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第弍章
第11話 神のいない社と二番目の懊悩
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※※※
修繕作業開始から三日が経過した。
外からは一定の拍子で軽快に鳴る金槌の音や龍志と朧の声が聞こえるが、社殿内部で作業を進める季音と蘢の間には会話は指示以外に一切なかった。
そもそも季音から蘢と話すことなどまるで思いつかなかった。
全体の埃払いは終わり、今現在季音は神具を拭く他、新たに出た塵を掃いていた。
不思議なことに神具はどこか見覚えのあるような物ばかり。
しかし、それだけではない。どこに何があるのか、どこに窓があるのか、すべて手に取るように分かり、素直に気味が悪いとさえ思えてしまった。
だが、きっとただの狐の頃に忍び込んだことでもあるのだろうとそんな憶測が立つ。
だとすれば、社を護る蘢に邪険に睨まれるということには納得できてしまう。
しかし、本当にそうなのか? と、そんな疑問も沸き立つが、やはり季音は蘢に訊くことはできなかった。
無駄口を聞けば睨まれるような気がしてならないこともそうだが、龍志に言われたこともあるだろう。季音は黙々と作業を続けていた。
……けれど、その日の正午過ぎ。
蘢の様子が明らかにおかしいと気づいて季音はとうとう沈黙を破った。
埃が充満しないために作業中は社の窓を開けているが、やはり初夏を間近に迎える頃だからこそ、社の中が嫌に熱気が籠もっていた。
季音は神殿の掃除が一段落すると、一息ついて蘢の方を見たときである。
彼が微動だにせず床に手をつき、へたりと座り込んでいることを不審に思った。
その後ろ姿から細い背が頻繁に上下していることから息が上がっていることが分かる。
――どうしたのだろう。
何があったのか。当然のように心配に思うが、邪険に言われることを恐れて季音は彼に声をかけるか迷った。
だが、明らかに様子がおかしい。じっと彼の後ろ姿を見つめていれば、座っていた彼は崩れるように床の上に転がったのである。
「蘢様!」
見ているだけなんてできなかった。怒鳴られようが放っておけやしなかった。
季音は祭壇の階段を駆け下りて蘢のもとへ向かう。
「どうなさったのですか……蘢様」
俯せた彼の細い肩を叩く。すると彼は荒い息を吐き出しながら仰向けになった。
「季音殿……?」
自分の名を呼んだ唇は青ざめていた。顔色も蒼白で血の気は完全に引いている。けれど、彼は玉のような汗をかき、荒い息をぜいぜいと吐き出していた。
――まさか。と、ふと過ぎったのはタキの入れ知恵だった。
獣の妖の身体は獣とほぼ等しい。即ち体温が調整しにくく暑さにはめっぽう弱いと聞いた。
妖とは違うが、彼も彼で〝獣〟の特徴を大きく持つ姿だ。だからきっと同じことではないのか……と、そんな推測が過ぎったのである。
自分の場合は肩口を大きく露出した装いだが、彼の場合は巫覡の如くかっちりとした装いで肌の露出が極端にない。
「蘢様、暑いですか?」
「……はい」
その返答は、ふわふわと宙を彷徨っていた。
季音は無礼を承知で彼の身体を起こし上げて自分の胸にやんわりと抱く。そこではっきりと伝わったのはとんでもない熱だった。
恐らく彼は、普段は石像に宿っているので、この姿でいることが極度に少ないのだろう。きっと慣れていないから起こる熱のこもりを確信し、季音は蘢の方に視線を向けた。
「蘢様、歩けますか? 裏口に涼みに行きましょう。無理なら無礼も承知ですが、おぶるか引きずってでも連れて行きます。それでも無理なら龍志様と朧様を呼び運びます」
それをはっきりと伝えると、蘢は赤々と濡れた目を丸く瞠った。
「……っ。歩ける、主殿とあやつを呼ばないでくれ」
まるで懇願にも等しいほどに、弱々しい声だった。
その言葉を信じて、季音は蘢に肩を貸して立ち上がった。
しかし、彼の身体は動かない。季音は仕方なしに自分の首の後ろから彼の手を回すように促した。
「ごめんなさい、おぶります。とりあえず私に身体を委ねてください」
蘢は無言だった。だが一拍二拍と置いた後、緩やかに体重がかかって、季音は蘢の膝裏を探って彼の身を持ち上げた。
蘢をおぶった季音は、神殿裏手にある裏口に出た。出てすぐの石段に彼を下ろして、季音は暫し惑った後──彼の纏う装束の帯を解く。
「恥ずかしいでしょうが襦袢だけになりましょう。私たち、獣の形の者は暑さに弱くて体温の調整が下手だと聞いたことがあります。兎にも角にも、身体を冷やしましょう」
諭すように言えば、蘢は自分で衿を開き上の装束を脱ぐ。襦袢は汗で肌に張り付いていた。それほど彼は汗をかき続けていた。
身体は細く華奢だが、雌独特のような丸みはない。たったそれだけで、いくら美麗で華奢だろうが、彼が雄なのだと改めて季音は理解した。
しかし、非常時である。羞恖は微塵も感じられず季音は蘢の脱衣を手伝った。
それで少しは涼しくなったのだろう。彼は穏やかに目を細めた。
だが、それでも汗は止まらず季音はあることを思う。
これだけの発汗だ。喉がきっと渇いているだろうかと……。
「少し待っていてください」
勝手口に行って水を取ってこようと思った。ただそれだけのつもりだが、彼は季音の袖を摘まんで即座に首を横に振る。
「待て。告げるな……知られたくないのだ」
やはり、主ともう一体の式のことを蘢は言った。
彼が気高いことは目に見えて分かっている。たとえ主だろうと不調は知られたくないのだろう。
その意を汲み取ることは容易く、季音はすぐ頷いた。
「大丈夫です、言いません。蘢様が朧様が苦手なことも、龍志様を深くお慕いしていることも存じています。龍志様たちは正面で作業しているので、ここは見つかりませんよ」
――水を取ってくるので少し待っていてください。そう言って、季音は急いでボロ屋の方へ向かっていった。
戻って早々、蘢は湯飲み茶碗二杯分の水をすぐ飲み干した。
それから、もう一度水を運んで……彼が三杯目を飲み始めたころには顔色が戻ってきたことを悟り、季音はただ安堵した。
水がまだ必要かもしれないだろう。季音は蘢より一段下の石段に腰掛けて彼の様子をときおり振り返って確認していた。
まだ必要かと聞いた方が良いか――と季音が振り返ったと同時だった。
「……世話をかけてすまなかった」
突然礼を言われたことに驚いて、季音は大きく目を瞠った。
非常時で当たり前のことをしただけだ。それに、気高き彼に、そんな風に礼を言われることはやはり驚いてしまう。
季音はどう反応すれば良いかも分からなかった。
だが表情から察するに、本当に申し訳なかったと思っているのだろう。彼の太い眉尻があまりに下がっているものだから、どうにもいたたまれない気持ちに追いやられて、別の話を切り出すことを考えた。
「――蘢様は華奢でお美しいとは言え殿方なんですね。やっぱり少し重かったです」
いっそ無礼だと怒られる方が良い。そう思って言ったつもりだったが、彼は怒りやしなかった。
ただ赤い瞳をぱっと大きく瞠って彼は少しだけ唇を綻ばせる。
逆にそんな反応が意外すぎて、季音の方が驚いてしまう。
「……すまなかった」
それでも口調は弱々しいもので、季音は尚困却した。
「気に病まないでください。私は当たり前のことをしただけです。蘢様は龍志様の大切な式ですから」
紛れもない事実を告げるが、彼の顔にますます陰が差す。
「神獣とは言え、僕は朧殿より弱い。力もない。だから、恐らくそんなことはない。それに、朧殿の方が先に主殿の式になった」
――僕は二番目だ。続けてそう告げる口調は、穏やかではあるが、どこかもの悲しげな口ぶりだった。
二番目……それは初耳だ。
そもそも陰陽師のことや式神のことを彼から深々と聞いたこともない。どういったことかと季音は小首を傾げる。すると、顔を上げた彼は再び穏やかに切り出した。
「ただ単純に、朧殿は僕が苦手な傾向な性格だとは思う。とはいえ、毛嫌いしてる訳ではない。僕より生きている時間は短いが、彼は尊敬に値する強さを持つ。僕の醜い嫉妬だ。ただ、僕は主殿の式になる時あの鬼に負かされたから……悔しいが主殿からしたら確実に序列が下だ」
――遠い昔から主殿を知っていて、ずっと待ち続けていたが、今は二番目。
ぽつりとそんな言葉を添えて、しょんぼりと蘢が再び俯いてしまう。
何だかそんな姿が、もの悲しく思えてしまい、季音も一緒に眉根を下げた。
たちまち感じたのは罪悪感だった。
踏み込んではいけないことを踏み込んでしまった気がした。落ち込ませるつもりなんてさらさらなかったのに、こんなに落ち込んでしまうなんて誰が予想するものか。
ふぅと一つ息をついた後、季音は彼の後ろに回る。
――やはり叱責される方が幾分もマシだろう。
そんな風に思って、季音は蘢のふわふわした長い髪を手櫛で梳かし始めた。
「何をしているのだ……いったい何の真似だ!」
振り向いた彼は眉間に深く皺を寄せてくれた。
それだけで妙に安堵してしまい、季音は思わず笑みをこぼしてしまう。
「蘢様、御髪を結いましょう。それだけでも首の後ろの熱さも少しは凌げます。明日は龍志様に蘢様の作業着を見繕ってもらいましょう。風通りも悪い場所です、暑すぎて蘢様が倒れたら龍志様が困るでしょう?」
それだけ言うと、再び指を動かして季音は蘢の髪を梳かした。
無論、すぐ新たな叱責が飛ぶか振りほどかれるかと思った。だが、蘢は再び大人しく前を向いて黙り込んでしまった。
自分の毛質とはまた違うふわふわとした髪の指通りは気持ちが良い。そう思える反面で、何故かどこか懐かしいと思えてしまった。
ただの狐の頃、彼に出会っているのかもしれない。しかし、触れたこともあるのだろうか……と、そんな疑問がふと過ぎった。
そんなことを考えつつ、彼の髪を高く一本に纏め、季音は懐から紐を取り出して彼の髪を留めた。
「どうです、さっぱりしました?」
「……はい」
返答は非常に素っ気なかった。だが、落ち込んでいるよりは幾分もマシだろうとは思えてしまう。
季音は蘢の隣に腰掛けて改めて彼の方を向いた。
「龍志様は蘢様のことを大事に思ってますよ。そうでなければ蘢様が守り続ける社の修繕なんて思いつきません。朧様もそれに協力しています。龍志様ってああいう素っ気ない性格なので序列などないですよ。どちらも大事に思われてると思います。式神でもない私が言うのもおかしいですが、私にはそう見えますよ」
季音は思ったことをはっきりと告げる。すると、たちまち彼の白い頬が僅か朱色に染まり初めて季音は目を瞠った。
……こんな顔もするんだ。と、思ってしまった。
異性であることは分かっているが、その面があまりに綺麗だから、何だかまるで麗しき乙女のようにさえ見えてしまう。
「……季音殿は龍志様に、確実に雌として愛されてるとは思いますが」
見惚れるほどの美しい顔で蘢は淡々と告げる。
だが、言われた言葉はあまりにも突飛なもので、季音は驚いて藤色の瞳を丸く瞠る。
「あ、あい?」
思わず声が裏返ってしまった。
そんな反応が面白かったのだろうか。蘢は噴き出すようにケラケラと笑い始めたのである。
それも初めて見る顔。冷淡で気難しい……その上、毒舌。そんな風に思っていたのに。この表情は先程の照れた顔とは違って、まるで無邪気な少年のよう。
季音は恨めしそうに彼を射貫く。
「はは。ああ、季音殿ひとつ警告を。あんなすました顔をしていても、主って実はかなり頭の中は爛れてるので。望まぬ貞操の危機でも感じたら境内まで走って僕に助け求めて良いです。僕にできる恩返しはそれくらいでしょうが。まぁ、痴話喧嘩みたいなのは除外で」
「蘢様も冗談を言うのですね……」
「さぁ。僕は冗談は言いませんが」
いつもとは打って変わって全く違う。そんな彼の態度や表情にまだ季音は困惑していた。
「おいおいモフモフ二匹でサボりか」
聞き慣れた低く平らな青年の声に、季音は自然とそちらを見る。そこにいたのは案の定龍志だった。
――働かざる者食うべからず。
そんな言葉が染みついてしまっているせいか、仕置きのように尾を掴まれることを思い浮かべて季音は身を竦めた。
「少し休憩を挟んでるだけです。社殿の中は蒸し風呂なもので。倒れかけましたよ」
間髪入れずに返答したのは蘢だった。
すると蘢は季音の方を向いて『ですよね?』なんて訊くものだから季音は黙って頷いた。
「お前ら随分と仲良くなったな?」
「主殿、僕が季音殿を独占することを今更になって嫉妬してるのですか?」
呆れたように蘢が言うと、龍志は笑みながらも『馬鹿言え』なんて悪態を垂れた。
***
――社殿の修繕が終わったのは、それから三日後のことだった。
修繕程度なので見違えるほどではない。それでも、朱に塗り直された鳥居がわずかに社らしさを取り戻させていた。
神のいない社を、彼は今日も護る。けれど、一匹で佇む狗の顔は、以前よりも明るくなったように見えた。
その翌日から、夏を呼ぶ長い梅雨が始まった。
修繕作業開始から三日が経過した。
外からは一定の拍子で軽快に鳴る金槌の音や龍志と朧の声が聞こえるが、社殿内部で作業を進める季音と蘢の間には会話は指示以外に一切なかった。
そもそも季音から蘢と話すことなどまるで思いつかなかった。
全体の埃払いは終わり、今現在季音は神具を拭く他、新たに出た塵を掃いていた。
不思議なことに神具はどこか見覚えのあるような物ばかり。
しかし、それだけではない。どこに何があるのか、どこに窓があるのか、すべて手に取るように分かり、素直に気味が悪いとさえ思えてしまった。
だが、きっとただの狐の頃に忍び込んだことでもあるのだろうとそんな憶測が立つ。
だとすれば、社を護る蘢に邪険に睨まれるということには納得できてしまう。
しかし、本当にそうなのか? と、そんな疑問も沸き立つが、やはり季音は蘢に訊くことはできなかった。
無駄口を聞けば睨まれるような気がしてならないこともそうだが、龍志に言われたこともあるだろう。季音は黙々と作業を続けていた。
……けれど、その日の正午過ぎ。
蘢の様子が明らかにおかしいと気づいて季音はとうとう沈黙を破った。
埃が充満しないために作業中は社の窓を開けているが、やはり初夏を間近に迎える頃だからこそ、社の中が嫌に熱気が籠もっていた。
季音は神殿の掃除が一段落すると、一息ついて蘢の方を見たときである。
彼が微動だにせず床に手をつき、へたりと座り込んでいることを不審に思った。
その後ろ姿から細い背が頻繁に上下していることから息が上がっていることが分かる。
――どうしたのだろう。
何があったのか。当然のように心配に思うが、邪険に言われることを恐れて季音は彼に声をかけるか迷った。
だが、明らかに様子がおかしい。じっと彼の後ろ姿を見つめていれば、座っていた彼は崩れるように床の上に転がったのである。
「蘢様!」
見ているだけなんてできなかった。怒鳴られようが放っておけやしなかった。
季音は祭壇の階段を駆け下りて蘢のもとへ向かう。
「どうなさったのですか……蘢様」
俯せた彼の細い肩を叩く。すると彼は荒い息を吐き出しながら仰向けになった。
「季音殿……?」
自分の名を呼んだ唇は青ざめていた。顔色も蒼白で血の気は完全に引いている。けれど、彼は玉のような汗をかき、荒い息をぜいぜいと吐き出していた。
――まさか。と、ふと過ぎったのはタキの入れ知恵だった。
獣の妖の身体は獣とほぼ等しい。即ち体温が調整しにくく暑さにはめっぽう弱いと聞いた。
妖とは違うが、彼も彼で〝獣〟の特徴を大きく持つ姿だ。だからきっと同じことではないのか……と、そんな推測が過ぎったのである。
自分の場合は肩口を大きく露出した装いだが、彼の場合は巫覡の如くかっちりとした装いで肌の露出が極端にない。
「蘢様、暑いですか?」
「……はい」
その返答は、ふわふわと宙を彷徨っていた。
季音は無礼を承知で彼の身体を起こし上げて自分の胸にやんわりと抱く。そこではっきりと伝わったのはとんでもない熱だった。
恐らく彼は、普段は石像に宿っているので、この姿でいることが極度に少ないのだろう。きっと慣れていないから起こる熱のこもりを確信し、季音は蘢の方に視線を向けた。
「蘢様、歩けますか? 裏口に涼みに行きましょう。無理なら無礼も承知ですが、おぶるか引きずってでも連れて行きます。それでも無理なら龍志様と朧様を呼び運びます」
それをはっきりと伝えると、蘢は赤々と濡れた目を丸く瞠った。
「……っ。歩ける、主殿とあやつを呼ばないでくれ」
まるで懇願にも等しいほどに、弱々しい声だった。
その言葉を信じて、季音は蘢に肩を貸して立ち上がった。
しかし、彼の身体は動かない。季音は仕方なしに自分の首の後ろから彼の手を回すように促した。
「ごめんなさい、おぶります。とりあえず私に身体を委ねてください」
蘢は無言だった。だが一拍二拍と置いた後、緩やかに体重がかかって、季音は蘢の膝裏を探って彼の身を持ち上げた。
蘢をおぶった季音は、神殿裏手にある裏口に出た。出てすぐの石段に彼を下ろして、季音は暫し惑った後──彼の纏う装束の帯を解く。
「恥ずかしいでしょうが襦袢だけになりましょう。私たち、獣の形の者は暑さに弱くて体温の調整が下手だと聞いたことがあります。兎にも角にも、身体を冷やしましょう」
諭すように言えば、蘢は自分で衿を開き上の装束を脱ぐ。襦袢は汗で肌に張り付いていた。それほど彼は汗をかき続けていた。
身体は細く華奢だが、雌独特のような丸みはない。たったそれだけで、いくら美麗で華奢だろうが、彼が雄なのだと改めて季音は理解した。
しかし、非常時である。羞恖は微塵も感じられず季音は蘢の脱衣を手伝った。
それで少しは涼しくなったのだろう。彼は穏やかに目を細めた。
だが、それでも汗は止まらず季音はあることを思う。
これだけの発汗だ。喉がきっと渇いているだろうかと……。
「少し待っていてください」
勝手口に行って水を取ってこようと思った。ただそれだけのつもりだが、彼は季音の袖を摘まんで即座に首を横に振る。
「待て。告げるな……知られたくないのだ」
やはり、主ともう一体の式のことを蘢は言った。
彼が気高いことは目に見えて分かっている。たとえ主だろうと不調は知られたくないのだろう。
その意を汲み取ることは容易く、季音はすぐ頷いた。
「大丈夫です、言いません。蘢様が朧様が苦手なことも、龍志様を深くお慕いしていることも存じています。龍志様たちは正面で作業しているので、ここは見つかりませんよ」
――水を取ってくるので少し待っていてください。そう言って、季音は急いでボロ屋の方へ向かっていった。
戻って早々、蘢は湯飲み茶碗二杯分の水をすぐ飲み干した。
それから、もう一度水を運んで……彼が三杯目を飲み始めたころには顔色が戻ってきたことを悟り、季音はただ安堵した。
水がまだ必要かもしれないだろう。季音は蘢より一段下の石段に腰掛けて彼の様子をときおり振り返って確認していた。
まだ必要かと聞いた方が良いか――と季音が振り返ったと同時だった。
「……世話をかけてすまなかった」
突然礼を言われたことに驚いて、季音は大きく目を瞠った。
非常時で当たり前のことをしただけだ。それに、気高き彼に、そんな風に礼を言われることはやはり驚いてしまう。
季音はどう反応すれば良いかも分からなかった。
だが表情から察するに、本当に申し訳なかったと思っているのだろう。彼の太い眉尻があまりに下がっているものだから、どうにもいたたまれない気持ちに追いやられて、別の話を切り出すことを考えた。
「――蘢様は華奢でお美しいとは言え殿方なんですね。やっぱり少し重かったです」
いっそ無礼だと怒られる方が良い。そう思って言ったつもりだったが、彼は怒りやしなかった。
ただ赤い瞳をぱっと大きく瞠って彼は少しだけ唇を綻ばせる。
逆にそんな反応が意外すぎて、季音の方が驚いてしまう。
「……すまなかった」
それでも口調は弱々しいもので、季音は尚困却した。
「気に病まないでください。私は当たり前のことをしただけです。蘢様は龍志様の大切な式ですから」
紛れもない事実を告げるが、彼の顔にますます陰が差す。
「神獣とは言え、僕は朧殿より弱い。力もない。だから、恐らくそんなことはない。それに、朧殿の方が先に主殿の式になった」
――僕は二番目だ。続けてそう告げる口調は、穏やかではあるが、どこかもの悲しげな口ぶりだった。
二番目……それは初耳だ。
そもそも陰陽師のことや式神のことを彼から深々と聞いたこともない。どういったことかと季音は小首を傾げる。すると、顔を上げた彼は再び穏やかに切り出した。
「ただ単純に、朧殿は僕が苦手な傾向な性格だとは思う。とはいえ、毛嫌いしてる訳ではない。僕より生きている時間は短いが、彼は尊敬に値する強さを持つ。僕の醜い嫉妬だ。ただ、僕は主殿の式になる時あの鬼に負かされたから……悔しいが主殿からしたら確実に序列が下だ」
――遠い昔から主殿を知っていて、ずっと待ち続けていたが、今は二番目。
ぽつりとそんな言葉を添えて、しょんぼりと蘢が再び俯いてしまう。
何だかそんな姿が、もの悲しく思えてしまい、季音も一緒に眉根を下げた。
たちまち感じたのは罪悪感だった。
踏み込んではいけないことを踏み込んでしまった気がした。落ち込ませるつもりなんてさらさらなかったのに、こんなに落ち込んでしまうなんて誰が予想するものか。
ふぅと一つ息をついた後、季音は彼の後ろに回る。
――やはり叱責される方が幾分もマシだろう。
そんな風に思って、季音は蘢のふわふわした長い髪を手櫛で梳かし始めた。
「何をしているのだ……いったい何の真似だ!」
振り向いた彼は眉間に深く皺を寄せてくれた。
それだけで妙に安堵してしまい、季音は思わず笑みをこぼしてしまう。
「蘢様、御髪を結いましょう。それだけでも首の後ろの熱さも少しは凌げます。明日は龍志様に蘢様の作業着を見繕ってもらいましょう。風通りも悪い場所です、暑すぎて蘢様が倒れたら龍志様が困るでしょう?」
それだけ言うと、再び指を動かして季音は蘢の髪を梳かした。
無論、すぐ新たな叱責が飛ぶか振りほどかれるかと思った。だが、蘢は再び大人しく前を向いて黙り込んでしまった。
自分の毛質とはまた違うふわふわとした髪の指通りは気持ちが良い。そう思える反面で、何故かどこか懐かしいと思えてしまった。
ただの狐の頃、彼に出会っているのかもしれない。しかし、触れたこともあるのだろうか……と、そんな疑問がふと過ぎった。
そんなことを考えつつ、彼の髪を高く一本に纏め、季音は懐から紐を取り出して彼の髪を留めた。
「どうです、さっぱりしました?」
「……はい」
返答は非常に素っ気なかった。だが、落ち込んでいるよりは幾分もマシだろうとは思えてしまう。
季音は蘢の隣に腰掛けて改めて彼の方を向いた。
「龍志様は蘢様のことを大事に思ってますよ。そうでなければ蘢様が守り続ける社の修繕なんて思いつきません。朧様もそれに協力しています。龍志様ってああいう素っ気ない性格なので序列などないですよ。どちらも大事に思われてると思います。式神でもない私が言うのもおかしいですが、私にはそう見えますよ」
季音は思ったことをはっきりと告げる。すると、たちまち彼の白い頬が僅か朱色に染まり初めて季音は目を瞠った。
……こんな顔もするんだ。と、思ってしまった。
異性であることは分かっているが、その面があまりに綺麗だから、何だかまるで麗しき乙女のようにさえ見えてしまう。
「……季音殿は龍志様に、確実に雌として愛されてるとは思いますが」
見惚れるほどの美しい顔で蘢は淡々と告げる。
だが、言われた言葉はあまりにも突飛なもので、季音は驚いて藤色の瞳を丸く瞠る。
「あ、あい?」
思わず声が裏返ってしまった。
そんな反応が面白かったのだろうか。蘢は噴き出すようにケラケラと笑い始めたのである。
それも初めて見る顔。冷淡で気難しい……その上、毒舌。そんな風に思っていたのに。この表情は先程の照れた顔とは違って、まるで無邪気な少年のよう。
季音は恨めしそうに彼を射貫く。
「はは。ああ、季音殿ひとつ警告を。あんなすました顔をしていても、主って実はかなり頭の中は爛れてるので。望まぬ貞操の危機でも感じたら境内まで走って僕に助け求めて良いです。僕にできる恩返しはそれくらいでしょうが。まぁ、痴話喧嘩みたいなのは除外で」
「蘢様も冗談を言うのですね……」
「さぁ。僕は冗談は言いませんが」
いつもとは打って変わって全く違う。そんな彼の態度や表情にまだ季音は困惑していた。
「おいおいモフモフ二匹でサボりか」
聞き慣れた低く平らな青年の声に、季音は自然とそちらを見る。そこにいたのは案の定龍志だった。
――働かざる者食うべからず。
そんな言葉が染みついてしまっているせいか、仕置きのように尾を掴まれることを思い浮かべて季音は身を竦めた。
「少し休憩を挟んでるだけです。社殿の中は蒸し風呂なもので。倒れかけましたよ」
間髪入れずに返答したのは蘢だった。
すると蘢は季音の方を向いて『ですよね?』なんて訊くものだから季音は黙って頷いた。
「お前ら随分と仲良くなったな?」
「主殿、僕が季音殿を独占することを今更になって嫉妬してるのですか?」
呆れたように蘢が言うと、龍志は笑みながらも『馬鹿言え』なんて悪態を垂れた。
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――社殿の修繕が終わったのは、それから三日後のことだった。
修繕程度なので見違えるほどではない。それでも、朱に塗り直された鳥居がわずかに社らしさを取り戻させていた。
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侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
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