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第二章「観音様のご縁」
四、
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薺とて、身近な人――たとえば愛平や谷――が同じ思いでいてくれなかったら、面白くはない。
薺が「お嬢さんが納得するまで、いつまでも付ぎ合いますよ」と励ますか、あるいは「かわいそうなお嬢さん。お嬢さんに、何の罪があるっつうなだべ……」と泣いてやるのが谷の理想なのだろう。
境遇だけ見れば哀れではある。しかし、正直なことを言えば、薺にとって小太郎は見知らぬ他所の子息に過ぎない。蜂谷夫妻を哀れむ気持ちはあるけれど、谷のように泣き暮れるほどの共感ではない。
薺にとっては、谷のこれからの身の振り方のほうが余程大切だ。誰にも嫁がず、女の幸せひとつ知らぬまま朽ち果てさせるために育ててきたわけではない。
溜息を吐きながら歩いていると、愛平が庭に立っていた。
愛平は薺に気がつくと、「おう」と手を上げながら近づいてきた。薺は愛平を見上げるために、その場に膝を突いた。
「お谷は寝だが?」
「ええ、ぐっすりと」
薺は唇を尖らせた。
「お嬢さん、泣いで泣いで大変だったなだんすよ。『兄さまは冷てぇ、わたしがこんなに悲しいっつうのに、帳簿の整理するほうが大事だんだな』って」
「そいだば……すまん」
罰が悪そうに、愛平は頭を下げた。薺はくすりと笑みをこぼした。
「お嬢さんは強情だんてな。誰がさんに、よぐ似でおいでだんす」
「女将さんは、そごまで強情ではねぇべ」
「女将さんはともかく、三木屋の旦那様ど若旦那様は強情だんすよ」
「薺さそんだごど言われだぐねぇなぁ」
え、と薺が驚くと、「自覚、ねぇんだなだぁ」と愛平は肩を揺らした。
愛平の顔を見ながら、薺は眉を寄せた。
「ん? なした?」
「いえ……愛平さんの顔見でだら、自分が厭になりだんす」
薺には、確かに思いやりがなかった。途中から飽き飽きして、谷の気持ちを踏みつけにしてしまった。
(前の旦那様のどぎすら、私はそれほど悲しいど思って差し上げねぁでしたもの……)
前夫と死に別れた時、姑から「あだの髪は長ぐで、まー、綺麗だごどなぁ」と皮肉を言われた。
帰る家もないくせに、夫を弔うために出家しようとは少しも思わなかった。もちろん、言われたら落飾したのかもしれない。しかし、倫子から「帰っていらっしゃい」と誘われたら、躊躇することなく荷物をまとめた。
今となっては前夫の家がどうなったのか。薺は少しも知らないし、気にしたこともなかった。
「私っつう女は、情っつうものが、全で薄いなだんす」
あの頃は鬱陶しいだけだった姑の言葉が、今になって薺を苛む。
「そんたわげねぇよ」
頬が温かくなる。
愛平は薺の頬を押しつぶしながら、わずかに膝を屈めた。
「薺が本当に心のしゃっこい女だば、女将さんは『戻っておいで』なんて言わねぇべ」
「んだども、私は……」
「お谷がお前に駄々こねるのは、そいだけ信頼して、甘えでらがらだ。薺が帰って来るど決まったどぎ、お谷の奴、一晩中はしゃいで大変だったんだど。女将さんから『不謹慎だ』って怒られてたぐれぇにな」
それでもなお、薺が自分を責めていると、愛平は声を低くした。
「薺にもし、本当に人の気持ぢ思いやれる優しさながったら、俺は薺をごど、妻にしたいどは思わねぇよ」
ようやく心の中が落ち着いた。
薺は誰かに否定してほしかったのかもしれない。間違っていない、冷たくはない、と。
「どごで、愛平さんは、こごで何をしていだだんすか?」
愛平は薺の手を取った。薺は草履を引っかけると、愛平に従った。
そこにあったのは、一本の梅の木だった。
「小太郎殿が幼ねぇどぎに植えだ梅の木だど。あと二月もすれば、見事な花咲がせるべ」
「まあ。そいだば楽しみだんすな」
象潟で馬借の主に、小太郎は梅を好んでいたと聞いたことを思い出した。
「……ひでぇ方だわ」
薺は、梅の幹に触れる。ごつごつとした、肌触り。こんな硬いものから可憐な花が零れ咲くなど、誰が想像したのであろうか。
顔も見せないくせに、谷を奪う小太郎が憎らしい。
瞳の端に浮かび上がるものから目を反らしながら、薺は幹に凭れ掛かった。
薺が「お嬢さんが納得するまで、いつまでも付ぎ合いますよ」と励ますか、あるいは「かわいそうなお嬢さん。お嬢さんに、何の罪があるっつうなだべ……」と泣いてやるのが谷の理想なのだろう。
境遇だけ見れば哀れではある。しかし、正直なことを言えば、薺にとって小太郎は見知らぬ他所の子息に過ぎない。蜂谷夫妻を哀れむ気持ちはあるけれど、谷のように泣き暮れるほどの共感ではない。
薺にとっては、谷のこれからの身の振り方のほうが余程大切だ。誰にも嫁がず、女の幸せひとつ知らぬまま朽ち果てさせるために育ててきたわけではない。
溜息を吐きながら歩いていると、愛平が庭に立っていた。
愛平は薺に気がつくと、「おう」と手を上げながら近づいてきた。薺は愛平を見上げるために、その場に膝を突いた。
「お谷は寝だが?」
「ええ、ぐっすりと」
薺は唇を尖らせた。
「お嬢さん、泣いで泣いで大変だったなだんすよ。『兄さまは冷てぇ、わたしがこんなに悲しいっつうのに、帳簿の整理するほうが大事だんだな』って」
「そいだば……すまん」
罰が悪そうに、愛平は頭を下げた。薺はくすりと笑みをこぼした。
「お嬢さんは強情だんてな。誰がさんに、よぐ似でおいでだんす」
「女将さんは、そごまで強情ではねぇべ」
「女将さんはともかく、三木屋の旦那様ど若旦那様は強情だんすよ」
「薺さそんだごど言われだぐねぇなぁ」
え、と薺が驚くと、「自覚、ねぇんだなだぁ」と愛平は肩を揺らした。
愛平の顔を見ながら、薺は眉を寄せた。
「ん? なした?」
「いえ……愛平さんの顔見でだら、自分が厭になりだんす」
薺には、確かに思いやりがなかった。途中から飽き飽きして、谷の気持ちを踏みつけにしてしまった。
(前の旦那様のどぎすら、私はそれほど悲しいど思って差し上げねぁでしたもの……)
前夫と死に別れた時、姑から「あだの髪は長ぐで、まー、綺麗だごどなぁ」と皮肉を言われた。
帰る家もないくせに、夫を弔うために出家しようとは少しも思わなかった。もちろん、言われたら落飾したのかもしれない。しかし、倫子から「帰っていらっしゃい」と誘われたら、躊躇することなく荷物をまとめた。
今となっては前夫の家がどうなったのか。薺は少しも知らないし、気にしたこともなかった。
「私っつう女は、情っつうものが、全で薄いなだんす」
あの頃は鬱陶しいだけだった姑の言葉が、今になって薺を苛む。
「そんたわげねぇよ」
頬が温かくなる。
愛平は薺の頬を押しつぶしながら、わずかに膝を屈めた。
「薺が本当に心のしゃっこい女だば、女将さんは『戻っておいで』なんて言わねぇべ」
「んだども、私は……」
「お谷がお前に駄々こねるのは、そいだけ信頼して、甘えでらがらだ。薺が帰って来るど決まったどぎ、お谷の奴、一晩中はしゃいで大変だったんだど。女将さんから『不謹慎だ』って怒られてたぐれぇにな」
それでもなお、薺が自分を責めていると、愛平は声を低くした。
「薺にもし、本当に人の気持ぢ思いやれる優しさながったら、俺は薺をごど、妻にしたいどは思わねぇよ」
ようやく心の中が落ち着いた。
薺は誰かに否定してほしかったのかもしれない。間違っていない、冷たくはない、と。
「どごで、愛平さんは、こごで何をしていだだんすか?」
愛平は薺の手を取った。薺は草履を引っかけると、愛平に従った。
そこにあったのは、一本の梅の木だった。
「小太郎殿が幼ねぇどぎに植えだ梅の木だど。あと二月もすれば、見事な花咲がせるべ」
「まあ。そいだば楽しみだんすな」
象潟で馬借の主に、小太郎は梅を好んでいたと聞いたことを思い出した。
「……ひでぇ方だわ」
薺は、梅の幹に触れる。ごつごつとした、肌触り。こんな硬いものから可憐な花が零れ咲くなど、誰が想像したのであろうか。
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