1 / 1
最後の1分間
しおりを挟む
電車が駅に滑り込む瞬間、いつも彼女は左側の3番ドアの前に立っていた。
名前も知らない。顔も、はっきり覚えていない。ただ、毎朝7時42分発の快速電車で、彼女が手に持っているのは決まって白い紙袋で、中に何か柔らかそうなものが入っているらしいこと。そして、降りる直前にいつも少しだけ髪を耳にかける仕草だけが、妙に頭に残っていた。
俺はいつも斜め後ろの位置にいて、彼女の背中を3分間だけ見ていた。
ある朝、いつものように電車が揺れて、彼女の紙袋が俺の膝に軽く当たった。
「あ、ごめんなさい」
初めて聞く声だった。少し低めで、朝の空気に溶けそうな声。
「いえ、大丈夫です」
それだけ言って、彼女はまた前を向いた。でもその日から、俺たちの距離がたった5センチ縮まった気がした。
次の週の月曜日。彼女は紙袋を持っていなかった。代わりに小さな本を手にしていた。表紙は淡い水色で、タイトルは読めなかった。
電車が急に揺れて、彼女がよろめいた。俺は咄嗟に手すりを掴んで彼女の背中を支えた。
「……ありがとう」
今度はちゃんと顔が見えた。少し驚いたような、でもどこか安心したような目。
「いつもここにいるよね」
彼女が言った。
「……うん。君も」
「……うん」
それだけだった。
でもその「うん」が、俺にとってはやけに長く響いた。
それから2週間、俺たちは言葉を交わさなかった。ただ、目が合う回数が増えた。彼女が髪を耳にかける瞬間、俺を見ている時間が少しだけ長くなった。
そして3月最後の金曜日。
彼女はいつもの場所にいなかった。
電車が動き出して、俺は初めて自分の胸がこんなにざわつくことを知った。
降りる駅が近づくにつれて、胃が締め付けられるような感覚がした。
そして次のホームが見えた瞬間──
彼女がいた。
改札の外側ではなく、ホームの端っこに。
俺の乗っている電車の進行方向と逆側に立って、こっちを見ていた。
ドアが開いた瞬間、彼女が小さく手を振った。
俺は思わず駆け出して、ドアが閉まるギリギリで飛び降りた。
「……待っててくれたの?」
息を切らしながら聞いた。
彼女は少し照れたように笑って、首を振った。
「違うよ。
今日でこの路線、最終日なんだって。
だから……最後に、ちゃんと顔を見たかった」
電車の出発ベルが鳴り始めた。
残り1分もない。
俺は彼女の手を、初めて触れた。
冷たかった。でも柔らかかった。
「名前、教えてくれる?」
彼女は目を細めて、すごくゆっくり言った。
「……明日も、ここで待ってるから。
その時に、教える」
電車が動き出した。
彼女はホームの端で、最後まで俺を見送ってくれた。
俺は窓から身を乗り出して、叫ぶように言った。
「絶対、来るから!」
彼女の笑顔が、ガラス越しにぼやけて見えた。
電車がトンネルに入る直前、
彼女が小さく、でもはっきり口の形だけで言ったのが見えた。
『約束ね』
それが、俺たちの最後の1分間だった。
──そして次の朝、俺は少し早めに家を出た。
(終)
名前も知らない。顔も、はっきり覚えていない。ただ、毎朝7時42分発の快速電車で、彼女が手に持っているのは決まって白い紙袋で、中に何か柔らかそうなものが入っているらしいこと。そして、降りる直前にいつも少しだけ髪を耳にかける仕草だけが、妙に頭に残っていた。
俺はいつも斜め後ろの位置にいて、彼女の背中を3分間だけ見ていた。
ある朝、いつものように電車が揺れて、彼女の紙袋が俺の膝に軽く当たった。
「あ、ごめんなさい」
初めて聞く声だった。少し低めで、朝の空気に溶けそうな声。
「いえ、大丈夫です」
それだけ言って、彼女はまた前を向いた。でもその日から、俺たちの距離がたった5センチ縮まった気がした。
次の週の月曜日。彼女は紙袋を持っていなかった。代わりに小さな本を手にしていた。表紙は淡い水色で、タイトルは読めなかった。
電車が急に揺れて、彼女がよろめいた。俺は咄嗟に手すりを掴んで彼女の背中を支えた。
「……ありがとう」
今度はちゃんと顔が見えた。少し驚いたような、でもどこか安心したような目。
「いつもここにいるよね」
彼女が言った。
「……うん。君も」
「……うん」
それだけだった。
でもその「うん」が、俺にとってはやけに長く響いた。
それから2週間、俺たちは言葉を交わさなかった。ただ、目が合う回数が増えた。彼女が髪を耳にかける瞬間、俺を見ている時間が少しだけ長くなった。
そして3月最後の金曜日。
彼女はいつもの場所にいなかった。
電車が動き出して、俺は初めて自分の胸がこんなにざわつくことを知った。
降りる駅が近づくにつれて、胃が締め付けられるような感覚がした。
そして次のホームが見えた瞬間──
彼女がいた。
改札の外側ではなく、ホームの端っこに。
俺の乗っている電車の進行方向と逆側に立って、こっちを見ていた。
ドアが開いた瞬間、彼女が小さく手を振った。
俺は思わず駆け出して、ドアが閉まるギリギリで飛び降りた。
「……待っててくれたの?」
息を切らしながら聞いた。
彼女は少し照れたように笑って、首を振った。
「違うよ。
今日でこの路線、最終日なんだって。
だから……最後に、ちゃんと顔を見たかった」
電車の出発ベルが鳴り始めた。
残り1分もない。
俺は彼女の手を、初めて触れた。
冷たかった。でも柔らかかった。
「名前、教えてくれる?」
彼女は目を細めて、すごくゆっくり言った。
「……明日も、ここで待ってるから。
その時に、教える」
電車が動き出した。
彼女はホームの端で、最後まで俺を見送ってくれた。
俺は窓から身を乗り出して、叫ぶように言った。
「絶対、来るから!」
彼女の笑顔が、ガラス越しにぼやけて見えた。
電車がトンネルに入る直前、
彼女が小さく、でもはっきり口の形だけで言ったのが見えた。
『約束ね』
それが、俺たちの最後の1分間だった。
──そして次の朝、俺は少し早めに家を出た。
(終)
10
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる