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第4話
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9月2日 夜
木菟は昨日に引き続き、店の片隅に座り込んで、店の様子を観察していた。
客は、カップルや友人の2人連れが多い。サラリーマンもいるが、仕事終わりに一杯引っ掛けにくる…というよりは、それなりにきちんとした身なりをして訪れ、静かに料理と酒を楽しんでいる印象だ。がやがや騒ぐ客もなく、静かなものだが、高級料理店のような敷居の高さは感じさせず、あくまでアットホームな雰囲気だった。
(<死に戻り>前に、トラブル客の中年男性の焼死事件が起きるのは明日。ということは、何かトラブルが起こるとすれば、今日のはずなんだが…。)
木菟がじっと見ていると、フロアに新しく男性客が入ってきた。田中より少し年上に見える。スーツではないものの、物の良さそうなジャケットを着ている。厨房から見ていたのか、田中が飛び出すようにフロアに出てきた。対応しようとする美冬を目顔で制し、田中が直々に対応した。
(あれが美冬と揉めたっていう客か…?)
木菟の予想は的中した。
「いらっしゃいませ、前田様。」
田中の丁寧な挨拶に片手を挙げて答えながら、前田は粘っこい目でフロアを見回した。
「あれぇ、今日オーナー来てないの。おかしいなぁ、今日8時から呑もうって言ってたのに。」
「古見より、少し遅れると言付かっております。先にお席にご案内します。」
古見というのがオーナーで、前田はオーナーの友人らしい。田中に昨夜聞いたところによると、この店にも出資をしているという。
(オーナーの友人兼共同経営者と揉めたら、まぁ、クビも致し方ないのか…としても、ここからどうやってトラブルが起きるんだ?)
田中がフロアを横切るような形で、前田を窓際の席まで案内する。その間、フロアを挟んで対角線にいる美冬に、前田がちらりと目線をやった。
かなりねちっこい、意味ありげな視線だった。美冬が目礼すると、前田は、にぃと口角を上げる。まるで、獲物を見つけた爬虫類のようだ…と木菟は思う。一瞬、美冬の顔がこわばった。
田中がオーダーをとる間も、前田は美冬から目を離そうとしない。美冬の体がますます固くなる。
(…?)
木菟が訝しがりながら見守っていると、オーダーを終えた前田が、唐突に切り出した。
「いやぁ、店長の料理は最高だよね。今日のメシは店長に作って欲しいなぁ。」
「は、ありがとうございます。ですが私が今から作るとなりますと、少しお待たせしてしまうかもしれませんが…。」
遠回しに断ろうとする田中。前田と美冬を近づけないよう、古見オーナーが来るまで前田に付きっきりでいようという意図だろう。が、前田はしつこく食い下がった。
「いいよ、俺出来るまで待ってるから。どうせ古見ちゃんも遅れるんでしょ。」
オーナーとの親しさを前面に出してくる。あきらめた田中が厨房に下がるのを見送ってから、前田は、フロア内で最も遠くにいる美冬をわざわざ手招きした。他のスタッフがかけよろうとするのを前田自身が手で制し、「美冬ちゃーん」と猫撫で声で呼ぶ。美冬がこわばった笑顔を浮かべながら、前田の席へと向かった。
(これはまずいぞ…。)
木菟ははらはらしながら、前田と美冬を見守る。
「ねぇ、このグラス汚れてるんだけど。交換してくれない?」
美冬が前田のテーブルの傍らに立つなり、前田はお冷の入ったグラスを持ち上げ、美冬をねめつけた。木菟の位置からは遠くてよく分からないが、照明が反射してきらきら光るグラスは、特に不潔そうには見えない。そもそも汚れに気づいたなら、お冷をサーブした田中に直接言えばいい話だ。言いがかりをつけようとしているな、と傍目で見ている木菟にも分かる。ホール内の他のスタッフも、そわそわしながら2人の方を見ている。
「申し訳ありません、すぐ取り替えますので…。」
だが美冬は、特に反論もせず、素直に頭を下げた。グラスを受け取り、足早に立ち去ろうとする。前田はそれを許さず、さらに追撃した。
「ねぇ、ちゃんと洗ってるのかなぁ。」
「も、申し訳ありません…。」
前田は、はぁ、と聞こえよがしにため息をついて見せた。
「美冬ちゃんはいい大学出てるかもしれないけど、仕事は全然できないよね。あ、先生になるような人は、
飲食なんてやってられないか。ばかばかしいと思ってるでしょ?コップ洗ったり、食事運んだりさぁ。」
前田も美冬がこの店で働いている事情を知っているのだろう。あまり触れられたくないであろう部分を、わざとらしくずけずけと指摘した。少しずつ、美冬の声が小さくなる。
「そんな、思ってません…。」
「え?思ってるでしょ。それとも何、俺が低学歴だから分からないと思ってばかにしてるの?」
「ばかにしてるなんて、そんなことありません…。」
「じゃあ俺の言う通りだよね。美冬ちゃんは飲食なんかばかばかしいって思ってるんだ。仕事できないくせに。」
「はい…いえ…申し訳ありません…」
「え、今はいって言った?信じられない、本当に思ってるんだー。」
「…。」
愉快そうな前田。美冬はついに黙り込んだ。
(これはトラブルというより…。)
前田が美冬に一方的に絡んでいるだけではないか。無関係な木菟の目から見ても胸が悪くなるような光景だった。美冬、周りのスタッフの様子を見るに、今日に始まったことではないようだ。誰も助け舟を出そうとしないのは、保身のためか、そうするとさらに事態が悪くなるせいか。頼みの田中は厨房に行ったっきり、目の届くところにいない。
「はぁ、本当にだめ人間なんだね、美冬ちゃんは」
そのとき、ねちねちと言葉でのいたぶりに終始していた前田の手が、美冬の方に伸びた。
「やめてください!」
その指が美冬の腰に触れた瞬間、美冬が前田の手をはたいた。
前田は大げさに手を引っ込める。水の入ったグラスが足元の床に落ち、砕け散った。中の水がこぼれて、前田のズボンの裾と靴を濡らす。
「いった!なにすんだよ!」
前田が大声を出すと、フロアの客が一斉に美冬の方を振り向いた。
「どうしましたか?」
ようやく出来上がったらしい料理の小鉢をもって、田中が席に現れた。
「この女に叩かれて、水かけられたんだけど!お宅の社員教育はどうなってんの?」
なおもフロア中に聞こえるような大声で、前田は言いつのった。
「わたし、水かけたわけじゃ…今この人が触って。」
「触るわけないだろ、こんなブス女。勘違いもいいとこだよ、ねぇ店長…ああ気分が悪い。やめだ、やめやめ。」
前田は濡れたズボンをおしぼりで拭きながら、なおも続ける。
「店長は知ってると思うけど、今日の古見ちゃんとの話は2号店に向けた増資の話だったわけ。でもこんな店員がいるんじゃ、俺もう金出す気になれないわ…。」
「申し訳ありません、前田様。わたしからきちんと言っておきますので」
頭を下げる田中を無視して、前田が席を立つ。
「店長には悪いけどさぁ、こっちも誠意を見せてもらわないと。まぁ美冬ちゃんは高学歴ばかだから、誠意って言ってもわかんないか」
直接俺の家に謝りに来るくらいの誠意を見せてくれるなら考えてあげるけど。
最後の一言は田中と美冬にだけ聞こえるように言って、前田は大股に店を去った。
前田の姿が見えなくなると、急いで他のスタッフが飛んできて、砕けたグラスを片付ける。みな一様に、美冬に対して同情的な視線を向けていた。
(これはどうも、前々から粘着されてたみたいだな…。)
学歴や人格にまで踏み込んだモラハラ、パワハラ。他のスタッフを寄せ付けない雰囲気は、今日始まったものとは思えなかった。
前田を玄関口まで見送って、戻ってきた田中に、美冬は泣きそうな顔で頭を下げた。
「店長、すみません…」
「大丈夫?まぁ、裏で話そうか」
2人は人目を避けるように、バックヤードに消えていった。
(なるほど。こうやって粘着されて言いがかりをつけられて、美冬が家まで謝罪に行って、そこで何かがあって、かっとなって殺してしまったってわけか…。)
ここまで追い詰められていたのならそういうことも十分起きうるだろう、と木菟は納得した。
ただ、本当に美冬が前田を殺したのかは分からない。美冬が前田殺しの犯人で、自棄になった美冬が店に火を放ったのかもしれないし、美冬は実際には前田を殺しておらず、容疑者扱いされたことに腹を立てた美冬が店に火を放ったのかもしれない。何にせよ、前田とのこの諍いは、最終的に田中の殺害に至る階段の最初の一段だったといえる。ここの対応が重要だ、と木菟は思った。
(とにかく美冬に恨まれるような展開は避けたい。直接謝罪に行かせないこと、あとはクビにしないこと…分かってるんだろうな、田中は!)
木菟は田中と美冬について、バックヤードに向かった。
◆◆◆
木菟がバックヤードに入っていくと、2人は向かい合って座って話しているところだった。
「…かえって悪かったね。俺がさばければよかったんだけど」
「そんな、店長、すみません…。私のせいで、出資の話が」
「うーん、俺はただのやとわれ店長だから、それはどうでもいいと言えばいいけど。」
苦笑する田中。美冬はしゅんとした。
「やはり私、謝りに行かなきゃだめでしょうか…」
「え?行かなくていいよ。俺が代わりに行っておくから」
(よし!いいぞ田中!)
木菟は田中の発言に大きく頷いた。これで美冬が前田を殺す可能性が減り、巡り巡って田中が殺される可能性も減る。また田中の肩を持ってしまっているな…と気づき、木菟はぶるぶると首を振った。
もちろん、木菟の動揺などどこふく風で、2人の会話は続いていく。
「でも前田さん、私が直接謝りに来いって。古見オーナーだって前田さんの言いなりだし。前田さんがそうしろって言ったら、きっと古見オーナーも…。」
(いいって!行ったら殺しちまうんだから!黙って田中に行かせとけばいいんだよお前は!)
当然、木菟の心の叫びは2人には聞こえない。
「行かなくていい。」
目に涙を浮かべる美冬を、じっと見て、田中は告げた。
「あと、君は、今日限り解雇だ。」
唐突な宣言。美冬の瞳が、驚愕に見開かれた。
「ちょ、ちょっと待て!クビにしてどうするんだ!」
思わぬ展開に、木菟が叫ぶ。美冬には当然ながら、聞こえない。今度は田中には聞こえているはずだが、田中は木菟の方を見もせずに、美冬に言い放った。
「オーナーには、俺の判断で解雇にした、と伝えておくから。いいね。」
「で、でも、アパートが…。」
ポロリ、と本音が出た。美冬はオーナーのつてでアパートを借りているので、店を解雇されるということは、同時に住居を失うことを意味する。おそらく、前田のいじめに耐えていた理由もそれだろう。
だが、田中は全く取り合わずに、言った。
「前田様にあれだけ睨まれたら、うちではもう無理だ。分かってるだろう。
「店長、すみません、私…。」
「今日ももうフロアに出なくていい。帰りなさい。」
立ち去ろうとする田中に、美冬が追いすがる。目にうっすらと涙を溜めていた。
「別のところを探した方がいい。君はここにいない方がいい」
そんな美冬の方を見ようともせず、うむをいわさず言い切って、田中は厨房に戻っていった。
項垂れる美冬と、あっけにとられる木菟だけがバックヤードに残された。
木菟は昨日に引き続き、店の片隅に座り込んで、店の様子を観察していた。
客は、カップルや友人の2人連れが多い。サラリーマンもいるが、仕事終わりに一杯引っ掛けにくる…というよりは、それなりにきちんとした身なりをして訪れ、静かに料理と酒を楽しんでいる印象だ。がやがや騒ぐ客もなく、静かなものだが、高級料理店のような敷居の高さは感じさせず、あくまでアットホームな雰囲気だった。
(<死に戻り>前に、トラブル客の中年男性の焼死事件が起きるのは明日。ということは、何かトラブルが起こるとすれば、今日のはずなんだが…。)
木菟がじっと見ていると、フロアに新しく男性客が入ってきた。田中より少し年上に見える。スーツではないものの、物の良さそうなジャケットを着ている。厨房から見ていたのか、田中が飛び出すようにフロアに出てきた。対応しようとする美冬を目顔で制し、田中が直々に対応した。
(あれが美冬と揉めたっていう客か…?)
木菟の予想は的中した。
「いらっしゃいませ、前田様。」
田中の丁寧な挨拶に片手を挙げて答えながら、前田は粘っこい目でフロアを見回した。
「あれぇ、今日オーナー来てないの。おかしいなぁ、今日8時から呑もうって言ってたのに。」
「古見より、少し遅れると言付かっております。先にお席にご案内します。」
古見というのがオーナーで、前田はオーナーの友人らしい。田中に昨夜聞いたところによると、この店にも出資をしているという。
(オーナーの友人兼共同経営者と揉めたら、まぁ、クビも致し方ないのか…としても、ここからどうやってトラブルが起きるんだ?)
田中がフロアを横切るような形で、前田を窓際の席まで案内する。その間、フロアを挟んで対角線にいる美冬に、前田がちらりと目線をやった。
かなりねちっこい、意味ありげな視線だった。美冬が目礼すると、前田は、にぃと口角を上げる。まるで、獲物を見つけた爬虫類のようだ…と木菟は思う。一瞬、美冬の顔がこわばった。
田中がオーダーをとる間も、前田は美冬から目を離そうとしない。美冬の体がますます固くなる。
(…?)
木菟が訝しがりながら見守っていると、オーダーを終えた前田が、唐突に切り出した。
「いやぁ、店長の料理は最高だよね。今日のメシは店長に作って欲しいなぁ。」
「は、ありがとうございます。ですが私が今から作るとなりますと、少しお待たせしてしまうかもしれませんが…。」
遠回しに断ろうとする田中。前田と美冬を近づけないよう、古見オーナーが来るまで前田に付きっきりでいようという意図だろう。が、前田はしつこく食い下がった。
「いいよ、俺出来るまで待ってるから。どうせ古見ちゃんも遅れるんでしょ。」
オーナーとの親しさを前面に出してくる。あきらめた田中が厨房に下がるのを見送ってから、前田は、フロア内で最も遠くにいる美冬をわざわざ手招きした。他のスタッフがかけよろうとするのを前田自身が手で制し、「美冬ちゃーん」と猫撫で声で呼ぶ。美冬がこわばった笑顔を浮かべながら、前田の席へと向かった。
(これはまずいぞ…。)
木菟ははらはらしながら、前田と美冬を見守る。
「ねぇ、このグラス汚れてるんだけど。交換してくれない?」
美冬が前田のテーブルの傍らに立つなり、前田はお冷の入ったグラスを持ち上げ、美冬をねめつけた。木菟の位置からは遠くてよく分からないが、照明が反射してきらきら光るグラスは、特に不潔そうには見えない。そもそも汚れに気づいたなら、お冷をサーブした田中に直接言えばいい話だ。言いがかりをつけようとしているな、と傍目で見ている木菟にも分かる。ホール内の他のスタッフも、そわそわしながら2人の方を見ている。
「申し訳ありません、すぐ取り替えますので…。」
だが美冬は、特に反論もせず、素直に頭を下げた。グラスを受け取り、足早に立ち去ろうとする。前田はそれを許さず、さらに追撃した。
「ねぇ、ちゃんと洗ってるのかなぁ。」
「も、申し訳ありません…。」
前田は、はぁ、と聞こえよがしにため息をついて見せた。
「美冬ちゃんはいい大学出てるかもしれないけど、仕事は全然できないよね。あ、先生になるような人は、
飲食なんてやってられないか。ばかばかしいと思ってるでしょ?コップ洗ったり、食事運んだりさぁ。」
前田も美冬がこの店で働いている事情を知っているのだろう。あまり触れられたくないであろう部分を、わざとらしくずけずけと指摘した。少しずつ、美冬の声が小さくなる。
「そんな、思ってません…。」
「え?思ってるでしょ。それとも何、俺が低学歴だから分からないと思ってばかにしてるの?」
「ばかにしてるなんて、そんなことありません…。」
「じゃあ俺の言う通りだよね。美冬ちゃんは飲食なんかばかばかしいって思ってるんだ。仕事できないくせに。」
「はい…いえ…申し訳ありません…」
「え、今はいって言った?信じられない、本当に思ってるんだー。」
「…。」
愉快そうな前田。美冬はついに黙り込んだ。
(これはトラブルというより…。)
前田が美冬に一方的に絡んでいるだけではないか。無関係な木菟の目から見ても胸が悪くなるような光景だった。美冬、周りのスタッフの様子を見るに、今日に始まったことではないようだ。誰も助け舟を出そうとしないのは、保身のためか、そうするとさらに事態が悪くなるせいか。頼みの田中は厨房に行ったっきり、目の届くところにいない。
「はぁ、本当にだめ人間なんだね、美冬ちゃんは」
そのとき、ねちねちと言葉でのいたぶりに終始していた前田の手が、美冬の方に伸びた。
「やめてください!」
その指が美冬の腰に触れた瞬間、美冬が前田の手をはたいた。
前田は大げさに手を引っ込める。水の入ったグラスが足元の床に落ち、砕け散った。中の水がこぼれて、前田のズボンの裾と靴を濡らす。
「いった!なにすんだよ!」
前田が大声を出すと、フロアの客が一斉に美冬の方を振り向いた。
「どうしましたか?」
ようやく出来上がったらしい料理の小鉢をもって、田中が席に現れた。
「この女に叩かれて、水かけられたんだけど!お宅の社員教育はどうなってんの?」
なおもフロア中に聞こえるような大声で、前田は言いつのった。
「わたし、水かけたわけじゃ…今この人が触って。」
「触るわけないだろ、こんなブス女。勘違いもいいとこだよ、ねぇ店長…ああ気分が悪い。やめだ、やめやめ。」
前田は濡れたズボンをおしぼりで拭きながら、なおも続ける。
「店長は知ってると思うけど、今日の古見ちゃんとの話は2号店に向けた増資の話だったわけ。でもこんな店員がいるんじゃ、俺もう金出す気になれないわ…。」
「申し訳ありません、前田様。わたしからきちんと言っておきますので」
頭を下げる田中を無視して、前田が席を立つ。
「店長には悪いけどさぁ、こっちも誠意を見せてもらわないと。まぁ美冬ちゃんは高学歴ばかだから、誠意って言ってもわかんないか」
直接俺の家に謝りに来るくらいの誠意を見せてくれるなら考えてあげるけど。
最後の一言は田中と美冬にだけ聞こえるように言って、前田は大股に店を去った。
前田の姿が見えなくなると、急いで他のスタッフが飛んできて、砕けたグラスを片付ける。みな一様に、美冬に対して同情的な視線を向けていた。
(これはどうも、前々から粘着されてたみたいだな…。)
学歴や人格にまで踏み込んだモラハラ、パワハラ。他のスタッフを寄せ付けない雰囲気は、今日始まったものとは思えなかった。
前田を玄関口まで見送って、戻ってきた田中に、美冬は泣きそうな顔で頭を下げた。
「店長、すみません…」
「大丈夫?まぁ、裏で話そうか」
2人は人目を避けるように、バックヤードに消えていった。
(なるほど。こうやって粘着されて言いがかりをつけられて、美冬が家まで謝罪に行って、そこで何かがあって、かっとなって殺してしまったってわけか…。)
ここまで追い詰められていたのならそういうことも十分起きうるだろう、と木菟は納得した。
ただ、本当に美冬が前田を殺したのかは分からない。美冬が前田殺しの犯人で、自棄になった美冬が店に火を放ったのかもしれないし、美冬は実際には前田を殺しておらず、容疑者扱いされたことに腹を立てた美冬が店に火を放ったのかもしれない。何にせよ、前田とのこの諍いは、最終的に田中の殺害に至る階段の最初の一段だったといえる。ここの対応が重要だ、と木菟は思った。
(とにかく美冬に恨まれるような展開は避けたい。直接謝罪に行かせないこと、あとはクビにしないこと…分かってるんだろうな、田中は!)
木菟は田中と美冬について、バックヤードに向かった。
◆◆◆
木菟がバックヤードに入っていくと、2人は向かい合って座って話しているところだった。
「…かえって悪かったね。俺がさばければよかったんだけど」
「そんな、店長、すみません…。私のせいで、出資の話が」
「うーん、俺はただのやとわれ店長だから、それはどうでもいいと言えばいいけど。」
苦笑する田中。美冬はしゅんとした。
「やはり私、謝りに行かなきゃだめでしょうか…」
「え?行かなくていいよ。俺が代わりに行っておくから」
(よし!いいぞ田中!)
木菟は田中の発言に大きく頷いた。これで美冬が前田を殺す可能性が減り、巡り巡って田中が殺される可能性も減る。また田中の肩を持ってしまっているな…と気づき、木菟はぶるぶると首を振った。
もちろん、木菟の動揺などどこふく風で、2人の会話は続いていく。
「でも前田さん、私が直接謝りに来いって。古見オーナーだって前田さんの言いなりだし。前田さんがそうしろって言ったら、きっと古見オーナーも…。」
(いいって!行ったら殺しちまうんだから!黙って田中に行かせとけばいいんだよお前は!)
当然、木菟の心の叫びは2人には聞こえない。
「行かなくていい。」
目に涙を浮かべる美冬を、じっと見て、田中は告げた。
「あと、君は、今日限り解雇だ。」
唐突な宣言。美冬の瞳が、驚愕に見開かれた。
「ちょ、ちょっと待て!クビにしてどうするんだ!」
思わぬ展開に、木菟が叫ぶ。美冬には当然ながら、聞こえない。今度は田中には聞こえているはずだが、田中は木菟の方を見もせずに、美冬に言い放った。
「オーナーには、俺の判断で解雇にした、と伝えておくから。いいね。」
「で、でも、アパートが…。」
ポロリ、と本音が出た。美冬はオーナーのつてでアパートを借りているので、店を解雇されるということは、同時に住居を失うことを意味する。おそらく、前田のいじめに耐えていた理由もそれだろう。
だが、田中は全く取り合わずに、言った。
「前田様にあれだけ睨まれたら、うちではもう無理だ。分かってるだろう。
「店長、すみません、私…。」
「今日ももうフロアに出なくていい。帰りなさい。」
立ち去ろうとする田中に、美冬が追いすがる。目にうっすらと涙を溜めていた。
「別のところを探した方がいい。君はここにいない方がいい」
そんな美冬の方を見ようともせず、うむをいわさず言い切って、田中は厨房に戻っていった。
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