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桜
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よく覚えておりますわ。――女は語る。
春のことでございました。私が、初めて旦那様にお会いいたしましたのは。
桜の木の下でございました。
チラチラと、薄紅色の花びらが、散りゆく様子があまりにも美しかったのです。美しい、というばかりでなく、その向こうで、亡くなった母が手招きをしているような……そんな、夢のようなことを考えておりました。私は桜の木の下に立って、そのざらついた幹を撫でて、母様、と呼びたくなったのです。母様、と声に出して呼べば、胸の内がホゥッと温まるようで、それから、ひんやりしました。そうした行為から連想されたのでしょうか。ふと、神様や仏様というのはどのような御姿をしているのだろうと思いつきました。
幼い頃に、よく婆やの柔らかくしわがれた声で読んでもらった絵草子などには、優しい御顔立ちの神様や仏様が、悪人でも、善人でも構わず、悩める人々に救いの手を差し伸べ、正しい道へ導こうとなさっておりました。また、亡くなった母が信心深い人で、仏壇には母の持っていた、胸に抱けるくらいの小さな仏様の像が飾られておりまして、私は幼い頃には、姉と共にその可憐な仏様の像を持ち出して、おままごとをして、罰当たりなことをするなと、父から大変叱られた思い出がございます。父は仏様の像を元あった場所に大事に飾ると両手を合わせて、私たちにも、同じようにするようにとおっしゃって、私たちは小さな手を、チンと合わせたのでございました。
ですから、神様や仏様というのは、人間に近しい御姿をした、しかし、人間よりももっとお美しく、お優しく、神々しい御姿だと、自然と思い浮かべられるのでございました。
けれど、その時私が思い浮かんだ神様や仏様というのは、もっと残酷な御姿をしておりました。お優しい微笑を浮かべながら、罪人の体を引き裂き、降りしきる血の雨を飲み、腐った肉に歯を立てる。地獄の閻魔様というよりは、鬼のような御姿でございました。そのお姿が、夢のようにお美しいからこそ、尚のこと恐ろしく感じられたのでございます。
私にとって、本当にお優しい神様や仏様というのは、幼少の頃に亡くなった、母の姿でございました。
母の顔も、声も、もう思い出せませんでしたが、それでも、母が愛していたという桜の木に触れていると、母の腕に抱かれているような気持ちがしてきました。幼い頃、私は悲しくなると、よく、このような想像をするのでございました。私の体が、巨人の手の中で小さく丸められて、赤ん坊よりも小さくなって、母の腕に抱かれるという想像です。想像の中の母は、艶やかな黒い髪をした、それこそ神様や仏様のように美しく、神々しい姿をしております。私は桜の木に触れながら、そっと目蓋を下ろしました。母様、と再び呼びかけて、返らないと分かっている涼やかな声に耳を澄ませました。嗚呼、母様……とはっきり思いました。目の中に薄く膜を張っていた水が、ホロリと、頬に細い筋を描くのを感じました。見ているものは誰もいないから、咎められることもない。そう思いはしましたけれど、こんな大きななりをして、一人でメソメソ泣くのが、恥ずかしく感じられました。
もう少ししたら、もう少ししたら……そのように考えながら、一体、どれほどの時間が経ったのでしょう。男性のお声が、私の耳朶を震わせました。凛と、打つようなお声でした。何をしている?という簡素な問いかけは、今まで聞いたどんな鳥や風の音よりもスッと自然に、私の耳孔に滑り込みました。私は細かく、体が震えました。恐ろしいよりも、誘われました。
目を開けると、僅かに滲んだ視界の向こうに、お美しい旦那様の姿がありました。それを、私は……何と申し上げましょうか、驚くというよりは、嬉しいというよりは……このような美しいお声を出す御方は、やはり、御姿も、美しくていらっしゃるのだと、夢から醒めたばかりのように、ぼんやりと思いました。
白というよりは銀色に近い長い髪は、百年も千年も長生きした仙人を思わせました。御顔だけ見るとその年齢は曖昧で、二十歳を越した青年のようにも、まだ十代の少年のように思われました。旦那様が首を傾げると、銀色の長い髪も、シャラリと揺れました。旦那様は、黒曜石のように輝く目で私の顔を覗き込みながら、再び、何をしている?と問いかけました。私が何をしているのか、というよりも、私が何故そこにいるのかということの方が、気になるようでした。
姉が結婚するのですわ、と答えました。不思議と、私はこの、非現実的なほど美しい御方の存在を、私の現実として、ストンと受け入れていたのでした。姉が結婚するのですわ。だから、姉の幸いをお願いしておりましたの、亡くなった母に……私がそう言うと、そうか、と旦那様はお答えし、それなのに、どうしてお前は悲しそうなのだ?と問いかけてきました。私は微笑しました。自嘲の笑みではなく、旦那様の美しい御姿や、凛としたお声を聞いているうちに、何だか恍惚とした気分になって、自然と浮かんだ笑みでございました。姉の結婚相手に憧れておりましたの。そうか、と旦那様はお答えになりました。幼馴染でございました、と私は付け足しました。そうか、と、また旦那様のお答えでした。
サァッ、と風が吹いて、また桜の花びらが、チラチラと私たちに降りかかりました。旦那様は眩しそうに天を仰ぎ、桜の花びらを掴もうとするかのような様子を見せながら、その男はお前を欲しがらなかったのだな、とおっしゃいました。ええ、姉の方が美しいですもの、と私は答えました。コロコロと、胸に凝っていたものが言葉となって口から滑り落ちるたびに、体から余計なものが抜け落ちていくように、スゥッと軽くなっていくのを感じました。仕方がないわ、と言うように。明日からは、素直な気持ちで姉の結婚をお祝いできるかもしれない。そう思うと、本当に、幸福ですらありました。洗われたかのような幸福でございました。旦那様は、私の話よりは、桜の方が気になるようでした。仙人のようなお姿をしながら、子どものような御方だと、私はまた微笑しました。それでは、と私は言って、立ち去りかけました。
その手首を、旦那様が捉えました。
クン、と軽く引っ張られる感触に、私は旦那様の――もっとも、この時はこの美しい御方が、私の本当の旦那様になるとは想像すらしていなかったのですが――御顔を振り向きました。旦那様は、その美しい御顔に何の感情も表さず――私が分からなかっただけかもしれませんが――しかし、無表情ともどこか違うような表情で、私の目を見つめながらおっしゃいました。
仙人のような御姿で、子どものような仕草で、神様か仏様を思わせるような表情でした。
俺は、お前が欲しくなった。
旦那様は、右肩から、鴉のように艶やかな翼を、バサリと大きく広げ、それで私を包み込むように引き寄せました。
春のことでございました。私が、初めて旦那様にお会いいたしましたのは。
桜の木の下でございました。
チラチラと、薄紅色の花びらが、散りゆく様子があまりにも美しかったのです。美しい、というばかりでなく、その向こうで、亡くなった母が手招きをしているような……そんな、夢のようなことを考えておりました。私は桜の木の下に立って、そのざらついた幹を撫でて、母様、と呼びたくなったのです。母様、と声に出して呼べば、胸の内がホゥッと温まるようで、それから、ひんやりしました。そうした行為から連想されたのでしょうか。ふと、神様や仏様というのはどのような御姿をしているのだろうと思いつきました。
幼い頃に、よく婆やの柔らかくしわがれた声で読んでもらった絵草子などには、優しい御顔立ちの神様や仏様が、悪人でも、善人でも構わず、悩める人々に救いの手を差し伸べ、正しい道へ導こうとなさっておりました。また、亡くなった母が信心深い人で、仏壇には母の持っていた、胸に抱けるくらいの小さな仏様の像が飾られておりまして、私は幼い頃には、姉と共にその可憐な仏様の像を持ち出して、おままごとをして、罰当たりなことをするなと、父から大変叱られた思い出がございます。父は仏様の像を元あった場所に大事に飾ると両手を合わせて、私たちにも、同じようにするようにとおっしゃって、私たちは小さな手を、チンと合わせたのでございました。
ですから、神様や仏様というのは、人間に近しい御姿をした、しかし、人間よりももっとお美しく、お優しく、神々しい御姿だと、自然と思い浮かべられるのでございました。
けれど、その時私が思い浮かんだ神様や仏様というのは、もっと残酷な御姿をしておりました。お優しい微笑を浮かべながら、罪人の体を引き裂き、降りしきる血の雨を飲み、腐った肉に歯を立てる。地獄の閻魔様というよりは、鬼のような御姿でございました。そのお姿が、夢のようにお美しいからこそ、尚のこと恐ろしく感じられたのでございます。
私にとって、本当にお優しい神様や仏様というのは、幼少の頃に亡くなった、母の姿でございました。
母の顔も、声も、もう思い出せませんでしたが、それでも、母が愛していたという桜の木に触れていると、母の腕に抱かれているような気持ちがしてきました。幼い頃、私は悲しくなると、よく、このような想像をするのでございました。私の体が、巨人の手の中で小さく丸められて、赤ん坊よりも小さくなって、母の腕に抱かれるという想像です。想像の中の母は、艶やかな黒い髪をした、それこそ神様や仏様のように美しく、神々しい姿をしております。私は桜の木に触れながら、そっと目蓋を下ろしました。母様、と再び呼びかけて、返らないと分かっている涼やかな声に耳を澄ませました。嗚呼、母様……とはっきり思いました。目の中に薄く膜を張っていた水が、ホロリと、頬に細い筋を描くのを感じました。見ているものは誰もいないから、咎められることもない。そう思いはしましたけれど、こんな大きななりをして、一人でメソメソ泣くのが、恥ずかしく感じられました。
もう少ししたら、もう少ししたら……そのように考えながら、一体、どれほどの時間が経ったのでしょう。男性のお声が、私の耳朶を震わせました。凛と、打つようなお声でした。何をしている?という簡素な問いかけは、今まで聞いたどんな鳥や風の音よりもスッと自然に、私の耳孔に滑り込みました。私は細かく、体が震えました。恐ろしいよりも、誘われました。
目を開けると、僅かに滲んだ視界の向こうに、お美しい旦那様の姿がありました。それを、私は……何と申し上げましょうか、驚くというよりは、嬉しいというよりは……このような美しいお声を出す御方は、やはり、御姿も、美しくていらっしゃるのだと、夢から醒めたばかりのように、ぼんやりと思いました。
白というよりは銀色に近い長い髪は、百年も千年も長生きした仙人を思わせました。御顔だけ見るとその年齢は曖昧で、二十歳を越した青年のようにも、まだ十代の少年のように思われました。旦那様が首を傾げると、銀色の長い髪も、シャラリと揺れました。旦那様は、黒曜石のように輝く目で私の顔を覗き込みながら、再び、何をしている?と問いかけました。私が何をしているのか、というよりも、私が何故そこにいるのかということの方が、気になるようでした。
姉が結婚するのですわ、と答えました。不思議と、私はこの、非現実的なほど美しい御方の存在を、私の現実として、ストンと受け入れていたのでした。姉が結婚するのですわ。だから、姉の幸いをお願いしておりましたの、亡くなった母に……私がそう言うと、そうか、と旦那様はお答えし、それなのに、どうしてお前は悲しそうなのだ?と問いかけてきました。私は微笑しました。自嘲の笑みではなく、旦那様の美しい御姿や、凛としたお声を聞いているうちに、何だか恍惚とした気分になって、自然と浮かんだ笑みでございました。姉の結婚相手に憧れておりましたの。そうか、と旦那様はお答えになりました。幼馴染でございました、と私は付け足しました。そうか、と、また旦那様のお答えでした。
サァッ、と風が吹いて、また桜の花びらが、チラチラと私たちに降りかかりました。旦那様は眩しそうに天を仰ぎ、桜の花びらを掴もうとするかのような様子を見せながら、その男はお前を欲しがらなかったのだな、とおっしゃいました。ええ、姉の方が美しいですもの、と私は答えました。コロコロと、胸に凝っていたものが言葉となって口から滑り落ちるたびに、体から余計なものが抜け落ちていくように、スゥッと軽くなっていくのを感じました。仕方がないわ、と言うように。明日からは、素直な気持ちで姉の結婚をお祝いできるかもしれない。そう思うと、本当に、幸福ですらありました。洗われたかのような幸福でございました。旦那様は、私の話よりは、桜の方が気になるようでした。仙人のようなお姿をしながら、子どものような御方だと、私はまた微笑しました。それでは、と私は言って、立ち去りかけました。
その手首を、旦那様が捉えました。
クン、と軽く引っ張られる感触に、私は旦那様の――もっとも、この時はこの美しい御方が、私の本当の旦那様になるとは想像すらしていなかったのですが――御顔を振り向きました。旦那様は、その美しい御顔に何の感情も表さず――私が分からなかっただけかもしれませんが――しかし、無表情ともどこか違うような表情で、私の目を見つめながらおっしゃいました。
仙人のような御姿で、子どものような仕草で、神様か仏様を思わせるような表情でした。
俺は、お前が欲しくなった。
旦那様は、右肩から、鴉のように艶やかな翼を、バサリと大きく広げ、それで私を包み込むように引き寄せました。
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