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プリンセスの逃走
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サンディが生まれたのは王宮の塔のひとつ、母はサンディを産んですぐ死に、それ以来何人もの乳母に育てられて成長した。
生まれてからこのかた、彼女は王宮以外の場所を知らない。六才になると王宮顧問の家庭教師が彼女の教育を任され、皇族としての教養、道徳、礼儀を身につけさせられてきた。
王宮の図書館には外の世界のことを書いた書物があって、サンディはわずかな自由時間にそれらの本を読み漁り、空想をふくらませてきた。
やがて十才をすぎたころ、サンディは個室を与えられた。いま、彼女がいるこの部屋である。
王宮の東の端にあり、塔の中ほどにある円形のこの部屋は、朝日と夕日があたる位置にあって、東の窓辺に昇った朝日が、西側の窓辺にしずむのを眺められた。
塔があるのは王宮のかなり高層階にあたり、窓辺にすわって見おろすと、ボーラン市を一望できた。
そこから見る市の全域で、朝夕平民たちの屋根から立ち上る煙に、夜になるとともる灯火をサンディは憧れの目で見つめるのだった。
季節ごとに、ボーラン市にはサーカス団がやってくる。
陽気な音楽が鳴り響き、それらが風に乗って聞こえてくると、サンディはどうしようもなく王宮を飛び出したくなる。
が、王宮を固める護衛兵は、王宮を外から守るだけでなく、サンディが勝手に外に飛び出すことも防いでいる。なんども外へ逃げ出そうとしたサンディは、それらの衛兵たちがけっして自分を気ままにしてくれないことを骨身にしみて確信した。それ以来、空想の中で彼女は王宮の外を歩くことを夢見てきた。
贅沢な暮らしであるが、その実際は囚人とそう変わりない。
窓辺にすわるサンディの耳が、階段をあがってくる足音をとらえた。
彼女はむきなおり、ドアを見つめた。
ドアが開き、ひとりの背の高い女が姿をあらわした。
濃い、灰色の地味な上着に足首までかくれるスカート。髪の毛は高々と結い上げ、一筋の乱れもゆるしていない。
がっしりとした顎に、やや黄色みをおびた肌の色をした中年の女である。鼻のうえにちいさな縁なし眼鏡をかけ、レンズの向こうからじろりとサンディを見下ろした。
「レディ・サンドラ! また授業から逃げ出しましたね!」
声はひややかで、突き刺さるようだ。
サンディは唇をつきだした。彼女だけが「レディ・サンドラ」と堅苦しく呼びかける。サンディなどと、親しく呼びかけることは考えられなかった。もっともサンディのほうで、彼女にそんな親しげな呼びかけをしてもらいたいなどと思ったことはなかったが。
「逃げ出したんじゃないわ。あの時、丁度メルが……」
メルというのはサンディが飼っている猫の名前である。サンディはこの猫を可愛がっていた。
女は手に持った教鞭をさっと立てた。サンディは口をつぐんだ。
女の名前はタビア女史。サンディの家庭教師のひとりである。彼女の担当は国語と歴史である。
タビア女史の背後から、ひとりの女の子が姿を現した。
サンディと同じくらいの年頃である。亜麻色の髪に、同じ色の瞳で、サンディを見るとかすかに笑みを浮かべた。唇がわずかに開き、ちいさな歯並びがのぞく。
しかし彼女の笑みのたくわえはそれでつきたのか、すぐ無表情に戻る。ややうつむき、ちらちらとサンディを見ている。
それを見てサンディは開けっぴろげな笑顔になった。
「ネリー! こっちへ来なさいよ!」
ネリー、と呼ばれた少女はおどおどとした感じでタビア女史の側をすりぬけ、近づいてきた。サンディは彼女の両手をとった。
「ひさしぶりじゃない! どうしてた?」
「おやめなさい!」
まくしたてようとするサンディを、タビア女史はぴしゃりとやりこめた。びくりと肩をすくめ、サンディとネリーはタビアを見上げた。
「まだ授業も始まってもいないのに、そんなうかれようでは困ります。さあ、授業を始めますよ」
ぴしり、と教鞭を手の平にうちつけ、タビア女史はかつかつとヒールの音を響かせ、机のむこうに椅子を運び、座った。
「さあ、あなたがたも座りなさい」
はあい、とふたりは返事をして椅子に座り、ちいさな黒板を取り出した。
しばらく授業が続き、タビア女史はきっとサンディを見つめた。
「違う、違う! 何度繰り返したら判るのです。その綴りは間違い。さあ、罰を受けなさい」
その言葉におどおどとしてネリーが立ち上がった。
タビア女史は机を回ってネリーの前に立つと、教鞭を握った。
「手を出しなさい」
はい……、とネリーは両手を差し出す。
ぴしり!
教鞭の先端がネリーの手の平を打った。
サンディは目を閉じた。
間違えたのはネリーではない。サンディである。しかし罰を受けるのはネリー。そういうことになっているのだ。
ネリーはサンディのご学友である。
学友はサンディの身代わりに罰を受ける。サンディはプリンセスであるから、その身に鞭を揮うわけにはいかない。それでネリーのような学友が代わりに罰をうける。王族の子弟はみなこのような教育をうけていた。
サンディが間違えるたび、ぴしっ、ぴしっと鞭の音が部屋に響く。その音を聞くうち、サンディの目に涙がたまる。
ふっ、とタビア女史は顔を上げた。
サンディの目にたまる涙を見て、首をふった。
「あなたがちゃんと勉強をしないから、ネリーが罰を受けるのですよ。判っているのでしょうね」
はい……、と消え入りそうな声でサンディは返事をした。
タビア女史は立ち上がった。ネリーも立ち上がる。
「今日の授業はこれまでにしましょう。明日は五十四ページからはじめます。いいですね、ちゃんと予習をしておくのですよ。レディ・サンドラ」
くるりと背を向け、タビア女史は部屋を出て行った。ネリーもその後に続く。部屋を出る直前、ネリーはちょっと手を挙げ、サンディを見た。
サンディも手を挙げる。
ばたん、と音を立てタビア女史はドアを閉めた。かつかつ……という足音が遠ざかる。
一人残されたサンディは、拳を握り締めた。
いつか……ここから逃げ出そう!
生まれてからこのかた、彼女は王宮以外の場所を知らない。六才になると王宮顧問の家庭教師が彼女の教育を任され、皇族としての教養、道徳、礼儀を身につけさせられてきた。
王宮の図書館には外の世界のことを書いた書物があって、サンディはわずかな自由時間にそれらの本を読み漁り、空想をふくらませてきた。
やがて十才をすぎたころ、サンディは個室を与えられた。いま、彼女がいるこの部屋である。
王宮の東の端にあり、塔の中ほどにある円形のこの部屋は、朝日と夕日があたる位置にあって、東の窓辺に昇った朝日が、西側の窓辺にしずむのを眺められた。
塔があるのは王宮のかなり高層階にあたり、窓辺にすわって見おろすと、ボーラン市を一望できた。
そこから見る市の全域で、朝夕平民たちの屋根から立ち上る煙に、夜になるとともる灯火をサンディは憧れの目で見つめるのだった。
季節ごとに、ボーラン市にはサーカス団がやってくる。
陽気な音楽が鳴り響き、それらが風に乗って聞こえてくると、サンディはどうしようもなく王宮を飛び出したくなる。
が、王宮を固める護衛兵は、王宮を外から守るだけでなく、サンディが勝手に外に飛び出すことも防いでいる。なんども外へ逃げ出そうとしたサンディは、それらの衛兵たちがけっして自分を気ままにしてくれないことを骨身にしみて確信した。それ以来、空想の中で彼女は王宮の外を歩くことを夢見てきた。
贅沢な暮らしであるが、その実際は囚人とそう変わりない。
窓辺にすわるサンディの耳が、階段をあがってくる足音をとらえた。
彼女はむきなおり、ドアを見つめた。
ドアが開き、ひとりの背の高い女が姿をあらわした。
濃い、灰色の地味な上着に足首までかくれるスカート。髪の毛は高々と結い上げ、一筋の乱れもゆるしていない。
がっしりとした顎に、やや黄色みをおびた肌の色をした中年の女である。鼻のうえにちいさな縁なし眼鏡をかけ、レンズの向こうからじろりとサンディを見下ろした。
「レディ・サンドラ! また授業から逃げ出しましたね!」
声はひややかで、突き刺さるようだ。
サンディは唇をつきだした。彼女だけが「レディ・サンドラ」と堅苦しく呼びかける。サンディなどと、親しく呼びかけることは考えられなかった。もっともサンディのほうで、彼女にそんな親しげな呼びかけをしてもらいたいなどと思ったことはなかったが。
「逃げ出したんじゃないわ。あの時、丁度メルが……」
メルというのはサンディが飼っている猫の名前である。サンディはこの猫を可愛がっていた。
女は手に持った教鞭をさっと立てた。サンディは口をつぐんだ。
女の名前はタビア女史。サンディの家庭教師のひとりである。彼女の担当は国語と歴史である。
タビア女史の背後から、ひとりの女の子が姿を現した。
サンディと同じくらいの年頃である。亜麻色の髪に、同じ色の瞳で、サンディを見るとかすかに笑みを浮かべた。唇がわずかに開き、ちいさな歯並びがのぞく。
しかし彼女の笑みのたくわえはそれでつきたのか、すぐ無表情に戻る。ややうつむき、ちらちらとサンディを見ている。
それを見てサンディは開けっぴろげな笑顔になった。
「ネリー! こっちへ来なさいよ!」
ネリー、と呼ばれた少女はおどおどとした感じでタビア女史の側をすりぬけ、近づいてきた。サンディは彼女の両手をとった。
「ひさしぶりじゃない! どうしてた?」
「おやめなさい!」
まくしたてようとするサンディを、タビア女史はぴしゃりとやりこめた。びくりと肩をすくめ、サンディとネリーはタビアを見上げた。
「まだ授業も始まってもいないのに、そんなうかれようでは困ります。さあ、授業を始めますよ」
ぴしり、と教鞭を手の平にうちつけ、タビア女史はかつかつとヒールの音を響かせ、机のむこうに椅子を運び、座った。
「さあ、あなたがたも座りなさい」
はあい、とふたりは返事をして椅子に座り、ちいさな黒板を取り出した。
しばらく授業が続き、タビア女史はきっとサンディを見つめた。
「違う、違う! 何度繰り返したら判るのです。その綴りは間違い。さあ、罰を受けなさい」
その言葉におどおどとしてネリーが立ち上がった。
タビア女史は机を回ってネリーの前に立つと、教鞭を握った。
「手を出しなさい」
はい……、とネリーは両手を差し出す。
ぴしり!
教鞭の先端がネリーの手の平を打った。
サンディは目を閉じた。
間違えたのはネリーではない。サンディである。しかし罰を受けるのはネリー。そういうことになっているのだ。
ネリーはサンディのご学友である。
学友はサンディの身代わりに罰を受ける。サンディはプリンセスであるから、その身に鞭を揮うわけにはいかない。それでネリーのような学友が代わりに罰をうける。王族の子弟はみなこのような教育をうけていた。
サンディが間違えるたび、ぴしっ、ぴしっと鞭の音が部屋に響く。その音を聞くうち、サンディの目に涙がたまる。
ふっ、とタビア女史は顔を上げた。
サンディの目にたまる涙を見て、首をふった。
「あなたがちゃんと勉強をしないから、ネリーが罰を受けるのですよ。判っているのでしょうね」
はい……、と消え入りそうな声でサンディは返事をした。
タビア女史は立ち上がった。ネリーも立ち上がる。
「今日の授業はこれまでにしましょう。明日は五十四ページからはじめます。いいですね、ちゃんと予習をしておくのですよ。レディ・サンドラ」
くるりと背を向け、タビア女史は部屋を出て行った。ネリーもその後に続く。部屋を出る直前、ネリーはちょっと手を挙げ、サンディを見た。
サンディも手を挙げる。
ばたん、と音を立てタビア女史はドアを閉めた。かつかつ……という足音が遠ざかる。
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いつか……ここから逃げ出そう!
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