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第一章 仮“装”世界へようこそ!

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「あちー!こりゃ冗談じゃないぜ!」
 俺は玄関を開け放つと、靴と制服を素早く脱ぎ捨てて、裸で風呂場に飛び込んだ。行儀が悪いとか見苦しいとか、そんなことには構っていられない。それほどに、今日というこの日は暑かった。できることなら、クーラーの効いた家の中から一歩たりとも出たいとは思わない。
 今年の九月初日、夏休み明けの始業式の日は、残暑極まりない猛暑日だ。てんで暑さは収まっていないのに、しかし世間的には無慈悲にも夏期休業は終了し、全国一斉、この中弛んだ高校二年生の椎名馨に限られず、中学生も小学生も、皆々気の晴れない新学期の始まりである。
「っはぁ~~! スッキリしたぁ!」
 冷たい水浴びを終えて身軽い部屋着に着替えた俺は、バスタオル片手に廊下を歩く。
 始業式は午前中で終わったので、今は真っ昼間だ。まずは昼食ついでにくつろごうと考えて、俺はリビングの扉を開け放つ。
 ところがそこで、ふと異変に気づくのだった。
 匂う。いや、香る。
 現在誰もいないはずのこの椎名家において、無意識にでも鼻で追ってしまいたくなるようなかぐわしい香りが、キッチンの方から立ち込めている。それは当然、キッチンと空間的に繋がったリビングにも漂ってきていた。
 ああ、この香りは、ガーリックだ。腹を空かせた今の俺は、そういったものには特に敏感だった。
 って、待った。なぜ無人の我が家から、こんなにも食欲をかきたてるような良い匂いがするのだろうか。しかもこの目新しい匂いは、間違いなく作りたての食事のそれだ。よもや仕事中の親が昼食を作ってくれていようはずもないので、こんなことがあり得るとすれば、俺に考えつく可能性としては、もう一つしか見当がつかなかった。
 しかしながら、俺はその可能性を、あまり肯定したくない。自分で思いついておいて正直アレだが、できれば頼むから絶対的に、思い違いとか杞憂の類であってほしい。
 あれやこれや様々な葛藤を頭の中で繰り広げながら、俺は恐る恐るキッチンの方を覗くに至った。
 すると、そこにいた人物は、俺に気づいてくるりと振り返る。
「あら。んく……ふぅ。お帰りなさい」
 こくんと似合わぬ可愛らしい音で喉を鳴らすと、軽い挨拶を放ってくる。手元からは、予想通りガーリックの良い香り。
 立ちっぱなしで皿に盛られたスパゲティを頬張るのは、最近ではめっきり存在を忘れがちになっていたが、けれども目の前にすれば紛うことなき我が実の姉、椎名優璃その人であった。
「なっ……!優璃っ! なな、なんでここに!?」
 驚きのあまり、俺は本音をそのまま口に出してしまう。
 それを耳にした瞬間、ピクッと反応した優璃は口元を悪戯に釣り上げて、満面の微笑みを向けてきた。
「はぁ~ん? ひっさしぶりにはるばる実家に帰ってみれば、出会って第一声がそんな挨拶? 馨、あんたって弟は、心の中じゃ私のことは呼び捨てなのかしらねぇ?」
 ちなみに、笑みと一緒に飛んできたハイキックについては、野生の感フル発揮のバックステップで回避した。ただ、直後には、本音に続いて動揺が漏れ始める。
「あっ、いや……ねーちゃん! すっげぇお久方ぶりです! ど、どうして突然帰ってきやがりなさったんでしょうか!?」
「何よそれ。随分とおかしな言葉を覚えたのね。あんたの私に対する印象がよーくわかるわー」
 うっ……。咄嗟の出来事過ぎて、取り繕い方を誤ってしまった。
 バックステップで稼いだ距離も知らずに狭められ、片手で器用に皿を支える優璃に追い詰められる。女性にしては長身で俺と同じくらいの丈があるため、迫力については十分だ。
「ちょっ! 近い近い近いっ! ニンニク臭いし!」
「大好きなお姉ちゃんが、わざわざあんたに会うために帰ってきたっていうのよ? それなのに、愛する弟の対応がそれじゃあ、まぁ悲しいったらないわね。悲しくて私は、お昼ご飯も喉を通らないわ」
「だっ……誰が大好き姉ちゃんだ! 誰が愛する弟だっ! ふざけんなっ! 昼飯だって、それとっくに二皿目だろうが!」
 しれっとどのツラ下げて、そんなことをのたまうものだろうか。流しの水浴には、既に平らげたあとの大皿が浸けられていたことを、俺は見逃してなどいない。飯が喉を通らないというのなら、それは単なる満腹のサインだ。見ると、手元の二皿目も余裕で大盛り。これだけのニンニク臭に取り憑かれておきながら、まだも食うつもりでいることにむしろ驚く。
 俺は壁伝いにジリジリと横へずれて、再び安全距離を確保しようと試みた。とりあえずそうしておかないと、優璃のやつには何をされるかわからないからだ。
「あっはは。まあまあまあまあ、そんなにカッカしないで。ちょっとからかっただけじゃないの。とりあえず、あんた、お昼ご飯まだでしょう? どうよ、ガーリックスパでも」
「お……おぉ……」
 優璃は、逃げていく俺を再び追うことはなく、逆に優雅な仕草でテーブルに腰掛けて、小さく手招きをしてくるのだった。
 不気味だ。優璃の優しげな誘いほど不気味なものは、この世にない。
 だがしかし、ともすれば餌にも見えてしまうあの美味そうなスパゲティを見ると、適当にごまかそうと思っていた空腹がどうしても無視できなくなってしまう。不本意だが優璃の手作り料理の味は、俺の舌も認めるところである。
 結局、俺はいけないと知りながらも、彼女の向かいの椅子に座ってしまった。
 するとニコリとした微笑みだけを向けられて、ほとんど一人前の残る上級な昼食が差し出される。若干食べかけだけど、でもこの香りと味には逆らえないものがあった。
 腰掛けてひとまず、俺は警戒を緩めることなく目の前のスパゲティに手をつけたが、やはり優璃は何も言わずに、頬杖なんかをついて俺を見つめるだけだった。
 何だろう、この空気。不気味不気味と感じてはいたが、これはもはや、それを通り越して怪奇である。何が怪奇かって、優璃が大人しく目を細めていることそのものが既に怪奇と言えなくもないのだが、なおかつ俺を誘いながら何もせずに昼食を差し出してくるあたり、その真意は極めて度し難い。
 この椎名優璃という人間は、押し並べてそういう人種なのだ。
 俺の三つ上の姉であり、良くも悪くも人を惹きつける容姿や性格で、身勝手かつ尋常でない行動力を持ち合わせていて、昔からこの辺りでは色々と有名で……それはもう、俺は弟として目を覆いたくなるような立場を、幾度となく味わったものだった。
 そう、思えば彼女は、幼稚園の頃にはいつの間にか近所の子供にも大人にも知られていた。幼少にして、ここらでは何人かなわぬガキ大将。ケンカでは一度も負けたことがなかったという。小学生の頃には数人のグループで夜の校舎に忍び込み、肝試しをした結果、見事に警報を発動させたり、中学生時にはあろうことか、体育大会の打ち上げで文字通り花火玉を打ち上げたりなんかしたらしい。どちらも近隣では、ちょっとどころではない騒ぎになった。そして高校でも、依然として文化祭あたりでその名を轟かせていたようだ。
 ちょうど年が三つ離れていて、小学校以外では被ったことがないけれども、それでも俺が新しい場所に通う度に「あぁ、あの子の弟さんね」と先生たちには言われたものだ。正直、いたたまれない。それなのに、そんな無茶ばかりやっていた優璃のことを語る周囲の人間は皆、それを思い出しては楽しそうに話すものだから、俺は不思議でならなかった。
 そんなことを思い出して、スパゲティを口に運びながら、横目でチラチラ彼女を見る。
 こんな極限破天荒人間が姉だなんて、怖くておちおち弟なんか名乗れやしないというものだ。それが知れただけで、俺の安寧の八割方が遥か彼方へと飛んでいってしまう。
 けれどもそれが現在、優璃が大学に進んで下宿をし出してから、まるきり百八十度一変したという事実がある。
 皆まで言う必要はないであろう。優璃がこの家、この街からいなくなり、俺の生活はかつてない安定期に入っているのだ。それは我が人生十六年で、間違いなく最上の安息だ。
 与えられてまだ一年とそこらの、儚い平和。
 去年は盆にも正月にも優璃は帰ってこなかったのに、まるで質の悪い不意打ちのように、この瞬間、俺の安定生活が崖っぷちに立たされつつある気配を感じる。
 そうだ。思えばなぜ、優璃はこんな時期にここにいる?
 俺はそれを疑問に感じたが、しかしその理由などわかるはずもなく、平らげたスパゲティの皿を机上に置いたのち、訝しんで優璃を正視した。
 それに気づくと彼女は頬杖を外し、俺の言外の質問に答えるかのように、くすりと笑みを零すのだった。
「……気になる?」
 似合わず淑やかに、こちらを凝視し続けていただけはある。長い髪をさらりとかき分け、わざとらしく首を傾げて浮かべる表情は、優璃が得意とする邪悪な笑顔そのものだった。
「まあ、ならないと言えば嘘になるかな」
 俺は、できるだけ平静を装って答えを返す。
「あら、意外と興味なさそうねぇ。結構びっくりしてたみたいだったのに」
「飯食ったら落ち着いたよ。別に、関心がないわけじゃないけどさ。でも、姉ちゃんのやることにいちいち突っ込んだら負けだってことは、小学校で掛け算を習うよりも早くに気づいてたし。それを思うと、傍観者でいた方が」
 その方が、平穏。かつ安全だ。
「あっれー。なんか予定と違うなー。私のシナリオだと、馨は私の帰省の理由を、食い入るように尋ねてくるはずだったのに。おかしいなー。何よそれー。もしかして、スパゲティでお腹いっぱいになっちゃったのかしら」
「何言ってんだか。姉ちゃんの行動に関して俺は、昔から徹頭徹尾、傍観だったじゃないか。たとえばもし、日本にくる地震や台風を姉ちゃんが呼んでるって言われても別に疑わないけど、特別注目もしないと思うね」
「ぅ……まるで私の帰省が自然災害のように認識されている……」
 ばれたか。まあどちらかといえば、帰省限定でなく、本人そのものが自然災害レベルの代物だけど。
 とっくに落ち着いた俺は、もうそんな思考を表に出したりなんてしないけれども、意図的に目を逸らしたりと、様々な含みある言動にしこたま嫌味を詰め込んでいる。
 それでも優璃はこの程度のこと、微塵も気にしない。互いによくわかっていた。
「でも、でもね! 今回は傍観者な馨じゃ困るのよ! 今日、私がわざわざ帰ってきたのはね……さっきも言った通り、あんたに会うためよ!」
 ほら、ね。
 こう告げると優璃は、さきほどまで纏っていた上品な雰囲気など吹き飛ばして、机に身を乗り出しながらずいっと顔を近づけてきた。そして溌剌と、こんな風に続ける。
「馨に頼みがあるのよ!」
 …………うわぁ……怪しいきな臭い疑わしい。絶対的に頼まれたくない。お話を聞くだけでも、もう確実に遠慮しておきたい前置きだ。拒否反応は甚大である。
 直後、俺は条件反射のように席を立つ。
「待った! 逃げるな弟よ!」
 しかし、優璃は即座に俺の服の裾を掴んだ。さすがの瞬発力。やはりこの女は侮れない。
「なぜ引っ張る! 手を離せ!」
「あんたこそ、何で逃げるのよ!」
「逃げるに決まっとろうが! 今の流れで身の危険を察知できないほど、俺の頭は粗末じゃないんだよ!」
「海より深い愛を注いだ姉の頼みでしょ! お昼ご飯作ってあげたでしょっ!」
「一度も愛してもらった覚えなどない! それに俺の人生は、スパゲティ一皿で売り渡せるほど安くはないんだっ!」
「誰もあんたの人生寄越せなんて言ってないじゃない!」
 どうやらあの昼飯は、本当に餌として与えられたようだった。
 俺は全力でリビングの出口に向かおうとするが、優璃のやつは座りながら伸ばした手を引っ込めようとしない。そうやって数秒の間、互いに譲らぬ硬直状態が続いた。
 けれども、なおも推進力を落とさない俺につられ、先に離れたのは優璃の手ではなく、床についた彼女の座る椅子の足だった。
「頼みって言ったってね、そんな無理難題じゃなっ――きゃっ!」
 結果として、優璃は椅子から転げ落ち、突然後ろに引っ張られる力が緩んだ俺も、彼女と一緒になって前のめりに倒れ込む。
「っとぉ、うわっ!」
 ドシン、バタンッ! そんな二つの滑稽な音は、俺と優璃が揃って顔面を床にぶつけたがためのものだ。
「ってー……。何すんだよ姉ちゃん……」
 顔を上げる気力も失って、床に突っ伏したまま俺は抗議する。
 対して優璃は、未だに俺の服裾を握りしめたままで答えた。
「ぃたた……だってあんた、私が大学行くために家出てから、高校じゃあかーなり怠けてるでしょう。部活にも入らずに、だからって他に大した活動もしないで。それでよく退屈しないわね」
「怠けてるなんて、人聞き悪いこと言うなよ。成績だって悪くないし、遊び呆けてるわけでもないんだ。俺は姉ちゃんと違って、平穏主義なんだよ」
「何よそれ、つまんないわ。要は暇ってことでしょう」
 何てことだ。人の大事な主義主張を、暇の一言で片付けやがった。
 起き上がろうとした俺は、力が抜けてまたへたり込む。
 思い返せば俺の学生生活で、暇、もとい自分の時間を持てることが、どれだけ貴重なことだっただろうか。これについては熟考の必要が全くない。瞬時に、無類の価値を持つという事実が導き出せるのだ。
 優璃が高校を卒業するまでの間、つまりは彼女がこの家にいた時代は、俺に自由な時間があろうものなら、すぐにでも何かに付き合わされたものだった。俺自身がやっているわけでもない部活の練習に、優璃が就いていた生徒会役員の仕事。そういった学校関連のものから、果てはテレビゲームの相手なんかといったくだらないものまで様々様々。
 だからこそあの頃の俺は、普段から常に忙しいふりをしていなければならなかった。曲がりなりにも部活には入っていたし、委員会の仕事なんかもやっていた。さらに、学校では必ず優璃を知る先生や先輩たちがいて、そのためかよく気にもかけられ、手伝いなどを持ちかけられたりもしたのだった。
 ああ、自分でも実に滑稽な姿だったと思う。仮初めで多忙のふりをしていたら、意外にも割と本気で、望まぬ多忙な学校生活になってしまっていたのだから。つまるところ、程度の差はあれど、これまで俺に安穏の日々はなかったというわけである。
 それが……それがやっとのことで今、ようやくのんびりとしたリラックススクールライフが送れている。現在まさに、その真っ只中なのだ。誰が、誰が優璃の頼みなんか――。
「まあでも、今回はその方が都合がいいわ。頼み事もしやすいし」
 ――頼みなんか聞くものか。
「そういうわけで、その内容なんだけど」
「待て! 誰も引き受けるなんて言ってなっ――」
 誰が優璃の頼みなんか、聞くものか! 聞いてやるものかっ!嫌だ! 絶対に嫌だ! たとえ百万円積んだって、今の安息は買えやしないのに! やっと手に入れた平和なのに!
 俺が抗議をしようとすると、ようやく優璃は俺の服裾を解放し、その場ですっと立ち上がった。そして俺の言葉は、彼女が俺を見下ろしながら放った大仰な宣言で上書かれる。
「馨が姉ちゃんのために、学校にある銀杏の樹の広場を守りなさいっ!!」
 それは、もはや頼み事ではなかった。頼み事をする立場にある人間の態度ではなかった。違うだろう。頼み事をするのなら、もっとこう、へりくだってだなぁ……。
 だが俺の中には、優璃の依頼人としてあり得ない態度に疑問と反感を覚えつつも、それを通り越して頼みの内容の方が気になってしまうという自分もいた。
「……いちょ……樹って……は?」
 第一には、群を抜く意外性。第二には、内容への拍子抜け。だから俺は、優璃を見上げながら目を点にしていたのだろう。そう思う。
「無言は承諾、と。じゃ、ちょっとこれ貸してねー」
 って、おい。この場合、無言は拒絶だろう。って、おい! それは俺の端末だろう!
 刹那、正気を取り戻して優璃の手元を見ると、俺は思わず驚きの表情が隠せなくなる。なぜだか、いつしか、どうしたことか、彼女は俺の携帯端末を所持していたのだ。
 っ! そうか! やつが俺の服裾を引っ張っていたときか!
 あのとき彼女はおそらく、俺の知らぬ間にポケットから端末を抜き取っていたのだろう。俺の反射に順応してきただけでも侮れないと思っていたのに、まさか一枚も二枚も上をいかれていたなんて。不覚だ。なんて不覚だ。不覚過ぎる。
 そこからはもう、完璧なまでに優璃のペースだった。へたり込んだ体勢のまま床に押さえつけられ、すぐそばで自分の端末がいじられている音を聞きながらも、俺は一切抵抗はできない有様。そんな体たらくだった。
「離せバカ優璃! 返せ! どうせロックコードかかってるんだよっ!」
「いやいやぁ~。さすが我が弟よねぇ。自分の好きなものをパスワードとかに使うその気持ち、わかるわ~」
「なっ!」
「『flower』って、昔から馨の好きな曲の名前よね」
 あ……終わった。
 確かに『flower』とは、俺が幼い時分より好んで聴いている古い曲の名前。そして俺は、この曲名を端末のロックコードとして使用していた。
 よもや端末をひったくって、ものの数秒でロックを見破るとは。やはり優璃の行動は予想できない。そのあまりの異端さに、こちらの感覚が通用する気配は全く見えず、俺は再び脱力して床に伸びきった。
 優璃の高笑い。軽快に鳴る端末操作の機械音。これらはまさに、俺の安寧の派手な崩壊、その擬音に等しいものと言えた。
 はぁ……。はぁぁ~…………。
 俺は静かにゆっくりと、もう一人の自分に諭されているような気分になった。諦めろ。優璃が相手だ。彼女との会話は、無条件降伏から始まるんだ、と。
 そうして俺はこの日、なかったことにしていた自分の姉という存在を改めて心に刻みつけられ、椎名馨は椎名優璃の弟である事実を、諦念によって受け入れた。

 翌日になって、一昨日まで夏休みだったのがまるで何かの幻かのように、学校にきて授業を受けることになる。このギャップは、何度経験しても慣れないものだ。
 さらに今回の場合、昨日の優璃の件も盛大に後を引いており、気怠いことこの上ない。
 やはりこんな日は、気分転換が必要だろう。このモヤモヤした複雑な心持ちを、何とかして癒さなくてはならない。心の平穏を、取り戻さなければならないのだ。
 俺はそのための選択肢として、最上のものを持っていると自負していた。
 さて、あの場所に行こう。そう思う。九月初旬はまだ暑いが、木陰ならば涼しい風も期待できる。俺は早足で校舎を抜け出し、学校敷地の片隅の、ある場所へと向かった。
 目印は、銀杏の樹だ。
 だが、実際にそこへたどり着いてみて、俺ははたと気づく。銀杏の樹。そのワードを思い返すと、なおのこと昨日の悪夢がまざまざと頭に浮かんでしまうものだった。
 まさに悪夢。我が姉、優璃の、突然の襲撃。あれは帰省という表現を借りた、俺の生活の一方的蹂躙だった。
 事実、あいつの行動を客観的にのみ述べるなら、俺から携帯端末を引ったくってそこにヘンテコなアプリケーションをインストールし、早口に言いたいことだけ言って去っていった。それだけだ。それだけなのだ。
 ただ一方で、残った爪痕は甚大だ。俺が今まさに、理不尽に頭を悩まされている。
 去来が唐突で予期できない点。与える被害が実に深刻な点。この二つにおいて、優璃のアイデンティティはやはり自然災害――さながら嵐と重なると、俺は改めて認識した。
 しかもだ。今回の件に関しては、俺が得意の傍観者気取りをすることができない。その理由が、明確に存在していた。
 例の優璃の頼み事。その内容は、こんなものだった。
 学校にある大きな一本の銀杏の樹と、その周辺の小さな広場が、設備の増築工事に際して撤去されることになったらしい。だがそれを見過ごすわけにはいかないので、俺が早いうちに手を打って、工事を阻止してほしい。
 なぜならそこは、自分にとって大切な場所だから。
 そんな、ともすれば学校に通うただの一生徒には、不可能にも思える突飛な話だ。一般的に考えて、生徒の持ち得るどんな権限を駆使しても、学校の決めた増築計画を白紙に戻すのは無理というものだろう。
 特にこの学校、私立風彩大学付属南高校に関しては、発展が実に著しい。街の発展の礎になった私立風彩大学の系列校であり、生徒の数も順調に増えているマンモス校というだけで資金の回りには不自由ないと想像できるし、同様の存在である東、西、北のいずれの付属校も非常に良好な運営状況にある。この街のほとんどの学生が、通う高校としてその四校のうちから一つを選ぶくらいだし、他の様々な事情を鑑みても、増築工事が取りやめになるという事態は考えにくいのだ。
 だいいち中学までとは違い、生徒会や委員会にも関わらなくなった俺にとっては、そもそもアプローチの手段すら皆無であろう。
 それに、方法についてもそうだが、俺の中ではもう一つ引っかかっていることがある。
 動機だ。
 優璃は、銀杏の樹を守れと言った。既に卒業して、ここにはもう通うことのない彼女が、なぜだかこの学校にある一本の樹を守れと言うのだ。
 何故だろう。理由の候補としてあまり多くは浮かばないが、たとえば、そうだな……大切だから、とか? いや……でもそれはちょっと、考えにくい。そんなはずがない。守れ、という言葉に反応して、短絡的に理由を推測し過ぎている。優璃に限ってそれはない。
 ならば、どうしてあいつは、あんなことを言い出したのだろう。俺は異様にそのことが気になり、不思議で不思議で仕方がなかった。
「……だって、この場所は――」
 そう呟きながら、俺は凛と佇む樹の傘下に入ると、この身で改めて実感する。
 快晴の午後の白光は、茂る葉と相まってまだらの陰陽を映し、穏やかな風は細枝をわずかに揺らして心地良い音を奏でる。緑色の葉の隙間から見せる世界を、この上なく平和だと、そして美しいと思わせる。
 そう、この広場は、極上の安らぎが湛えられた秘密の場所なのだ。
 学校の敷地の片隅。そこにひっそりと残され、人目に触れることもなく、外界とは異なる時間の中で永遠の残り香を留めるところ。
 だからここは、俺のように静穏を好む者にしか見つけられない。賑やかで騒がしい学園生活を望む一般的学生の視界には、到底入ることがない。ましてや特に優璃のような人間には――。
「この場所は、映るはずがないんだ」
 和やかで、緩やかで、退屈で……決して面白くはないけれど、ただただ心温まるところ。それは、普段の優璃が求めるものとは、明らかに方向性を異にするもの。とても彼女が欲しがるとは思えないものだ。
 あいつがここに気づくなんて、俺には想像のできないことだった。
 だとすればあいつの頼み事には、別の理由があるのかもしれない。何か他の、ここを残そうとする理由が……。そう考えるのが、一番妥当だろう。
「まあ、聞いたところで素直に答えそうにはないけどな……」
 俺はあれこれ考えながら、一人で頭をくるくると回し、時折心情を口に零しては、秋を迎える準備に入った広場を眺める。そしてたまにボーッとしながら、水面に浮かんでいるようなふわふわした気持ちを、ゆっくりと味わう。最高の気分だ。この空間を取り巻く全てが、俺を心地良くさせる。このまま至上の快楽の中で、眠ってしまいたくなる。
 けれどもそこで、そうはさせぬと言わんばかりに、ポケットの端末が小刻みに小煩く震えた。
 ……嫌な予感がする。そう思った。何となく、根拠はないが、これが誰からの着信なのか、俺はわかってしまったのだ。
 緩慢な動作で端末を取り出すと、溜息を一つついてから、渋々着信に応じた。
 すると向こうからは、相も変わらず辟易するほどの明るい声が返る。
「あ、馨ー? お姉ちゃんよー」
 知ってる。非常に残念ながら。
「例の件のことだけど、今いいかしら? いいでしょ? いいわよね? とりあえず、最初にやらなきゃいけないことがあるんだけど」
 いいわよねって……それで確認したつもりなのか。
「姉ちゃん、待った。待った待ってくれ」
「えー? 何よ、忙しいの? 授業受けてるわけじゃないんでしょ?」
 …………まあ確かに、受けてないけど。昼休みついでに、授業をサボってここにきているけど。なぜそれがわかった……。
「あ、図星だ。今日の午後一は数学? そうねぇ、気持ちはわかるけど、授業は適度に出なさいよー。ま、今回は都合がいいから咎めないけどさ」
「な、なんで俺が数学の時間をサボるって知っているんだ!? 優璃お前――」
「ほらほら、だから呼び捨てにしない! あと、お前も禁止! 私は馨のことなら何でも知ってるお姉ちゃんよ」
 それおかしいだろ! どういう情報がどういう経路で伝わってるんだ? 優璃は昨日、一年半ぶりにこっちに帰ってきたはずなのに!
 端末を持つ手が、ピタッと固まる。それと、無性に恐ろしくて体温が少し下がった。
「で、結局、今は時間あるんでしょう? 話を進めてもいいかしら?」
 ああ……もう、考えたら負けかな。やっぱり。一度白羽の矢が立ってあいつに関わったら、それから逃げるのは難しい。特に、今回はやたらとしつこく積極的に、俺を巻き込もうとしているように思える。
 俺は猫を恐れるネズミのように大人しく縮こまり、肩を落としながら優璃の指示に従うことにしたのだった。
 電話口で優璃はまず、学校の玄関口にある総合連絡掲示板へ行くように言ってきた。イベントや委員会の連絡、それに部活動の勧誘ビラなどが貼ってある大きな掲示板だ。彼女曰く、その中には学校の地図が載った銀色の便箋が貼ってあるらしい。それを参考にして、地図に示された古い教室へ向かえとのことだった。
 そこにたどり着いたら次に、部屋に設けられたデスクトップのパソコンに端末を繋ぎ、例のアプリケーションを起動する。あとは、処理が済んだら便箋を掲示板に戻して、帰って良しとのこと。
 早口でまくし立てられた上に、俺には全く意図するところのわからない指示だったが、あえて口応えはせず、黙って横着な相槌を繰り返しておいた。
 やがて一方的に要件を言い終えると、優璃は
「じゃ、今からよろしく」
 と言って電話を切ろうとする。
 無意識にそのまま相槌を打ち続けようとした俺は、ワンテンポ遅れて思わず聞き返した。
「え、い、今からっ!?」
「早い方がいいのよ。どうせ今更、数学の授業になんて戻らないんでしょ」
 ……そりゃまあ、そうだけどさ。
「私のためを思って、お願いよ」
 その言葉は、優璃の得意とする花の咲くような邪悪な笑顔を連想させた。
 身の安全のためを思えば、ここは頷くのが得策か。身震いと共にそう感じ、俺は渋々了承した。せめてもの抵抗として、こちらから思いっきり電話を切ってやろうと、端末のボタンに手をかける。
「あ、あと言い忘れてたけど」
「……って、まだ何かあるのかよ」
「あんたに渡したあのアプリケーション、あのままだとロックがかかってるのよ。要所で聞かれるパスワードがいくつかあって……確か、三つかな?」
 何だそんなことか。俺は呆れる。
「ああ、それはいいよ。どうせ姉ちゃんも、俺と同じなんだろ」
 歩き出すと同時に、優璃の言葉を遮って返事をする。続きはおそらく聞く必要がない。
 昨日俺のロックコードが即座にばれたように、優璃が設定するパスワードだって、こちらには簡単に想像がつくのだ。しかもそれは、三つときたもんだ。彼女には昔から、ぴったり三つの大好物がある。
「お、さすがじゃないの。日常生活での弟とのシンクロ率に感動しちゃうわ」
 ぬかせ。平和主義とトラブルメーカーじゃ、似ても似つかねぇんだよ。
「はいはい、じゃあな」
 俺は優璃のコメントを聞いたのち端末を耳から離し、雑な挨拶を手元に放りながら、今度こそ力いっぱい通話を切った。

 俺は早足で廊下を歩き、なるべく授業中の教室の前は避けながら、指示された総合連絡掲示板まで向かった。
 校舎の玄関前にあるとても大きな掲示板は、そこにビラを貼れば一番の宣伝になること間違いなしと言わしめるだけの影響力を持ち、紛れもなくこの学校の情報の中心である。しかしそれゆえ、貼られたビラ同士の主張競争は後を絶たず、目立つことを最優先に考えられたビラが乱立するという間違った淘汰が行われている。色彩豊かに、時に意表を突いて見る者の脳に焼き付こうとするビラばかりで、眺めると視神経がチカチカするのだ。
 そんな悲惨な掲示板から、目的の情報をピンポイントに抜き出す高度なメディアリテラシーなど、俺は持ち合わせていない。そう思ってうなだれそうになったとき、ふと掲示板の下側に、ぶら下がるようにして貼られた銀色の紙を発見したのは実に偶然だった。目立たないが、異様に上質な光沢を放つ手触りのよい便箋で、何かの招待状のようにも見える。表の謎の文面はさておき、裏に学校の地図が載っていたので、目的のビラだと確信した。
 俺は手にした地図にしたがって、再び校内を歩き出した。
 わかってはいたが、地図は非常に複雑だった。
 この学校は広い。何度も増築や改築を繰り返している経歴がある。そのため、造りが非常に入り組んでいるのだ。普通に授業を受けるだけの生活では問題はないが、ちょっと探検気分を出して歩き回ったりすると、入学当初ならば迷子は必至。二年になった俺でも、知らない区画は結構ある。
 右に、左に、上に、下に。俺の足先は何度も何度も方向を変える。そしていくらか進むと、いつの間にか辺りは静まり、昼間の学校なのに、声も足音も、自分のものとその反響しか聞こえなくなった。何だか不可解で、少しばかり幻想的で、ほんのちょっと、怖いくらいだ。まるで、パラレルワールドにでも迷い込んだ気分にさせられる。いつしか扉をくぐった覚えもないのに、誰も彼も消えてしまい、俺だけの世界になってしまったみたいだった。
 次第に埃の臭いがするようになり、校舎の傷みが顕著になった。どこもかしこも新しいと思っていたこの学校に、こんな区画があるなんて知らなかった。俺はおそらく、旧校舎へと向かっている。新校舎ができてから滅多に、というかほぼ完全に使われなくなってしまったため、人も寄り付かなくなった区画だと聞く。
 そうして、もはや自分の歩いたルートなど頭から飛んでしまった頃になって、ようやく俺は地図にある目的の教室まで到着した。
 静かに扉を開けて中を覗くと、そこは何かの準備室のような狭い小部屋だった。床には書物がうずだかく積まれ、窓から差す陽光が埃に散乱される空間の中心に、一台の古めかしいデスクトップのパソコンが据えられている。
 俺は注意深く本の山を避けながらパソコンに近づき、コンセントの接続を確認して電源を入れた。電気の走る音と共に、荒い画素が作る文字列。それをただただ目で追っていると、やがて端末の接続を要求する画面が現れた。
 デスクトップの背後から伸びているコードを手に取り、端子を自分の端末に差し込む。すると端末の方では独りでにアプリケーションが起動され、同期作業を開始した。
 処理中の機器を無言で見つめ、そろそろくるだろうかと予想をする。
『アプリケーションのアップデートを行います』
 画面にはメッセージが表示されてゆく。
『アカウントIDを確認しました。新規の端末を登録します。認証パスワードを手動で入力してください』
 そう、パスワードだ。優璃には、結局それを聞かないままにしてしまい、何だか強がったようにも見えたかもしれないが、実のところ本当に自信はあった。実に癪だが、こういうものに関して、俺とあいつは似ているのだ。
 パスワードの候補は三つある。とりあえず俺はその中から、なんとなく一つを選んで入力してみた。
『alexnder』
 ものの見事にパスワードは認証され、セキュリティの甘さに心底惚れ惚れする。
 入力したのは、アレキサンダー。これは優璃が昔から、それはもう幼稚園くらいまで遡るほどの昔から、一途にお気に入りの座を与え続けてきたぬいぐるみの名前だ。
 皇帝ペンギン、アレキサンダー。
 とても幼稚園女児が好む外見と名前には思えない代物だったが、とにかくそいつは彼女にひたすら気に入られ、今もなおベッドの上に永久の玉座を構えている。鋭い目とくちばし、ずんぐりむっくりな体型は、愛らしさなど微塵もなく、いかにも皇帝そのものである。
 パスワードは、残り二つ。その候補も、残り二つ。当てるのは容易い。
 おそらく一つは、優璃が小学校の頃に初めて聞き、今に至るまでよく好む曲の名前だろう。あいつが家を出て行くまでは、ご機嫌な鼻歌として俺もよく耳にしていた。
 そしてもう一つは、駅前にある喫茶店のスイーツの名前。中学生になった優璃が電車で通学するようになり、寄り道を覚えてから出会ったものらしく、俺も何度か食わせてもらったことがある。量は少ないが、イチゴのトッピングをふんだんに施した、見目麗しいパフェであった。俺にとっては少し甘味が過ぎたが、それでも絶品の風格を記憶している。
 どちらも優璃に確認するまでもなく、俺の頭に刻まれている。この先のパスワードも、もはやあってないようなものだ。
 端末を見れば、順調にアップデートが進行しており、じきに問題なく完了。確認を兼ねて少しばかりいじってみると、更新されたカレンダーから指示が出ていた。
 ――九月二日、十九時、南校。
「……って、今日かよ」
 これってもしかして、つまりあれか。夜にもう一度、この学校へこいと。謎のアプリケーションのスケジュールはそう言いたいらしい。次なる指示というわけだ。
 まあ……別に暇だし、いいけどさ。面倒なだけで。
 俺は指示を億劫に思いつつ、端末の接続を解除してパソコンの電源を切った。
 そうして、本の塔を崩さぬように部屋を出て、ちゃんと迷うことなく次の授業に出られるどうかを気にかけながら、再び地図と睨めっこをして教室まで戻っていった。
 さて、まさしくこの日の夜。俺は淡い月明かりに照らされた学校を訪れ、そこで一面のマリンブルーに囲まれ気を失うことになる。
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