河童戦記

万卜人

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狸御殿の巻

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 狸御殿の窓から翔一は、外を覗き込んだ。朝の光が斜めに差し込み、朝霧が白く辺りを靄に包んでいる。
 御殿の裏口が開き、そこから時太郎とお花が外へ歩き出す。芝右衛門がその後に続き、なにやら時太郎に熱心に話しかけている。聞いているのかいないのか、時太郎は面倒くさそうに頷いていた。
 やがて時太郎は手を振って歩き出す。その後ろにお花が続いた。二人の姿は朝霧の中へ溶けるように消えていった。
 ほっと翔一は、溜息をついた。
 昨夜、時太郎はお花と一緒にこの部屋へ訪ねてきて、姫の婿を必ず連れ帰るつもりだと決意を述べた。婿を連れて帰れば、翔一は自由の身になれるという。
 それでこの早朝、時太郎は出発したのだ。狸穴へ、姫の婿殿を連れに。翔一は時太郎たちの言葉を信じるしか、道は無かった。
 振り返り、現在いる部屋を見回す。
 ここが翔一と狸姫に用意された新居である。高い天井、床に敷き詰められたのは緋毛氈ひもうせんで、何段重ねにも積み上げられた敷布団がなまめかしい。
 ぎゅう~、と翔一の腹の虫が鳴った。
 昨夜から何も口にしていない。
 なにしろ出された料理が、虫や蜥蜴、蛇などの見ただけで醜悪な姿をした得体の知れないものばかりで、修一は完全に食欲をなくしていた。
 ぽつん、とこの部屋に翔一は唯一人、取り残されていた。
 あれで自分は狸姫の婿にされてしまったのだろうか? 宴会は容赦なく進行し、気がついたら三々九度の盃を交わすところであった。
 その際、ちらりと隣に座る狸姫を見ると、まったく動じず、一抱えもありそうな巨大な金杯を両手で抱えて、ぐびぐびと飲み干していた。
 飲み干すと、微かに溜息をつき、まっすぐ翔一を見つめて、口を開いた。
「これでわたくし、翔一殿の嫁となりました。不束ふつつか者でございますが、これからよろしう可愛がって下さいませ」
 言葉はしおらしい。ところが、姫の口調は、喧嘩か果たし合いに乗り込むかのような切り口上なのだ。
「断れば命がないぞ」と脅迫されているようで、翔一は思わず、ぶるっと震えを感じていた。
 姫の背後には城主の刑部狸が皿のような大目玉を見開いて、じっと翔一を射すくめるように見つめている。殺気立った無言の圧力に、翔一は思わず答えていた。
「よ、よろしく……」
 それだけ言うのが精一杯で、どっと噴き出す汗が全身を濡らしているのを感じていた。
 その後は何がどうなったのか、てんで覚えていない。
 気がつくと、この部屋に通され、布団に座って、狸姫と顔をつき合わせているところだった。
 ようやく翔一は、狸姫に質問をする余裕を取り戻した。
「姫さま、いったい何を考えておいでです? わたくしは烏天狗なのですよ。それを承知なのですか?」
 向かい合った姫は悠揚としてほほ笑んだ。
「翔一さまは、なんだか他人とは思えませぬ。ころころと太って、なんだか狸の殿御のように思えます。それに、そのお眼鏡、それもなんだか狸に似ております。烏天狗ではのうて、狸天狗と申すべき」
 どうやら褒め言葉のつもりらしい狸姫の言葉に、翔一は愕然たる衝撃を受けていた。
「わたくしが……狸に似ている……!」
 ちょん、と狸姫は翔一の頬を指で突いた。ぷに、と指先が肉に食い込む。
「可愛い……」
 無二の好物料理を前にしたかのように、狸姫は笑った。
 翔一は反射的に、狸姫の手を振り払った。
「わたくしは狸では御座いませぬ! 烏天狗ですぞ!」
 憤然として立ち上がったが、姫はまるで堪えず、けらけら、ころころと笑い転げていた。
「それ、そのように怒る所が、ますます愛おしく思えます。わたくし、翔一さまが好きになってまいりましたわ!」
 ぽんぽんと敷かれている布団を叩き、腰をにじらせた。
「さあ、これにお寝みになられませ。新婚初夜でございます。可愛がって下さいませね」
「ば、馬鹿な……狸と同衾するなど……」
 呆然となっている翔一に狸姫は厳しい声を掛けた。
「お寝すみにならせませ! さあ、布団に、わたくしと一緒に横になるのです!」
 姫はいかにも他人に命令し慣れている様子で、高飛車な威厳に翔一は、つい従ってしまっていた。
 急いで布団に潜り込むと、姫がするりと横に身体を滑らせてきた。
 部屋の隅の灯明皿に、姫は顔を持ち上げ「ふーっ」と鼻息を吹きかけた。優に一間ほど離れているのに、姫の息は届いて、あっさり灯明皿の灯心は一息で消されてしまった。鼻息の勢いに翔一はぞっとなっていた。
 横になった翔一の腕に、姫が腕を絡ませてくる。姫の毛皮が翔一の腕に触れた。
 肩に姫の顎が触れてくる。
 くすくすと姫は笑っていた。
「なにを、かちこちに固まっているのです。わたくしは翔一さまを取って食おうとしているのではありませんよ」
 ううーん、と狸姫は欠伸をする。
 やがて寝息が聞こえてきた。眠ったのだろうか?
 朝が明けるまで、翔一はまんじりともせず、ただ暗い天井を見上げているだけであった。
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