散華記

水城真以

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菊花の戯れ

二、

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 城で暮らすようになって――於菊おきくが気に入っている場所は、城下を見渡せる丘のほかに、もうひとつある。
 金山城の、長可ながよしとその家族が暮らす庭である。常に季節の花が咲いており、今は秋の花が美しい。

 萩、葛、萱、撫子、桔梗……。

 目に映った花を間引くように伐りながら、水をやり、雑草を抜いていく。
 戦場では鬼と呼ばれ、普段の口数は多くない、寡黙な城主、森長可。一方、右筆を持たずに自分で筆を取ったり、茶器を好んで堺にも通じているという文化人でもある。何度か万里も呼ばれており、一緒に茶室に入ったことがあったが、於菊には茶の湯の良さがさっぱり分からなかった。

(でも、花は、好き)

 於菊が鼻の手入れをしていると、足音が聞こえた。振り返ると、長可が立っている。ちょうど考えていた相手がいたことに驚いて、於菊は前髪の庇の下で目を見開いていた。
「お前はよくここにおるな」
 於菊はうなずいた。
「姫さまが、とても喜ばれるのです――あたしも、花は好きで……なんだか気持ちが落ち着くんです」
 長可はにこりともしない。乱丸同様、愛想はない。しかし、於菊は厭な気持ちにならなかった。城主だからというだけではなく、乱丸のような冷たさを長可には感じない。
 長可がふと、不思議そうに首を傾げた。
「菊の花は摘まぬのか」
 於菊はびくりと肩を揺らした。
「き、菊の花は……あまり、好き、じゃ、なくて……」
「そうであったか?」
 長可は眉を顰めた。
「お万里には、花の好き嫌いはないと思うておったが……まあ、あれは猫より気まぐれであるゆえな」
 万里のことではないのだが、わざわざ否定するほどのことでもない。
「殿も、お花が好きですか?」
「……嫌いではない。どれ、儂も奥の機嫌取りに一輪もらって行くか。どの花がよいと思う」
 於菊は抱えていた花のなかから、撫子を差し出した。長可は於菊の頭を撫で、屋敷に戻って行った。その背中がどこか寂しそうに見えたのは、弟たちがいないからだろう。岐阜城に行けば会えるといっても、信忠の与力である長可と、信長の小姓である乱丸たちとでは、すれ違うのがせいぜいである。そうでなくとも、信長は安土山に新たな城を築いており、ゆっくり兄弟膝を突き合わせて――という場面はほとんどないはずだった。
 無骨な掌に撫でられ、跳ねた髪に、重ねるように己の手を弾ませる。風が置きざりにした髪油のにおい――ひさが毎朝、長可の髪を梳いてやるのに使っているのだと、須磨が言っていた。
 もう一度髪を撫でて万里の部屋に向かおうとしたとき――なにかに髪を掴まれた。
「え、やだ……」
 どうやら毛先が花の――よりによって、菊花の茎に引っかかっていた。ろくに櫛を通していないせいで、振り返った拍子に、ますます伸ばしっぱなしただけの髪が複雑に絡んでしまう。
 誰かに助けをと思ったが、こういうときに庭師も、下女たちも通らない。暴れまわっても疲れるだけで、菊花が離れてくれることはない。諦めて於菊はしゃがみこんだ。手元にある鋏で髪を切り落してしまおうか思案していると、足音が近づいてくる。安堵しながら顔を上げると、見覚えのない少年が立っていた。

「そなた……」

 まだ声変わりもしていない、高い声である。墨を溶かしたような髪を山吹色の紐で束ね。愛染の地に赤い流水のような紋様を引いた肩衣は、日に焼けた健康的な肌色によく似合っている。乱丸のように少女と見間違う――わけではないが、真面目そうな顔をしている。
「いかがした」
 少年は、於菊のことをじーっと見下ろした。
「そのようなところでしゃがみこむものではない。怪我でもしたのか?」
「あ、あの……」
「それとも、具合でも悪いのか」
「い、い、え、あの……」
「この城の下女――であろう?」
「あ……の……」
「…………。……儂は、如何したのかと訊いておる!」
 於菊がうまく話せずにいると、痺れを切らした少年ががなり立てた。於菊は思わず目を潤ませながらどうにか体は大丈夫であることを告げ、「けど」と続けて濁した。茎に絡まった髪をちらと見せると、少年は於菊の頭を抱くような体勢で、毛先と茎を検分しはじめた。
 身内以外でこんなに近づかれたことなどほとんどなく、於菊は心の臓が騒がしくなるのを感じた――のはつかの間だった。

「菊を伐ればよいな」

 冷静に考えれば、少年の言う「菊」が自身のことではなく花の方を指しているのだということも、「斬る」ではなく「伐る」だということも分かるのに、於菊の悪い頭は妙な変換をした。少年が短刀に手をかけるのが目に入ったことも、一層不安を駆り立てた要因であろう。
「そ、それはちょっと!」
 於菊が暴れることで、ますます髪と茎が絡み合う。
「暴れるな! そのままにもしておけぬだろう。髪を切ることになる!」
「髪なんか、いくら切ってもいいから! 菊のことは、斬らんでください!」
「菊の代わりなぞいくらでもある! お前の主はたかだか菊一つ伐ったからと言うて怒るような狭き心の持ち主なのか?!」
 いくら切り替えが早い万里でも、於菊を斬られて「ふーん。そう。じゃあ、新しい侍女をもらわないと」で済まさないと信じたい。――充分に想像できてしまうのが恐ろしいところであるが。
 暴れ続ける於菊にしびれをきらしたのか、少年が短刀を抜いた。

「ええいっ、面倒じゃ!」

 いよいよ終わりの時を覚悟し、目をつむる。城に来てからの思い出が、頭の中を駆け抜けた――が、痛みはいつまで経っても訪れず、血のにおいもしない。恐る恐る瞼を持ち上げると、菊花が一輪、於菊の前に差し出された。
「これはお前が取って置け。災難ではあったが、秋の訪れのささやかな悪戯と思うて赦してやれ」
「……菊を、斬ろうとしたんじゃないの……?」
 於菊は目をぱちぱちとしながら、少年から花を受け取った。
「だから、伐っただろう」
「え、あ……菊花じゃなくて、菊のこと……」
「だから、菊は菊花だろう」
「あ、違う。菊っていうのは、」
 あたしのことです、と告げる前に、ぶちりとなにかが切れる音がした。
「ええいっ、まだるっこしい!」
 どうやら切れたのは、少年の堪忍袋の緒らしかった。
「俺は岐阜中将ぎふちゅうじょうさまからの使い、加藤かとう辰千代たつちよじゃ!森勝蔵しょうぞう殿に繋げ!」
「は、はい~~~~~~!」
 逃げるように花々を掻き分け、於菊は屋敷に駆けた。濡れ縁に這い上がると、ちょうど須磨すまが通りかかったところであった。
「あら、於菊。お客人?」
「え、ええ。岐阜の、中将さまから……殿に……」
「そう。殿は確か、奥方さまのお部屋に向かわれていたわよ」
 一緒に行くと言ってくれないかと一瞬期待したが、須磨はせかせかと荷物を持って弥の部屋――とは反対方向に行ってしまった。
「あの女人は……奥方の侍女どのか? 美人だな――」
 惚ける辰千代に、於菊は少しだけ誇らしくなった。
「お、お須磨は、も……元々は奥方様の侍女で……い、今は、あたしと……」
「説明はいらん」辰千代は苛立ったように於菊を遮った。「お前の話はまだるっこしゅうて敵わぬわ。お前の話を聞いているうちに岐阜へ戻れようぞ」
 於菊は「申し訳ありません」と肩を落として謝った。出会って一刻も経っていない――というのに、辰千代は於菊と関わることを拒んでいるのが全身で伝わった。
 通りかかった長可の近習に岐阜から使いが来たことを告げ、客間に辰千代を案内しながらも――於菊はずっと辰千代から注がれる威圧感に若干涙ぐみながら耐えていた。
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