戦国姫城主、誾千代の青春

万卜人

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第二章 切支丹大名

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 立花城に帰着した道雪は、終始ずっと上機嫌だった。
 丹生島城で聟の彌七郎が披露した、我が戦いを生き生きと活写されて、機嫌が悪くなろうはずが、なかった。
「聟殿は、孫子の兵法はおろか、六韜りくとうまで学んでおられると聞くぞ。将来、聟殿と戦場に居合わせる時節が楽しみじゃ!」
「父上、兵法の書を学んだだけで、戦いができるものでしょうか?」
 部屋で落ち着いた誾千代は、真っ直ぐ道雪に質問した。道雪は、よほど彌七郎に惚れ込んでいる様子だった。
 道雪は「ふむ」と一つ頷くと、腕を組んだ。
「それは、できまいの。書物で学んだだけで、百戦錬磨の侍たちを、統率は、できまい。やはり、実際に戦場に身体を晒して、呼吸を飲み込む必要がある」
 冷静に評価したが、すぐに笑顔になった。
「じゃが、勘だけで戦いができるものではない。勘だけで戦いに勝利しても、長い目で見れば、危うい勝利だ。戦いになぜ勝利できたか、それは、危うい勝利か、楽な戦いだったか、冷静に分析できれば、次の戦いに活かせよう。あれほど兵書を究めた御仁じゃ。いずれは、聟殿は、日の本一の、侍大将になってくれるかも、しれぬ!」
 誾千代は、道雪に、彌七郎の心を読み取った結果を告げようと考えていた。が、諦めた。道雪がこれほど聟に期待している今は、何を言おうと、無駄だろう。
 そもそも道雪は、誾千代の他人の心を読み取る能力を、唯の一度も利用しようとしなかった。
 誾千代が「家臣の誰それが、こんな考えを抱いております」と報告しようとしても、すぐに遮り、耳に入れようとはしなかった。
 知ると、道雪自身の態度が変化し、知った知識を前提に行動すると、家来たちを統御できないと、考えているようだった。
 家来の心は、家来のもの。「面従腹背めんじゅうふくはい」こそが望ましいと、道雪は誾千代に語ったものだ。行動こそが総てで、忠義の行動をとる限り、道雪は他人の心まで統制する必要は、感じていないらしい。
 その夜、誾千代は湯浴みをした。
 旅塵を落とすため、専用の湯殿に入り、桶にたっぷりと湯を用意させた。
 この時代、風呂桶はまだ普及していない。風呂といえば、この時代は蒸し風呂で、蒸気を充満させた小部屋で汗を流す形式が普通となる。
 しかし湯船に身を沈める習慣はなかったわけでなく、誾千代は大きな桶に湯を張って、そこに身体を浸からせるほうが、好みだった。
 たっぷりとした湯に、身を浸す喜びは、何事にも替えがたい贅沢だった。領主の娘という立場でなければ、味わえない悦楽だろう。
 誾千代の身の回りを世話する侍女たちが、湯殿で誾千代の全身を洗い上げた。糠袋で擦る方式が一般的だが、油を塗り込み、灰を振り掛ける、なども知られていた。
 偶然だが、油にアルカリは、石鹸の製造過程と似ている。こちらは、多くは髪を洗う場合に使われた。
「姫様は聟殿にお会いになられたのでしょう? どのような、殿方だったのです?」
 侍女たちは、好奇心を剥き出して、誾千代に口々に問い掛けた。誾千代は、侍女たちの好奇心に当惑した。
 どう、答えれば侍女たちが満足するのだろう。侍女たちの心を読むと、半分は誾千代の幸せを喜んでいるが、半分は十四歳で嫁する誾千代に対し、同情心も含まれているようだった。
 侍女たちは、話だけで聞く彌七郎を、絵巻物に登場するような、凛々しい若者に想像していて、それが誾千代には可笑しく思われた。
「父上は、大変、彌七郎殿をお気に入りの御様子です」
 誾千代は結局、当たり障りのない答をした。彌七郎が夢想する破廉恥な空想を、ここでぶちまけても、侍女たちは困惑するだけだろう。
「それは、よう御座いました。何より、道雪殿が認める聟殿なら、上手く行きましょう」
 侍女たちは誾千代の答に、満足したようだった。誾千代は、あからさまに説明できない現状に、もどかしさを感じていた。
 湯浴みして、さっぱりすると、誾千代は新しい夜着に着替え、寝所に向かった。
 人払いして、いつものように、小机の下から喫煙具を取り出すと、誾千代は就寝の儀式を始めた。
 煙管に煙草を詰め、絶やさず熾している炭火に煙皿を近づけた時、誾千代の手が止まった。
 薄闇に目を懲らし、誾千代は小声で呼び掛けた。
「佐田彦四郎! また参ったのか?」
「左様……。姫様には、我が忍びの技は無駄というもの……。今、推参いたす!」
 声がして、すとりと軽い足音がして、いつか見たすらりとした全身が、誾千代の目の前に顕わになった。
「御婚約、まずは、お祝いを申し上げる」
 彦四郎はわざとらしく一礼して、顔を上げた。言葉つきは丁重だが、顔つきは面白がっている。
 誾千代は、かつん! と音を立てて煙管の先を打ち付けると、顔を背けた。
「目出度くなど、軽々しく申すな!」
 彦四郎はちょっと、首を傾げた。
「おや、なぜで御座る?」
 誾千代は、きっと彦四郎を睨んだ。
「彦四郎! お主は忍者であろう? どうやら、ここ立花城だけでなく、あちらこちらの城に潜んで色々嗅ぎ回っておるのでは、ないのかな? ならば、彌七郎殿についても、様々と見知っておるに違いない。違うか?」
 彦四郎はすっかり緊張を解いた様子で、誾千代の近くにどっかりと胡坐を掻き、腕組みをした。まるで自宅に居るような態度に、誾千代は密かに呆れた。
 どこまで図々しいのだ、この盗賊は!
「まあ、誾千代姫の仰る話は、だいたい当たって御座る。拙者、姫の仰るように、あちらこちらの城に潜んで御座る。彌七郎殿の日常についても、色々と見知って御座る」
 彦四郎の言葉に、やたらと「御座る」が連発した。まさに、奥歯に物が挟まったような言葉遣いだった。
 誾千代は、彦四郎の心に探りを入れた。表面上は、立花城内側の構造についての知識が浮かんでいて、常にどこに勤番侍が常駐し、警備はどうなっているか、などが意識に登っているが、その奥にもう一つ、隠された意識を感じられた。
 彦四郎の心の仕組みに、誾千代は舌を巻く思いだった。このような感触は、初めての経験だった。
 誾千代は彦四郎の奥深く、隠された意識に踏み込もうと、精神を集中させた。
「姫様。無駄で御座る」
 気がつくと、彦四郎は誾千代を前に、両目を半眼にしていた。なぜか彦四郎の表情は、仏像を思わせた。
「拙者は、姫様のように他人の心を読み取る力を持つ術者に対抗する技を、習得して御座る。拙者の秘められた想念は、姫様には読み取れまい」
 誾千代の頬に、かっと血が昇った。
「何を隠すのじゃ? 彦四郎、お主の真の雇い主は誰なのじゃ。なぜ、妾の前に、姿を表現した! お主の目的を、明白にせよっ!」
 矢継ぎ早に質問を投げ掛ける誾千代に対し、彦四郎は憐れむような表情を浮かべた。
「他人の心を暴く技を持つ者は、たいてい自身の力に過信してしまう過ちを犯す。他人の心が、術者が思うより遙かに複雑なのだが、それに気付かぬ場合が多いのだ。それを承知しておらないと、大火傷を負いますぞ」
「何を申すのかっ!」
 誾千代は怒りのあまり、叫ぶと、一っ飛びに、彦四郎に向かって襲い掛かった。内懐に携帯している懐剣を抜き放ち、真っ直ぐ斬りかかった。
 常日頃から誾千代は、剣の稽古を欠かしていない。甚兵衛との朝稽古は止めているが、素振りなどの鍛錬は続けている。
 通常なら、誾千代は一太刀で、彦四郎を斬って捨てていただろう。
 だが、彦四郎も素早かった。
 胡坐を掻いた姿勢から、そのままの態勢でぴょん、と三尺も飛び上がり、誾千代の剣先をかわした。驚くべき体術だった。
 伸ばしきった誾千代の腕を抱え込むと、ぐいっと彦四郎は捩じ上げた。
 痛みに、誾千代は思わず、握り締めた懐剣を取り落とした。
「何とお転婆な姫御前じゃ! このような駻馬は、きつく仕置きせねばな!」
 彦四郎は誾千代を上から押さえ込み、大きく空いた片手を上げた。
 何をするつもりだろうと誾千代が怪しむ暇もなく、彦四郎は大きく開いた平手で、誾千代の尻を、ぱあんっ! と音高く叩いた。
 痛烈な痛みに、誾千代は心底から仰天した。
「姫様は幼い頃、尻を叩かれてはおらぬかな? たいていの親は、子供が悪さをしたら、思い切り、尻を叩くものじゃが」
「ないっ! 父上は、一度たりとも、妾に手を上げた仕打ちはせぬ! それを……それを……他人の盗賊が……!」
 悔しさに、誾千代の目に涙が溢れた。
 ふっと、彦四郎の腕が、誾千代から離れた。
「いずれ姫様は、御自分と同じような術者に出会われるであろう。この彦四郎が、姫様が出会われるよう、御手配をば申し上げる。その時まで、暫し、お別れで御座る」
 するすると、彦四郎は誾千代の顔を見詰めたまま、後じ去った。以前のように、彦四郎の身体が闇に溶け込んでゆく。
 追い掛けようと誾千代は立ち上がった。だが、すでに彦四郎の気配は、微塵も感じなかった。
 見事なほどの、穏形だった。
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