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春
三
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幸雄は康介の幼馴染の息子で、灯子より二つ年上で、夢路と同い年だった。実家は大きな呉服屋を営んでおり、灯子の振袖や帯なども、そこで見繕った。友人は、灯子に似合いそうな着物や小物を仕入れると、それを他の客には売らず、康介が店にやって来ると灯子ちゃんにどうかと言って、見せてくれた。
友人の目利きは大したもので、どれも灯子によく似合っていた。藤色の振袖、黄色い帯、縮緬細工の簪……学校には流石に振袖を着て行くわけにはいかなかったが、灯子は新しい着物が届くたびに、「おじさまのお着物」と言って、早速それらを着ている着物の上から羽織りながら、飛び上がらんばかりに喜んだ。
灯子が小学校を卒業すると、お祝いと言って口紅が贈られてきた。灯子は初めての化粧に桜色の振袖を着て街を歩いた。桜の群れの中で、ひとひらだけ自由に舞う花びらのような可憐さだった。康介の友人の呉服屋に向かうと、灯子は綺麗なお辞儀をして、贈り物のお礼を言った。友人は笑って、花の妖精のような可憐さだね、と灯子を褒めた。灯子ははにかんで、膝の上でもじもじと手を組んだ。幸雄の妹は灯子の振袖の袂を羨ましそうにいじっていた。友人は灯子のことを、花の妖精のような可憐さだと言っていたが、友人の娘もまた、小鳥のような可愛らしさだった。呉服屋の娘であるだけあって、身なりも綺麗だった。幸雄の妹は灯子に、また綺麗な着物をたくさん仕入れたと言って、店の中を案内した。その間に友人は低い声で、実はあの紅は幸雄が見立てたものだと、康介に話した。そのうち、年頃になれば櫛でも贈るつもりかもしれぬ、と言っていた。
夢路は使用人夫婦の元で、使用人の子どもらしく育った。幼い頃から、養父に連れられて康介の家に出入りしていた。灯子は夢路のことを、兄ちゃんと呼ぶことがあった。綺麗な振袖の灯子が、使用人の子どもの身なりの夢路を兄と呼ぶのは、少し妙であったがいじらしくも感じられて、康介はそのままの呼び方でも良い気がしたが、妻が気にして何度も矯正した結果、灯子は夢路のことを、夢路、と名前で呼びつけるようになった。兄ちゃん、という舌足らずな呼び方に親しみを感じていた康介は、それを惜しんだ。しかし、いくら幼いとはいえ、身分の違いはハッキリさせておかなければならないという妻の言い分にも頷けるところがあった。寧ろ康介は、幼い頃から亡くなった父に、そのように学んでいたのであった。
小学校のとき、養父が病で死ぬと夢路は進学せず、康介の家で使用人として働き出した。とはいえ、子どもに出来ることなど限られている。夢路は灯子の付き人のようなことをするようになった。毎朝、灯子を無事に学校まで送り届け、学校が終わる時分になると、灯子を迎えに出かけた。灯子が少し近所を散歩するときなども、夏の暑い時分は日除けの傘を、雪の降る寒い日には雪除けの傘を灯子の上に掲げて歩いた。そのくせ、自分は日に焼かれようが肩に雪が積もろうが構わないといった風だった。灯子はそれを気の毒がって、雪の日などは必ず夢路にも傘を差させるようにした。
それにしても、娘の灯子にも少し風変わりなところがあって、さやさやと小雨が降る日や、雪の降る日に、わざと外に出たがるのだった。それは、小さい頃からの癖のようなもので、小さい頃は雷鳴の鳴る中を、ワッと言って縁側から裸足で外に駆け出そうとしたもので、乳母代わりだったお小夜を大いに弱らせたものだった。お小夜が灯子の濡れた頭や汚れた足を拭いてやりながら、灯子を叱りつけると、灯子は悲しそうな上目遣いで、お小夜を見てくるので、お小夜もつい哀れに思って、雨が降ると、何か楽しいことがございますの、と問うと、胸がスゥッとして、体が綺麗に洗われるようなのよ、と嬉しそうに答えたという。
夢路が灯子の付き人をしていたので、当然幸雄も、夢路のことを幼い頃から知っていた。しかし、だからどうということもなかった。所詮は付き人とお嬢さんである。嫉妬を感じることもなかっただろう。
女学校を卒業した灯子の元に、幸雄の方から婚約の申し込みがあったのは自然のことだと康介には思われた。灯子が夢路を連れて行きたいと言ったことにも、特に異存はなかった。ただ、妻は酷く気を揉んだ。幼い頃から知っている付き人とお嬢さんである、夢路のことなど、灯子の付属品くらいにしか思っていないだろうと、康介は妻を嗜めた。黒髪を飾る、簪やリボンと変わりない。寧ろ自分は、何があっても夢路が灯子の味方をしてくれるだろうと、安心している、と康介は言ったのだ。
向こうから婚約を申し込んできて、また向こうから婚約の取り下げを申し込むのは、こちらが落第を言い渡されたようなものである。妻が悔しがり、涙を流すのももっともだと思われた。婚約はほぼ正式に決まっているものと、誰もが思っていたから尚のことである。
友人の目利きは大したもので、どれも灯子によく似合っていた。藤色の振袖、黄色い帯、縮緬細工の簪……学校には流石に振袖を着て行くわけにはいかなかったが、灯子は新しい着物が届くたびに、「おじさまのお着物」と言って、早速それらを着ている着物の上から羽織りながら、飛び上がらんばかりに喜んだ。
灯子が小学校を卒業すると、お祝いと言って口紅が贈られてきた。灯子は初めての化粧に桜色の振袖を着て街を歩いた。桜の群れの中で、ひとひらだけ自由に舞う花びらのような可憐さだった。康介の友人の呉服屋に向かうと、灯子は綺麗なお辞儀をして、贈り物のお礼を言った。友人は笑って、花の妖精のような可憐さだね、と灯子を褒めた。灯子ははにかんで、膝の上でもじもじと手を組んだ。幸雄の妹は灯子の振袖の袂を羨ましそうにいじっていた。友人は灯子のことを、花の妖精のような可憐さだと言っていたが、友人の娘もまた、小鳥のような可愛らしさだった。呉服屋の娘であるだけあって、身なりも綺麗だった。幸雄の妹は灯子に、また綺麗な着物をたくさん仕入れたと言って、店の中を案内した。その間に友人は低い声で、実はあの紅は幸雄が見立てたものだと、康介に話した。そのうち、年頃になれば櫛でも贈るつもりかもしれぬ、と言っていた。
夢路は使用人夫婦の元で、使用人の子どもらしく育った。幼い頃から、養父に連れられて康介の家に出入りしていた。灯子は夢路のことを、兄ちゃんと呼ぶことがあった。綺麗な振袖の灯子が、使用人の子どもの身なりの夢路を兄と呼ぶのは、少し妙であったがいじらしくも感じられて、康介はそのままの呼び方でも良い気がしたが、妻が気にして何度も矯正した結果、灯子は夢路のことを、夢路、と名前で呼びつけるようになった。兄ちゃん、という舌足らずな呼び方に親しみを感じていた康介は、それを惜しんだ。しかし、いくら幼いとはいえ、身分の違いはハッキリさせておかなければならないという妻の言い分にも頷けるところがあった。寧ろ康介は、幼い頃から亡くなった父に、そのように学んでいたのであった。
小学校のとき、養父が病で死ぬと夢路は進学せず、康介の家で使用人として働き出した。とはいえ、子どもに出来ることなど限られている。夢路は灯子の付き人のようなことをするようになった。毎朝、灯子を無事に学校まで送り届け、学校が終わる時分になると、灯子を迎えに出かけた。灯子が少し近所を散歩するときなども、夏の暑い時分は日除けの傘を、雪の降る寒い日には雪除けの傘を灯子の上に掲げて歩いた。そのくせ、自分は日に焼かれようが肩に雪が積もろうが構わないといった風だった。灯子はそれを気の毒がって、雪の日などは必ず夢路にも傘を差させるようにした。
それにしても、娘の灯子にも少し風変わりなところがあって、さやさやと小雨が降る日や、雪の降る日に、わざと外に出たがるのだった。それは、小さい頃からの癖のようなもので、小さい頃は雷鳴の鳴る中を、ワッと言って縁側から裸足で外に駆け出そうとしたもので、乳母代わりだったお小夜を大いに弱らせたものだった。お小夜が灯子の濡れた頭や汚れた足を拭いてやりながら、灯子を叱りつけると、灯子は悲しそうな上目遣いで、お小夜を見てくるので、お小夜もつい哀れに思って、雨が降ると、何か楽しいことがございますの、と問うと、胸がスゥッとして、体が綺麗に洗われるようなのよ、と嬉しそうに答えたという。
夢路が灯子の付き人をしていたので、当然幸雄も、夢路のことを幼い頃から知っていた。しかし、だからどうということもなかった。所詮は付き人とお嬢さんである。嫉妬を感じることもなかっただろう。
女学校を卒業した灯子の元に、幸雄の方から婚約の申し込みがあったのは自然のことだと康介には思われた。灯子が夢路を連れて行きたいと言ったことにも、特に異存はなかった。ただ、妻は酷く気を揉んだ。幼い頃から知っている付き人とお嬢さんである、夢路のことなど、灯子の付属品くらいにしか思っていないだろうと、康介は妻を嗜めた。黒髪を飾る、簪やリボンと変わりない。寧ろ自分は、何があっても夢路が灯子の味方をしてくれるだろうと、安心している、と康介は言ったのだ。
向こうから婚約を申し込んできて、また向こうから婚約の取り下げを申し込むのは、こちらが落第を言い渡されたようなものである。妻が悔しがり、涙を流すのももっともだと思われた。婚約はほぼ正式に決まっているものと、誰もが思っていたから尚のことである。
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