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第二章「父と娘」
3「焦る気持ち」
しおりを挟む翌朝、いつの間にか眠っていた私の服を誰かが引っ張った。その感触で目を覚ます。
「ママ! おはよっ!」
寝ぼけ眼で起きると、私の傍にあかりがいた。
「あ、かり?」
私はまだ眠たい目を擦ってあかりの姿に目を止めていると、あかりの後ろから声がかかった。
「おはよう、美咲。こんなところで寝て、大丈夫か?」
そう言ったのは父だった。
「お父さん」
「おはよう、美咲。聡君はまだ?」
父の問いかけに私は頷くしかなかった。昨夜の内に目覚めて欲しいと願って朝方まで粘って起きていたが、夫は一度も目覚めなかった。
「……うん」
「そうか。……美咲、お父さんがここにいるから、顔でも洗ってきたらどう?」
「え、でも」
「いいから。いっておいで」
父に勧められて、私は頷くしかなった。
「あかりはママに付いて行ってあげなさい。いいね」
父が言うと、あかりは元気よく「うん!」と答えた。たった一日だと言うのに、すっかり懐いたものだ。そんな事を感心しながら、私は父に任せて、お手洗いに向かった。
その後、顔を洗ってさっぱりした私に、父は「眠気覚ましに喫茶にでも行ってきたらどうだい?」と言った。
時刻はもう朝の九時過ぎ。
昨日は父がコンビニで買ってきてくれたおにぎりなんかを食べただけなので、軽くお腹は空いていた。でも、夫の傍を離れるのは憚れて……。
すると父は自分が見ているから、あかりと行っておいで、と言った。
そこまで言われてしまえば、私は何も言えない。
なので、私は父の勧めに乗って病院の一階に併設されてある小さな喫茶店で朝食を取ることにした。
喫茶店の中に入り、私はドリンクとトースト、スクランブルエッグ、サラダがセットになっているモーニングを、あかりはオレンジジュースを頼んだ。どうやらあかりは家で朝食を食べてきたらしい。
「今朝は何を食べたの?」
「ごはんとおみそしるとめだま(やき)!」
「昨日はどうだった? おじいちゃんのいう事、ちゃんと聞いた?」
「あのね、あかりいい子したよ」
そうあかりは笑顔で答えた。どうやら、あかりはすっかり父に気を許しているみたいだ。あかりからは、おじいちゃん好き! という気持ちが伝わってくる。その顔を見ていると、なんだか幼い頃の自分を見ているようで少し心がむず痒くなった。なぜなら私もあかりのように随分父に懐いていたからだ。思い返せば、幼い頃は母よりも父との思い出の方が多い。
父は翻訳家という職業を生業にしていた為、外で働く母よりも家にいて、私は母よりも父に面倒を見られていた。父は看護師をしていた母の代わりに家事も良くこなしていたし、今で言うイクメンだった。まだ私が幼い頃は男が働き、女が家事をする、という風潮が残っていた時代だ。
その時代背景を鑑みれば、父は随分最先端をいっていた。
そんな事を考えながら、私は父の姿を思い出す。私の記憶の中の父は病院にいる姿が多い。だからあんなに健康な父は初めて見る感じがした。
だからか、不意に母が話してくれたことを思い出した。
まだ母が父と結婚する前、付き合っていた時の事。
父はその朗らかな性格と端正な顔立ちで他の女性からもよくモテていたようで、誕生日には贈り物として高価なものを贈られていたらしい。父が母と結婚してからもバレンタインの日にはよくチョコを貰って帰ってきていたと、母は父が亡くなった後もバレンタインの時期にはよく零していた。
その事を私は思い出し、昨日現れた父を思い返す。
幼い頃はわからなかったが、確かにあの父なら女性には多いにモテただろう。幼い頃、父が他の男の人よりもずっとかっこよく見えていたのは、幼かったからだと思っていたが、そうではなかったみたいだ。
「ママ? どうしたの?」
あかりに声をかけられ、考え込んでいた私は慌てて「あ、何でもないよ」と答えた。
その後、朝食を終えた私は会計を終えて、あかりと共に父の下へ戻った。
それからICUの面会時間が訪れ、私とあかり、父の三人で夫の顔を覗いたが、未だ起きる気配はなく、面会時間が過ぎた頃にはお昼も近くなっていた。
そして窓から入る陽気に誘われて、睡眠不足の私は椅子に座りながら段々船を漕ぎ始めた。
「美咲、大丈夫か?」
そう父に声をかけられて目を覚ます。もう何度目だろう?
「あ、ごめん」
私はそう言って、目を擦った。だが父は私の顔を見てやれやれと言ったため息を吐いた後「美咲、一度家に帰ったらどうだ?」と言った。けれど、私はその勧めを断った。
「ううん、ここにいる」
目覚める時は傍にいたいから。けれど、それを父はわかりながらも、優しく諭した。
「美咲、今は無理するな。お腹の子もいるんだから。だから、一度家に帰って体調を整えて来たらどうだ?」
「でも」
「お父さんが見てるから、な?」
そう父に優しく言われてしまえば、「けど」と言いつつ最終的に私は頷くしかなかった。父のいう事もわかるからだ。その後、私は父に押し切られて家にあかりと一緒に戻る事になった。
それからどれくらい眠ったのか。
目を覚ました時、もう辺りはオレンジ色に包まれ、私はクーラーをついた涼しい部屋であかりと一緒にベッドの上で横になっていた。
今、何時? そう思ってサイドボードに置いてある置き時計に目を向けると、時刻は五時を過ぎを指していた。どうやら四時間近く眠っていたらしい。私はすぐに傍に置かれていた鞄から自分の携帯を取った。けれど、父からの連絡は来ていない。まだ夫は目覚めていない、という事だ。
私は重苦しい気持ちが胸いっぱいになって、大きなため息を吐いた。
このまま、目覚めなかったらどうしよう?
大きな不安がまた胸にじわじわと押し寄せてくる。まるで心を侵食されるみたいに。その不安に私はじっとできず、隣で眠っていたあかりを起こした。
「あかり、あかり、起きなさい。病院に行くわよ」
身体を揺さぶって起こすと、あかりは目を擦りながら起きた。いや、正確に言えば強制的に起こされた。
「うーん、ママぁ?」
「あかり、また病院に行くからね」
「うーん、やだぁ。まだねるー」
あかりは眠たそうに言い、身体を起こそうとしなかった。けれど、私はあかりを無理やり起こして病院に向かった。
「どうしたんだ? あかり」
病院に着いた途端、あかりを見た父が開口一番、少し驚いた顔で言った。あかりはぐずりながら私の隣に立っていたからだ。でも、あかりは何も言わずに父の傍に寄って、その足元にすがった。
「何かあったのか?」
すがり寄ったあかりの頭を撫でながら、父は私に尋ねた。その問いに私は少し疲れを感じながら答えた。
「別に大したことは。あかりが病院に来るのを嫌がっただけ」
「ここに来るのが嫌だったのか? あかり」
説明を聞いた父があかりに尋ねるが、あかりはぎゅっと父の足を掴んだまま何も言わない。そんなあかりを見て、父は少し呆れたように小さく息を吐き、私に視線を向けた。
「あかりがぐずったなら、もう少し家でゆっくりしてきたらよかったんじゃないか?」
それはいつもと変わらない父の声だったけれど、なんだか責められているような気分になって私は少しだけ声を張った。
「もう十分ゆっくりしたから」
私がそう言うと父は「そうか」と言って、椅子から立ち上がり、あかりを抱っこした。
「あかり、おじいちゃんと一緒にジュースを買いに行こうか」
父が言うと、抱っこされたあかりは何も言わずに頷いた。そんな父を私は引き留めた。
「お父さん! あんまりあかりを甘やかさないで、昨日もそうやって」
そこまで言いかけたけれど、父はそれ以上を私に言わせなかった。
「今しかないんだ。だから、な?」
父は笑顔で言い、あかりを抱っこしたまま出て行った。その後ろ姿を見送り、私は父が座っていた椅子に腰かけ、大きくため息を吐く。そして、少し自己嫌悪に陥った。
父の言う通り、もう少しゆっくりしてからここに来ても良かったのだ。でも、余裕のない今の私はぐずるあかりを無理やり連れてきた。少し自分勝手だっただろう、と心の中で反省する。
だけど、今は余裕を持つことができない。心の中にある焦燥感と不安、それだけで一杯だから。そして、父はそれが全てわかった上でああ言い、あかりを連れて出たのだろう。私とあかりに落ち着く時間を作る為に。
その結論に至り、本当に父がいてくれて良かったと、私は再認識する。
でも、その父がいてくれるのもあと二日後まで。その後は……?
途方もない不安が胸を占める。
「聡、早く……早く起きてよ」
切実な声で私は小さく呟いた。けれど、未だ夫の瞳が開かない。
「あかり、寝ちゃったよ」
小一時間ほどしてから戻ってきた父の腕でぐっすりと眠っているあかり。父はそのあかりを抱えたまま、私の隣に座った。
「うん……ごめんね、子守りさせて」
私が思わず謝ると父は首を傾げて笑った。
「どうして? お父さんは嬉しいよ」
その言葉に嘘はなかった。だから私も笑うしかなかった。そんな私に父はあるものを差し出した。それは缶のミルクティーだった。
「美咲、これ好きだったよな? 自販機で見かけたから思わず買っちゃったよ」
父はそう言って私に手渡しした。でも、私がこのミルクティーを好きだったのは昔の話だ。大人になった私には甘すぎて、今はどちらかというとブラックのコ-ヒーの方が好みだ。けれど、私は折角買ってきてくれた父を前にそんな事を言えなかった。
「ありがとう。……そういえば、いつも買ってもらっていたっけ」
私は父が入院していた時によく買ってもらったことを思い出した。あの時の私は幼過ぎて、父の死が近い事を感じながらも、重大には感じていなかった。まだ誰かが死ぬという事の意味を知らなかったから。
父はあの時、どう思っていたのだろう。
妻子を残して、死にゆかなければならない状況を。まだ二十代という若さで、したい事もやりたい事もたくさんあったのに、生きる事が叶わない事を。
もしも、私が父の立場だったならきっと耐えられない。泣いて、わめき散らしていて、それでも気が済まなかっただろう。でも、父はいつも笑顔でいた。家でも、病院でも、どこでも。病気なんてどこ吹く風っていう感じで。だから、かもしれない私が父の事で覚えているのは楽しんでいる姿だけ。
だけど、ただ一度だけ、父が弱音を吐いた事があった。それは一時帰宅が許された時だ。もう夜遅い時間だった。トイレに起きた私はリビングの明りに気が付いて、近寄った。すると、そこで父が静かに泣いていた。「死にたくない」と、傍に寄り剃っていた母に弱音を漏らして。母はそんな父の背中を優しく撫でていた。私はなんだか見てはいけないものを見たような気持ちになって、トイレに行かず部屋に戻った。
思えば、あれが最初で最後の父の弱い姿だった。けれど、あれが本心だったのだろう。いつもは私や母に心配をかけないようにしていただけなのだ。
「美咲」
不意に父から声をかけられて、私は思考の海から顔を上げた。
「え、何?」
「何、考えてたんだ?」
父に尋ねられて、私は言葉に詰まった。まさか、本人を前に貴方の事を考えていました、とは言いにくい。内容も内容だ。
「別に……それより、そろそろあかりを連れて帰って。今日も私がここに残るから」
「いや、今日はお父さんも残るよ」
「え? でも」
「あかりの事なら、お父さんがこうやって抱えてるから大丈夫。今日は傍についてる」
“傍についてる“ その一言のなんと心強いものか。私はただお礼を言うしかなかった。
だけど、あと二日しかないのに私の傍にいいのだろうか? という疑問が胸を掠める。けれど、今の私にはそれを尋ねる勇気がなかった。一人で孤独に立ち向かう勇気がなかったから。
でも父がいてくれても夫が目を覚ます事はなかった。無情にも窓の外は明るくなり、明日が今日になる。
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