電脳ロスト・ワールド

万卜人

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序章 光と影の創造者

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「!」と、声にならない叫びをあげ、客家二郎はっかじろうはそれまで身体を横たえていた仮想現実接続装置から跳ね起きた。
 二郎は、ヘルメットを毟り取るように脱ぎ捨てると、自分の身体を見下ろした。
 痩せこけた骨と皮のような身体つき。髪の毛はぼさぼさで、ふと上げた手の平に触れた顎には、無精髭が濃く浮いている。身に着けているのは、上半身にランニングと、パンツのみ。
 木目の浮いたフローリングの床には、先ほど脱ぎ捨てたヘルメットが転がっている。ヘルメットの外側は、つるりと何もない。だが、内側には、びっしりと無数の極板が並んでいる。
 ぷん、と異臭が漂う。二郎は眉を顰めた。失禁している。
 さっと壁の時計を見上げた。時刻と、日時が表示されているタイプで、最後に見たときより三日が経過している。
 三日!
 二郎はよろよろと立ち上がった。下半身に便意が溜まっていた。かくん、と膝から力が抜ける。全身が怖ろしく疲労困憊していた。
「まさか……そんなことって……!」
 呆然と呟く。怖ろしい想像が二郎の胸に湧き上がり、その顔に脂汗が浮かんでいた。
 やっとの思いで歩き出す。目指すは、トイレだ。便器に座り込むと、どどーっと盛大に排出した。ざーっ、という水流の音を背中に、もう一度よろよろ仮想現実接続装置に向かう。
 震える指先でヘルメットを取り上げ、頭に被る。そのまま装置の寝椅子カウチに身体を横たえ、じっと待つ。
 が、何分と経過しても、変化は全然なかった。装置の表示装置に、警告マークが点滅している。それを見て、二郎は腹立たしくヘルメットを再び脱ぎ捨てた。
 判っていたことだ。強制切断が起きた後は、最低二十四時間は再接続は不可能である。
 ぐううう──と、腹が空腹を訴えている。二郎は強いて無視していた。が、諦め、起き上がると、食卓へ向かう。
 冷蔵庫を漁り、簡単な食事を済ませる。それでも空腹には勝てず、がつがつと獣のように食物を摂取し、飲み込む。食物は、短時間で摂れるよう流動食が大部分で、ただ飲み込めばいいだけのものだ。カロリー、ビタミン、無機物がバランスよく配合されているが、味は最低で、俗に言う〝犬も食わぬ〟ほど酷い。
 浴室に入り、シャワーだけで入浴を済ませると、着替える。髭を剃り、歯を磨く。
 メンテナンスの時間である。なにしろ三日間、ずーっと自分は、仮想現実接続装置に繋がっていたのだ……ろう。
 その三日間を、何も憶えていない。
 何一つ!
 最初にヘルメットを被り、目を閉じた瞬間から、目覚めた瞬間がストレートに繋がっている。一瞬の遅滞もない。目を閉じ、目を開けたそのとき、今のような醜態に陥っていたのだ。
 仮想現実装置は、二郎の部屋の中でただ一つ、どっしりとした外観を持って存在を主張している。
 革張りのマッサージ・チェアに良く似た外見の寝椅子──実際、その機能も組み込まれている──と、装置の本体。本体はすっきりとしたデザインで、真珠色の仄かな輝きを放っている。
 二郎は立ち上がり、窓に向かった。窓にはブラインドが下ろされている。二郎は苛立たしく、ブラインドを撥ね上げた。
 さっと夕日が部屋に差し込む。二郎は眩しさに目を細めた。
 窓の外から都会の風景が広がっている。薄汚れ、美的とはとても言えない無骨なビルが乱雑に並んでいる。
 人気は、ほとんどない。しんとした静寂が辺りを支配しているのみ。その窓の一つ一つに、二郎と同じような仮想現実装置に接続されたプレイヤーが、各々の夢を追っているのだろう。
 いや……。
「阿呆、阿呆、阿呆……」と、物寂しい烏の鳴き声が上空を渡っている。烏だけが、この現実世界で生を謳歌しているような錯覚を、二郎は感じていた。
 寝椅子に近づくと、どすんと腰を落とした。がっくりと項垂れ、頭を抱える。
 怖れていたことが現実に起きてしまった。
 自分は〝ロスト〟したのだ!
 二郎の分身ペルソナは、仮想現実に置き去りにされ、立ち往生している。
 仮想現実には、プレイヤーの人格がコピーされ、その世界を満喫する。その間、本体は夢も見ない〝ノン・レム〟睡眠で眠っている。現実世界へ帰還するためには、仮想現実で経験した記憶を本体の脳にコピーする。そのため、目覚めてからも、仮想現実で経験した事柄は本人の記憶として残り、体験は継続される。
 この記憶が継続されず、プレイヤーの人格だけが仮想現実に取り残された状態を〝ロスト〟と呼ぶ。本体プレイヤーは記憶がコピーされず目覚めるため、何が仮想現実でおきたか、さっぱり見当もつかず当惑することになる。プレイヤーにとっては、もっとも回避したい事態だ。
 それがおきてしまった。
 もう、取り返しはつかない。
 なぜこんな事態に?
 原因は、はっきりしている。自分が作り出したプログラムに〝バグ〟があったのだ!
 二郎のプログラム、それは仮想現実構築支援ソフト《パンドラ》である。誰でも仮想現実世界を簡単に構築できるソフトウエアで、二郎は完成直後に、まず自分の仮想現実を作り出そうと試みたのだ。
 仮想現実装置が普及して数年が経つが、肝心の仮想現実の中身といえば、大企業による寡占により、毒にも薬にもならない面白みのない世界ばかりだった。何しろ仮想現実世界を構築するには、専門のプログラマーが大量に必要で、個人では不可能とされていたのだ。それに二郎は不満を感じ、現状を何とかしたくて、独力で、個人で仮想現実を構築できるソフトウエア《パンドラ》を開発したのだ。
 ぎゅっと二郎は拳を握りしめた。
 なんとしても《パンドラ》のバグは大至急、修正しなくてはならぬ! 二郎には、すでにバグの原因である仮説があった。
 しかし《パンドラ》が最初に作り出した〝世界〟には、そのバグが残されたままだ。オリジナルのプログラムのバグは修正できるであろうが、失敗作である最初の〝世界〟のバグは、どうにも修正不可能だ。
 もし、修正しに再度仮想現実に接続しても、また帰還できなくなって、同じことの繰り返しになる可能性が確実に大きい。
 身を絞られるような後悔に、二郎は深々と頭を垂れていた。
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