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第一章「婚礼の旅路」
一、
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木の枝に草履の鼻緒が引っかかるせいで、走りにくい。
目に塵が入らぬよう市女笠を被れという従兄の指示は正しかったのだと、谷は妙に冷えた頭の中で納得していた。
「お嬢さん、こぢらへ!」
傅役の薺に手を引かれ、谷は茂みに押し込まれた。頬や袖に木の枝が引っかかる。
鳴り響く胸の音を掻き消すほどの無数の足音が、土と枯れ葉を踏みしだいた。
薺は谷の口を掌で覆いながら、「大丈夫だ、大丈夫……」と念仏のように唱えた。それは谷を安心させるためというより、自分自身を震えから守るためのようだった。
「おい、あいづらどさ行った」
「さあ……ほだな遠ぐには行ってねぇはずだ」
「若ぇ女が二人で、馬鹿なごどだ。たねれ。で、おらに最初さ食わせろ」
「一人ぐらいこっちに譲ってぐれよ」
下卑た笑い声とともに、足音が近付いて来る。谷は「来るな」と心の中で必死に念じた。しかし、そんな願いも空しく――足音は、二人が潜む茂みの前でぴたりと止まった。
「おー、こごさいだが。たねだじぇ」
「睨むなよ、すぐに気持ぢ良ぐしてけっからよぉ」
にやにやと笑う男たちの体からは、獣の脂と泥が混じったような嫌な臭いが漂っていた。
衣は帯が必要なのかと思うほどボロボロに裂けて穴が空き、土と垢が混じった臭いが漂っている。
薺は谷を抱き寄せながら、狼藉者たちを睨み付けた。
「お嬢さんに近付ぐな! お嬢さんには、指一本触らせねぇ!」
薺の声に、男達はげたげたと下卑た声を上げて笑った。
「威勢のいいのは嫌いでねぇじぇ。じゃあ、早速おらから――」
「薺、お谷、伏せろ!」
聞き慣れた叫び声と同時に、薺が谷を地面に組み伏せた。
その直後、ヒュンヒュンと風を切って石礫が飛び交う。
野盗たちの悲鳴とともに、時折、薺の被った市女笠に石がぶつかる鈍い音と、「痛っ」という呻きがした。 谷が顔を上げようとすると、薺が「伏せでっ」と言いながら谷の頭を押さえつけた。
やがて――礫の雨が止んだ。
谷がおずおずと頭を上げようとしても、薺は止めない。
顔を上げると、既に男たちの姿はなかった。ただ、春を待つ雪の上に、赤い血の痕が点々と浮かび上がっているだけだった。
「お嬢さん、怪我はねぇが?」
心配そうに覗き込んできた薺の双眸には、谷を案じる深い情愛が宿っていた。
「まったぐ……おめがだは」
二人の上に影が落ちた。見上げると、従兄の愛平が仁王立ちしていた。
「不用心過ぎるぞ。せっがぐおめがだにど思って供を連れで来だのに、これでは意味がねぇ。女二人でちょろちょろど動ぎ回るものでねぇ!」
「だって、兄様」
額に軽い指弾を受けながら、谷は頬を膨らませた。
「流石に用を足す時に、他の男の人たちを連れで行ぐのは厭だったんだよ。薺じゃなぎゃ」
愛平は肩を落とし、微妙な顔をした。下のことならば、幼い頃から子守りをしてくれていた薺でなければ嫌なのも道理である。
愛平は「次は遠くでいいから誰かしら男を呼べ」と薺に厳命した。
谷は地面に座り込んだまま、ぼんやりと空を仰いだ。
雪に覆われた木々の隙間から、雲一つない空が見える。雪の下にある木は、小さな蕾が膨らみ始めている。
故郷の象潟に比べ、この山を越えた先に雪はあまりないのだろうか――と谷は思った。
「お嬢さん、本当さ大丈夫です?」
薺が谷の前に膝を突いた。柳眉はへにょりと下がり、悲しそうである。
谷は慌てて笑顔を浮かべた。
「大丈夫。梅が咲ぎそうだなぁ、って思って見でいだだげよ」
薺は釣られたように木を見た。
「本当だぁ」
薺が小さく息を呑む。
「旦那様も、せめて春になってがら出立すればええのに」
象潟を出てからの道中、薺は何度同じ言葉を言ったことだろう――と谷は小さく噴き出した。
同じことをくどくどと言われても、不思議と腹は立たなかった。
その名の通り野に咲く花のような佳人である薺は、谷にとっては侍女という以上に、姉のような存在である。
薺は谷に掌を差し出した。谷は一瞬きょとんとしてから、薺の手を取って立ち上がった。
薺は谷の顔をじっと見つめてから、愛平を振り返った。
「若旦那様。少し、休ませてください」
「薺」
谷は姐やの袖を引いた。
「わたしは平気よ。まだ歩げる」
本当は足の指の間がじくじくと痛むし、草履の鼻緒は血が滲んでいる。しかし、山賊に襲われたせいで旅程を遅らせてしまったのだから、休む暇はない。
すると、薺はいたずらっぽく舌を出した。
「違いますよ、お嬢さん。私がもう疲れでしまったんだ。若旦那様、申し訳ござらねぇが、お付き合いいただけますと助がります」
「分かった。薺がそう言うなら仕方ねぇな」
愛平は苦笑すると、先導する者たちの方へ足を急がせた。
谷は梅の枝を見つめながら、山賊に囲まれた瞬間を思い出した。もう無理だと思った時、口を衝いて出そうになったのは、両親の名でも愛平の名でもなかった。
(小太郎様、と……呼びかけていた)
会ったこともない許婚。何故だかきっと助けてくれる――無意識にそう確信していたことに驚きながら、谷は胸に手を置いた。
名しか知らない”許婚”――だがその人は、谷にとって、一筋の光のようであった。
あの日――象潟の屋敷で聞いた、あの噂。
谷の脳裏に、半年前の光景がぼんやりと浮かび上がっていた。
目に塵が入らぬよう市女笠を被れという従兄の指示は正しかったのだと、谷は妙に冷えた頭の中で納得していた。
「お嬢さん、こぢらへ!」
傅役の薺に手を引かれ、谷は茂みに押し込まれた。頬や袖に木の枝が引っかかる。
鳴り響く胸の音を掻き消すほどの無数の足音が、土と枯れ葉を踏みしだいた。
薺は谷の口を掌で覆いながら、「大丈夫だ、大丈夫……」と念仏のように唱えた。それは谷を安心させるためというより、自分自身を震えから守るためのようだった。
「おい、あいづらどさ行った」
「さあ……ほだな遠ぐには行ってねぇはずだ」
「若ぇ女が二人で、馬鹿なごどだ。たねれ。で、おらに最初さ食わせろ」
「一人ぐらいこっちに譲ってぐれよ」
下卑た笑い声とともに、足音が近付いて来る。谷は「来るな」と心の中で必死に念じた。しかし、そんな願いも空しく――足音は、二人が潜む茂みの前でぴたりと止まった。
「おー、こごさいだが。たねだじぇ」
「睨むなよ、すぐに気持ぢ良ぐしてけっからよぉ」
にやにやと笑う男たちの体からは、獣の脂と泥が混じったような嫌な臭いが漂っていた。
衣は帯が必要なのかと思うほどボロボロに裂けて穴が空き、土と垢が混じった臭いが漂っている。
薺は谷を抱き寄せながら、狼藉者たちを睨み付けた。
「お嬢さんに近付ぐな! お嬢さんには、指一本触らせねぇ!」
薺の声に、男達はげたげたと下卑た声を上げて笑った。
「威勢のいいのは嫌いでねぇじぇ。じゃあ、早速おらから――」
「薺、お谷、伏せろ!」
聞き慣れた叫び声と同時に、薺が谷を地面に組み伏せた。
その直後、ヒュンヒュンと風を切って石礫が飛び交う。
野盗たちの悲鳴とともに、時折、薺の被った市女笠に石がぶつかる鈍い音と、「痛っ」という呻きがした。 谷が顔を上げようとすると、薺が「伏せでっ」と言いながら谷の頭を押さえつけた。
やがて――礫の雨が止んだ。
谷がおずおずと頭を上げようとしても、薺は止めない。
顔を上げると、既に男たちの姿はなかった。ただ、春を待つ雪の上に、赤い血の痕が点々と浮かび上がっているだけだった。
「お嬢さん、怪我はねぇが?」
心配そうに覗き込んできた薺の双眸には、谷を案じる深い情愛が宿っていた。
「まったぐ……おめがだは」
二人の上に影が落ちた。見上げると、従兄の愛平が仁王立ちしていた。
「不用心過ぎるぞ。せっがぐおめがだにど思って供を連れで来だのに、これでは意味がねぇ。女二人でちょろちょろど動ぎ回るものでねぇ!」
「だって、兄様」
額に軽い指弾を受けながら、谷は頬を膨らませた。
「流石に用を足す時に、他の男の人たちを連れで行ぐのは厭だったんだよ。薺じゃなぎゃ」
愛平は肩を落とし、微妙な顔をした。下のことならば、幼い頃から子守りをしてくれていた薺でなければ嫌なのも道理である。
愛平は「次は遠くでいいから誰かしら男を呼べ」と薺に厳命した。
谷は地面に座り込んだまま、ぼんやりと空を仰いだ。
雪に覆われた木々の隙間から、雲一つない空が見える。雪の下にある木は、小さな蕾が膨らみ始めている。
故郷の象潟に比べ、この山を越えた先に雪はあまりないのだろうか――と谷は思った。
「お嬢さん、本当さ大丈夫です?」
薺が谷の前に膝を突いた。柳眉はへにょりと下がり、悲しそうである。
谷は慌てて笑顔を浮かべた。
「大丈夫。梅が咲ぎそうだなぁ、って思って見でいだだげよ」
薺は釣られたように木を見た。
「本当だぁ」
薺が小さく息を呑む。
「旦那様も、せめて春になってがら出立すればええのに」
象潟を出てからの道中、薺は何度同じ言葉を言ったことだろう――と谷は小さく噴き出した。
同じことをくどくどと言われても、不思議と腹は立たなかった。
その名の通り野に咲く花のような佳人である薺は、谷にとっては侍女という以上に、姉のような存在である。
薺は谷に掌を差し出した。谷は一瞬きょとんとしてから、薺の手を取って立ち上がった。
薺は谷の顔をじっと見つめてから、愛平を振り返った。
「若旦那様。少し、休ませてください」
「薺」
谷は姐やの袖を引いた。
「わたしは平気よ。まだ歩げる」
本当は足の指の間がじくじくと痛むし、草履の鼻緒は血が滲んでいる。しかし、山賊に襲われたせいで旅程を遅らせてしまったのだから、休む暇はない。
すると、薺はいたずらっぽく舌を出した。
「違いますよ、お嬢さん。私がもう疲れでしまったんだ。若旦那様、申し訳ござらねぇが、お付き合いいただけますと助がります」
「分かった。薺がそう言うなら仕方ねぇな」
愛平は苦笑すると、先導する者たちの方へ足を急がせた。
谷は梅の枝を見つめながら、山賊に囲まれた瞬間を思い出した。もう無理だと思った時、口を衝いて出そうになったのは、両親の名でも愛平の名でもなかった。
(小太郎様、と……呼びかけていた)
会ったこともない許婚。何故だかきっと助けてくれる――無意識にそう確信していたことに驚きながら、谷は胸に手を置いた。
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