電脳遊客

万卜人

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第五回 鞍家二郎三郎江戸城へ登城するの巻

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 俺たちの報告を受けた、書物同心の吉川は、見っともないほど、取り乱していた。
「まさか! 総ての資料が、消え去っていると申されるのですか? 信じられませぬ!」
 小刻みに首を振り、肉付きの良い頬が、たぷたぷと揺れた。
 顔色は真っ青で、今にも倒れそうだ。頼むから、俺の目の前で倒れないでくれよ! こんな脂肪の固まり、抱えるのは一苦労だ!
「三日前までの資料が、全消去されている。その後の、江戸に入府した《遊客》の資料は保存されているが……。しかし、江戸開闢以来の、資料は完全に消え去っているな」
 俺は書見台を前に、吉川に説明した。
 吉川は苦悶の表情を浮かべ、頭を抱え込んだ。
 三日前! つまり、俺が何者かに、江戸で殺され、水死体で発見された翌日である。それ以降の情報は保存されているから、俺の名前も表示されていた。
 晶の名前も見える。それによると、晶の本名は「大工原晶」とあった。やはり、大工原激というのは、兄らしい。
 俺は首を捻り、考え込んだ。
 なぜ《遊客》の資料を、総て消去したのか? 理由がまったく、判らない。
「失態だ! 拙者の怠慢で御座る! 定期的に、《遊客》の情報は確認する決まりであったが、拙者は忙しさに取り紛れ、つい怠ってしまった……! ああ、どうすれば良いので御座る? お奉行様に、どう言い訳を致せばよいのやら……!」
 吉川は、おろおろと自問自答している。
 俺は慰めにもならないが、一応は忠告してやった。
「正直に報告するのが一番だぜ。善後策は、その後だ」
「左様で御座るな……。しからば、暫時、失礼致す。これより、書物奉行様に、報告まいらねばならぬ……」
 吉川は朦朧とした顔つきで立ち上がり、ふらふらと頼りない足取りで立ち去っていく。
 俺たちはもう、ここには用事はない。収穫の全然ないまま、俺たちは紅葉山文庫の外へ出た。
 紅葉山文庫の建物は、奥行き十五間、幅三間の細長い建物が四棟並んで、一棟まるまる書庫であったから、蔵書数の膨大さが判る。一説では、幕末期には、十万冊の蔵書があったとされる。
 紅葉山の名の通り、秋には見事な紅葉を見せるが、今は夏の盛りで、新緑の中、東照宮の建物が沈んでいた。
 家康を東照神君として祀る建物で、日光と紅葉山の他に、久能山、水戸、東本願寺、世良田、滝山、鳳来山、松平郷、名古屋、岡崎、飛騨、日吉、和歌山、越前、仙波、鳥取、仙台、岡山、広島、弘前、船橋、石見銀山に建てられ、将軍家にとっては、特別の場所である。
 実際の江戸では、家康の命日にあたる十七日、歴代将軍が紅葉山東照宮に参拝する慣わしであった。
 しかし、こちらの江戸では、将軍は江戸創設の、中心プランナーが務めているので、東照宮は、ただの記念碑的な意味合いしかない。
 西ノ丸の向こうに、工事中の天守閣が聳えているのが良く判る。あちこちに工事の資材が置かれ、職人がきびきびとした物腰で働いている。
 工事を監督する普請方の役人が、帳面と、進捗状況を照らし合わせていた。
 俺たちはその場を通り過ぎようと歩いていたら、役人の一人が、こっちを見て、驚きの表情を浮かべた。俺の知り合いか?
 相手の顔を見直し、俺は舌打ちした。
「おい、急ぐぞ!」
 玄之介の袖を引き、早足になる。
「鞍家殿、何をお急ぎなのですか?」
「いいから、急げっ!」
 俺は小声で叱咤し、足を急がせた。
 ──おおーい……。
 背後で聞こえた伸びやかな堂間声に、俺は益々足の回転を速めた。いかん! 気付かれた!
 ぱたぱたという足音が近づき、すぐ背中に声が掛けられる。
「鞍家二郎三郎! 珍しいではないか! お主がお城に登るのは、初めてだな!」
 俺は諦め、足を止め、振り返る。
「ああ、ちょっとした用があってな。これから帰るところだ」
 相手は「いやいや」と首を横に振り、ニヤニヤ笑いを浮かべていた。背が高く、六尺……百八十センチは越えている。逞しい身体つきの、ギリシャ彫刻のような美男子という形容がぴったりの侍だった。
 彫りの深い顔に似合わない、下卑た笑いを張り付かせ、俺を「逃がさんぞ!」と言いたげに睨みつけている。
 身につけるものは、どれもたっぷり金が掛かっていそうである。象嵌が入った鍔つきの両刀は、柄は白柄、柄頭に金細工。足下は白足袋で、福草履を履いている。着物は卸し立てのように折り目がついて、染み一つない。
 外見、衣服など、どれも完璧であったが、唯一つ、男のどうしようもない品性のなさが、全身から滲み出てくる。
 荏子田多門えこだたもん。俺が最も、この世で会いたくないと切望している《遊客》である。俺と同じ、江戸創設メンバーで、当初は俺と同じ担当であった。
 が、一緒に江戸創設をしているうち、こいつの性格というのが段々と判ってきて、俺は極力避けるようになっていた。
 ともかく、こいつは、品性が卑しい。下品そのものの言動に、他人を陥れるのが生き甲斐という最悪の人物だ。しかも、自分は他人より高潔な性格をしていると、心の底から思い込んでいる。
 こいつを嫌っているのは、俺だけではない。俺と一緒に働いたメンバー総てが、嫌っている。しかし奴は、執念深く江戸創設メンバーの位置に留まり、今では幕府の中核に食い込んでいる。
 能力はある。奴の担当は、時代考証と、江戸NPCの性格デザインである。江戸町人らしい物腰、言葉遣いなど、奴がいなければ、江戸町人たちは存在しなかった。奴の存在は、江戸創設で相当に大きい。
 しかし、できるなら、一生ずーっと顔を合わせたくはなかった!
 玄之介は、ポカンとした顔つきのまま、所在無げに突っ立っている。
 多門は、じろじろと俺の全身を舐め回すような視線で眺め、口を開いた。
「お主、死んだと聞いたが?」
 俺はちょっと仰け反った姿勢になる。
「どこで知った?」
 俺の反応に、奴は得意げな表情になる。早耳がこいつの特技で、他人の弱みや、欠点を粗探しするのが、大好きなのだ。もちろん、自分が優位に立つためである。
「ま、色々とな……。それよりお主、どうして、のこのこ、お城に上がったのだ? お主は我々の再々の登城の要請に、頑として応じなかったではないか? どういう風の吹き回しなのだ?」
 俺は、ちょっと考えを変えた。こいつの早耳は恐ろしいほどだ。もしかすると、奴が俺たちの役に立つかもしれない。
「紅葉山文庫に用があってな」
「御文庫に?」
 多門は、きちんと「御文庫」と正確な物言いをする。時代考証担当だけは、ある。
「そうだ。文庫にあった、江戸開闢以来の《遊客》情報が、一つ残らず消去されていた。どう思う?」
「何だと!」
 思ったとおり、多門は俺の投げた餌に、ぱっくりと鮫のように食い付いてきた。
 両目が爛々と輝き、陰謀の期待に唇が笑いに歪み、今にもたらたらと涎が零れ落ちそうである。
 多門の頭の中が、高速で回転している状況が、目に見えるようだ。
 俺の投げかけた情報が、どのように自分にとって有利な情報に化けられるかと、猛然と計算しているのだろう。
 ようやく、多門は俺の隣にぼんやりと立っている玄之介に注意を振り向けた。一瞬にして、多門は玄之介が自分と同じ《遊客》であると判断したようだ。
 俺たち《遊客》は、一目ちらっと見るだけで、相手が《遊客》か、NPCであるか判別できる。そうでないと、色々と不都合が起きる。《遊客》相手に、NPCに対する気迫を発動させても、無駄だからだ。
「そちらの御仁は?」
 玄之介は不機嫌を押し隠し、自己紹介をした。今の今まで、完全に無視されていたのである。腹が煮え繰り返っても、不思議はない。
「松原玄之介と申します。火付盗賊改方与力として、鞍家二郎三郎殿の事件を捜査しております。よろしく……」
「ほほう……。火盗改の与力を……! それは大変なお仕事だ! いや、感服いたした」
 多門は顎を挙げ、言外に嘲笑するような含みを孕んで返答する。
 意識する、しないに関わらず、こいつの言葉遣いには、一瞬で相手を不快にさせる響きがある。
「何か判ったら、報せてくれ。連絡先は、火付盗賊改方頭の、酒巻源五郎に寄越してくれれば、つく手筈になっている」
 俺の言葉に、多門は「心得た!」と短く答えた。
 今日のところは、これくらいでいいだろう。
 俺は何か考え込んでいる多門を残し、江戸城を後にした。
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