天狗の片翼

くるっ🐤ぽ

文字の大きさ
2 / 5

しおりを挟む
 旦那様にどうやってこのお屋敷まで連れてこられたのか、私はよく覚えておりません。鳥のように空を飛んだのか、紙を繰るように、パッと移動したのか、桜のように舞ったのか……。ただ、何やら夢中で、気が付くと、夢から目が覚めたばかりのように、旦那様のお屋敷の前に、旦那様に、花のように抱えられておりました。旦那様は屋敷に入りながら、大声で、おい、花嫁だ、俺の花嫁だぞ、馳走を持て、客を呼べ、今夜は祝いだ、と大股で歩きながらおっしゃいました。
 何が何だか、夢中だったのでございます。
 祝言の夜には、様々な方々……本当に、姿かたちの様々な方々がいらっしゃって、口々に、おめでとうとおっしゃってくださいました。私はどうしたらいいか分からず、ただ、どうやって着せられたのかも分からない花嫁衣裳の、綿帽子の下で、折れそうなほど首を傾げて、その場から逃げ出さないでいるのが精いっぱいでございました。
 獣の御顔で笑いかける方々や、多過ぎる手を打つ方々や、先の割れた長い舌でお酒を舐める方々が、恐ろしい、ばかりではありません。いきなり、出会ったばかりの名前も知らない殿方の花嫁になるというのが恥ずかしく、また、このお美しい御方が私の旦那様になられる方かと思うと、烏滸がましいと分かっていても誇らしく、そんな自分が、また恥ずかしくて堪らないのでした。
 旦那様のお屋敷のお庭には大きな桃の木がございまして、まだ旬ではないのに、桃の実がたわわに実って、滴るかのように細かく震えておりました。
 旦那様はお腹が空くと、それをもいで、私にも分けてくださいながら、一緒に食べました。桃はいつも、とてもよく熟れていて、その実に歯を立てるたびにグニャリと潰れました。私は蜜を手首まで滴らせながら桃を食べる自分の姿が恥ずかしく、旦那様から隠れたいほどでございましたが、旦那様は何故か私を隣に置いて、共に桃を食べることにこだわるご様子なのでございました。桃の実は、どれだけ食べても減ることはなく、常にたわわに実を実らせて、震えておりました。
 このお屋敷は、どこと知れない山の奥にございます。連れて来られたばかりの混乱が収まると、私は、自分はどうなってしまうのだろうという不安を感じて、また、残してきた家族への心配が募って、家へ帰ろうと何度も試みました。旦那様が寝静まった夜に、こっそりと布団から這うように出て、裸足のまま駆けて行ったり、何か読み物をしている旦那様の背中を、そっと伺いながら、屋敷の裏手から逃げ出したり。
 不思議なことに、どれほど駆けても、最後には円を描くように、必ず旦那様のお屋敷の前に戻ってきてしまうのです。旦那様は、私がどれほど山を下ろうとしても、帰れないことが分かっているのか怒る様子もなく、私が歩き疲れて倒れこもうとするとどこからかスッと現れて、私の体を抱き上げて、お屋敷の中へ運び込むのでございます。そうして、屋敷に帰ると、裸足で駆けた為に傷ついた足の裏を、綺麗な手拭いで温めながら、どこか、他に怪我をしているところはないかと、優しくお尋ねになるのでした。
 どうしたら家に帰れるのですか?と私が旦那様に問い掛けると、旦那様は、お前は帰りたいのか?と逆に問いかけてきます。お前が俺を厭うて、本当に帰りたいと思うのなら、難なく帰れるはずだ。帰れないうちは、俺の妻であるがよい、と旦那様はおっしゃいました。私は、悲しいのか恐ろしいのかもよく分からず、ただ、布団の中から、シミ一つない天井をジッと見上げておりました。
 旦那様は、私を蹴ったり、殴ったり、辱めたりいたしませんでした。私は人ならざる旦那様と過ごしながら、人間の夫婦と殆ど変わらないだろうと思われる生活を送りました。ただ、使用人は人間のように二足歩行をする白狐でございました。白狐はちょこまかとよく働き、私に向かって何か冗談を言っては、鈴のような声で、ホホホ……と笑うのでした。そして、旦那様のことを、お坊ちゃん、と呼ぶのでした。
 偶にやってくるお客様の中には、人間によく似た御姿をした方もあれば、人間とはほど遠い御姿をした方もいらっしゃいました。お猿の御顔をしたお客様が、酔っ払っているかのような真っ赤な御顔で私をジロジロ見て、やぁ、良い奥さんだ、羽衣はどこに隠していらっしゃる?とおっしゃったときは、私はあまり恥ずかしくて、そのまま消えてしまいたくなりました。
 私のような醜女を、まるで物語の天女のように例えるなんて……私は、泣きそうになってしまいました。姉は亡くなった母に似たようで美しく、肌は白く光るようでしたが、私は肌が浅黒く、しかも、均等に浅黒いのではなく、墨が溜まったように、まだらに黒い部分があるのでした。幼馴染が、天女のように美しい姉に惹かれたのも、無理からぬ話でございます。
 旦那様は、そのとき、何をお思いになっていらっしゃったのか、俯いて、その表情を伺うこともできなかった私には、分かりませんでした。そのとき膝の上に置かれていた旦那様の手が、何か語り掛けるように動いて、私の、震えてくるほど硬く握られた手に、重なろうとして、そっと離れていくのを見ていました。旦那様は、その後、お猿のお客様と何か話して、時々は低くお笑いになるようでしたが、私には、二人が、どんなお話をしていらっしゃったのか、分かりませんでした。
 お坊ちゃんは情け深い御方でいらっしゃいます。旦那様が幼少の頃からお世話をしているという白狐の使用人が言いました。もっとも、旦那様の幼少の頃、というのが一体何年前のことなのか、白狐にも、よく分からなかったのです。何せ、白狐自身が、自身の名前も忘れてしまうほど、長生きなのでございますから。旦那様が、人の罠にかかって怪我をした獣を助けて一人で狩りができるようになるまで面倒を見て下さったのだとおっしゃったときも、お幾つのときでございましたか?とお伺いしても、さぁ……と首を傾げて、十年……百年ばかり前のことかしら……と言うばかりです。しかし、そのように愛情深い御方でいらっしゃるから、奥様のことも、大事になさるでしょう、奥様はどうぞご安心して、お坊ちゃんに甘えて下さい、と、ニコニコしながら言うのです。
 そう言われても、私には、旦那様のことも、甘える、ということもよく分からなかったのです。そもそも、旦那様が、私のどこを気に入って妻にしたのかも、私には分からなかったのです。人間よりも、神様や仏様に近い御方のお考えというのは分からないものだ、と呆然と思ったものでございます。
 そうしているうちに、季節は夏になりました。
 ある晩、私の部屋の前に蛍の籠が置かれてありました。蛍は籠の中で、緑色に点滅しておりました。婆やが昔、語ってくださいました。蛍は短い一生の中で、精いっぱい生きて、命を繋ぐために光るのだ、と。蛍の光は命を燃やす光だと。籠の中の蛍は、神様や仏様が作ったのではない天地とも知らず、喘いでいるようでした。
 私は蛍の籠を膝の上に抱いたまま、暫く、その儚くも美しい命の光を見つめておりました。蛍は籠の中で飛び立とうとし、壁に当たってひっくり返り、弱弱しく光りながらもがいていました。私は、ふと立ち上がると、やがて、そっとその籠の蓋を開けました。蛍は蓋の開いた籠の中で、暫く戸惑っている様子でございましたが、やがてポツリ、またポツリ、と、緑の線を引きながら、夜空に飛び去っていきました。私は、それを眩しく見つめながら、昔のことを思い出しました。
 婆やが蛍の話をしたのは、単なる寝物語ではなく、気に入った虫や花を見つけては、それを子どもの残酷さで捕らえて籠の中に閉じ込めたり、無闇に毟ったりする私を戒める為だったのではないか、と。
 その翌日、私は白狐に、昨夜の蛍の話をしました。白狐は、あれはお坊ちゃんが、奥様を喜ばせる為に用意してくださったのですよ、綺麗でございましたでしょう、と簡単に言いました。旦那様は、その時私たちのお傍にいましたが何もおっしゃらず、私が、お礼を申し上げても聞こえないように、むっつりとしていました。蛍を逃がしてしまったことを怒っていらっしゃるのだろうかと思いましたが、白狐によると、奥様を喜ばせるおつもりが、目論見が外れたので、恥ずかしがっていらっしゃる、とのことでした。旦那様のお屋敷に連れて来られてから、私と白狐は、いつの間にか親しく打ち解けていて、私は白狐の糸のように細い目に、婆やが笑ったときの、柔らかに細められた目を思い出したりするのでした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

真実の愛を見つけたとおっしゃるので

あんど もあ
ファンタジー
貴族学院のお昼休みに突然始まった婚約破棄劇。 「真実の愛を見つけた」と言う婚約者にレイチェルは反撃する。

私が……王太子……のはずだったのに??

#Daki-Makura
ファンタジー
最愛と朝を迎えたら……城下が騒がしい……?? 一体……何が起きているのか……??

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

今更……助けてくれと……言われても……

#Daki-Makura
ファンタジー
出奔した息子から手紙が届いた…… 今更……助けてくれと……言われても……

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

処理中です...