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第六章 上洛
一
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船端に立つ、誾千代の隣に控えた甚兵衛が腕を挙げ、厳かに言上した。
「姫様、あれに見ゆるは、堺の港で御座りまする」
甚兵衛の言葉に、誾千代は無言で頷いた。甚兵衛が指差した先に、目指す堺の港が近づいた。誾千代は、堺港なら、南蛮船が停泊して、南蛮人も目にできると思っていたが、生憎、眼前の船溜まりに舫っている船は、総て普通の関船ばかりたった。
近づく堺港は、西からの夕日を浴び、桟橋や、建物は真っ赤に映えていた。
甚兵衛の隣で、堺港を見詰める誾千代の姿は、革の陣羽織に、半袴、腰には大脇差を佩き、癖の強い髪の毛はきりりと後頭部でまとめた、男装をしている。
誾千代、彌七郎一行は、関船に乗り、瀬戸内海を避け、四国を南下し、大回りをして堺へと船路をとっていた。
この時代、陸路を東へ向かうのは、様々な危険が伴った。何より、中国路は毛利の領土であり、言うまでもなく毛利は、主筋である大友氏と敵対をしていた。陸路のみならず、海路も、瀬戸内海は、毛利と近い村上水軍が支配しているため、四国を南下したのだった。
甚兵衛が、誾千代の顔を覗きこむような仕草になり、耳に口を寄せて囁いた。
「姫様、彌七郎殿には御報せなさらなくとも、よろしいので?」
「よい。聟殿は御加減が悪いのじゃ。そっとして差し上げればよい!」
誾千代は、甚兵衛にそっぽを向いたまま答えた。話題が彌七郎におよぶと、ついつい、口調がぞんざいになる。
彌七郎は確かに体調不良だった。詳しく説明すると、この船旅が始まった当初から船酔いに罹り、船室に引っ込んだままだった。船端に姿を現すのは、一日に数度、排泄のため尻を海面に突き出す時ばかりで、後はだらしなく横臥したまま、一日を過ごしていた。
誾千代はこの船旅が始まると同時に、姫らしい内掛けを脱ぎ捨て、男装にしていた。
誾千代が男装にしているのは、動きやすいからという理由もあったが、彌七郎が狭い船の中で、やたら接近してくるのが、鬱陶しかったからでもあった。誾千代が男の格好をしていると、彌七郎は怖れて近寄らない。
誾千代らが船上にいる間、上方では事態がどしどし急展開しているはずだったが、四国を南下しているため、ほとんど情報が入って来なかった。
信長を討った日向守光秀が、中国路を取って返した筑前守秀吉に滅ぼされたまでは、誾千代は承知しているが、その後どうなったか、さっぱり情報が手に入らなかった。瀬戸内海を東上したならば、もう少し、詳しい情報が耳に入った可能性があったかもしれないが、生憎、四国の各地にいる有力者たちは、中央での変報には、あまり敏感ではなさそうで、逆に誾千代らの言葉で、織田信長が殺された事実を知るほどだった。
堺へ到着したならば、その後、事態がどう進展したか、確報が手に入るはずだ。堺は、天下でも珍しい、商人の町だ。商人は常に、最新の情報を手に入れるため、懸命になっている。大友宗麟は、堺の商人とは、硝石などの取り引きで、良好な関係を築いていた。その縁で、誾千代たちも、詳しい事情を、受け取れるだろう。
誾千代の乗った船が近づくと、桟橋で人の動きが慌しくなった。船の水主たちは、横付けするため、船上を声を掛け合い、忙しく働いている。
それらの動きをぼんやりと見ていた誾千代は、隣に立つ甚兵衛の視線に気付いた。横目で見返すと、甚兵衛の瞳に不安そうな色が浮かんでいた。
「いかが致した?」
問い掛けると、甚兵衛は目を逸らした。
「いや、御気分がすぐれないよう、見受けられ申したので……」
「よい。案ずるでないぞ」
素っ気無く誾千代は答え、再び堺の港に視線を戻した。
実を言うと、甚兵衛の不安は当たっていた。誾千代は堺の町が近づくにつれ、気分を悪くしていた。本音を言えば、一刻も早く、逃げ出したい気分だった。
何しろ堺は、誾千代が初めて知った、大規模な人口の集中地だった。これほど沢山の人々が、一箇所に集中している町に近づいた経験は、誾千代にはなかった。
町に近づくと、一種異様な波動が、誾千代の心を打った。数え切れない人間が活動する、思考の波が、一遍に誾千代の心に襲い掛かってきて、誾千代は眩暈すら、感じた。急いで自分の心に蓋をしたが、それでも蓋の外側から、無数の心が触れてきて、誾千代は必死に平静を装う必要があった。
「やあ! これが堺の町で御座るか? 聞きしに勝る、繁華な場所で御座りますなあ」
誾千代の背後から、やたら陽気な声が上がった。
身をひねって誾千代が振り返ると、コゲラの重蔵が背筋を伸ばして、物珍しそうに船端から身を乗り出して堺の町を覗きこんでいた。今日の重蔵は、糊のきいた新調の小袖に、黒く染め上げた陣羽織を羽織って、茶筅髷は新しい木綿の布できりりと締め上げ、堂々たる押し出しの侍大将といった姿をしていた。
事実、重蔵は秋月との一戦により功を認められ、足軽大将と出世しているため、今の姿は当然といっていい。第一、これまで「コゲラの重蔵」という通り名では具合が悪いと「コゲラ」を「小倉」にあらため「小倉重蔵」と名乗っている。
重蔵が誾千代らの上洛の一行に加わっているのは、彌七郎の要請による。というより、重蔵が彌七郎に働きかけ、強引に加わった結果だ。重蔵は今回の上洛に加わることにより、さらなる出世を狙っているらしい。
誾千代は重蔵が彌七郎の身の回りの細々とした世話を買って出て、かえって助かったと思っているから黙認していた。が、甚兵衛はもともと苗字ももたない足軽の身分の重蔵に対し、あまり好意は持っていないらしい。甚兵衛の重蔵に対する視線は、冷たいものが含まれていた。
桟橋での人々の声が届き始め、甚兵衛は重蔵から視線を誾千代に戻し、眉を顰めた。
「姫様、あの者らは、何を口にしておるので御座いましょうか?」
甚兵衛の顔には、当惑が滲んでいた。
誾千代もまた、耳に届く聞きなれない音声に、戸惑っていた。
「なあーはまお、あなーがえとー、うーんねほつかけねへんでへんどえも……!」
桟橋に立つ、上半身裸の男たちの喚き声はこう聞こえたが、さっぱり聞き取れなかった。
誾千代は、男たちの脳裏に浮かぶ映像を読み取り、甚兵衛に教えてやった。
「どうやら、舫を投げないと、こちらの船を横付けできぬと、申しておるようじゃな」
「はあ、左様で……」
甚兵衛は意外そうな表情になって、頭を掻いた。
誾千代と甚兵衛の会話を耳にした重蔵は、身軽に動くと、船上の水主を指揮して舫を桟橋へ投げおろした。舫を受け取った男たちが、手早く誾千代の船を停泊させるべく、きびきびと立ち働いた。
作業の様子を見守りながら、ここは上方なのだ、と誾千代はしみじみと思った。
誾千代も、甚兵衛も、生まれてからずっと、一歩も筑前国の外に出た経験はなく、他国人と交渉する機会もなかった。当然、上方の言葉にも慣れず、まるで唐国か、南蛮国の言葉のように聞こえたのだ(もっとも、誾千代は唐、南蛮の言葉など知らないが)。
船着場にいた男たちが、誾千代を指差し、何事か声を掛け合っている。おそらく男装の誾千代を見て、男なのか、女なのか言い合っているのだろう。貴人に対し、指差すなど、無礼極まりないが、この町ではその辺りがどうやら、当たり前らしい。
「京に着いたのか……」
ひょこひょこと、上体を揺らしながら、彌七郎が姿を現した。顔色は蒼白だったが、やっと揺れない地面に降りられるとばかりに、瞳には期待が踊っていた。
「殿、ここは堺で御座る」
甚兵衛が答えると、彌七郎はかくっと、顎を上げて、不満げな表情を浮かべた。
「何だ、まだか……。いつ、儂らは京へ到着するのじゃ?」
彌七郎の言葉に、甚兵衛は四角四面の口調で答えた。
「今日は遅う御座る。すでに夕刻に相成り、もうすぐ日が落ちまする。今夜は宿を取り、明日より事情を探索し、その後、淀川を上る予定で御座ります」
甚兵衛の言葉に、彌七郎はがっかりとした顔つきになった。肩が落ちて、ゆるゆると顔を左右に振った。
「川を上ると申したか? まだ、船に乗るのか?」
彌七郎が追い被せると、甚兵衛は眉を八の字に上げて見せた。
「それが、その……まず、京を目指すべきかどうか、まだ判りませぬ。何より、筑前守様がどこにおわすか、見当もつきませぬからな。まず、情勢をじっくりと見極める必要が、御座ろう……」
分別をわきまえた甚兵衛の言葉だったが、彌七郎は駄々をこねる幼児のように、壮んに地団太を踏み、船板を踏み締めた。
「厭じゃ! 厭じゃ! すぐ、京へ参るのでなくては、儂は我慢ならぬ! 儂は、どうしても、京見物をするのじゃ!」
誾千代は心底、呆れ果てた。彌七郎の頭の中には、宗麟から委ねられた任務は、すっかり抜け落ち、あるのは、単なる子供じみた、京見物への期待だけだった。
気付くと、桟橋近くで人が立ち止まり、船を見上げてお互い指を差し、何か囁き会っている。
誾千代の心を覗く能力を使わなくとも、彌七郎の狂態に、好奇心が刺激されている様子は、はっきりと見て取れた。誾千代は、何とかしなければと思った。
「彌七郎殿……」
誾千代は、飛びっきりの笑顔を作り、猫なで声になって話し掛けた。いつもの切り口上で話しかけたら、彌七郎は怯えてしまうだろう。
「京見物もよろしゅう御座いますが、まず、その前に堺見物をなされませ。堺は天下の珍宝、奇物が集まる町で御座いますぞ」
誾千代の言葉に、彌七郎の瞳がきらっと輝いた。確かに心を動かされている。
「左様で御座いますとも!」
甚兵衛が賛意を示し、言葉を重ねた。
「堺は、有数の鉄炮鍛冶が集まる場所でも、御座ります」
「鉄炮!」
彌七郎はぴょん、と一跳ねして叫んだ。
「見たい! 儂は、鉄炮を見たい!」
甚兵衛が幼児をあやすように、話し掛けた。
「それでは殿、堺で宿をとりますな?」
彌七郎は、こっくりと頷いた。
やれやれ、と誾千代は胸を撫で下ろした。
「姫様、あれに見ゆるは、堺の港で御座りまする」
甚兵衛の言葉に、誾千代は無言で頷いた。甚兵衛が指差した先に、目指す堺の港が近づいた。誾千代は、堺港なら、南蛮船が停泊して、南蛮人も目にできると思っていたが、生憎、眼前の船溜まりに舫っている船は、総て普通の関船ばかりたった。
近づく堺港は、西からの夕日を浴び、桟橋や、建物は真っ赤に映えていた。
甚兵衛の隣で、堺港を見詰める誾千代の姿は、革の陣羽織に、半袴、腰には大脇差を佩き、癖の強い髪の毛はきりりと後頭部でまとめた、男装をしている。
誾千代、彌七郎一行は、関船に乗り、瀬戸内海を避け、四国を南下し、大回りをして堺へと船路をとっていた。
この時代、陸路を東へ向かうのは、様々な危険が伴った。何より、中国路は毛利の領土であり、言うまでもなく毛利は、主筋である大友氏と敵対をしていた。陸路のみならず、海路も、瀬戸内海は、毛利と近い村上水軍が支配しているため、四国を南下したのだった。
甚兵衛が、誾千代の顔を覗きこむような仕草になり、耳に口を寄せて囁いた。
「姫様、彌七郎殿には御報せなさらなくとも、よろしいので?」
「よい。聟殿は御加減が悪いのじゃ。そっとして差し上げればよい!」
誾千代は、甚兵衛にそっぽを向いたまま答えた。話題が彌七郎におよぶと、ついつい、口調がぞんざいになる。
彌七郎は確かに体調不良だった。詳しく説明すると、この船旅が始まった当初から船酔いに罹り、船室に引っ込んだままだった。船端に姿を現すのは、一日に数度、排泄のため尻を海面に突き出す時ばかりで、後はだらしなく横臥したまま、一日を過ごしていた。
誾千代はこの船旅が始まると同時に、姫らしい内掛けを脱ぎ捨て、男装にしていた。
誾千代が男装にしているのは、動きやすいからという理由もあったが、彌七郎が狭い船の中で、やたら接近してくるのが、鬱陶しかったからでもあった。誾千代が男の格好をしていると、彌七郎は怖れて近寄らない。
誾千代らが船上にいる間、上方では事態がどしどし急展開しているはずだったが、四国を南下しているため、ほとんど情報が入って来なかった。
信長を討った日向守光秀が、中国路を取って返した筑前守秀吉に滅ぼされたまでは、誾千代は承知しているが、その後どうなったか、さっぱり情報が手に入らなかった。瀬戸内海を東上したならば、もう少し、詳しい情報が耳に入った可能性があったかもしれないが、生憎、四国の各地にいる有力者たちは、中央での変報には、あまり敏感ではなさそうで、逆に誾千代らの言葉で、織田信長が殺された事実を知るほどだった。
堺へ到着したならば、その後、事態がどう進展したか、確報が手に入るはずだ。堺は、天下でも珍しい、商人の町だ。商人は常に、最新の情報を手に入れるため、懸命になっている。大友宗麟は、堺の商人とは、硝石などの取り引きで、良好な関係を築いていた。その縁で、誾千代たちも、詳しい事情を、受け取れるだろう。
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それらの動きをぼんやりと見ていた誾千代は、隣に立つ甚兵衛の視線に気付いた。横目で見返すと、甚兵衛の瞳に不安そうな色が浮かんでいた。
「いかが致した?」
問い掛けると、甚兵衛は目を逸らした。
「いや、御気分がすぐれないよう、見受けられ申したので……」
「よい。案ずるでないぞ」
素っ気無く誾千代は答え、再び堺の港に視線を戻した。
実を言うと、甚兵衛の不安は当たっていた。誾千代は堺の町が近づくにつれ、気分を悪くしていた。本音を言えば、一刻も早く、逃げ出したい気分だった。
何しろ堺は、誾千代が初めて知った、大規模な人口の集中地だった。これほど沢山の人々が、一箇所に集中している町に近づいた経験は、誾千代にはなかった。
町に近づくと、一種異様な波動が、誾千代の心を打った。数え切れない人間が活動する、思考の波が、一遍に誾千代の心に襲い掛かってきて、誾千代は眩暈すら、感じた。急いで自分の心に蓋をしたが、それでも蓋の外側から、無数の心が触れてきて、誾千代は必死に平静を装う必要があった。
「やあ! これが堺の町で御座るか? 聞きしに勝る、繁華な場所で御座りますなあ」
誾千代の背後から、やたら陽気な声が上がった。
身をひねって誾千代が振り返ると、コゲラの重蔵が背筋を伸ばして、物珍しそうに船端から身を乗り出して堺の町を覗きこんでいた。今日の重蔵は、糊のきいた新調の小袖に、黒く染め上げた陣羽織を羽織って、茶筅髷は新しい木綿の布できりりと締め上げ、堂々たる押し出しの侍大将といった姿をしていた。
事実、重蔵は秋月との一戦により功を認められ、足軽大将と出世しているため、今の姿は当然といっていい。第一、これまで「コゲラの重蔵」という通り名では具合が悪いと「コゲラ」を「小倉」にあらため「小倉重蔵」と名乗っている。
重蔵が誾千代らの上洛の一行に加わっているのは、彌七郎の要請による。というより、重蔵が彌七郎に働きかけ、強引に加わった結果だ。重蔵は今回の上洛に加わることにより、さらなる出世を狙っているらしい。
誾千代は重蔵が彌七郎の身の回りの細々とした世話を買って出て、かえって助かったと思っているから黙認していた。が、甚兵衛はもともと苗字ももたない足軽の身分の重蔵に対し、あまり好意は持っていないらしい。甚兵衛の重蔵に対する視線は、冷たいものが含まれていた。
桟橋での人々の声が届き始め、甚兵衛は重蔵から視線を誾千代に戻し、眉を顰めた。
「姫様、あの者らは、何を口にしておるので御座いましょうか?」
甚兵衛の顔には、当惑が滲んでいた。
誾千代もまた、耳に届く聞きなれない音声に、戸惑っていた。
「なあーはまお、あなーがえとー、うーんねほつかけねへんでへんどえも……!」
桟橋に立つ、上半身裸の男たちの喚き声はこう聞こえたが、さっぱり聞き取れなかった。
誾千代は、男たちの脳裏に浮かぶ映像を読み取り、甚兵衛に教えてやった。
「どうやら、舫を投げないと、こちらの船を横付けできぬと、申しておるようじゃな」
「はあ、左様で……」
甚兵衛は意外そうな表情になって、頭を掻いた。
誾千代と甚兵衛の会話を耳にした重蔵は、身軽に動くと、船上の水主を指揮して舫を桟橋へ投げおろした。舫を受け取った男たちが、手早く誾千代の船を停泊させるべく、きびきびと立ち働いた。
作業の様子を見守りながら、ここは上方なのだ、と誾千代はしみじみと思った。
誾千代も、甚兵衛も、生まれてからずっと、一歩も筑前国の外に出た経験はなく、他国人と交渉する機会もなかった。当然、上方の言葉にも慣れず、まるで唐国か、南蛮国の言葉のように聞こえたのだ(もっとも、誾千代は唐、南蛮の言葉など知らないが)。
船着場にいた男たちが、誾千代を指差し、何事か声を掛け合っている。おそらく男装の誾千代を見て、男なのか、女なのか言い合っているのだろう。貴人に対し、指差すなど、無礼極まりないが、この町ではその辺りがどうやら、当たり前らしい。
「京に着いたのか……」
ひょこひょこと、上体を揺らしながら、彌七郎が姿を現した。顔色は蒼白だったが、やっと揺れない地面に降りられるとばかりに、瞳には期待が踊っていた。
「殿、ここは堺で御座る」
甚兵衛が答えると、彌七郎はかくっと、顎を上げて、不満げな表情を浮かべた。
「何だ、まだか……。いつ、儂らは京へ到着するのじゃ?」
彌七郎の言葉に、甚兵衛は四角四面の口調で答えた。
「今日は遅う御座る。すでに夕刻に相成り、もうすぐ日が落ちまする。今夜は宿を取り、明日より事情を探索し、その後、淀川を上る予定で御座ります」
甚兵衛の言葉に、彌七郎はがっかりとした顔つきになった。肩が落ちて、ゆるゆると顔を左右に振った。
「川を上ると申したか? まだ、船に乗るのか?」
彌七郎が追い被せると、甚兵衛は眉を八の字に上げて見せた。
「それが、その……まず、京を目指すべきかどうか、まだ判りませぬ。何より、筑前守様がどこにおわすか、見当もつきませぬからな。まず、情勢をじっくりと見極める必要が、御座ろう……」
分別をわきまえた甚兵衛の言葉だったが、彌七郎は駄々をこねる幼児のように、壮んに地団太を踏み、船板を踏み締めた。
「厭じゃ! 厭じゃ! すぐ、京へ参るのでなくては、儂は我慢ならぬ! 儂は、どうしても、京見物をするのじゃ!」
誾千代は心底、呆れ果てた。彌七郎の頭の中には、宗麟から委ねられた任務は、すっかり抜け落ち、あるのは、単なる子供じみた、京見物への期待だけだった。
気付くと、桟橋近くで人が立ち止まり、船を見上げてお互い指を差し、何か囁き会っている。
誾千代の心を覗く能力を使わなくとも、彌七郎の狂態に、好奇心が刺激されている様子は、はっきりと見て取れた。誾千代は、何とかしなければと思った。
「彌七郎殿……」
誾千代は、飛びっきりの笑顔を作り、猫なで声になって話し掛けた。いつもの切り口上で話しかけたら、彌七郎は怯えてしまうだろう。
「京見物もよろしゅう御座いますが、まず、その前に堺見物をなされませ。堺は天下の珍宝、奇物が集まる町で御座いますぞ」
誾千代の言葉に、彌七郎の瞳がきらっと輝いた。確かに心を動かされている。
「左様で御座いますとも!」
甚兵衛が賛意を示し、言葉を重ねた。
「堺は、有数の鉄炮鍛冶が集まる場所でも、御座ります」
「鉄炮!」
彌七郎はぴょん、と一跳ねして叫んだ。
「見たい! 儂は、鉄炮を見たい!」
甚兵衛が幼児をあやすように、話し掛けた。
「それでは殿、堺で宿をとりますな?」
彌七郎は、こっくりと頷いた。
やれやれ、と誾千代は胸を撫で下ろした。
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