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青い芝の向こう側
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隣の芝はいつだって青い。凪いだ空気の中で、傍らで燃えていたのだ。
蝉の声が鳴り響く庭。軒下で桶に水を溜めて足を冷やしながら、入道雲を眺めていた。肌に張り付くような湿度が、やがて水滴となって額から滴り落ちていく。後ろで扇風機が首を振るたびに、ぱらぱらと参考書が捲れた。
俺は夏が嫌いだ。暑ければ脱げと言うが、これ以上どうしろと。古臭い我が家にエアコンなんてない。頼れるのは昭和感漂う扇風機だけだ。苦肉の策で足を水に突っ込んでみたが、もう既に地面の暑さに負けてぬるま湯と化している。
こんなことで体力を消耗している場合ではない。今は高校生活最後の夏休みだ。世の中の馬鹿どもが遊んでいる間に、少しでも差をつけなければならない。
絆侍は両足をタオルで拭くと、文机に向かってテキストを開いた。足が痺れるからと両親に机を強請っているが、置く場所がないため小学生の時からここで勉強をしている。否、させられている。
気持ちを切り替えて、勉強を再開しようとする彼の元に、一人の足音が迫っていた。長年この家に住んでいれば、渡り廊下の木材の軋み方で歩き方の癖がわかる。障子の向こうに現れた人影に、絆侍は視線を向けた。
「絆侍、ちょっといいか」
「……何か用」
現れたのは絆侍と四つ歳の離れた兄だった。彼らの仲は決して悪くはない。両親の期待に応え続け、何でもそつなくこなす兄だった。絆侍にとっては、否応なく比べられる存在でもある。
絆侍の素っ気ない返事にも気を留めず、兄は扇風機の前に腰を下ろした。
「お前、今日の試合観に行かなかったんだな」
「……何が」
「何が……って、今日インターハイ決勝だぞ⁉︎」
「別に興味ないし。俺と関係ある?ソレ」
「…………」
絆侍は兄に見向きもしないまま、スラスラと計算式を書き連ねていた。兄は苦虫を噛み潰したような顔で、慎重に言葉を選びながら絆侍に問いかける。
「直史の決勝だったんだぞ。観たくなかったのか」
直史は絆侍の幼馴染だ。絆侍の家は昔から有名な剣道場で、幼い頃に泣きながら母親に連れてこられたのが直史だった。当時は、兄も道場で稽古しながら絆侍と直史、二人の面倒を看ていたことをよく覚えている。
絆侍にとって直史は良い刺激だった。最初は力量の差こそあれど、絆侍には天性のセンス、そして直史は常人を遥かに凌ぐ忍耐があった。試合の結果だけ見れば、絆侍は華やかだったが、直史も決して悪くはなかった。道場主である父も、絆侍が中学の全国大会で個人優勝を果たした時、次は高校を舞台に二人で全国優勝を果たせると意気込んでいたほどだった。
……あの日が訪れるまでは。
兄の問いかけに絆侍は口を閉ざしたままだった。同じく兄も無言のまま、反応を待つが、部屋には扇風機の風音しか響いていない。
「……結果は」
視線に耐えかねたのか、ぼそっと絆侍が言葉を返した。
「個人戦で優勝だ。とても良い試合だったよ」
「…………」
手に持っていたシャープペンシルが止まる。それだけではなく、部屋の空気全てが停止しているような錯覚に陥った。
「インタビューでお前のことを話していたよ。自分が高校でも諦めずに剣道を続けられたのは、幼馴染のお陰だと。彼は素晴らしい剣士で、続けていれば、間違いなくこの場に立っていた。チームや家族に感謝すると同時に、その幼馴染に今回の結果を伝えたい、と」
どの口が、とノートをぐしゃりと握り締めた。
「関係ねぇって言ってんだろ。もう出ていけよ、話聞きたくない」
「……すまない。ただ、これだけは言わせろよ」
兄は立ち上がると、陽炎が立ち上る庭を背景に、こちらへ言葉を投げかけた。逆光のせいで、表情はよく見えない。
「お前は自由に生きていいんだ。父さんや母さんが何言おうと気にしなくていい。どの道を選んでも金は出してくれる。お前は俺より器用で、沢山の道を選べるんだから、変な気を遣うなよ。……俺は応援してるからさ」
沈黙を押し殺すように、絆侍は吐き捨てた。
「……うざ」
退散する兄の背中を鋭く睨みつけると、絆侍は寝そべって天井を見つめた。全国優勝、その響きが重石となって、体ごと畳に沈んでいくようだった。
裏切者。人生で二度言われたことがある。一度は両親。二度目は直史。
兄は嫉妬するほどに優秀だった。両親は兄を大学や院へ進学させたかったのだろう。それを理由に俺を剣道に縛りつけた。中学で引退する予定が、全国優勝したことで、高校でも続けろと主張を変えたのだった。しかし、俺が突然剣道を辞めたことで、道場の後継に兄が名乗り出た。自分で言うのは嫌だが、俺も兄も、どの分野でも親の期待以上の成績を残してきた。それでも両親は自分の思う通りに子供が動いて欲しかったのだろう。それが兄の反抗だった。剣道に雁字搦めにされた俺を思っての、初めての反逆。そして、俺がそれに続いた。俺の選んだ反抗は──剣道から離れることだった。
そして、結果的に、巻き添えを食らったのが直史。直史は最初こそ剣道を嫌っていたが、次第に剣道が好きになりいつも楽しそうに稽古をしていた。高校でも二人で剣道を続けようと言われたことがあった。しかし、俺は剣道が嫌いだ。実家にいる以上、剣道から離れられない環境が嫌いで仕方がなかった。純粋に楽しむ直史が、どうしようもなく憎らしかった。俺はただ両親に裏切られたと思っていた。それを、直史なら理解してくれると信じていた。
「裏切者」
今でも耳に残っている。虫も殺さないようなお前が放った棘のある言葉。あの声さえなければ、この三年間、お前を忘れられたのに。
蝉の声が鳴り響く庭。軒下で桶に水を溜めて足を冷やしながら、入道雲を眺めていた。肌に張り付くような湿度が、やがて水滴となって額から滴り落ちていく。後ろで扇風機が首を振るたびに、ぱらぱらと参考書が捲れた。
俺は夏が嫌いだ。暑ければ脱げと言うが、これ以上どうしろと。古臭い我が家にエアコンなんてない。頼れるのは昭和感漂う扇風機だけだ。苦肉の策で足を水に突っ込んでみたが、もう既に地面の暑さに負けてぬるま湯と化している。
こんなことで体力を消耗している場合ではない。今は高校生活最後の夏休みだ。世の中の馬鹿どもが遊んでいる間に、少しでも差をつけなければならない。
絆侍は両足をタオルで拭くと、文机に向かってテキストを開いた。足が痺れるからと両親に机を強請っているが、置く場所がないため小学生の時からここで勉強をしている。否、させられている。
気持ちを切り替えて、勉強を再開しようとする彼の元に、一人の足音が迫っていた。長年この家に住んでいれば、渡り廊下の木材の軋み方で歩き方の癖がわかる。障子の向こうに現れた人影に、絆侍は視線を向けた。
「絆侍、ちょっといいか」
「……何か用」
現れたのは絆侍と四つ歳の離れた兄だった。彼らの仲は決して悪くはない。両親の期待に応え続け、何でもそつなくこなす兄だった。絆侍にとっては、否応なく比べられる存在でもある。
絆侍の素っ気ない返事にも気を留めず、兄は扇風機の前に腰を下ろした。
「お前、今日の試合観に行かなかったんだな」
「……何が」
「何が……って、今日インターハイ決勝だぞ⁉︎」
「別に興味ないし。俺と関係ある?ソレ」
「…………」
絆侍は兄に見向きもしないまま、スラスラと計算式を書き連ねていた。兄は苦虫を噛み潰したような顔で、慎重に言葉を選びながら絆侍に問いかける。
「直史の決勝だったんだぞ。観たくなかったのか」
直史は絆侍の幼馴染だ。絆侍の家は昔から有名な剣道場で、幼い頃に泣きながら母親に連れてこられたのが直史だった。当時は、兄も道場で稽古しながら絆侍と直史、二人の面倒を看ていたことをよく覚えている。
絆侍にとって直史は良い刺激だった。最初は力量の差こそあれど、絆侍には天性のセンス、そして直史は常人を遥かに凌ぐ忍耐があった。試合の結果だけ見れば、絆侍は華やかだったが、直史も決して悪くはなかった。道場主である父も、絆侍が中学の全国大会で個人優勝を果たした時、次は高校を舞台に二人で全国優勝を果たせると意気込んでいたほどだった。
……あの日が訪れるまでは。
兄の問いかけに絆侍は口を閉ざしたままだった。同じく兄も無言のまま、反応を待つが、部屋には扇風機の風音しか響いていない。
「……結果は」
視線に耐えかねたのか、ぼそっと絆侍が言葉を返した。
「個人戦で優勝だ。とても良い試合だったよ」
「…………」
手に持っていたシャープペンシルが止まる。それだけではなく、部屋の空気全てが停止しているような錯覚に陥った。
「インタビューでお前のことを話していたよ。自分が高校でも諦めずに剣道を続けられたのは、幼馴染のお陰だと。彼は素晴らしい剣士で、続けていれば、間違いなくこの場に立っていた。チームや家族に感謝すると同時に、その幼馴染に今回の結果を伝えたい、と」
どの口が、とノートをぐしゃりと握り締めた。
「関係ねぇって言ってんだろ。もう出ていけよ、話聞きたくない」
「……すまない。ただ、これだけは言わせろよ」
兄は立ち上がると、陽炎が立ち上る庭を背景に、こちらへ言葉を投げかけた。逆光のせいで、表情はよく見えない。
「お前は自由に生きていいんだ。父さんや母さんが何言おうと気にしなくていい。どの道を選んでも金は出してくれる。お前は俺より器用で、沢山の道を選べるんだから、変な気を遣うなよ。……俺は応援してるからさ」
沈黙を押し殺すように、絆侍は吐き捨てた。
「……うざ」
退散する兄の背中を鋭く睨みつけると、絆侍は寝そべって天井を見つめた。全国優勝、その響きが重石となって、体ごと畳に沈んでいくようだった。
裏切者。人生で二度言われたことがある。一度は両親。二度目は直史。
兄は嫉妬するほどに優秀だった。両親は兄を大学や院へ進学させたかったのだろう。それを理由に俺を剣道に縛りつけた。中学で引退する予定が、全国優勝したことで、高校でも続けろと主張を変えたのだった。しかし、俺が突然剣道を辞めたことで、道場の後継に兄が名乗り出た。自分で言うのは嫌だが、俺も兄も、どの分野でも親の期待以上の成績を残してきた。それでも両親は自分の思う通りに子供が動いて欲しかったのだろう。それが兄の反抗だった。剣道に雁字搦めにされた俺を思っての、初めての反逆。そして、俺がそれに続いた。俺の選んだ反抗は──剣道から離れることだった。
そして、結果的に、巻き添えを食らったのが直史。直史は最初こそ剣道を嫌っていたが、次第に剣道が好きになりいつも楽しそうに稽古をしていた。高校でも二人で剣道を続けようと言われたことがあった。しかし、俺は剣道が嫌いだ。実家にいる以上、剣道から離れられない環境が嫌いで仕方がなかった。純粋に楽しむ直史が、どうしようもなく憎らしかった。俺はただ両親に裏切られたと思っていた。それを、直史なら理解してくれると信じていた。
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