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第五章 願い望んだ終わる夢
5-17.追憶の施錠、その本懐は……Ⅱ
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憎悪は消えないが、それでも自分の心の中にはそれ以外の感情がいくらかある。一つだけ分かるのは憐憫だが──それ以外はまだ不明。
否、遠い昔はその感情を分かっていた気がする。まるで鍵のかかって開かない箱を前にするような感覚に似ているだろう。
そして今現在、アイリーンは石英樹海の女神の部屋に戻ってきた。
白一色の部屋──天蓋のベールの引き千切られた寝台の上で眠る彼女は、廃墟の城で永遠の眠りにつく姫君のようだった。
帰還から一日。彼女は相変わらず目を覚まさないが穏やかな寝顔を浮かべていた。
しっかりと息をしているし、脈もある。だが昨日より侵食範囲が広がった気がする。
アイリーンの侵食はよくぞこの程度に済んだと思う。
彼女の対──錆の王子はより悲惨な事になってしまったからだ。
馬車が石英樹海に踏み入れた途端に、彼が悶え苦しみ侵食はたちまち広がった。首筋から頬、目尻にかけて金属化したかと思えば、枯れ色に腐食し始めたのだ。
「熱い痛い」と叫び、目を押さえて呻く彼をリーアムは必死に介抱した。
馬車も止め、ヒューゴーにもただちに見て貰い──ややあって落ち着いたが、誰もが彼の面を見て強ばった。
均整の取れた原形こそあれど、その半顔はあまりに無惨だった。
血の涙を流す片目の虹彩の中に錆び付いた金属片のようなものが透けて見えた。皮膚を覆うガサガサとした錆は酷く醜くおぞましい。その上、血の臭いによく似た異臭もした。
……まるで人ではない何かになりかけているように思えてしまう。
こんな姿になるなら、彼まで来なくても良かっただろうに。仮にもリグ・ティーナな王族だ。女神の倍、四十歳まで生きられるとの話は聞いたが、これでは女神と変わらぬ侵食具合だ。
きっと大幅に寿命を削ってしまった。本当に彼はそれで良かったのか。彼の側近のヒューゴーも同じ事を思ったようだが、彼は何一つ言葉を出さなかった。
きっと、こんな姿を見たらアイリーンは酷く悲しむだろう。
自分を返す為にここまで身体を張る必要なんてない。手に取るように彼女の言いそうな事がサーシャには分かった。嫌いだろうが、長年連れ添ったからか。女同士だからか。
どちらにせよ、彼女の感情など自分はどうだって良いが……。
サーシャはこの数日を反芻しつつ、湖の畔の岩に腰掛けてぼんやりと空を眺めていた。相変わらずの曇天だが、今日はほんの少しだけ雲間から光が漏れている。
ジア・ル・トーの方向は霧が立ち込めているものの、淡い光が射して、丘の上に佇む廃塔の輪郭がいつもよりよく見える。
あの様子だ。アイリーンにずっと付きっきりでいる必要もないだろう。目に付かない間にぽっくり死ぬというのも恐らくないと分かっている。
どうにも従者と女神という神託で結ばれた関係は伊達ではないようで、彼女の異変は何となく伝わってくるのだ。それはリーアムも同じだった。
恐らく自分の場合、鏡が影響しているのだろうか……。
サーシャは懐から鏡を取り出して自分の顔を映す。すると、背後に見慣れぬ存在が映り、慌てて振り返った。
「……!」
女神装束にも似た純白に金の幾何学模様であしらわれた装束に目深にかぶったフード。こぼれ落ちる髪は白々としており、肩には大きな風の精霊が留まっている。彼女の手に持つ者は銀の杖。
恐らく噂に聞く〝裏方〟だ。
会ったのは恐らく初めての筈だが……。
何だか既視感がある気がする。そんな風に思いつつサーシャは顔を強ばらせた。
否、遠い昔はその感情を分かっていた気がする。まるで鍵のかかって開かない箱を前にするような感覚に似ているだろう。
そして今現在、アイリーンは石英樹海の女神の部屋に戻ってきた。
白一色の部屋──天蓋のベールの引き千切られた寝台の上で眠る彼女は、廃墟の城で永遠の眠りにつく姫君のようだった。
帰還から一日。彼女は相変わらず目を覚まさないが穏やかな寝顔を浮かべていた。
しっかりと息をしているし、脈もある。だが昨日より侵食範囲が広がった気がする。
アイリーンの侵食はよくぞこの程度に済んだと思う。
彼女の対──錆の王子はより悲惨な事になってしまったからだ。
馬車が石英樹海に踏み入れた途端に、彼が悶え苦しみ侵食はたちまち広がった。首筋から頬、目尻にかけて金属化したかと思えば、枯れ色に腐食し始めたのだ。
「熱い痛い」と叫び、目を押さえて呻く彼をリーアムは必死に介抱した。
馬車も止め、ヒューゴーにもただちに見て貰い──ややあって落ち着いたが、誰もが彼の面を見て強ばった。
均整の取れた原形こそあれど、その半顔はあまりに無惨だった。
血の涙を流す片目の虹彩の中に錆び付いた金属片のようなものが透けて見えた。皮膚を覆うガサガサとした錆は酷く醜くおぞましい。その上、血の臭いによく似た異臭もした。
……まるで人ではない何かになりかけているように思えてしまう。
こんな姿になるなら、彼まで来なくても良かっただろうに。仮にもリグ・ティーナな王族だ。女神の倍、四十歳まで生きられるとの話は聞いたが、これでは女神と変わらぬ侵食具合だ。
きっと大幅に寿命を削ってしまった。本当に彼はそれで良かったのか。彼の側近のヒューゴーも同じ事を思ったようだが、彼は何一つ言葉を出さなかった。
きっと、こんな姿を見たらアイリーンは酷く悲しむだろう。
自分を返す為にここまで身体を張る必要なんてない。手に取るように彼女の言いそうな事がサーシャには分かった。嫌いだろうが、長年連れ添ったからか。女同士だからか。
どちらにせよ、彼女の感情など自分はどうだって良いが……。
サーシャはこの数日を反芻しつつ、湖の畔の岩に腰掛けてぼんやりと空を眺めていた。相変わらずの曇天だが、今日はほんの少しだけ雲間から光が漏れている。
ジア・ル・トーの方向は霧が立ち込めているものの、淡い光が射して、丘の上に佇む廃塔の輪郭がいつもよりよく見える。
あの様子だ。アイリーンにずっと付きっきりでいる必要もないだろう。目に付かない間にぽっくり死ぬというのも恐らくないと分かっている。
どうにも従者と女神という神託で結ばれた関係は伊達ではないようで、彼女の異変は何となく伝わってくるのだ。それはリーアムも同じだった。
恐らく自分の場合、鏡が影響しているのだろうか……。
サーシャは懐から鏡を取り出して自分の顔を映す。すると、背後に見慣れぬ存在が映り、慌てて振り返った。
「……!」
女神装束にも似た純白に金の幾何学模様であしらわれた装束に目深にかぶったフード。こぼれ落ちる髪は白々としており、肩には大きな風の精霊が留まっている。彼女の手に持つ者は銀の杖。
恐らく噂に聞く〝裏方〟だ。
会ったのは恐らく初めての筈だが……。
何だか既視感がある気がする。そんな風に思いつつサーシャは顔を強ばらせた。
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