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春のあけぼの
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久坂玄瑞《くさかげんずい》が門をくぐると、水がはねる音がした。
見ると、松陰の末の妹・文が家の壁に向かって水をかけていた。むわっと鼻をつく臭いに顔をしかめながら、久坂は文に近づいた。
「お文さん、またですか?」
「あ……」
文は困ったように足元を見た。 柄杓に入った水は既に空になっていたが、臭いは落ちていない。
松下村塾の食客でもある冨永有隣《とみながゆうりん》という男がいた。
この男、頭が切れるし優秀であるのだが、何せ変わり者であった。
……といえば聞こえはいいが、人格に難のある人物だった。それ故に身内からも嫌われ、野山獄に放り込まれていたという前歴を持っている。
どういうわけか松陰とは仲が良いようで、松陰はこの知人を尊重し、有隣も松陰には心を許していた。
久坂も有隣のことは尊敬できる面は尊敬し、必要に応じて教えを乞うこともあった。
……のだが、その久坂ですらどうしても容認できないところがあった。
その悪癖が、有隣の放尿であった。
家の壁に放尿するという悪癖がある有隣は、厠を使わずにその辺で用を足して回っていた。
その都度文は水を汲んで流しているようだが、それも一日に何度もとなると、その苦労は想像に難くない。
「俺からもちゃんと言っておきます」
「…………」
「お文さんだって、嫌でしょう?」
「…………」
文はうつむいたきり、顔を上げようとしない。ゆっくりと瞬きをするだけだ。
久坂はため息を殺した。
文はあまり人と関わろうとしない。陰気で、話しかけても返ってくるのは短い返事のみ。
まるで植木鉢に話しかけているようだ、と思いながら、久坂は文に背を向けた。
ちらりと振り返ると、玉結びにした髪がぴょんぴよんと揺れている。まるで猫の尻尾のようだ、と遠ざかる小さな体に、久坂は思った。
(それにしても、冨永殿の悪癖はどうにかしたいな)
いい加減、塾生達の間でも問題になっていた。
とはいえ年下の青少年が何か言ったところで、有隣が聞き入れるとも思えない。実際、これまでに提示してきた苦言は全て馬耳東風に終わっていた。
(……そうだ)
久坂は手を叩いた。
(聞き入れてもらえないなら、従えば……いいじゃないか)
*
「あの!」
久坂が文に呼び止められたのは、一週間後のことだった。
夕方、寄宿舎へ帰ろうとした久坂の袖を、震える手で文は捕まえている。
いつも玉結びにしているだけの髪は既に結われておらず、長い髪はふわふわと背中に流されているだけだった。
「ど、どうしたんですか?」
珍しく話しかけてきた少女に驚いていると、文は「と、冨永さま……」と呟いた。
「ああ」
久坂は合点がいった。
近頃、冨永有隣は放尿して歩くことがなくなった。――それには久坂の策が絡んでいる。
冨永有隣という人は、意固地だ。年若い者達に「やめろ」と言われたところで、受け入れるわけがない。
だったらいっそ、従ってみた、というわけだ。
さすがに塾生達が「冨永殿がやるんだから、それは良いことに違いない」と真似して立小便をし始めたのを見たら、有隣も思うところはあったらしい。
……のだが、さすがに年頃の娘である文に仔細を説明するのは気が引けた。
文は、久坂に「ありがとうございます」と小声で言った。
「あの、これ……」
文が背伸びをしながら差し出してきたのは、薄紫の布の包みであった。受け取ると、文はもう一度勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございましたっ」
頭を上げるなり、文は母屋に走って行った。
寄宿舎で包みを広げると、入っていたのは面桶《めんつう》だった。
蓋を開けると、豆と一緒に炊いた麦飯の上に、梅干しと胡瓜の味噌漬け、それに椎茸を味噌で煮たものが添えられている。
椎茸を指で摘むと、味噌の味と共に、椎茸の香りが鼻腔をくすぐった。
「……うま」
久坂は、飯桶を包んでいた布を見た。
薄紫の布に、桜の刺繍が施されている。普段は桃色だの赤だのを基調とした着物ばかり着ているのに……と意外に思いながら、久坂は梅干しを齧り、思わず顔を顰めた。
*
二日後、久坂は朝早くから松下村塾に向かっていた。
人目がつかないうちに、飯桶を文に返したかったからだ。
まだ塾生達が起き出して来ないのを確認してから、久坂は母屋にある台所を尋ねた。
台所では、前掛けを付けた文が包丁で大根を切っている。
久坂に気づくと、文は目を丸くした。
「これ。ありがとうございました」
久坂が差し出すと、文は前掛けで濡れた手を拭いてから駆け寄ってきた。
米の炊ける匂いを嗅ぎながら、「早起きなんですね」と久坂が言うと、文は「皆さんの朝餉を作らないと……」ともごもごと言った。
(年頃の娘らしい遊びもせず、真面目な娘だ)
確か久坂より三つ年下だと聞いたから、文は十四歳。
お洒落もとんとせず、指先を真っ黒にして働いているのが印象的であった。
文は面桶を開けると、目を丸くした。
「これ……」 「昨日、町で買ってきました。寄宿舎の仲間に聞いて。よかったら召し上がってください」
弁当の返礼として、面桶の中には饅頭を詰めていた。
仲間達から美味いと評判の店を聞いて買ってきたのだった。
「寅兄ではなく、わたしに……?」
久坂は首を傾げた。
「その面桶は、お文さんのものでしょう」
「そうですけど……わざわざ買ってきたということは、寅兄に渡したかったからですよね……?」
「そんなわけないでしょう。お文さんに渡したいから、買ってきたんです」
松陰に渡したかったら直接渡している――と、久坂は呆れた。
文は饅頭と久坂の顔を交互に見た。まるで水を浴びせられた猫のような目をしながら。
「その……えっと……本当に……?」
「だから、そうですって。先生には渡さないで、お文さん一人で食べてください」
「で、でも、お弁当は冨永さまの件のお礼なのに……」
文は面桶の蓋をしながら、薄紫の布をそっと握り締めた。
「冨永殿のことは、俺達も困っていた。それに何より、美味かったので」
「え……」
「お文さんの弁当、美味かったので」
文は蚊の鳴くような声で俯いた。
少し濃いめの味付けや、少しでもお腹が膨れるように、と豆を混ぜて炊いた飯は、亡き母の手料理を思い出して懐かしくなった。
外を見ると、雲がうっすらと紫色に染まっていた。
「綺麗だな」
久坂が外に出ると、遠慮がちな足音が続いた。文は眩しそうに目を細めた。
「春は、あけぼの……と言うけれど、いつだって早朝が一番です」
「枕草子か?」
文は俯くようにうなずいた。
「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる――」
玲瓏な声が朝焼けの空に吸い込まれていく。
俯いた顔ばかり見ていたせいか「陰気な小娘」と思っていたが――こうして見ると、思ったよりも綺麗な目をしている。睫毛も長く、朝の光を受け止めていた。
文は小さな声で「私は、朝が好き」と言った。
「特に、春の……少しだけ暖かい香りがするようになった時の、夜明けが好き」
「てっきり……お文さんは、桃色とかが好きなのかと。いつも着ているから」
久坂が、煤のついた桃色の衣を指差すと、文は小さく首を横に振った。
「姉上達のお下がりです。……私が好きなのは、紫」
文はそれだけ言うと、久坂に背を向けた。
また台所仕事を再開している。邪魔しないように、久坂はそっとその場を離れた。
(お文さんは――あんな風に考えを述べられるのか)
普段口数が少ないだけで、彼女なりに秘めたものはあるのだろう。
久坂はあけぼのの下を歩きながら、素通りするのも何なので松下村塾に立ち寄った。
「やあ、久坂君。今日は早いですね」
「ええ、まあ……」
冨永有隣と目が合った。有隣は「ふんっ」とそっぽを向いて幽囚室を後にした。
松陰と話し込んでいるうちに、泊まり込んでいた塾生が続々と起き出して、久坂達を囲んだ。
しばらく男達で議論を重ねていると、朝日が昇りきらぬうちに、文がお膳を持って母屋から出てくるのが見えた。 山のように積み上がった握り飯に塾生が群がり、お椀に味噌汁がよそわれ、一人一人に配られる。
久坂がその光景を見ていると、文が久坂の前に座った。そして、お椀と握り飯が久坂の前に置かれた。
「どうぞ」
「え、俺も?」
「あ……朝餉は、お済みでしたか?」
「まだ、だが……」
「でしたら遠慮なく召し上がってください。いっぱいありますから……」
「いや、でも……」
そもそも塾費も収めておらず、勝手に出入りしているだけだ。
正直手をつけていいものか……? と首を傾げていると、文はお椀を床に置いた。そして、皿に乗せられていた握り飯を取ると、それを久坂の口に押し込んだ。
「……!?」
目を白黒させる久坂に「朝餉はちゃんと召し上がってください」と、文はぴしゃりと言った。
仕方なく握り飯を咀嚼している間に、文はもうひとつ握り飯を持ってきて、久坂の皿に置いた。
文は、久坂が握り飯二つと大根の葉の味噌汁を全て平らげるまで、じ……っとその様子を見つめている。久坂は断ることもできず、最後の一粒を飲み込むまで文から目を離せないでいた。
そして二人のやり取りを、塾生達もじ……っと見ていた。
「……まるで夫婦のようじゃのう」
誰とはなしにそんなことを言い始める。
「ば、バカを言うな!」
久坂が思わず反発しても、文は顔色ひとつ変えない。それどころか久坂に「明日もどうぞ」などと言い出す始末。 呆気に取られている間に、文は食器類を片付け、塾を出て行った。
(……もう少し喋ったら……とは思ったが……)
久坂はむう、と唸った。
ぴょこぴょこと揺れる玉結びにした黒髪は、今までよりも煌めくように艶があるような気がした。
*
文はその日以来、何かと久坂の世話を焼くようになった。お焼きを焼いて差し入れしたり、握り飯を久坂の分だけ大きく握って持たせたり、久坂が履物を脱ぎ散らかしていると「揃えてください」と叱ったり。
そんな文の様子を、周囲は「お文は久坂に好意があるからだ」と冷やかしたが、当の久坂は、まるで懐かなかった野良猫を手懐けたような、そんな気持ちの方が強かった。
だから一年後――まさかその野良猫のような娘の夫になるなどと、この時の久坂は想像すらしていなかった。
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