バカな男に騙された私が本当の自分を手に入れるまで

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第四話

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 男が立ち上がる。

 椅子の脚が床を擦った。
 きい、と乾いた音が鳴る。その一音を合図に、止まっていた世界が一斉に息を吹き返した。

 BGM。
 周囲の話し声。
 ミルクを泡立てる蒸気音。
 カップ同士が触れ合う、かすかな陶器の音。

 さっきまで遠のいていたすべてが、急に現実の重さを取り戻す。
 私だけが、水の底に置き去りにされたままだ。

「説明したし、もういいだろ」

 男の声は、もう私に向いていない。
 視線は女。外。次の予定。
 話し終えたというより、処理を終えたという言い方だった。

 私は、役目を終えた書類みたいに扱われている。
 確認され、分類され、必要ないと判断され、机の隅に置かれた紙切れ。

 女も立ち上がる。

 上着を羽織る。
 肩に布を通し、袖に腕を通し、裾を整える。
 その一連の動作が、腹立たしいほど滑らかで、無駄がない。

 立つこと、去ること、選ばれること。
 すべてに迷いがない。

 女は最後に、私を見る。
 ほんの一瞬。

 そして、微笑む。

「次はさ」

 声は甘い。
 角がない。だから刺さる。

「自分の値段、考えてから恋した方がいいよ」

 値段。

 言葉が、皮膚の内側に張りつく。
 剥がそうとしても、剥がれない。

 男がドアを開ける。
 外の音と冷気が、一気に流れ込む。

 二人は並んで出ていく。

 女の髪が、男の肩に触れる。
 男の手が、迷いなく女の腰に戻る。

 その距離が、あまりにも自然だった。
 最初から、そこにあるべき形みたいに。

 ドアが閉まる。

 音が断たれ、私は、まだ座っている。

 冷めきったラテ。
 わずかに歪んだ椅子の脚。
 ガラスに映る、輪郭の薄い自分。

 財布。
 枠。
 才能。
 値段。

 言葉が、景色に貼りついて、剥がれない。

 泣きたい。
 でも泣いたら、私の負けが確定する気がして、涙が出ない。

 怒りたい。
 でも怒ったら、この二年間の自分を、
 「見る目がなかった」と、自分で断罪することになる。

 じゃあ、どうする。

 ——分からない。

 頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
 音が多すぎる。
 匂いが甘すぎる。
 照明が明るすぎる。

 世界が、私の感情を無視して続いている。
 それがいちばん辛い。

 周りの人は笑っている。
 カップを持ち上げ、スマホを構え、日常を続けている。

 私だけが、席に取り残されて、
 少しずつ透明になっていく。

 財布。

 財布って、そういうことだ。
 人じゃない。
 中身のある物。
 持ち歩く物。
 必要なときに開いて、用が済んだら閉じる物。

 私はカップに触れる。
 冷たい。

 その冷たさが、今の自分の体温みたいだった。

 息を吸う。
 甘い匂いが肺に入り込み、喉が詰まりそうになる。

 立ち上がろうとする。
 足に力が入らない。

 身体が、重い。
 それなのに、どこか軽い。

 芯だけが抜け落ちて、
 支えを失ったみたいだ。

 鏡を見るみたいに、ガラス越しの自分を見る。

 薄い。
 輪郭が、薄い。
 存在そのものが、薄い。

 ここで「生まれ変わる」とか、
 「作り替える」とか、
 そんな綺麗な決意は出てこない。

 今の私に、そんな強さはない。

 あるのは、ただ一つ。

 ——このまま、ここに居たくない。

 その感覚だけが、喉の奥で熱を持つ。

 私は椅子の背に指をかけ、ゆっくりと立ち上がる。

 椅子の脚が、また床を擦る。
 その音が、自分の弱さみたいで、嫌だった。

 出口へ向かう途中、
 ガラスの外に、駅前の大型ビジョンが見える。

 化粧品の広告。
 笑っている女の顔。
 均一で、眩しくて、完璧な肌。

 その笑顔が、私を見下ろしているように見えて、
 喉の奥が、ひくっと鳴った。

 ……ああ、そうか。

 私、今。

 世界中から、
 「お前は違う」
 って言われている気がする。

 違う。
 違う。
 違う。

 言葉にならないまま、胸の中が黒く濁っていく。
 怒りとも、悲しみとも、恥ともつかない、
 ひどく汚れた感情。

 私はドアを押す。

 外の冷気が、頬に刺さる。
 息が、白くなる。

 駅前の雑踏が、今度ははっきりと聞こえる。
 足音。
 笑い声。
 車の音。

 世界は回っている。
 私の二年間なんて、何の引っかかりにもならない速さで。

 ——どこに行けばいい。

 分からない。

 でも、ここには居られない。

 私は歩き出す。
 早くもない。
 速くもない。

 ただ、止まるのが怖くて、
 足を前に出す。

 ガラスに映る自分が、歩道に沿って流れていく。

 輪郭の薄いまま、
 駅の光に、静かに飲み込まれていった。
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