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春
四
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幸雄から婚約取り下げの申し出があってから三日と経たないうちに、屋敷の前に車が止まった。中から出てきたのは、灯子と夢路である。
慎ましい色合いだが、どこか鮮やかに目を惹く桜の柄を散らした着物に緑の帯を締めた灯子の黒髪は照るように輝き、リボンでゆったりと束ねられている。父の康介が頑健な肉体を持つのに対して、灯子はどこか薄命な雰囲気がある。しかし、父に似ないからと言って、母に似ているとも思われなかった。
夢路は灯子の荷物を持って車から現れた。背が高く、痩せているわりに手足が長くて力がある男である。
妻は労るように灯子に駆け寄った。灯子は寧ろ、肩の荷がスッと下りたような、スッキリとした優しい顔色をして、自身を労う母に華奢な手を包み込まれた。微笑んでいる。
「お父さま」
と言ったとき、灯子はふと辛そうな表情になった。康介は娘の肩を温かく抱いた。
「思っていたより落ち込んでいないようですわ」
胸に手を当てながら、妻が言った。灯子が年頃になっても、そして、婚約先から戻ってきても、トンボ玉の簪を挿した黒髪は豊かである。
確かに、灯子は婚約が取り下げになったことについて、落ち込んでもいなければ悲しんでもいないようだった。また、妻のように動揺した様子もなかった。寧ろ、娘の婚約が取り下げになったことについてうろたえる両親を、逆に慰めようとしている様子である。
「婚約が、実はまだ嫌だったのかね」
そうかもしれないと思いながら、康介は言った。
「でもあなた、灯子の年頃で結婚している人なんて、いくらでもいますよ」
灯子は、数えで十八なのである。
言っているうちに再び悔しくなってきたのか、妻は下唇を噛んで、駄々っ子のような表情をした。
「本当に、良いご縁だと思いましたのに……」
「過ぎたことをいつまでも言っていても仕方ない」
寧ろ、正式に婚約が決まる前に断られたのなら、良かったとすら、康介は思っている。
「これからまた、良いご縁が降ってくるかもしれない」
妻は、膝の上で拳を握りしめた。
「焦ることはない。灯子の歳で、結婚していない女性だっているんだ」
康介は言って、立ち上がった。
庭に、松の木がある。夢路が松の木の枝を剪定していた。小さい頃は灯子の付き人の真似事しか出来なかった夢路だったが、長じるにつれて出来ることが増えていった。その一つが、庭の木の剪定だった。屋敷に出入りしていた庭師の老人から、戯れに盆栽の手入れのやり方を教えてもらったら、庭師が手を叩くほど上手に出来た。それ以来、庭師も面白がって、自分が腰を痛めて引退してしまうまで、あらゆる技術を夢路に教えて、夢路もまた、周りの者が感服してしまうほどに腕を磨いていった。夢路は枝切り鋏をパチン、パチン、と鳴らしながら松の木の枝を切っていった。
康介は縁側に出て、夢路に声をかけた。
「奥の、茂っている方をもう少し切ってくれないか」
「はい」
夢路は松の木の枝を切った。パチン、と大きな音が鳴った。細い線状の緑の葉がついた枝が、乾いた音を立てて地面に落ちた。康介はそれを見ているうちに、いつかの自分の運命を見るような気持ちになった。
「灯子の縁談がなくなって良かったことといえば、夢路が戻ってきたことだね」
康介が言うと、隣に立った妻がなんとも言えない表情で夫を見た。
「灯子は、嫁入りのときに、きっと夢路を連れて行ってしまうだろうからね」
夢路は、何とも言わなかった。ただ、パチン、パチンと鋏を鳴らしている。主人の、単なる冗談だと思ったのか、独り言だと思ったのか。
妻によると、灯子は車から降りたまま着替えもせず、文机の上に突っ伏して、そのまま寝てしまっていたようである。妻に誘われて灯子の部屋を覗き見ると、眠る灯子は一輪の花のようだった。
慎ましい色合いだが、どこか鮮やかに目を惹く桜の柄を散らした着物に緑の帯を締めた灯子の黒髪は照るように輝き、リボンでゆったりと束ねられている。父の康介が頑健な肉体を持つのに対して、灯子はどこか薄命な雰囲気がある。しかし、父に似ないからと言って、母に似ているとも思われなかった。
夢路は灯子の荷物を持って車から現れた。背が高く、痩せているわりに手足が長くて力がある男である。
妻は労るように灯子に駆け寄った。灯子は寧ろ、肩の荷がスッと下りたような、スッキリとした優しい顔色をして、自身を労う母に華奢な手を包み込まれた。微笑んでいる。
「お父さま」
と言ったとき、灯子はふと辛そうな表情になった。康介は娘の肩を温かく抱いた。
「思っていたより落ち込んでいないようですわ」
胸に手を当てながら、妻が言った。灯子が年頃になっても、そして、婚約先から戻ってきても、トンボ玉の簪を挿した黒髪は豊かである。
確かに、灯子は婚約が取り下げになったことについて、落ち込んでもいなければ悲しんでもいないようだった。また、妻のように動揺した様子もなかった。寧ろ、娘の婚約が取り下げになったことについてうろたえる両親を、逆に慰めようとしている様子である。
「婚約が、実はまだ嫌だったのかね」
そうかもしれないと思いながら、康介は言った。
「でもあなた、灯子の年頃で結婚している人なんて、いくらでもいますよ」
灯子は、数えで十八なのである。
言っているうちに再び悔しくなってきたのか、妻は下唇を噛んで、駄々っ子のような表情をした。
「本当に、良いご縁だと思いましたのに……」
「過ぎたことをいつまでも言っていても仕方ない」
寧ろ、正式に婚約が決まる前に断られたのなら、良かったとすら、康介は思っている。
「これからまた、良いご縁が降ってくるかもしれない」
妻は、膝の上で拳を握りしめた。
「焦ることはない。灯子の歳で、結婚していない女性だっているんだ」
康介は言って、立ち上がった。
庭に、松の木がある。夢路が松の木の枝を剪定していた。小さい頃は灯子の付き人の真似事しか出来なかった夢路だったが、長じるにつれて出来ることが増えていった。その一つが、庭の木の剪定だった。屋敷に出入りしていた庭師の老人から、戯れに盆栽の手入れのやり方を教えてもらったら、庭師が手を叩くほど上手に出来た。それ以来、庭師も面白がって、自分が腰を痛めて引退してしまうまで、あらゆる技術を夢路に教えて、夢路もまた、周りの者が感服してしまうほどに腕を磨いていった。夢路は枝切り鋏をパチン、パチン、と鳴らしながら松の木の枝を切っていった。
康介は縁側に出て、夢路に声をかけた。
「奥の、茂っている方をもう少し切ってくれないか」
「はい」
夢路は松の木の枝を切った。パチン、と大きな音が鳴った。細い線状の緑の葉がついた枝が、乾いた音を立てて地面に落ちた。康介はそれを見ているうちに、いつかの自分の運命を見るような気持ちになった。
「灯子の縁談がなくなって良かったことといえば、夢路が戻ってきたことだね」
康介が言うと、隣に立った妻がなんとも言えない表情で夫を見た。
「灯子は、嫁入りのときに、きっと夢路を連れて行ってしまうだろうからね」
夢路は、何とも言わなかった。ただ、パチン、パチンと鋏を鳴らしている。主人の、単なる冗談だと思ったのか、独り言だと思ったのか。
妻によると、灯子は車から降りたまま着替えもせず、文机の上に突っ伏して、そのまま寝てしまっていたようである。妻に誘われて灯子の部屋を覗き見ると、眠る灯子は一輪の花のようだった。
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