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終、満月の夜
満月の夜
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「ごめんなさいっ!」
ピシッ、と視界に亀裂が入って時が止まった……ような気がした。
目の前で、月見里が深々と頭を下げている。もちろんこれは、俺が月で叫んだ告白に対しての返事だ。
あの宣言のあと、戦うことをやめた街の兎たちは、白兎も黒兎も関係なく月宮殿に集まり出し、やがては最上階も騒然となった。白兎のほとんどは確かに信心深いようで、これまで自分たちが信じていた祝詞と、俺の祝詞があまりに異なることに戸惑っていた。
にわかに白と黒の兎たちによって埋め尽くされ出した空間から、俺たちは逃げるように階下に下りた。しかし俺たちも言いっぱなしで消えるわけにもいかないので、アオと、それから特に月見里が白兎と黒兎の間に割って立ち、差し当たってのとりなしを行った。
祝詞の通りに「仲良く月に住む」のであれば、きっと話し合わなければならないことは山のようにあるだろう。そのために場を整え、そうこうするうちに月上での皆既日食が終わりに差し掛かり、兎たちにはユエが戻って……事の運びを月に残る兎たちに任せられるようになってから、俺とアオと月見里は地上へと帰った。路地に捨てたはずのアオと月見里の服や荷物が、数匹の白兎と黒兎たちによって神輿のように戻ってきたのはなんとも愉快な光景だった。
相変わらず転移という感覚は薄いが、目を覚ましてみると、そこはもう月見里のマンションの入口前。崩れた並木道や噴水の復旧が行われ始めている広場。
時刻は既に深夜で、月へ発ったときから日付も変わってしまっている。
騒がしくしていた間はあえて誰も触れなかったが、こうして静かな夜に戻ってきてなお、それではいけないと思ったのだろう。月見里は意を決したようにくるりと身体を向けて、俺に正立するや否や、両手を重ねて頭を下げたのだ。
「その、宮東さんのお気持ちは、大変嬉しいのですけれど……申し訳ありませんが、私はそれに、お応えすることができません」
ぐさっ。
やがて彼女はゆっくりと頭を上げ、やや俯き加減でおずおずと言う。
「今、私たち黒兎はようやく、月に住むための一歩を踏み出しました。ですがそれは本当に一歩で、実際に黒兎が月で暮らせるようになるまでには、まだたくさんの、すべきことがあるのです。そんな状態で宮東さんとのお付き合いを真剣に考えることは、私にはできません。きっと宮東さんにも失礼ですし、何より私の使命はまだ、終わっていないのです」
なんと丁寧で綺麗で正しくて、隙のない断り文句なのだろう。おそらく彼女はその使命を理由に、これまでも数々の告白を断ってきたのだと思う。もちろん普通なら兎としての事情など話せないから上手くぼかすのだろうけれど、俺は詳しく知ってしまった分、余計にそれを受け入れざるをえない。
「そ、そう……だよな。うん。確かにそういう状態で、恋愛云々は難しいよな」
「はい。それに、てっきり宮東さんは、私ではなく……」
「え?」
「あ、いえ……とにかく、そう言って頂けると、私も気が楽になります」
彼女は不思議そうな顔で何かを呟いたが、すぐに淡く微笑んで首を傾けた。
「とはいえ、宮東さんは私たち黒兎にとっての恩人です。このたびは本当にありがとうございました。お礼はまた、必ずさせて頂きますので」
「いや。いいよ、そんなの。なんか悪いし」
「そういうわけには……」
彼女は首を横に振る。
「私は、まだしばらくここで学校に通いますので、どうかそのときにでも、お話しさせてください。それから、よろしければ友人として、変わらず仲良くして頂けると嬉しいです」
月見里はもう一度深く丁寧に頭を下げると「では、また」と残してマンションの中に消えた。
俺はその場で立ち尽くす。月見里が目の前からいなくなると、会話を続けている間は感じていなかった喪失感が、腹の底に重く落ちた。
振られてしまったのは、もちろん残念だ。でも、何より一番気になったのは、彼女の「まだしばらくは」という言葉。
そうだ。これから兎が皆で月に住めるようになるのなら、月見里も、遠くない未来には月へ行ってしまうのだ。まるで竹取物語の結末のように。そしてそれは彼女にとって、良いことのはずで……俺も、祝福すべきことなのだろう。
俺はそう、目を閉じながら空を仰いで考えていた。
考えていた……のだが、背後から聞こえる声が、どうしてもこの耳に届いてくる。
「くくっ……くくくっ」
いや、実のところ、この声はもっと前から、月見里が俺に背を向けて立ち去っていったときくらいから聞こえていた。もういい加減、無視することなどできないくらいに。
「あっはははははははははは!」
「おい笑うんじゃない!」
アオの声だ。ずっと我慢していたらしきアオの笑い声が、ついに抑えきれなくなったとばかりに大口で上がる。
「あは! あははは! はははははは!」
「お、お前……!」
他人が今まさに振られた傍でげらげらと……いや、むしろ俺が振られたから笑ってんのか。なんて奴だ!
「あはは、ごめんごめん。まああれよ、えっと……どんまい? ってやつ」
軽い……なんて軽いんだ。しかもそれ、絶対覚えたばっかの言葉だろ。もう全然慰める気ないぞこいつ。
アオは浮ついた足取りで俺へと近づき、着物の袖をひらつかせながら、右手でぽんぽん肩を叩いてくる。
俺はその手をやんわりかわすように身体を捻ると、そのまま彼女に背を向けた。
「うるさい。お前にとってはどうでもいいんだろうけど……俺は俺で、真剣だったんだよ」
「真剣ねぇ……けどその割に、あっちがあんまりにも慣れてる断り方だったから、いや、思わずね」
ようやく笑い終えたらしいが、それでもまだ腹をさすっているアオ。そんなに腹を痛めるほど面白かったか畜生。生まれて初めての告白が盛大に散った俺の気など知るよしもなく彼女は「オスってああいうのにすーぐやられるのよねぇ」とかなんとか言っている。
しばらくして、俺の恨めしげな視線に気づいたのか、白い八重歯を覗かせてからりと笑った。
「あ、あとね。別にどうでもいいわけじゃあないわよ」彼女は俺の顔を覗き込むように自身を回り込ませ「結果はともかく、あんたは想いの丈を十分伝えられたわけだし、すっきりしたんじゃない? これで心おきなく、あたしのものになれるってもんでしょ?」
「はぁ!? 何言ってんだお前。なんで俺がいきなりお前のものになるんだよ!」
「え? だってあんた、振られたじゃない。あんたがあたしを袖にしたのは、紅音のことが好きだったからでしょ? でももう振られちゃったんだし、そしたら、あんたがあたしに靡かない理由はないじゃない?」
それはいったいどういう理屈なのだろうか。まるで当たり前のような口上で言うこいつの思考は、やはり度し難い。
「んなわけあるか! だいたいな、振られたからって、そんなすぐに気持ちが変わるわけじゃないんだよ!」
「えっ……? こんなに麗しくて器量良しで可愛いあたしが横にいるのに?」
「いやそれ全部見た目の話だろ!」
心底驚いた、みたいな顔をしているが、その自信はいったいどこから湧いてくるのか。見た目は良くても性格は残念極まりない。
「えー、じゃあいつになったら変わるのよー」
「だから変わらないんだって!」
付き合いきれないと思った俺は、アオをおいてとっとと歩き出した。並木道を通ってマンションから離れ、開けた街路に差し掛かる。
アオはタシッとお得意の右足を鳴らしたが、なんだかんだ後ろでぶうぶう文句を言いながらついてくる。
そして長い下り坂。夜街の景色に臨んだ辺りで、途端に背に投げられる文句が消えたかと思うと、近くでクスッと艶のある声がした。
ふいに右腕が、くっと引かれる。
「ま、今すぐに変わらないんなら、とりあえずはいいわ」
腕につられて振り返ると、思ったよりかなり近くに、アオの顔があった。
「そんなこと言ってるあんたを、ゆっくりゆっくり籠絡するのも、それはそれで楽しそうだしね!」
見開いた目の前。さきほどまでの拗ねた顔はもう、どこにもなくて。
満開の、弾けるような大輪の笑顔。久しく目にしていなかったアオの、作り物ではない本物の笑みが、そこにはあった。
紅潮しかかった顔を、俺は思わず引っ込める。
「ばっ……馬鹿言うなって」
身体ごとそっぽを向こうとし、しかし、右腕がアオの両手で抱えられているから、それも中途半端で……結局俺は、話を逸らすようにアオに訊いた。
「つか……お前だって月に帰るんだろ?」
「帰らないわよ。あたし帰っちゃったら、あんた一人で寂しいでしょ?」
「いや寂しいとかないし!」
そもそも俺は、基本的に一人だったのだ。別にどうということはない……はずだろう。
「だってあの家、あんた一人じゃない。だからあたしも一緒に住むわ」
「ちょっと待て。なんでそうなるんだ。もう灯詞の儀はやらなくていいし、そもそも月から逃げる必要もなくなっただろ? 俺の家に住む意味がわからん」
「うるさいわね。いたいだけいていいって言ったのはあんたでしょ! ちゃんと言質はとってあるんだから、今更駄目なんて言わせないわよ!」
そりゃ確かに、言うには言ったが……。
「いや、でもあれは、お前に行く当てがないみたいだったからこその提案であって……だからお前だってあのとき、後先考えずに、つがいがどうとか言ったんだろ?」
「そんなことないわよ。あたし、言ったじゃない。あんたのこと好きになれると思うって」
「……え?」
さらっと返されたその言葉に、俺は思わず固まった。
ただ見つめる俺の視線に対し、彼女はかわすでも逃げるでもなく、正面からまっすぐに俺を見つめ返してくる。
「ねぇ紫苑。あたし、今、あんたが好きよ」
暗がりの中でもはっきりと見える。まるで自ら光を放っているかのような、美しく蒼い瞳。
「あたし、決めたの。あたしはこれからあんたに手を伸ばす。あんたを必ず、手に入れるって」
背を伸ばし、引き締まった華やかなその笑みと、自信に満ちた佇まい。着物の裾をはためかせ抜けていく風が一吹き、俺の目に映る彼女を、より鮮明に際立たせる。
彼女は言う。この上なく嬉々とした表情で。そして芯のある優しい声で。
「ね、想像してみて? あんたがこれから、あの家であたしと一緒に暮らすことを。あんたとあたしは部屋も一緒。朝ご飯も一緒、お昼ご飯もお昼寝も買い物も一緒で、夜寝るもの一緒」
「寝るのは一緒じゃ困るだろ!」
即座に反論が飛び出たが、それでもアオは、ますます笑みを深くするばかり。
「雨が降ったら傘も一緒で、晴れたら空を眺めるのも一緒。暑いのも寒いのも、泣くのも笑うのも怒るのも楽しいのも、この先起こること全部全部何もかも、あんたとあたしは一緒なのよ」
アオは俺の腕を強く引き、身を乗り出すように俺に近づいてくる。
「そんな生活の中で、あんた、あたしのこと好きにならない自信、ある?」
問われ、一瞬。ほんの一瞬だけ、俺は、アオの口にした未来を思い描いてしまった気がした。つい一ヶ月だか二ヶ月だか前に始まったこの生活。それがこれからもずっと続き、やがて俺の瞳の中心には、寝ても覚めてもアオがいて、そんなアオが、いつしか俺の心までも……。
そんなふうに、ただただ呆け尽くしている俺に、アオはさぞ愉快そうな顔で告げる。
「せいぜい覚悟するといいわよ。紅音のことなんか、すぐに忘れさせてあげる。あんなのより、あたしのこと十倍でも百倍でも、何千倍でも好きにさせてあげるんだからっ!」
思い返せば、アオが家に現れてからの時間は、まるで御伽噺の中に入り込んだようだった。あの新月の夜、俺庭で彼女を拾って、御伽噺の中に首を突っ込んでしまったのかもしれない。
そしてそれは、ようやく最後のページまで辿り着き、今こうして、終わりを迎えた。
そう思ったのに。
この御伽噺は、まだもう少しだけ、続くのかもしれない。
坂の先に、アオが歩き出していく。
「さ、あたしたちの家に帰りましょう?」
その声に、まるで当たり前のように「ああ」と答えてしまいそうになっている自分に、俺は内心、どれほど取り乱しただろう。知らず知らず、胸の奥がじんと熱くなっている自分。アオの左腕に絡んだ右腕から、その熱が伝わってしまうのではないかと焦っている自分。あるいは、その熱すらも、彼女と一緒なのではないかと思い始めている自分。
先行く彼女に引かれる俺の足取りはやや心許なく、それでも不思議となぜか、心地良くて。
月食を終えた大きな月が、頭上で円く輝いているのに、ふと気づいた。
明るく優しい光が、空の彼方から俺たちの歩みを照らしている。
坂を下っていく途中で俺は、遠く、遠く、その彼方の先に手を伸ばした。
了
ピシッ、と視界に亀裂が入って時が止まった……ような気がした。
目の前で、月見里が深々と頭を下げている。もちろんこれは、俺が月で叫んだ告白に対しての返事だ。
あの宣言のあと、戦うことをやめた街の兎たちは、白兎も黒兎も関係なく月宮殿に集まり出し、やがては最上階も騒然となった。白兎のほとんどは確かに信心深いようで、これまで自分たちが信じていた祝詞と、俺の祝詞があまりに異なることに戸惑っていた。
にわかに白と黒の兎たちによって埋め尽くされ出した空間から、俺たちは逃げるように階下に下りた。しかし俺たちも言いっぱなしで消えるわけにもいかないので、アオと、それから特に月見里が白兎と黒兎の間に割って立ち、差し当たってのとりなしを行った。
祝詞の通りに「仲良く月に住む」のであれば、きっと話し合わなければならないことは山のようにあるだろう。そのために場を整え、そうこうするうちに月上での皆既日食が終わりに差し掛かり、兎たちにはユエが戻って……事の運びを月に残る兎たちに任せられるようになってから、俺とアオと月見里は地上へと帰った。路地に捨てたはずのアオと月見里の服や荷物が、数匹の白兎と黒兎たちによって神輿のように戻ってきたのはなんとも愉快な光景だった。
相変わらず転移という感覚は薄いが、目を覚ましてみると、そこはもう月見里のマンションの入口前。崩れた並木道や噴水の復旧が行われ始めている広場。
時刻は既に深夜で、月へ発ったときから日付も変わってしまっている。
騒がしくしていた間はあえて誰も触れなかったが、こうして静かな夜に戻ってきてなお、それではいけないと思ったのだろう。月見里は意を決したようにくるりと身体を向けて、俺に正立するや否や、両手を重ねて頭を下げたのだ。
「その、宮東さんのお気持ちは、大変嬉しいのですけれど……申し訳ありませんが、私はそれに、お応えすることができません」
ぐさっ。
やがて彼女はゆっくりと頭を上げ、やや俯き加減でおずおずと言う。
「今、私たち黒兎はようやく、月に住むための一歩を踏み出しました。ですがそれは本当に一歩で、実際に黒兎が月で暮らせるようになるまでには、まだたくさんの、すべきことがあるのです。そんな状態で宮東さんとのお付き合いを真剣に考えることは、私にはできません。きっと宮東さんにも失礼ですし、何より私の使命はまだ、終わっていないのです」
なんと丁寧で綺麗で正しくて、隙のない断り文句なのだろう。おそらく彼女はその使命を理由に、これまでも数々の告白を断ってきたのだと思う。もちろん普通なら兎としての事情など話せないから上手くぼかすのだろうけれど、俺は詳しく知ってしまった分、余計にそれを受け入れざるをえない。
「そ、そう……だよな。うん。確かにそういう状態で、恋愛云々は難しいよな」
「はい。それに、てっきり宮東さんは、私ではなく……」
「え?」
「あ、いえ……とにかく、そう言って頂けると、私も気が楽になります」
彼女は不思議そうな顔で何かを呟いたが、すぐに淡く微笑んで首を傾けた。
「とはいえ、宮東さんは私たち黒兎にとっての恩人です。このたびは本当にありがとうございました。お礼はまた、必ずさせて頂きますので」
「いや。いいよ、そんなの。なんか悪いし」
「そういうわけには……」
彼女は首を横に振る。
「私は、まだしばらくここで学校に通いますので、どうかそのときにでも、お話しさせてください。それから、よろしければ友人として、変わらず仲良くして頂けると嬉しいです」
月見里はもう一度深く丁寧に頭を下げると「では、また」と残してマンションの中に消えた。
俺はその場で立ち尽くす。月見里が目の前からいなくなると、会話を続けている間は感じていなかった喪失感が、腹の底に重く落ちた。
振られてしまったのは、もちろん残念だ。でも、何より一番気になったのは、彼女の「まだしばらくは」という言葉。
そうだ。これから兎が皆で月に住めるようになるのなら、月見里も、遠くない未来には月へ行ってしまうのだ。まるで竹取物語の結末のように。そしてそれは彼女にとって、良いことのはずで……俺も、祝福すべきことなのだろう。
俺はそう、目を閉じながら空を仰いで考えていた。
考えていた……のだが、背後から聞こえる声が、どうしてもこの耳に届いてくる。
「くくっ……くくくっ」
いや、実のところ、この声はもっと前から、月見里が俺に背を向けて立ち去っていったときくらいから聞こえていた。もういい加減、無視することなどできないくらいに。
「あっはははははははははは!」
「おい笑うんじゃない!」
アオの声だ。ずっと我慢していたらしきアオの笑い声が、ついに抑えきれなくなったとばかりに大口で上がる。
「あは! あははは! はははははは!」
「お、お前……!」
他人が今まさに振られた傍でげらげらと……いや、むしろ俺が振られたから笑ってんのか。なんて奴だ!
「あはは、ごめんごめん。まああれよ、えっと……どんまい? ってやつ」
軽い……なんて軽いんだ。しかもそれ、絶対覚えたばっかの言葉だろ。もう全然慰める気ないぞこいつ。
アオは浮ついた足取りで俺へと近づき、着物の袖をひらつかせながら、右手でぽんぽん肩を叩いてくる。
俺はその手をやんわりかわすように身体を捻ると、そのまま彼女に背を向けた。
「うるさい。お前にとってはどうでもいいんだろうけど……俺は俺で、真剣だったんだよ」
「真剣ねぇ……けどその割に、あっちがあんまりにも慣れてる断り方だったから、いや、思わずね」
ようやく笑い終えたらしいが、それでもまだ腹をさすっているアオ。そんなに腹を痛めるほど面白かったか畜生。生まれて初めての告白が盛大に散った俺の気など知るよしもなく彼女は「オスってああいうのにすーぐやられるのよねぇ」とかなんとか言っている。
しばらくして、俺の恨めしげな視線に気づいたのか、白い八重歯を覗かせてからりと笑った。
「あ、あとね。別にどうでもいいわけじゃあないわよ」彼女は俺の顔を覗き込むように自身を回り込ませ「結果はともかく、あんたは想いの丈を十分伝えられたわけだし、すっきりしたんじゃない? これで心おきなく、あたしのものになれるってもんでしょ?」
「はぁ!? 何言ってんだお前。なんで俺がいきなりお前のものになるんだよ!」
「え? だってあんた、振られたじゃない。あんたがあたしを袖にしたのは、紅音のことが好きだったからでしょ? でももう振られちゃったんだし、そしたら、あんたがあたしに靡かない理由はないじゃない?」
それはいったいどういう理屈なのだろうか。まるで当たり前のような口上で言うこいつの思考は、やはり度し難い。
「んなわけあるか! だいたいな、振られたからって、そんなすぐに気持ちが変わるわけじゃないんだよ!」
「えっ……? こんなに麗しくて器量良しで可愛いあたしが横にいるのに?」
「いやそれ全部見た目の話だろ!」
心底驚いた、みたいな顔をしているが、その自信はいったいどこから湧いてくるのか。見た目は良くても性格は残念極まりない。
「えー、じゃあいつになったら変わるのよー」
「だから変わらないんだって!」
付き合いきれないと思った俺は、アオをおいてとっとと歩き出した。並木道を通ってマンションから離れ、開けた街路に差し掛かる。
アオはタシッとお得意の右足を鳴らしたが、なんだかんだ後ろでぶうぶう文句を言いながらついてくる。
そして長い下り坂。夜街の景色に臨んだ辺りで、途端に背に投げられる文句が消えたかと思うと、近くでクスッと艶のある声がした。
ふいに右腕が、くっと引かれる。
「ま、今すぐに変わらないんなら、とりあえずはいいわ」
腕につられて振り返ると、思ったよりかなり近くに、アオの顔があった。
「そんなこと言ってるあんたを、ゆっくりゆっくり籠絡するのも、それはそれで楽しそうだしね!」
見開いた目の前。さきほどまでの拗ねた顔はもう、どこにもなくて。
満開の、弾けるような大輪の笑顔。久しく目にしていなかったアオの、作り物ではない本物の笑みが、そこにはあった。
紅潮しかかった顔を、俺は思わず引っ込める。
「ばっ……馬鹿言うなって」
身体ごとそっぽを向こうとし、しかし、右腕がアオの両手で抱えられているから、それも中途半端で……結局俺は、話を逸らすようにアオに訊いた。
「つか……お前だって月に帰るんだろ?」
「帰らないわよ。あたし帰っちゃったら、あんた一人で寂しいでしょ?」
「いや寂しいとかないし!」
そもそも俺は、基本的に一人だったのだ。別にどうということはない……はずだろう。
「だってあの家、あんた一人じゃない。だからあたしも一緒に住むわ」
「ちょっと待て。なんでそうなるんだ。もう灯詞の儀はやらなくていいし、そもそも月から逃げる必要もなくなっただろ? 俺の家に住む意味がわからん」
「うるさいわね。いたいだけいていいって言ったのはあんたでしょ! ちゃんと言質はとってあるんだから、今更駄目なんて言わせないわよ!」
そりゃ確かに、言うには言ったが……。
「いや、でもあれは、お前に行く当てがないみたいだったからこその提案であって……だからお前だってあのとき、後先考えずに、つがいがどうとか言ったんだろ?」
「そんなことないわよ。あたし、言ったじゃない。あんたのこと好きになれると思うって」
「……え?」
さらっと返されたその言葉に、俺は思わず固まった。
ただ見つめる俺の視線に対し、彼女はかわすでも逃げるでもなく、正面からまっすぐに俺を見つめ返してくる。
「ねぇ紫苑。あたし、今、あんたが好きよ」
暗がりの中でもはっきりと見える。まるで自ら光を放っているかのような、美しく蒼い瞳。
「あたし、決めたの。あたしはこれからあんたに手を伸ばす。あんたを必ず、手に入れるって」
背を伸ばし、引き締まった華やかなその笑みと、自信に満ちた佇まい。着物の裾をはためかせ抜けていく風が一吹き、俺の目に映る彼女を、より鮮明に際立たせる。
彼女は言う。この上なく嬉々とした表情で。そして芯のある優しい声で。
「ね、想像してみて? あんたがこれから、あの家であたしと一緒に暮らすことを。あんたとあたしは部屋も一緒。朝ご飯も一緒、お昼ご飯もお昼寝も買い物も一緒で、夜寝るもの一緒」
「寝るのは一緒じゃ困るだろ!」
即座に反論が飛び出たが、それでもアオは、ますます笑みを深くするばかり。
「雨が降ったら傘も一緒で、晴れたら空を眺めるのも一緒。暑いのも寒いのも、泣くのも笑うのも怒るのも楽しいのも、この先起こること全部全部何もかも、あんたとあたしは一緒なのよ」
アオは俺の腕を強く引き、身を乗り出すように俺に近づいてくる。
「そんな生活の中で、あんた、あたしのこと好きにならない自信、ある?」
問われ、一瞬。ほんの一瞬だけ、俺は、アオの口にした未来を思い描いてしまった気がした。つい一ヶ月だか二ヶ月だか前に始まったこの生活。それがこれからもずっと続き、やがて俺の瞳の中心には、寝ても覚めてもアオがいて、そんなアオが、いつしか俺の心までも……。
そんなふうに、ただただ呆け尽くしている俺に、アオはさぞ愉快そうな顔で告げる。
「せいぜい覚悟するといいわよ。紅音のことなんか、すぐに忘れさせてあげる。あんなのより、あたしのこと十倍でも百倍でも、何千倍でも好きにさせてあげるんだからっ!」
思い返せば、アオが家に現れてからの時間は、まるで御伽噺の中に入り込んだようだった。あの新月の夜、俺庭で彼女を拾って、御伽噺の中に首を突っ込んでしまったのかもしれない。
そしてそれは、ようやく最後のページまで辿り着き、今こうして、終わりを迎えた。
そう思ったのに。
この御伽噺は、まだもう少しだけ、続くのかもしれない。
坂の先に、アオが歩き出していく。
「さ、あたしたちの家に帰りましょう?」
その声に、まるで当たり前のように「ああ」と答えてしまいそうになっている自分に、俺は内心、どれほど取り乱しただろう。知らず知らず、胸の奥がじんと熱くなっている自分。アオの左腕に絡んだ右腕から、その熱が伝わってしまうのではないかと焦っている自分。あるいは、その熱すらも、彼女と一緒なのではないかと思い始めている自分。
先行く彼女に引かれる俺の足取りはやや心許なく、それでも不思議となぜか、心地良くて。
月食を終えた大きな月が、頭上で円く輝いているのに、ふと気づいた。
明るく優しい光が、空の彼方から俺たちの歩みを照らしている。
坂を下っていく途中で俺は、遠く、遠く、その彼方の先に手を伸ばした。
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