河童戦記

万卜人

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膺懲{ようちょう}の巻

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 藤四郎の危惧した通り、河童淵に到着したのは、夕刻近くだった。
 空気はひんやりと冷たく湿り、聳え立つように生えている海岸紅杉セコイアが暗い影を投げかけている。
 遠くから、どうどうと滝の音が聞こえている。
「この辺りでございます……」
 微かに震え声で作蔵が甚左衛門に話しかけた。甚左衛門は無言で頷いた。
 河童淵攻略の使命は甚左衛門が請けているので、手には軍配を持っている。藤四郎は投石器と、軍鑑の役目である。
 二輪車からひらりと地面に足を降ろし、甚左衛門は軽い足取りで滝壺を目指した。藤四郎も慌てて、その後を追う。
 岩がちの獣道を辿ると、不意に眼前が開け、滝壺が視界に入ってきた。
「これは……!」と、思わず藤四郎は声を上げていた。
 滝壺に巨大な河童の像が刻まれている。高さは、約十丈。見上げるほど巨大な石像は、滝の水飛沫を浴び、静かにこの場所を守っているようだ。
 甚左衛門は腰に手を当て、いきなり声を張り上げた。
「この辺りの河童に物申す! 先日、我らの配下の山師三名、うぬらによって幻術を掛けられしと聞く。そのような怪しの術、この木戸甚左衛門には通用せぬと知れ! 直ちに降伏して余の下知に従えばよし、もし逆らうなら、後悔することになろう!」

 なろう……
 なろう……

 甚左衛門の語尾が、滝壺に木霊した。
 藤四郎は伸び上がって甚左衛門に話しかけた。
「さて、河童どもが聞いておるのかのう……」
「聞いている。近づいた辺りから、気配がびんびんと感じられたわい!」
 おぬしには感じ取れなんだか? という意味が言外に籠められている。
 藤四郎は面白くない。武芸は、藤四郎の苦手であった。
 それに、甚左衛門のざっかけない口調も。かつては自分に対し、謙{へりくだ}った言葉遣いであったのが、同格になると、途端にこれだ!
 と、滝壺から声が響いた。
 ここは水虎さまの聖域じゃ──!
 性懲りも無しに、またぞろ、やって来おった──
 水虎さまの恐ろしさを知れ──
 藤四郎が背後を振り返ると、作蔵ががたがたと震えている。
「霧が……」
 作蔵が呟いた。
 藤四郎が辺りを見回すと、その言葉どおり、濃密な霧が立ち込めている。
 さっと甚左衛門は、軍配を上げた。
「構えよ! 油断するでない!」
 しかし、兵たちは甚左衛門の命令を聞いていない。みな、青ざめた顔で、辺りをきょろきょろと見回すだけだ。
 甚左衛門は、苛立った声を上げた。
「ええい、みな何を臆しておるか! ただの霧ではないか!」
 一人の兵が震える指先を甚左衛門の背後に突き立てた。
「あ、あれ……!」
「何?」と、甚左衛門と藤四郎は振り返る。
 まじまじと二人の目が見開かれた。
 霧の中から、滝壺の河童像が、ゆったりとした歩みで現れる。霧を掻き分け、巨大な河童は、ずしり……と重々しい足音を立てた。
 ひえええ……と、兵たちは悲鳴を上げていた。
 わっ、とばかりに浮き足出す。今にも背を向け、逃げ出しそうだ。
 口許を引き結び、甚左衛門は素早く兵たちの前に回り、すらりと腰の刀を抜き放った。
「もし、逃げる者があれば、この場で切り捨てる!」
 口調は真剣だった。
 兵たちの、足がひたっと止まった。
 しかし目は巨大な河童に向けられている。
 ずしり……また一歩、河童は近づく。
 甚左衛門は大声を上げた。
「みな、弓を持て!」
 兵たちは顔を見合わせた。おずおずと弓を手にすると、矢を番{つが}える。
 甚左衛門は首を振った。
「そうではない! 矢弦{やつる}を鳴らせ!」
 堪らず、藤四郎は声を掛けた。
「甚左衛門、何を言うておる?」
 甚左衛門は怒りに満ちた顔を藤四郎に向けた。
「幻術破りには、これが一番なのじゃ!」
 兵の一人から弓を奪い取ると、自ら弦を引き絞り、びいんと弾いた。
「さあ、同じようにせんか!」
 兵たちは、さっぱり訳が分からないまま、見様見真似に甚左衛門の仕草を真似る。

 びいん!
 びいん!
 びいん!

 霧の中に、兵たちの矢弦を鳴らす音が響いた。
 藤四郎は迫り来る河童像を見つめていた。
 呟く。
「河童の石像が消えるわ……!」
 信じられぬ、と首を振る。
 巨大な河童の石像が、じわりと空中に溶け込んでいった。同時に、あれほど立ち込めていた霧も、急速に薄れていく。
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