのようでもあった。
「あ……ああ、まあ……」と喉から曖昧な声が出る。
すると燭台の端を握ったままのアオは、大きな、それはそれは大きな溜息を一つ零した。
「はぁ……あんた、前にあたしに言ったこと、覚えてる?」
もちろん、それは、覚えている。彼女はいつかの夜の、境内の神楽殿での話をしている。
「ちゃんと言うって、あんた、言ったのよ。あれ、あたしとの約束よね?」
約束……確かにあれは、約束だった。忘れるはずもない。忘れてはいけない。アオとの大事な約束だ。
俺は燭台を握る手に力を込めながら、ふっと月見里の方を見やる。
彼女はせっせと灯籠に上って炎を消し、そして下りて、また隣の灯籠に移っていく。
これまでずっと、俺の胸の中にしまってきた想い。月見里はそれを、露とも知らない。
でも言おうと決めた。だから言おうと決めた。俺は彼女に手を伸ばそうと決めたのだ。
ならば、言わなければならない。
そうだ。月見里は、その理想に手を伸ばし続け、ついに今日、この場所まで辿り着いた。
そしてアオも、彼女なりの想いを胸に、今、ここにいるはずだ。
では俺はどうだろう。月見里が望むから、アオがせがむから、俺はここにいるのだろうか。
そうではない。決してそれだけではないと、俺は気づく。
彼女たちのため、だけではない。きっと俺も、俺自身のために、ここまで来たのだ。
瞬きもなく俺を見つめていたアオの顔が、そのときわずかに、綻んだ気がした。
彼女は握り続けていた燭台からようやく手を離すと、一歩、ピョンと前へ出る。
その視線の先には、もう全ての灯籠を巡り終えた月見里が待っていた。
「じゃあ紫苑。ちゃんと格好良いとこ、見せてよね」
弾む声を残し、駆けていくアオ。
そんな彼女の背に向かって、俺は一人、静かに強く呟く。
「……ああ、わかってる。ちゃんと約束、果たすよ」
参道を進み、大燭台を回り込む。そうして眼前に現れたのは、目眩すら覚えるほどの広大な白の地平、黒の空。その境界線は遠く、街の外周のさらにさらに先に見える。見開いたこの目は、俺がこれまで生きてきたどの瞬間より、俺の視界をクリアに映した。
露台の先、アオは少しだけ離れた場所でこちらを向いている。
月見里が静かに歩み寄ってきて、俺の右手の持つ燭台に触れた。
交わす言葉はない。彼女は穏やかに目を瞑り、両手でユエを送り込む。仄かに光を放っていた燭台が、彼女のユエでいっそう眩く、輝いていく。
その儀式めいた所作の末、燭台に祝詞を込める準備が整う。
「では、お願いします」
一言だけを残し、月見里はアオと同じように離れて立った。
俺は握った燭台の先を、大燭台の中心に近づける。
そして大きく息を吸った。
「天兎のみんな、聞いてくれ! この月は、天兎たちだけのものじゃないんだ!」
俺の口から言葉が紡がれる。そのたびに、燭台が熱を帯びる。ユエが大燭台に流れ込んでいく。中心に小さな火種が生まれ、まるで波紋のようにその炎から声が広がる。
「地兎のみんな! あんたたちも、この月に住む権利を持っているんだ!」
炎は次第に大きくなる。みるみるうちに猛り、膨れ、燃え盛る。
俺の声が次々と周囲に、眼下の街に、戦う白兎と黒兎たちに広がっていく。
「そもそも天兎なんて種族はいない。地兎なんて種族はいない。みんな同じ兎で、白くても黒くてもいい。みんなが神様に、そしてこの月に祝福されているんだ!」
やがてあちこちで起こっていた剣戟が止み始める。兎たち一匹一匹が空を見上げ、この塔に向かって首を回す。
灯火はもう、大きく満ち、輝いている。
争いが止み、静かになった世界に向かって俺は告げる。
「だから俺は、いや、人間は……兎たちがみんなで笑って、仲良く月に住むことを願う!」
そうして俺は右手を下ろし、アオと月見里の方を見た。彼女たちは穏やかに微笑んでいた。
俺はもう一度、力の限り息を吸って、叫ぶ。今度はただただ、この空に向かって。
「でもって俺は、宮東紫苑は……月見里紅音が、好きだーーーー!」
目の前には尻餅をついた白兎が一匹。気怠そうに両手を上げようとして、ピクッと止まる。
「あ、駄目だ。身体動かないや。まあ気を失わなかっただけでもすごい方じゃない? 僕」
誰も答えない。
アオは黙って遠くに飛んでいった薙刀の方へと歩き、拾ったその場で真っ二つに叩き斬った。
「別に、その薙刀が何か特別ってわけじゃないから、壊されても痛くはないけど……んあっ! ……ってて、身体の方がよっぽど痛いね」
首を振ろうとして勝手に痛がっている。こうしていると、ただひょうきんなだけの兎だ。
そいつはアオと月見里が揃って無言で出口に向かうのを見て言った。
「あれ、殺さないの?」
すると月見里が振り返って澄ました顔をする。
「はい。無血革命ですから」
けれども続いて踵を返したアオは、これまた無言で奴に近づいて刀の切っ先を向けた。
「でも追ってきたら今度は殺すわ」
「よく言うね。もう一回やり合ったら、キミたち、僕に勝てないでしょ」
対して奴は悠長に笑うばかり。
「ま、でも、追わないよ。僕一応、頑張ったし。やれるだけはやったんだから、仕方ないよね」
こいつやっぱり、真面目なんだか不真面目なんだかよくわからない。最後までそんな想いで眺めていると、奴は俺の視線に気づいて。
「安心してよ。動けるようになったら追いかけて後ろから……とかじゃないから。僕、嘘はつかない主義なんだ」
確かに、そう言われたら不思議と納得できた。こいつは自分にとても正直な気がする。
「でも、僕がとっても強いのはよくわかったでしょ? もし月の世界がキミたちのものになったら、そのときは是非、仲良くしてね」
だからこれも、嘘ではないのだろう。相当に太い神経だ。
俺たちは皆、なんとも言えない表情を浮かべて部屋を去った。
出口から続いた階段は長く、それを上りきって辿り着いた先は最上階だった。
半球型天井。白一色のフロアの直径をなぞるように敷かれた、参道のようなメインストリート。その両脇には、灯籠らしきものがいくつも並んでいる。これは……。
「あんたの家に似てるわね。今思えば」
俺の右肩に乗るアオが言ったのは、つまりはうちの神社のことだろう。確かに似た構造だ。
そして参道の先には、低めの階段が設けられた聖火台のようなものがあった。台上に煌々と輝く、美しく大きな白い灯火。俺は一つの疑問もなく、それが何物か理解する。
「あの正面にでっかくあるのが『燭台』ね。ずっと話に出てきてたのは、あれのこと。あと、道の脇にある灯籠の中にも、それぞれ別に小さな燭台があるの。本来、灯詞の儀の遣いはその小さな燭台を持って地上に降りて、人間に祝詞を授かり、ここに帰り着いたらあの大きな燭台――大燭台に炎を移す」
なるほど。さすがに数メートルもある燭台を持ち運ぶことはできないから、そういうやり方をするわけだ。
「大燭台の後ろは、回り込むと街が見渡せる露台になってるわ。遣いが持ち帰った炎は、あの場所で大燭台に移される。すると街全体に、炎の元となった言葉が祝詞として響き渡って、兎たちに届くの。そして大燭台には、絶えず炎が灯り続ける。あの大燭台の炎こそ、天兎が祝福を受け、月に住むことを是とする証明。教えではそう言われてる」
「へぇ……教えでは、か」
聞こえよがしにアオが皮肉を零したので、俺はすかさず拾ってやった。
「そ。もはやどこまで本当かはわかんないけど……とにかく重要なのは、確かにあの炎はそうしてずっとずっと消えることなく継がれてきて、天兎のみんなが、祝詞を信じてるってこと」
「だから私たちは、それを逆手に取るのですね」
左肩に乗る月見里がさらりと、アオの言葉の先を続けた。
その通り。俺たちがここまで上ってきた目的は、それだ。
天兎たち皆が、あの炎に灯された人間の言葉を信じている。白兎だけが神に、ひいては月に祝福され、月に住むことを許されているという祝詞を。
そうやって、この天兎の世界が回っている。
だったらそれを上書きすればいい。
天兎たちにとって神の代行である人間。その人間からの祝詞が、天兎だけではなく、地兎にも向けられたものであると。全ての兎に向けられたものであると。
そうはっきり宣言するのだ。
俺が――人間が、直接、この月で。
この無血革命は、そういう算段。
「じゃ、紅音。あんた、あの火、消してくれる?」
しれっとそんな発言をするアオに、月見里はきょとんとしながら少しだけ困り顔を向けた。
「……随分と軽いですね。そんな簡単に言いますけど、どうやって……」
「火なんだから水で消えるでしょ。それで消してよ」
アオは月見里の左手にはまった指輪を示す。指輪の水弾で炎を消せと言うのだ。
「本当ですか……それ」
半信半疑に呟いた月見里が肩から飛び降り、一番手前の灯籠に近づいていく。しかし、やってみると意外にも簡単だったようですぐに「……消えました」と拍子の抜けた声が返った。
「じゃ、その調子で全部よろしく」
そうしてアオは月見里に灯籠の火消しを任せ、自分はといえば、既に炎の消えた小さな燭台を一つ、灯籠から取り出して持ってきた。両手で胸の前に握り、数秒、祈るようにしてユエを込める。やがて仄かに光を放ち始めたそれをついっと、片手でこちらに差し出した。
じっと蒼い二つの瞳に、俺を映しながら。
「ねぇ、あたしね……たぶん半分くらいは、こんなとこまで来られっこないって、思ってたわ」
ぽつりと呟く、彼女の言葉。それは非常に淡々としていたが、同時にとても穏やかだった。
「でも、来ちゃった。きっと紅音の伸ばした手に、連れてこられたの」
伸ばした手――月見里が、彼女自身の強く望むものに向かって伸ばした手に。
俺も、そうなんだと思った。
「だからこの博打は、紅音の勝ちね」
俺は身体を屈め、アオから燭台を受け取ろうとする。取っ手を握ると、しかし、アオはそれでも反対側を握る手を離さなかった。
「ところであんたさ。結局あのこに、まだ好きって言ってないでしょ」
突然の詰問にカクッと、俺は硬直する。アオの口調は、まるで子供の悪戯を咎めるかのようでもあった。
「あ……ああ、まあ……」と喉から曖昧な声が出る。
すると燭台の端を握ったままのアオは、大きな、それはそれは大きな溜息を一つ零した。
「はぁ……あんた、前にあたしに言ったこと、覚えてる?」
もちろん、それは、覚えている。彼女はいつかの夜の、境内の神楽殿での話をしている。
「ちゃんと言うって、あんた、言ったのよ。あれ、あたしとの約束よね?」
約束……確かにあれは、約束だった。忘れるはずもない。忘れてはいけない。アオとの大事な約束だ。
俺は燭台を握る手に力を込めながら、ふっと月見里の方を見やる。
彼女はせっせと灯籠に上って炎を消し、そして下りて、また隣の灯籠に移っていく。
これまでずっと、俺の胸の中にしまってきた想い。月見里はそれを、露とも知らない。
でも言おうと決めた。だから言おうと決めた。俺は彼女に手を伸ばそうと決めたのだ。
ならば、言わなければならない。
そうだ。月見里は、その理想に手を伸ばし続け、ついに今日、この場所まで辿り着いた。
そしてアオも、彼女なりの想いを胸に、今、ここにいるはずだ。
では俺はどうだろう。月見里が望むから、アオがせがむから、俺はここにいるのだろうか。
そうではない。決してそれだけではないと、俺は気づく。
彼女たちのため、だけではない。きっと俺も、俺自身のために、ここまで来たのだ。
瞬きもなく俺を見つめていたアオの顔が、そのときわずかに、綻んだ気がした。
彼女は握り続けていた燭台からようやく手を離すと、一歩、ピョンと前へ出る。
その視線の先には、もう全ての灯籠を巡り終えた月見里が待っていた。
「じゃあ紫苑。ちゃんと格好良いとこ、見せてよね」
弾む声を残し、駆けていくアオ。
そんな彼女の背に向かって、俺は一人、静かに強く呟く。
「……ああ、わかってる。ちゃんと約束、果たすよ」
参道を進み、大燭台を回り込む。そうして眼前に現れたのは、目眩すら覚えるほどの広大な白の地平、黒の空。その境界線は遠く、街の外周のさらにさらに先に見える。見開いたこの目は、俺がこれまで生きてきたどの瞬間より、俺の視界をクリアに映した。
露台の先、アオは少しだけ離れた場所でこちらを向いている。
月見里が静かに歩み寄ってきて、俺の右手の持つ燭台に触れた。
交わす言葉はない。彼女は穏やかに目を瞑り、両手でユエを送り込む。仄かに光を放っていた燭台が、彼女のユエでいっそう眩く、輝いていく。
その儀式めいた所作の末、燭台に祝詞を込める準備が整う。
「では、お願いします」
一言だけを残し、月見里はアオと同じように離れて立った。
俺は握った燭台の先を、大燭台の中心に近づける。
そして大きく息を吸った。
「天兎のみんな、聞いてくれ! この月は、天兎たちだけのものじゃないんだ!」
俺の口から言葉が紡がれる。そのたびに、燭台が熱を帯びる。ユエが大燭台に流れ込んでいく。中心に小さな火種が生まれ、まるで波紋のようにその炎から声が広がる。
「地兎のみんな! あんたたちも、この月に住む権利を持っているんだ!」
炎は次第に大きくなる。みるみるうちに猛り、膨れ、燃え盛る。
俺の声が次々と周囲に、眼下の街に、戦う白兎と黒兎たちに広がっていく。
「そもそも天兎なんて種族はいない。地兎なんて種族はいない。みんな同じ兎で、白くても黒くてもいい。みんなが神様に、そしてこの月に祝福されているんだ!」
やがてあちこちで起こっていた剣戟が止み始める。兎たち一匹一匹が空を見上げ、この塔に向かって首を回す。
灯火はもう、大きく満ち、輝いている。
争いが止み、静かになった世界に向かって俺は告げる。
「だから俺は、いや、人間は……兎たちがみんなで笑って、仲良く月に住むことを願う!」
そうして俺は右手を下ろし、アオと月見里の方を見た。彼女たちは穏やかに微笑んでいた。
俺はもう一度、力の限り息を吸って、叫ぶ。今度はただただ、この空に向かって。
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