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第五章 願い望んだ終わる夢

5-18.追憶の施錠、その本懐は……Ⅲ

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 間違いなく、自分に終わりが近いだの説明に来たのだろう。臆したサーシャは顔を青くするが、彼女は首を振り「案ずる必要はない」と一歩二歩と近付いてくる。

「私は貴女の鍵を外しに来た。女神は厄災を起こすだろう。何が起きるか分からない。逃げ切るように、後悔なきように──今、私は貴女の心を解き放つ」

 抑揚の乏しい口調でそう言って、彼女は杖をサーシャの喉に突き付ける。しかし、彼女の意図が読み込めない。

「何を言っているの……どういう事」

「考えるより感じろ。私は謝りたい。形式にとらわれ倫理に目を背け……貴女の感情を全て書き換えた」

「どういう……」

 サーシャが震えた唇で聞いた途端、彼女の杖は宙を切り銀の幾何学紋様が走る。

「感じろ──呼び覚ませ、その記憶」

 彼女がおごそかに唱えた途端、何かが壊れた心地がした。その直後、胸の中に温かなものが溢れ出した。途端に頭に駆け巡るのは、アイリーンとの記憶の数々だった。

 ──自分の事なんて何もできない彼女に対して、軽蔑していたし、いつだって腹を立てていた。

 神殿に入ってからというものの、不安だらけの日々だった。しかし、そんな自分をいつも優しく見守ってくれた自分の片割れに幾度救われたのか。

 そして、気づけば片割れに恋をしていた。

 淡い憧れのような初恋だった。自分より年上、整った顔立ちで何よりも気高くも優しい。理想そのものだった。
 しかし、彼の心は既に女神を見つめていた。その想いは何となく視線で分かる。それが悲しくも、より腹立たしかった。

 自分は彼女ほど容姿が優れない。そばかすは目立つし、背もやや高くて可愛らしさがない。間近で見るアイリーンの可憐さに自分はいつも劣等感を抱くばかりだった。自然に彼女が憎たらしくなった。
 けれど、憎たらしさの中にも「まったく、仕方ないんだから」という愛着があったのは事実だった。

 同じ歳だが妹でもいればこんなかんじだろうかと、いつも思っていた。素直でどこか憎めないのだ。ぷりぷりと怒って不機嫌な態度を取ってしまったとしても、彼女の事がいつも気がかりだった。

 ある日、自分の末路を知って絶望した。それを女神に教えてはならぬとの規則だが、取り繕う事ができずに彼女に伝え、当たり散らした事があった。

 その時、彼女は『リーアムと二人で逃げて』と言った。そうしてアイリーンはリーアムを説得させた。しかし彼の答えはこうだった。
『いっそ、やるなら三人で』そう決めて最も深い闇に包まれる新月の深夜に石英樹海の脱出を試みた。

 しかし、こんな拙い脱出など裏方には全て筒抜け──失敗に終わった。
 そして自分の記憶や彼女を愛おしむ感情は箱の中にしまわれて、頑丈な鍵をかけられた。
 リーアムも恐らく同様だ。
 もう、神殿側の定めた運命に刃向かえないように、より忠実になったのだろう。

 そうして自分に残ったアイリーンに対する想いは憤激と憎悪だけ。
 だが身体は覚えていたのだ。だから彼女を丁寧に扱った。決して傷付けるような真似はできなかった。

 それが分かった途端にサーシャの頬に一粒の涙が伝う。

「──っ、アイリーン……!」

「恐らく彼女の耳は聞こえている。貴女の心と共鳴し、女神もあの日の記憶をしかと取り戻す筈だ」

 ──悪かった。そう告げた彼女はサーシャに丁寧に頭を垂れる。
 サーシャは何も言えず、弾けるように駆け出した。
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