スクールドライバー

りずべす

文字の大きさ
3 / 11
第一章 仮“装”世界へようこそ!

しおりを挟む
 ペチペチ、ペチペチ。
 頬が揺れる。可愛らしい音が鼓膜を刺激する。ゆっくりと瞼を持ち上げると、ぼやける光景が脳で知覚され、自分が横たわっていることを三半規管で把握した。置かれた状況を理解しようと、魂の抜けたようなガラスの目で辺りを見渡す。
 やがて視界がクリアになると、青の世界が一面に映った。澄んだ水、降る陽光、朽ちかけた校舎。さらに眼球だけを動かした先には、赤や黄色の熱帯魚に加えて、黒や緑の苔に覆われた岩石が散見される。
 そこはまるで常夏の浅い海の底のような、怖いくらいに透き通った空間だった。肌には柔らかく暖かい水が触れ、身体は浮力と重力の釣り合いの中で独特の浮遊感を感じている。
 俺は驚いて咄嗟に息を飲んでしまったが、不思議なことに、水が肺に入り込んでくることはなかった。恐る恐るゆっくりと気管を開け放つと、なんとなんと、呼吸ができる。
 そのまま横になりつつ、数秒の思考に耽った。思い出していた。意識を閉ざす前のこと。夜、喧騒から離れた高台の上、白く霞んだ月に見守られながら、学校の校舎に踏み入ったときのことを。
 うーむ。妙に落ち着いた行動をとってはいるが、実は脳内はパニック寸前である。驚愕が過ぎて回りに回って一周し、なかなか実感を伴わないが、夢であってくれと内心では悲鳴を上げているところだ。
 しかし、再度訪れる頬への刺激が、それを微妙に否定する。同時に声がかかった。
「気付かれましたか?」
 愛嬌のある高めの声が、まるで地上で聞くかのように鮮明に聞こえる。
 俺は上半身だけをおこし、声がする方を見上げた。するとそこには、こちらを見下ろす小柄な少女の姿があった。
 思わず返答も忘れて注視する。
 その少女は純白でヒラヒラの洋服を纏い、白い手套をし、首には白のストールを巻き、髪にも白のバレッタをつけていて、全身真っ白の絢爛な装いだった。加えて装飾されたメガネグラスをかけていて、目元を中心に人相がわかり辛い。レンズもフレームも白色だが、まるでサングラスのように、こちら側からは奥を見通せない仕様になっていた。
 とても現実では目にすることのないような格好だ。それはまさに、ファンタジーの世界にこそ相応しい姿である。
「大丈夫ですか?」
 反応を見せない俺に対し、少女は疑問を持ったようで、しゃがんで覗き込んできた。
 対する俺はボーっとすることしかできなくて、少女と目を合わせながらぼんやりと思考を巡らせた末、一つの解釈にたどり着く。
 おもむろにもう一度身体を横たえて、やがて静かに目を閉じた。
 ――パチンッ!
「いってぇ!」
 軽快な音と共に、頬に強い刺激が走った。どうやら少女にひっぱたかれたらしい。すぐに起き上がる。
「何すんだ!」
「あのですね。せっかく親切に起こして差し上げているというのに、目の前でもう一度眠り出すのは、さすがにどうかと思いますよ」
 彼女の声は朗らかだった。それは、俺へ向けての言葉らしい。
「あ、いや、その……夢かと思って」
 俺としては、導き出した結論の真偽を確かめようとしただけなのだけれど……どうやら間違っていたみたいだ。再び目を覚ましても、世界は依然、青々とした輝きに満ちている。
「人の姿を見て、それは失礼だと思います」
 そうだろうか。現実よりもおとぎの国の方が似合いそうな格好で言われても困る。だいいち、少女の身なり以外にもおかしな点は多分にあるのだ。
「だって、こんな場所、俺は知らない。俺は学校にきたはずなんだ。かと思いきや、まるで海の中にいるみたいで、しかも呼吸も会話もできるなんて……」
 さきほどから、地上同然に呼吸ができる。それに他人の声があまりにもクリアに聞こえるし、俺の声も相手に届いているみたいだ。本来、水中では、こんなことは不可能だろう。夢だと思っても仕方ないではないか。
 俺が反論すると、少女は辺りを見渡して答えた。
「ああ、もしかしてあなた、南海フィールドを見るのは初めてですか? 確かにそれなら、気持ちはわかります。校舎はずごくボロボロだし、お魚さんは泳いでるしで、ちょっと衝撃的ですよね。でもやっぱり、こんなところで寝ているのは危ないですよ。敵に見つかれば、たちまちやられてゲームオーバーですからね」
 ……なんだって?
 予想もしていなかった聞きなれない横文字が飛んできて、俺は一瞬固まった。少女はにこやかに笑っているが、今の返答で頭の中の違和感が膨れ上がり、俺はそれどころではなくなる。
 フィールド? ゲーム?
 何の話だ? この少女は格好だけでなく、発言までもがファンタジーなのか? 俺は一気に情報処理が追い付かなくなり、絶句してしまった。
 と、そのときだ。不意に周りの海水がドシンと揺れて、深い音と共に大きな振動を伝えてくる。相当に大きな衝撃だったのか、揺れる水に身体が乗せられて、俺と、そして目の前の白い少女も、数メートルほど流されそうになったくらいだった。
 いったい何の騒ぎか。そう思って震源の方を振り向くと、ここからそう遠くない場所で、礫の崩れたかのような土煙が上がっている。
 惚ける俺に対し、傍ではそっと、少女が呟いた。
「あれあれ、言ってるそばからですね。もう見つかっちゃいましたか」
 直後、彼女はこちらを見下ろし、機敏な動作で手を差し伸べて言う。
「お兄さん、逃げますよ。動けますか?」
 その言葉で俺は、未だ四肢をだらんと伸ばし、身体を水流に委ねたままだったことにようやく気づいた。彼女の言動にばかり気を取られていて、身体は一切、微動だにしていなかったのだ。目の前の白い手をとって、体位を立て直そうとする。
 だがそれを握った途端、俺の手が逆にぎゅっと握り返され、とても少女とは思えないような力で引き上げられた。まるでクレーンに引き上げられたみたいに力強く、ぎょっとして肩が抜けるかというくらいの衝撃を感じる。
 思わず目を見張りたくなったが、しかし俺が問う暇もなく、彼女はこの手を強く握ったままで煙の上がる方角へ叫んだ。
「ルナ! 早くっ!」
 すると今度は、高速でこちらに泳いでくる真っ黒の人影が視界に映った。かと思いきや、見る見るうちに近づいてきて
「一人きてる。後ろから」
 とおっとりした声で告げられる。本人としては叫んでいるのかもしれないが、どうにも小さく、妙に落ち着いた声であった。
 近くで見ると、人影の正体は、背が低めで線の細い中世的な少年だった。身なりに関しては少女のそれとよく似ていて、ひらひらの服装や手套、スカーフ、それに目元を隠したグラスが注意を引き付ける。さすがにバレッタまではしていないが、小さめでシックな髪飾りが施されていた。
 一方、少女と異なるのは、その色彩だ。少女の全体が白で統一されているのに対し、少年は対照的に黒で統一されている。二人揃って並んでいる様子は、まるでペアのアンティークドールのように思われた。
 少年が元きた方向を振り返って呟く。
「迎撃……用意」
 少女も顎を引いて少年の視線の先を見据える。
「オッケー! 発射直後に後方へ退却。この人も連れていくから、ルナも手伝って」
「わかったよ」
 少年は頷くと、少女と同じく俺の空いている方の手を取った。
 二人は残った片手を突き出して構える。
 するとどうだろう。その手のひらは、身なりに合わせてそれぞれ白と黒の光を帯び、次第に大きく輝き始めた。
 眩しくて思わず目を覆おうとしたが、俺の手は二人にしっかり握られていて身動きが取れない。仕方なしに目を細めて光量を抑えていると、二人の手元には何かが見えた。
 現れたのは、銃だった。コンパクトかつ美麗に装飾された短銃が、見たこともないほどの激しい熱と光を放っている。
「何人?」
「たぶん……一人。結構速かったから、もう見える」
「増援がくる前に離れなきゃね。敵が見えたら、すぐ同時に射撃。当たらなくても牽制で十分」
「……了解」
 二人の会話が終わるやいなや、遠方に一つの影が現れて、二つの引き金が引かれる。
 瞬間、耳に届くのは、射撃音ではあるがそれにそぐわぬ透明な音。高く良く響く、まるでベルを鳴らすような真っ直ぐで心地のよい音だった。
 目の当たりにした光景は、有体に例えてまるで魔法のようだった。放たれた光線は白と黒の螺旋で見事なまでのコントラストを醸し、弾道には煌めく粒子のようなものを吐き出しながら、速く鋭く飛んでいく。
 眩しい。目に痛い。もちろん、よくは見えない。でも綺麗だ。とても壮大で劇的だと思った。
 だから俺は、退却の指示をちゃんと聞いていて、とりあえずここを離れなければならないことは察していたつもりだったが、それでも惚けてしまっていたのだろう。目の前のモノクロの光たちを、消え入る最後まで見ていたくて。まるで打ち上げ花火が夜空で弾けたあと、最後の最後に塵になっても、何となくいつまでも眺めてしまうように。
 けれども、そんな余韻は数秒ともたない。傍では少女の声が上がった。
「さ、ダッシュ!」
 俺の身体はいきなり、眺めていた方とは真反対に引っ張られた。合わせて両の肩の関節が抜けるように痛み
「いででででーーー!」
 思わず俺は全力で叫んだのだった。
「ちょっと、声が大きいですよ! 敵を巻いて逃げるんですから、お静かに!」
 周りの景色は、物凄い速度で流れていた。どうやら俺は、高速で泳ぐ少女と少年に両手を引かれて、進行方向とは反対を向いたまま連れられているようだった。
 前が見えない! とんでもないスピードで進んでいるのに、前が全く見えやしない!
 怖い怖い怖い怖い!
 ここは水中なのに、なんだこの尋常でない移動速度は。まるで車で走っているようだ。水の抵抗だってままならないはずなのに、なぜこんな人間離れした速度が出ているのか疑問になる。
 気付けば景色は、校舎内に移動した。敵を巻くためか、校舎内の入り組んだ廊下を移動するらしい。しかし、よもやこの勢いで壁にぶつかろうものなら、確実に大惨事だろう。恐怖で頭の中が埋め尽くされていく。
 ってか、だんだん気持ち悪くなってきた。
 高速で後方に進んでいるから、きっと乗り物酔いみたいになっているのだ。電車で後ろを向いて座ったときの酔い方に似ているが、これはさらにもっとひどい。
「ちょっと止まってくれ! 痛いし、気持ち悪い! 頼むストップ!」
「敵に追いつかれます。今は止まれません。少しの間、我慢してください」
 我慢って……。無理だふざけんな!
「うおおおおぉぉーーー! こんなの我慢……できるかあああぁぁーーー!」
 俺は叫びつつ、首から順に肩、腰、足と力が抜けていき、完全に二人の荷物としてぶら下がった状態になりながら運ばれていく。
 敵を巻くと言っていただけあって右に左によく曲がるようで、そのたびに俺はぶんぶんと激しく揺られた。少女には静かにしろと言われたものだったが、実際のところ移動開始からしばらく経つと、俺は叫ぶ元気すらもなくなり、半分意識を失ったような状態で引っ張られて行ったのだった。

「ここで落ち合うことになってるんですけどねー。誰もいませんねー」
 俺たちは散々逃げ回った挙げ句、校舎内の三階と四階を繋ぐ階段の踊場で待機していた。
「ちょっと、早かったんじゃないかな。時間まで、まだ数分あるよ」
 少女は忙しなく階段の上と下を見ながら、少年は踊場の真ん中でじっと立ちながら、誰かの到着を待っているようだった。
 その一方で、俺はというと……。
「えぇと……あのー、大丈夫ですかー?」
「う、うるさい……今ちょっと……話、かけるな……」
 少女の問いかけに満足な返答もできず、隅の方で壁にもたれてへたり込んでいた。
「うっ……」
 腹の中に何か残っていなくて良かった。もしそうでなかったら、絶対吐いてる。
 長いこと連れ回されて逃げてきた結果、乗り物酔いなんて比にならないくらいの不調に陥った俺は、ここにきてまだ一度も動いていない。ただただグロッキー状態のまま、少女の奇異な視線と、少年の同情の視線に見守られている。
 少しすると、ふいに声が聞こえた。上の階からだ。
「おーーい!」
「あっ! 戻ってきました! せんぱーい!」
 それに反応して、少女が機敏に、そして嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる。
 俺は不調の中、少々無理して首を持ち上げると、階段のすぐ上に人影が現れるのを見ることができた。
 現れた人物は踊場までの段差を全て無視して飛び下り、優雅な仕草で着地をする。外見からして、おそらくは女性だと思われた。
 長身ですらっとし、肩まであるセミロングの鮮やかな金髪を無造作に流している。まるでパーティーにでも出席するような装飾の多いドレスを着て、ヒールの高い靴を履き、随分と派手な印象だ。騒ぎ立てる少女が飛び跳ねついでに嬉々として抱きつくのを、その女性は慣れた様子で明るく受け止める。
「おっと! 元気だなー、ソラ! ちょっと遅れたかな?」
「いえいえ、時間ぴったりですよ、アリア先輩! ご無事で何よりです!」
「はは、私は平気さ。心配いらないよ」
 金髪の女性は爽やかに笑って少女を抱きかかえ、くるくると回る。
 そうやって二人が戯れていると、また上の階に人影が映った。
 今度は飛び込みのように上から降ってくることはなく、コツコツと響く緩慢な足音と共に下りてくる。そして目の前の人力メリーゴーランドにはさして興味も示さず、少し離れた踊場の壁に背を預けた。
 こちらも女性と見受けられる。直前に現れた女性と同様に、丈のある良いスタイルの細身だが、格好の方は対照的にあまり派手でなく、むしろ地味と言ってよい。その外観は、昼間に目にする南校の女子制服を基調とし、少しだけそれをファンタジックな世界観に合わせたようなものであった。胸元のタイや袖口にわずかな装飾がある程度だ。
 唯一目立つのは、腰まであろうかというほど長く伸びた一本のポニーテール。控えめなリボンで結われた淑やかかつシックな黒髪が、風にそよぐかの如く波に揺れている。
「ミュー先輩も、お疲れ様です! 抱きついてもいいですか?」
 メリーゴーランドがひとしきり回り終わると、戯れている二人のうち、少女の方が声をかけた。
 しかしその言葉には、なんとも淡白な答えが返る。
「ありがとう。でも抱きつくのはやめて」
 壁にもたれた身体をピクリとも動かす様子がなく、口の動きは必要最低限。
「ちぇー、相変わらずクールですねー」
 少女が残念がる。
 首をもたげながら前方をボーっと眺める俺の目には、そんな彼女たちを含めて、合計で四人の姿が映っていた。
 皆々、各々に思い思いのファッションで、そこに全く統一性はない。ただし奇妙なことに、全員が目元を装飾具で隠している。それが一番気になった。
 金髪の女性は、映画女優がプライベートでつける洒落たサングラスのようなもの。ポニーテールの女性は、いわゆる視力矯正のための眼鏡に似た形のものをしている。個人のセンスなのか、形状まったく違う。けれど、どちらも当人の瞳までは見通せないよう光を弾く仕様になっていた。
 メリーゴーランドはまた回り始める。俺はそれを呆れながら眺めている。
 壁際に陣取ったポニーテールの女性は、俺の方へは一瞥をくれるだけであった。ほとんど興味はないようで、すぐに視線は逸らされる。こちらとしては、何となく冷ややかな印象を抱かざるを得なかった。
 気力の消耗と首の疲れから、俺はまた俯く。
 目の前の回転遊戯はそろそろ終わりを迎えたらしく、ようやく少女が俺の存在に触れた。
「あの、ところで先輩方。一つ報告したいことがありまして」
 そう言うと少女は俺の傍へとやってきて、先輩らしき二人の注意をこちらに促す。
 すると途端、声が上がった。
「あ、あれっ!? リフィア先輩じゃないですか!」
 直後、踊り場の中心で少女と戯れていた女性が、今度は俺へとめがけて飛びついてきた。
「先輩っ! リフィア先輩! リフィア先輩ですよね!? なんで! どうしてここに?」
 さきほどまで凛々しい大人の雰囲気を放っていたその人だったが、俺の姿を見て嬉しそうに声を高くし、やけに親げに触れてくる。まるで姉に戯れつく妹のようだ。彼女は俺の肩をぶんぶんと揺らし、何度も何度も強く抱きついてくる。
 けれどもそんなコミュニケーションは、こと今の俺に対しては、攻撃以外の何物でもなかった。
「ぐっ! な、なんだいきなりっ! せっかく気分が落ち着いてきたってのに……おい抱きつくな! 離せ!」
 当然、俺は必死に抵抗し、抱きついてきた彼女の腕の中で暴れる。そりゃそうだろう。あれだけ最悪だった気分がようやく戻ってきたっていうのに、またここで激しい振動なんて食らってはたまらない。酔いがぶり返してしまうではないか。「離せ」の他にも「バカやろう」などと叫んだりして、随分と口悪く抗ったものだった。もちろん、それくらい切羽詰まっていたということだ。
 するとやはり、相手の方は何か疑問を感じたようで、不思議そうに俺の姿を注視する。
「あれ? 男の子? リフィア先輩……じゃ、ない?」
 母や姉以外の女の人にこれほど近くで見つめられたことはないが、照れるとか恥ずかしがるとか、よもや今の俺にそんな余裕があるはずもなく
「ぅげ……なんだ、そりゃ。誰だよリフィアって……。つか、また……気持ち悪りぃ……」
 再び、力が抜けて肩を落とす。
 弱々しく手で押し退けると女性は俺から離れ、その入れ替わりで少女が尋ねた。
「さっきまで割と楽そうだったのに、なんだかまた辛そうですねぇ?」
「たった今思いっきりどつかれたの、見てただろ……」
「ところで、あなたはアリア先輩のお知り合い、なのですか?」
「し、知るか。俺は今日、初めてここへきたってのに……知り合いなんか、いないっつの」
 喋ろうとすると、一言一言につき、もれなく胃がむせ返るような感覚がこみ上げる。息が切れて、呼吸を挟みながらの発言は厳しかった。
 けれども、周囲は俺の次なる言葉を待っているのか、視線をこちらに集めたままだ。きっとこのまま黙っても、何かしら追求されて喋るはめになる。
 そう察した俺は、ならばとっととこの現状に至った経緯と、そして自分が何も知らないことを吐いてしまった方が楽だろうという結論に達したのだった。
「嘘じゃない。俺は姉ちゃ……姉貴に言われて、ここへきただけなんだ。夜の学校に行けって指示があったからそうしただけで、気づけばこうしてわけのわからないことになってるし……とにかく俺には、こんな場所に知り合いなんているはずがない」
 ゆっくりとしたペースで、言葉が切れ切れにならないように話し続けた。自分から話し出す分、まだ急かされなくていい。
「なるほど。ここへは初めていらしたんですか。見ないお方だとは思っていましたが、そうでしたか。それは……さぞ驚かれたことでしょうね」
「すっげぇ今更だな……」
 少女は俺を気遣っているのか、俺と同じくらいのゆっくりとした口調で会話に応じた。座る俺に目線を合わせるためか、膝を抱えてしゃがみこんでいる。小柄な身体が俺の前で丸くなっていて、可愛らしくも見えた。
 そんな風に俺の呼吸整理のためのような問答をしていると、さきほど飛びついてきた金髪の女性からも声が上がった。
「なるほど、そうか! お姉さんか! とするとそのお姉さんは、以前に南校の生徒だったわけで、今は……大学生というわけだな?」
 いったい何を得心したのか、興奮気味に俺に問いかける。
「え、ああ……まあ、姉貴は今、確かに大学二年だが……それがどうかしたのか」
「やっぱりな! そう、そうだろう! だったらそのお人、君のお姉さんこそが、リフィア先輩だ! 君はリフィア先輩の、弟なんだな!」
「はぁ!? な、何言ってんだ、さっきから。うちの姉貴がだからどうしたって――」
「リフィア先輩には、三つ下の弟がいると聞いたことがあったよ。つまり君は、今は二年生か。なんという巡り合わせだろう」
 女性は嬉々として話し、再び俺に抱きつこうとしたが、俺が反射的に身構えると、いけないと思って踏み止まったようだった。
 さきほどから度々耳にする、リフィア先輩という人物。この話の流れからするに、それはどうやら俺の姉である優璃のことらしい。全くもってよくわからないが、そういうことだと認識できる。
「アリア先輩、そのリフィアさんというのは、いったい誰なんですか?」
 ただ、そのリフィア先輩という呼び名について、ポカンとしながら理解が行き届いていないらしき顔をしているのは、俺と少女と、加えて少年も同じだった。彼は質問こそしないが、興味自体はあるように見えた。
 一方、壁際で一人黙っている女性は、特に関心もなさそうに隅の方で腕組みをしている。
「リフィア先輩はな。二年前、私がまだ一年のときに、ここにいた先輩なんだよ。強くて優しくて、それはそれはカッコイイ人だった。当時一人だけだった一年の私に、とても良くしてくれたんだ」
「へぇ~、そんな人がいたんですか。偉大なお人なんですね~」
 偉大、ねぇ。あの優璃が、強くて優しくてカッコイイ、ねぇ……。まあ、強いのはその通りで否定のしようもないが、残り二つはちょっと……どうにも首肯し難い部分だ。
「私が一年の頃だから、みんなは知らないのが惜しいなぁ。ぜひ会わせてあげたいんだが。あーでも、ミュウミュウには前に話したことあったんじゃないか?」
 会わせなくていい。我が家の恥さらしだ。迷惑だから、是非やめてくれ。俺はそんな風に思ったが突っ込まず、すると話は、彼女たちによって広げられていく。
 ついには無関心の人まで巻き込んで、ポニーテールの女性が久しく口を開いた。
「前って、一年以上前ですよね、それ。もう忘れましたよ」
 非常に愛想がなく、ぶっきらぼうで単調な声。
「あれ、そんな前だっけか。そうか……最後にしたのはソラとルナがくる前なのか」
「そうですね。あと、どうでもいいですけど、ミュウミュウって呼ばないでください」
 とことんまで無愛想で、さらに末尾には、鋭利で淡白な訂正が付け加えられる。
 対しては「えー、可愛いのにー」なんてめげない反応が返っていたが、どうにもちぐはぐな問答に見えた。
 そうして二言三言交わしたあと彼女らは話し終え、金髪の女性は勢いよくこちらに向き直った。
「さて、まあそれはいいとして、だ。気分は回復したか? とにもかくにも、君はリフィア先輩本人ではないらしいな」
「あ……ああ、そうだな。ていうか、本当に俺と姉貴を取り違えたのか? 冗談だろ。そもそも性別からして違うんだぞ」
 リフィアと呼ばれる人、つまり俺の姉は女で、俺は男だ。冷静に考えれば間違えようがない。ましてや、俺はそこの少年のように、背丈も雰囲気も中性的というわけではないのだ。
 当然だと言わんばかりに、俺は呆れた様子を表した。
 けれども意外なことに、あちらは引き下がらなかった。
「いや、でもなぁ。もちろん私としても間違えて悪いとは思っているが……だが一方で、それは仕方のないことのようにも、思えてしまうんだよ」
「……なんだよそれ。どういう意味だ?」
「その格好で男だと言われてもな。困るということさ」
 金髪の女性は両手を軽く上げ、半分笑って、半分呆れ顔。別に意地になっているようには見えない。
 俺がそれを、引き続きわけがわからないといった感じで見ていると、おもむろに少女がこの手を取る。続いて引っ張り、座り込んだ俺を立ち上がらせつつ踊場の中央へと招いた。
「お、おい。いったいどうし……」
 楽になってきたとはいえ身体はまだ怠かったので、俺はごねようとする。
 そこで少女はこちらへ向き直って、にこやかに告げた。
「もしやとは思っていましたが、どうやら本当にお気づきでないようですね。なので、こちらを」
 注目を呼び込むように手のひらをヒラリと舞わせ、少女は俺の視線を正面へと誘う。
 目の前にあったのは鏡だった。踊場の壁に取り付けられた、全身を映すことのできる大きな姿見だ。中には一人の直立する人間がいる。
 そして俺は次の瞬間、眼前に映る驚愕必至の異常な容貌に声を張り上げることとなった。
「なっ、なんだこれっ!」
 映っているのは、たぶんきっと、自分の姿なのだろう。当たり前だ。鏡なのだから、今ここにいる、自分の外見を反射するに決まっている。そう、思うのだが……。
「実に可愛らしい。いや、美しいと言うべきだろうか。とにかく、左右上下どこから見ても、パッと見てすぐに男性だとは思えないだろう?」
 俺の目に飛び込んできたものは、豪華な髪留めに真っ赤なドレス。非常に派手でフリフリの女物だ。ゴシック系の装いと言えば、一番近い表現になるだろうか。首回り、足回りから全身に至って装飾が多く、よく見れば手袋までしているために肌の露出はほとんどないが、華やかで扇情的な、紛うことなき女性の服装だった。加えてやはり、ここにいる他の四人と同じように、自分も素顔のわからないような格好になっている。全身の赤を基調とした装いの中に、紅の遮光グラスが自然と溶け込んでいた。
 これでは確かに、一見しただけでは女性に見える。髪は短いが、派手な髪飾りのおかげでその点はあまり目立たないし、声質の違いも喋らなければわからない。
「ちょっと、やーですよー、アリア先輩。下から見たら、パンツ見えちゃいますってー」
「あっはははは。言えてる! でもやっぱり、それでも男には見えないさー」
 ははは、とはしゃぎながら、金髪の女性と少女が高い声で笑っている。俺の周りで、俺の気も知らず、俺を見て。
「………………」
 しかしながら、悔しくも言い返す言葉すら見つからなかった。自分でも思ったのだ。これではどう見ても女である。完璧すぎて、女装にすら見えない。
 実は男だとわかった途端、とんだ見世物扱いだ。
「……脱ぐ!」
 数秒ほど固まったのち、俺は即座にそう結論した。
「ちょ、ちょっとダメですよ! そんなっ!」
「うるさい止めるなっ!」
 制止の声など無視だ。無視して、よくわからない装飾服をあちこち探り、どうにかこうにか脱ごうとする。こんな服なんて着たことないから要領を得ないが、チャックやボタンがどこかにあるはずだ。あるに決まっている。あー、くそ! いったい何がどうなってるんだこの服は。全く未知の構造をしているぞ。横で慌てる少女をよそに、俺は一人で不格好に奮闘した。
「あっははは! あはははは! それはやめときなって」
 すると金髪の女性の方は、腹を抱えて転がらんとする勢いで、さらに笑った。くっ……畜生。いや、まあ……ものすごく気持ちはわかるけどさ。
「はは……は~。あ、でもね、脱ぐのは無理だよ」
 一通り笑ったあと、ようやくというかいい加減というか、苦しそうなまでの破顔をやっと抑えて真面目な顔になり、制止とも助言とも取れないような、曖昧な雰囲気の言葉を返してくる。
「その格好が、ここでの決まりさ。いわゆるドレスコードってやつだね。だから、その服をここで脱ぐことは不可能だ」
 すっと口調が変わったかと思うと、聞き慣れない単語が一つ飛び出して、また少し俺は戸惑った。
「ど……ドレス、コード?」
「いわゆる服装規定ってやつだね。種々の場所や機会において、然るべきとされる服装のことだ。なんと言っても、これは仮装パーティーだからさ。パーティーにドレスコードは付き物だよ」
 金髪の女性は居住まいを正してニヤリと笑い、そして告げた。
「ようこそ、少年。仮装のための仮想の世界へ。すなわちここは、仮“装”世界。開かれるは、夜の世界の仮装パーティー。昼間の自分とは異なる自分に姿を変え、新たな自分になって戯れ、そして戦うゲームの世界」
 わずかに声のトーンを落とし、恭しいポーズを取るその姿に、俺は唖然とすることしかできない。
「………………」
 聞き取りやすかったはずの良く響く声。しかし今回の文言については、俺の脳内に驚き以外の何物をももたらすことはなく、到底理解することができない。脳内処理が追い付かなくて、俺はただただ固まっていた。
 すると女性は、またすぐに元のおどけた様子に戻る。
「なーんてな! いや、一度言っておこうかと思っただけさ。大丈夫大丈夫、ちゃんと君にもわかるように話すからさ」
 そこで初めて、俺はこの人にからかわれたのかもしれないと気付いた。
「……初めからそうしてくれ。妙な雰囲気作りはいらないから」
 俺は苦い顔をしてコメントする。
 女性は「そうかー?残念だなー」などとぼやいた。そして階段の手すりに肘をつくと、そのまま軽々と飛び上がって腰掛ける。
「ま、とりあえず、だ。君はリフィア先輩のアカウントを受け継いでここへきたらしいね。外見のデフォルト設定がそのままだったことからよくわかる。でも妙だ。本来、君が今私たちの目の前にいるためには、携帯端末に特別なアプリケーションをインストールし、アカウントの状態を整えてから、サインインという所作を踏んでここへこなければならないはずなんだ。君は確実にそれらをこなしてきている。それなのに、ここについて何も知らないと言うのかい?」
 アプリケーションのインストール。アカウントの整理。サインイン。思い返せば、それらの行為に心当たりはある。
 優璃に端末をひったくられた。学校の片隅でいかがわしいパソコンに端末を繋いだ。校門でアプリケーションの起動を確認した。
 だが俺自身、それらがどんな意味を持つのか自覚していたわけではなかった。
「何度も言うが、俺は何も知らない」
 これは事実だ。
「そうか……。リフィア先輩に何か聞いている、というわけでもないんだな」
「あいつは面倒なことは何も説明しない。そういうやつだ」
「ま、まあ……一理ある。すると、君は全く何も知らされずにここへ遣わされた、と。……だとすると、同情の余地が多分にあるね」
 手すりに座ったまま、女性は俺の目線よりも少し高い位置で、眉間に手を当ててうなだれる仕草をした。俺の気持ちを察してくれたようだ。
 しかし同情なんていらないのだ。頼むから俺にわかる話をしてくれ。
 女性は「何から話せばいいかな」と悩んでいたが、やがて閃いたようで顔を上げた。
「そうだ。ここへくる前に、一悶着あったみたいじゃないか。そのとき目にしなかったか、あれを」
 そう言いながら腕を突き出し、こちらに向かって人差し指を垂直に立てる。独特の効果音と共に、ピストルを撃つ構えを見せた。
「ばーん! ビームレーザー!」
「ビームレーザーって……ああ、あの白黒の」
「そう、それだ」
 ビームレーザーか。そんな風に一言で表してしまえば、確かにそれに尽きるのだが。
 しかし、数十分前に見た少女と少年による白黒の閃光は、内心ではかなり衝撃的な光景だった。本当ならば、もう一度俺が気絶してしまってもおかしくないくらいのインパクトを、孕んでいたと言ってもよい。
 それなのに何となく平然と受け流してしまっていたのは、俺の脳が色々とこの環境に驚き過ぎて、認識が追いついていないだけなのかもしれない。今だってそうだ。感覚は、鮮やかな常夏の海に流されて、完全に麻痺してしまっている。
「単刀直入に言うと、実はあれ、ホログラムなんだ」
 けれども俺は、女性の次なる発言に、麻痺を通り越してさらなる未知のインパクトを受ける。
「……ホロ……え?」
「ホログラムだよ、ホログラム。いわゆる立体映像のことさ」
 立体映像、だって?
「待て。それはいくらなんでも無茶だ。いい加減、からかうのはやめてくれないか」
 俺は訴えた。
 だが女性は真面目な表情を崩さない。
「無茶じゃないよ。からかっているわけでもない。本当のことさ。早い話、君の見たレーザーも、その辺を泳いでるカラフルな魚も、というかそもそもこの海も、あとついでにみんなが着ている派手な服も、ぜーんぶホログラムだってことさ」
「いや、話早過ぎだ。レーザーに限らず海水や服もホログラム? そんなわけないだろ。もしそうなら、いくら立体でもこれはあくまで映像ということになる。こうして俺たちが触れられるのはおかしい」
 今、俺を取り巻くこの環境は衝撃的だ。本来、とても信じられるものではない。だがそれほど衝撃的であるがゆえに、これが全部映像だなんて言われて、なおのこと信じられるわけがなかった。ありありとこの目に飛び込んでくる景色。直接それに触れているというリアルタイムな感覚。これが映像? そんなバカな。やはり夢だと言われた方が、まだすんなりと信じられる。
 混乱する俺の心境を知ってか知らずか、女性は穏やかな口調で返答した。
「このホログラムはね、触れるんだよ。触れられる立体映像。正式名称は、えーっと……」
 言いかけて言葉に詰まった様子を見せると、横で波に揺られてふわふわしていた少女がフォローを挟んだ。
「リアリファイド・ホログラム・テクノロジー、ですよ! 先輩!」
「ああ、それ。実体映像技術、だったかな。ここは、その技術によって構築された空間だ。現実の上に、擬似実体を重ねるように投影して作り出した世界なんだ。つまるところ、ここは仮想の世界に見えても、それでも紛れもなく現実世界で……いわば仮想現実のようなものだね。見ての通り、元々この場所には校舎があるし、他にもグラウンドや、花壇とか、色んなものがあるけれど……それらをスクリーンとして、ここが常夏の海底に見えるように様々なオブジェクトを映し出したって感じかな。なんならコーティングみたいに思ってもいいよ。現実世界の表層に、触れるホログワムを張り巡らせたみたいに、ね」
 聞いて、そのあまりの突拍子のなさに、俺の理解力はもはや手も足も出なかった。脳の神経信号まで硬直したような感覚に襲われ、身体はただ波に揺られて浮かび上がった。
「……そんな技術、聞いたこともない」
「そうかい? 確かにまだ無名な技術だけど、調べれば学術論文くらいはひっかかるらしいよ。実際に私たちの生活に登場するのは、もうしばらく先になるみたいだけどね」
 女性は澄ました様子で答えつつ、惚けて波で上下する俺の手を取り、床へと引き戻した。
 俺の頭の中では、仮にこの環境が立体映像だとしてなぜ触れられるのかとか、どうやってそれを実現しているのかとか、そんな当然のような疑問を抱えていたけれども、しかし問うよりも先に
「ちなみに難しいことは聞いてくれるなよ。私は何も答えられないからな」
 と釘を刺されてしまって、黙るしかなくなる。仕方なく俺は、湧き上がる疑問を不完全に燃焼させて引っ込めながら、質問を選んで再度口を開いた。
「……じゃあ、あんたたちはこんなところで何をしているんだ? 少なくともそれくらいは教えてもらわないと、俺がここへこさせられた意味もわからないんだが」
 尋ねると、女性は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「ふっ! いい質問だ! よくぞ聞いた!」
 なんだかよくわからないけれど、スイッチが入ったらしい。当たりの質問をしたみたいだ。
「私たちはね、ここでゲームをしているんだ。我々南校だけでなく、他の東西北の付属校も一緒に、互いに競い合うゲームを。この最新の技術によって作られた、ロールプレイングゲームの舞台さながらの世界で」
 女性は斜め上から俺を正視して続ける。
「そして、私たち南校を含めた四つの付属校を統括している風彩大学は、この技術の開発と実用化に力を入れているんだ。ホログラムによってどんな物が、どの程度まで、どのようにして再現できるか、精力的に研究しているらしい。開発された装置はここで試運転をする。もちろんかなりの段階を経て調整されたものだけが試運転まで持ち込まれるから、ほとんど危険性はないと言われているよ。こうやって、大学側は自分たちの管轄下で実験ができるし、生徒の私たちはその恩恵を受けてこんな遊戯が楽しめる。持ちつ持たれつ。ギブアンドテイク。ウィンウィンの関係とは、まさにこのことだろう」
 すらすらと飛び出てくる、嘘か誠か際どい語り。自分たちの高校だけでなく付属校全体、果てはその上の大学の名前まで持ち出され、話の規模が大きくなってゆく。ついてゆくのが難しいが、しかし同時に俺は、女性の話に一つの引っかかる想いを感じた。
「……ゲーム……遊戯……? でもそれって要するに、あんたたちはただ遊んでいるだけってことにならないか?」
「そうだよ。遊んでいるだけだ。こんなファンタジーみたいな世界で遊べるんだ。君も、一度は夢見たことくらいあるだろう?」
 そりゃあ、まあ……。想像すると、心踊らないこともないけど……。でも、俺が今、気にするべきはそこではない。
 ここでやっていることは、大学の実験協力の見返りに遊んでいるだけ? だったら、俺がここへ遣わされた理由が、わからないではないか。優璃は、わざわざ帰省して俺を押し倒してまで、そんなボランティアを頼みにきたのか?
 違うはずだ。優璃には、俺には、ここで果たすべき目的があるはずなのだ。
 俺が悩んでいると、突然想定していなかった方向から声がした。
「アリア先輩。そこまで説明しておいて、一番大事なことが抜け落ちていますよ」
 それは、踊り場の隅の方で壁に背を預け、片腕の肘をもう一方の手で抱えるような体勢をとって黙っていた、ポニーテールの女性であった。近づいてくることもなく、こちらには視線すら向けずに、離れた位置から声だけを放る。
「ゲームに勝ったら、実験協力の褒賞として、大学側からある権利を与えられる。その権利を用いれば、学校というコミュニティ内に限り、あらゆる願いを一つだけ叶えてもらうことができる。そういう取り決めがなされていること」
 まさか忘れてなんていないでしょう。語末には抑揚のない冷めた口調でそう付け加えた。おそらくそれは金髪の女性に対して向けられた発言だったのだろうが、目聡くも俺の耳はすぐ反応する。あらゆる願いを一つだけ叶える権利。なんとも強く、俺を惹きつける言葉だった。
「一番大事なことって、それかい?」
「少なくとも、そこの人にとっては、重要なことだと思いますよ」
「えー、そうとは限らないよ」
「そりゃあ、学食にフランス料理のフルコースを導入するなんてことに権利を使ってしまうアリア先輩にとっては、どうでもいいことかもしれませんけどね。でも、普通ここを訪れるような人にとっては、とても重要なことのはずです」
 目の前では、二人の女性が意見の相違を顕著にしている。
 言い争いを聞きながら、俺は件の権利についてもっと詳しいことを知りたいと思っていた。ゲームに勝つことで得られる権利。それは間違いなく、俺がここへきた理由に関係があるだろうから。
 タイミングを見計らい、二人の会話に入り込む。
「あの、願いが叶えてもらえるって、いったいどういう……。てかそもそも、フランス料理って……」
 尋ねると、ポニーテールの女性がこちらを向いて返答した。
「あなた、二年生なのよね」
「そ、そうだけど」
「なら、知らないかしら? 去年の春に学食で、一日数量限定のフランス料理フルコースが振舞われていたこと。期間限定で短かったけど、相当な噂になっていたの」
 ・・・…去年の春、学食。女性の口から出た単語に従って、俺は記憶を掘り返した。思い出せば、確かに浮かぶ出来事があることに、逆に俺の方が驚く。それは俺がまだ一年で入学したばかりの頃、学食について耳にした噂であった。
 先着数量限定、しかも格安で、フランス料理のフルコースが食べられる。有名なシェフを呼んで作らせたものらしく、質は極めて上等で、その機会を逃せば以後簡単にはお目にかかれない。もし口にしなければとにかく後悔必至の代物であると、そんな風に鳴り物入りで謳うチラシが学食には貼られていて、普段の何十倍も人集りができていたという。
 当時、友人から噂をそのまま聞いて「何をバカな」と言い返した俺は、興味も薄く、人混みも嫌いであったために知らん顔をして、すっかり忘れてしまっていたのだ。
 俺は軽く頷いて、心当たりはあるという程度の意思を示した。
「あれはこの人がやったのよ。ここで得た権利を使ってね」
 冷ややかな声で、ポニーテールの女性は吐き捨てるように言った。この人がやったって……まさか噂は事実だったのか。
「いやーあれはなかなか楽しかったよ。すっごく美味しかったしさ。屋上を一面の花畑にするのとで、結構迷ったんだけどね」
「やめてください。花畑は先輩の頭の中だけで十分です」
「えーひどいなー。あのときは、夜も眠れないくらい悩んだのにー」
 金髪の女性は愉快そうにヘラヘラと笑い、咎められてもそして堪えていない様子だ。
 対するポニーテールの女性はため息をつきながら、再度俺に視線を向け、話を戻す。
「とにかく、あれは冗談のようで、本来はあり得ない破格のイベント。この人はあんな使い方をしたけれど、ここで得られる権利には、本当はもっと価値があるの。生徒会や部活動、ひいては学校そのものの運営に口を出したりと、そういったことができる代物なのだから。言い換えれば、それは危険で、とても慎重に扱われるべきものよ。あなたも安易な気持ちで関わると……消されるから」
 向けられた視線は、真っ直ぐ矢のように俺を貫いている気がした。おいおい、なんて怖いことを言う。消されるって、ちょっといささか穏やかじゃない。
 でも、この話が真実なら、俺にとってもいくらか都合の良い点があるのも明らかだった。俺は告げられた言葉に少しだけ怯みながら、固まって思考を巡らせる。
 その様子を見た金髪の女性は、俺が怖がったと思ったのだろうか。気遣うように言う。
「ちょっとミュウミュウ。せっかく新しい仲間がきたんだ。あんまりいじめてやるなよ。確かに一時期は、権利を巡って夜のゲームだけじゃなく、昼間の学校生活でも闇討ちなんてことが行われていたみたいだけどさ。今はもう、まったくそんなことはないよ」
 な……闇討ちって、本気かよ。ちょっとどころか、かなり穏やかじゃない。昼間なのに闇討ちってところが、なんだか随分と間抜けだけど……いや、でも、冗談だろ。
「それにさ、そのおかげで今もこうして、自分の素性を隠すルールが残っているわけだよ。本名を名乗らず、人相が特定されないような格好をするっていう、とっても仮装パーティーらしいルールがね。これはこれで、すごくエキサイティングじゃないか」
 言いながら、金髪の女性は自分でかけている目元の装飾具を手で示した。一貫性のない皆のファッションの中で、唯一それだけが統一されたアイテムだ。かけている側の視界には何の影響もないが、逆から見れば完全に遮光されるため、何も見通せない作り。なるほど。これは自分の素性を隠すためのものだったのか。
「勝手にしてください。あとミュウミュウって呼ばないでください」
 ポニーテールの女性は、制止の言葉を受けると今度は言い返すこともなく、ぶっきらぼうにそっぽを向いて、また黙った。
 対する金髪の女性は微笑みだけを向けて一呼吸置くと、その輝く髪を鮮やかに揺らして身を乗り出し、今度は俺へと告げる。
「そういうわけだから、君もそのルールに従ってくれ。今となってはもはや形骸化したルールで、性別や学年まで隠すことは滅多にないけれど、本来はここのシステムを使ってそれを隠すこともできる。髪の長さや色、声、背格好も、やろうと思えば変えられるよ」
 自分の髪も、本当はもちろん黒だが、衣服に合わせて色を変える設定をしたのだ。女性はそう語った。
 俺は無言で、とりあえず頷く。
 それを見ると、女性は階段の手すりからひょいと飛んで、踊り場の中心に降り立った。ついでに、いつからか話に飽きてしまって、惚けながら辺りをふわふわと漂っていた少女を起こしつつ、言う。
「さて、では時間も時間だ。もうじき九時になる。ゲームが終了する前に、遅くなったが自己紹介をしておこう。本名を名乗らないこの世界では、仮の呼び名はとても大事なアイデンティティだからね」
 気付けられた少女はそそくさと少年の傍へと泳いでいき、俺の視界には、背を向けた金髪の女性だけが残った。
「私のここでの名を教えよう。アーシャ・リーズ・アストライアだ」
 いい感じのアングルで宣言される。
 …………え?
「…………あーし……何だって?」
 俺は思わず聞き返した。
「アーシャ・リーズ・アストライアだ。カッコイイ名前だろう?」
 ………………。
 丁寧にもう一度答えてもらっておいて悪いが、同様に沈黙することしかできない。突っ込みどころを見定めるのに俺がたじろいでいると、横から少女のヤジが飛んだ。
「もー、素直にアリアって名乗ればいいじゃないですかー。長すぎですよ、その名前」
 アリアって……もしかしてそれ、アーシャ・リーズ・アストライアの頭だけとって繋げた呼び名? さきほどから聞くこの人の呼称は、名前の略称だったのか。ていうか、もはやあだ名に近い。
「いや、やっぱり名前はファースト、ミドル、ラストとあった方がそれっぽいんだよ」
「そんなことないです。今からでも遅くないですから、正式にアリアにしましょうよ」
「い、や、だ、ね! アリアと呼ばれるのも私は好きだが、元々にそれらしい名前があるからこその呼称だよ」
 何やらまた口論が始まっている。非常に下らないことで言い争っている気がするが、両者譲らない様子だ。いくらか応酬を繰り返したあと、少女が俺に向かって
「この人は、アリア先輩でいいですからね。長ったらしい名前なんか、忘れちゃってあげましょう」
 と言い、続けて
「ちなみに私は、ソラって名乗ってます。短くて覚えやすいでしょう? シンプル、イズ、ザ、ベストですね」
 と恭しく一礼をし、自己紹介した。
 さらにそのあと、隣の少年の腕をとって引き寄せ、紹介を促す。
「あの、僕はルナです。えっと……よろしくお願いします」
 少年はたどたどしく、少女の真似をして頭を下げた。
 どうやらこの二人は、アリアという女性より、かなりまともな名前を使っているらしい。
「というわけで私とルナは、二人揃って、このチームのサポート役!」
「「ステラ・ガンナーズ、ですっ!」」
 ……訂正。こいつらも大概だった。突っ込みどころがまた増えた。
 少女ソラは、浮かれてノリノリで決めポーズ。手にはいつの間にか白い銃を掲げていた。少年ルナも、恥ずかしそうにはにかみながら、しかし同様に黒い銃を携えている。
「決まった……!」
「う、うん。決まったね」
 ともあれ二人は満足しているみたいだった。
 俺は呆れたが、色々と言及する前に次なる紹介が行われる。アリアという女性が、踊り場の隅を示した。
「それとね、あそこでずっと怖いオーラを放ってるのが、ミュウミ――」
「ミューよ。よろしく」
 しかしどうしたことか、高速で発言の上書きが行われた。なおかつ、ポニーテールの女性は思いっきりこちらを睨んでいる。その名はミューというようだ。さきほどまでのやるとりからするに、ミュウミュウと呼ぶと怒るらしい。
「おーい、せっかく可愛く紹介してやろうとしたのに」
「必要ないです。元の名前よりも長い呼び方なんておかしいですよ」
「略称はそうかもしれないが、愛称はまた別だよ。可愛い方がいいだろうに」
「よくないです」
 何だろうか。ここではこの手の言い合いが盛んのようだ。ただ見た感じでは、四人は結構仲が良さそうである。
 しばらくして、アリアという女性はこちらを向き、改めて俺に言う。
「まあ、見ての通り、ここにいるのはこの四人だ。これで全員だよ」
 女性は大らかに微笑み、出迎えのように軽く両手を広げた。
「ようこそ、南校チームへ」
 それは、常夏の海を流れる波のように暖かい声だった。
「さてと……しかし残念ながら、今日はもうこれまでだ。楽しい時間はあっという間に終わってしまう。だからね、リフィア先輩の弟くん。さしあたって君は、次回までに自分の名前を考えておいてくれよ。この世界で君が使う、君が君であるための名を」
 俺が黙っていると女性は、いいね? と優しく念を押した。
「あ、ああ……」
「よし、じゃあ今日は解散だ。みんな、また今度。君には是非、格好良い名を期待するよ」
 俺を含めて皆の顔を確認すると、女性は片手を挙げて挨拶をする。そして最後まで告げると、突然、細い煌びやかな光に包まれて消えた。
「じゃ、みなさんさよーならー」
「お疲れ様でした」
 続いて、少女と少年も、同じ光に包まれて消えてゆく。
 最後まで残ったミューという女性は、離れた位置から数秒だけ俺を見つめ、もとい睨んでいたが、結局何も言わずにそのまま消えた。
 瞬く間に俺は一人残されて、また波に揺られてたゆたう。
「……何だったんだ、いったい」
 けれども、すぐに目の前は真っ白の光に覆われてしまい、俺の意識はふっと途切れた。
 そして気づいたときには端末を片手に持ちながら、何の代わり映えもしない真っ暗な夜の校舎を背にして、校門の外に立っていたのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~勘違い貴族の規格外魔法譚~

Gaku
ファンタジー
「次の人生は、自由に走り回れる丈夫な体が欲しい」 病室で短い生涯を終えた僕、ガクの切実な願いは、神様のちょっとした(?)サービスで、とんでもなく盛大な形で叶えられた。 気がつけば、そこは剣と魔法が息づく異世界。貴族の三男として、念願の健康な体と、ついでに規格外の魔力を手に入れていた! これでようやく、平和で自堕落なスローライフが送れる――はずだった。 だが、僕には一つ、致命的な欠点があった。それは、この世界の魔法に関する常識が、綺麗さっぱりゼロだったこと。 皆が必死に唱える「詠唱」を、僕は「気合を入れるためのおまじない」だと勘違い。僕の魔法理論は、いつだって「体内のエネルギーを、ぐわーっと集めて、どーん!」。 その結果、 うっかり放った火の玉で、屋敷の壁に風穴を開けてしまう。 慌てて土魔法で修復すれば、なぜか元の壁より遥かに豪華絢爛な『匠の壁』が爆誕し、屋敷の新たな観光名所に。 「友達が欲しいな」と軽い気持ちで召喚魔法を使えば、天変地異の末に伝説の魔獣フェンリル(ただし、手のひらサイズの超絶可愛い子犬)を呼び出してしまう始末。 僕はただ、健康な体でのんびり暮らしたいだけなのに! 行く先々で無自覚に「やりすぎ」てしまい、気づけば周囲からは「無詠唱の暴君」「歩く災害」など、実に不名誉なあだ名で呼ばれるようになっていた……。 そんな僕が、ついに魔法学園へ入学! 当然のように入学試験では的を“消滅”させて試験官を絶句させ、「関わってはいけないヤバい奴」として輝かしい孤立生活をスタート! しかし、そんな規格外な僕に興味を持つ、二人の変わり者が現れた。 魔法の真理を探求する理論オタクの「レオ」と、強者との戦いを求める猪突猛進な武闘派女子の「アンナ」。 この二人との出会いが、モノクロだった僕の世界を、一気に鮮やかな色に変えていく――! 勘違いと無自覚チートで、知らず知らずのうちに世界を震撼させる! 腹筋崩壊のドタバタコメディを軸に、個性的な仲間たちとの友情、そして、世界の謎に迫る大冒険が、今、始まる!

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする

夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】 主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。 そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。 「え?私たち、付き合ってますよね?」 なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。 「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。

処理中です...