電脳ロスト・ワールド

万卜人

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現実の味

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 仮想現実から戻った田端洋子たばたようこは、ふうっと溜息をついて、ヘルメットを脱いだ。驚きに、しばし痺れた状態で天井を見上げている。
 これが仮想現実!
 あんなものとは、想像もしなかった。現実より豪華で、しかも……リアルだった!
 横を向くと、洋子の仮想現実接続装置が、窓から差し込む夕日に、仄かにピンクに輝いている。仮想空間と、現実の時刻は同期している。仮想空間の《蒸汽帝国》では夕方だったから、現実でもその時間だ。
 寝椅子から立ち上がり、装置に近づく。
 装置のモニターには、洋子の分身{ペルソナ}が映し出されている。
 ほっそりとした身体つき、すらりと伸びた長い足。肩幅は広めで、胸は誇らしげに突き出している。顔は猫を思わせる大きな瞳が印象的で、柔らかなウエーブが掛かった髪が、背中に垂れていた。
 愛おしげに、洋子はモニターの分身の映像を指で撫でる。これが仮想現実での自分……。
 分身の名前はタバサ。
 ふと洋子の視線が、部屋の片隅にある姿見に止まった。
 どこをとっても丸々とした、子豚のような娘が、そこにはいた。ちんまりとした身体つき。腕も、足も、福々しく太っている。
 スエット・シャツに、ホット・パンツという軽装で、剥きだしの手足にむっちりと肉がついていた。
 洋子は思わず目を背ける。
 人は自分を誉めるとき、必ず同じセリフである。
「君は、とても綺麗な肌をしているね……」
 ああ、そうでしょうよ! 他に誉める所がないから、しかたなしにそう言うしかないんだわ!
 十八才の誕生日に、ようやく洋子は、この仮想現実接続装置を両親からプレゼントされたのである。十八才の娘としてはあり得ないほど派手に啜り泣いたり、懇願したりした大騒ぎの末だったが、それでも家に運び込まれたときは、天にも昇る嬉しさで一杯であった。
 尤も、両親ともに装置を所有していたから、いずれ洋子にも、という両親の気持ちは判っていた。今どき、装置を所有していない人間のほうが少数派になっている。
 父親は仮想現実に存在する〝世界〟に職を持っている。父親の言葉では、仮想現実の通貨〝ハビタット〟は、現実世界の通貨と交換可能で、今や仮想現実サラリーマン──チャリーマン──は仮想現実で勤めて、報酬を得ているのが大多数になっている。
 洋子の部屋は、女の子らしく、ごてごてとした小物で溢れかえっている。小学生から使っている勉強机には、シールやお気に入りのブロマイドがべたべたと貼られ、壁には仮想現実世界でのアイドルたちの写真が所狭しと占有していた。
 それらは洋子にとって夢の一部であった。今日、仮想現実に実際に接続するまでは。
 不意に、洋子は自分の部屋が色褪せたかのように思えた。もう、昨日までの自分には戻れない。仮想現実を体験した今、洋子の中の何かが死に、何かが生まれたのである。
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