5 / 25
春
五
しおりを挟む
待ち合わせの時間、場所の指定をしたのは康介だった。しかし、直前まで仕事が長引いてしまって、待ち合わせの料亭にやってきたときは時間ギリギリとなってしまっていた。店員に、予約していた者だと告げると、お連れ様は既にお待ちです、と言う。
四角い顎に恰幅の良い幸雄の父は、温和そうな顔に幾分か気まずそうな表情を浮かべていた。畏まって畳に額を押し付けそうなところを、康介は慌てて押しとどめた。それで幸雄の父である康介の友人は頭を上げたが、額にじんわりと汗をかいているようだった。
「先日は……」
「いえ……」
「倅が御無礼を……」
康介は、頭を下げられることが嫌だった。友人は由緒正しい呉服屋の主人で新しい商品をかなり多く取り揃えて、店をかなり大きくし、今では従業員もだいぶ増えた。かたや康介は親から受け継いだ立場を維持するだけで精一杯の男である。友人のように、冒険することも挑戦することも、成功することも出来ない。慎重、と言えば聞こえはいいようだが、ようは臆病なのである。
料理や酒が次々と運ばれてきても、友人は一つも箸をつけようとはしなかった。康介も、一向に食欲が湧かなかった。
「縁談はこれきりなのでしょうねぇ」
友人は、諦めたような口調で言った。
「若い二人が嫌と申しますからには、仕方ありますまい」
康介も言った。分かっていたこととはいえ、口に出すと胃の腑に鉛の塊が落ち込んだように、ズン、と重たくなった。それを打ち消すように、努めて気楽な言葉を続けようとすれば、軽薄過ぎるようになったようだ。
「まぁ、婚約が正式に決まる前で、私は却って良かったものと思っておりますが」
友人は、汗で湿った額にハンカチを当てて、口元だけで微笑するかのような表情をした。
「何が良くなかったのやら……何とも……」
「過ぎたことをいつまでもクヨクヨ言っても仕方ない。拙宅の娘に至らぬ点があったのでしょう」
「とんでもない。うちの従業員や使用人たちに対しても丁寧で、鈴子のことも実の妹のように可愛がってくださいました」
鈴子とは、幸雄の妹で、まだ女学校に上がったばかりである。
「鈴子は気が早くて、灯子さんのことをお義姉さんとお呼びして慕っておりましたのに、こんなことになりまして誠に申し訳ありません」
「いいえ。縁談は壊れてしまいましたが、これからもお客としてそちら様とは長くお付き合いしていきたいと思っておりますから……」
「はぁ、それはもちろん、こちらと致しましても有難いことでございますが」
ここで友人は、漸く自然の微笑を浮かべた。康介も微笑を返した。
酒を舐めて、美味い料理を口にすると、友人も康介も次第に体が温まるにつれて機嫌が良くなり、口調も改まったものから幼馴染として砕けたものに近づいてきた。
「それにしても、あの夢路という若者は見た目の割に逞しい、良い若者ですね」
「えぇ、まぁ。帰ってきてから庭の木の剪定などをさせておりますが、木登りなども得意で、どこか獣じみたところがあります」
「獣ですか」
友人は、ニヤリとした。
「実はうちに迷い猫がやってきたときもあの若者が活躍しましてな……なんでも子猫が高いところに登ってしまって下りられなくなっているのを、鈴子に乞われて助けてやりましてな」
「ほう」
「子猫は薄汚れていたのでうちの桶で洗ってやった後に飯も食わせてやって、鈴子も情が移ったらしくミィちゃんなどと呼んだりしてそのまま家で飼わんとする勢いだったのですが、翌朝にはふいといなくなり……」
康介は声を上げて笑った。
「それではその猫は、お宅で一晩の宿をお借りしたわけか。後からご恩返しに来るかもしれませんよ」
「猫が美女に化けて、ですか。しかしあの猫は、雄だったような」
康介は寿司をつまんで口の中に吸い込ませた。
夢路がもっと美しい赤ん坊だったなら、妻も夢路を嫌がらず、余計な疑いも持たず、夢路を育てようと思っただろうか。夢路は生まれたばかりに見えたから、表向き嫡子として届けることも出来ただろう。また、夢路という名前は彼を引き取った使用人の夫婦がつけた名前だから、康介夫婦が引き取れば彼の名前も変わり、誘われて生まれてくる灯子は彼の妹となったわけか。
「うちの女房もよく言っていましたが、灯子さんも心根の素直な、良いお嬢さんで……」
「何となく、薄命な感じがしますな」
「いえいえ、美人薄命とは申しますがとんでもない」
「しかし……」
康介は言いかけて言葉に詰まった。友人は康介の、しかし……の続きを待っているようだった。けれど康介は結局何も言わずに、お猪口に注いだ酒をグイと飲み干し、話題を転じた。
友人は、康介に姉がいたことを知らぬだろう。康介にも、記憶はない。姉は、康介が生まれてくる前に死んだのである。写真も何も残っていない。両親が康介の前で口にしたこともなかったので、亡き姉に思いを馳せたこともない。しかし、灯子が生まれて、その灯子が自分にも、妻にも似ず、美しく育っていくのを見て、ハッと胸がつかれる思いだった。
灯子は、敢えて言うなら今は亡くなった母の若い頃に似ているようである。しかし、細かいところ、例えば、目つきや鼻筋が違っているようである。康介は、灯子を通して亡き姉の成長した姿を見るようだった。赤ん坊の無垢な魂のまま彷徨っていた姉の魂が――否、康介の血を通して、ともいうのだろうか――康介の娘として生まれ変わったというのか。
友人の言っていた、美人薄命という言葉が頭を過ぎる。康介は額を押さえて、酔いを醒まそうとするかのように頭を軽く振った。幸雄も、灯子に薄命の気配を感じたのだろうか。
美人薄命。
ひょっとしたら、灯子は結婚する前に死ぬのかもしれぬ。一瞬閃いたその想像に、康介はゾゥッと冷や水を浴びせかけられたようだった。
四角い顎に恰幅の良い幸雄の父は、温和そうな顔に幾分か気まずそうな表情を浮かべていた。畏まって畳に額を押し付けそうなところを、康介は慌てて押しとどめた。それで幸雄の父である康介の友人は頭を上げたが、額にじんわりと汗をかいているようだった。
「先日は……」
「いえ……」
「倅が御無礼を……」
康介は、頭を下げられることが嫌だった。友人は由緒正しい呉服屋の主人で新しい商品をかなり多く取り揃えて、店をかなり大きくし、今では従業員もだいぶ増えた。かたや康介は親から受け継いだ立場を維持するだけで精一杯の男である。友人のように、冒険することも挑戦することも、成功することも出来ない。慎重、と言えば聞こえはいいようだが、ようは臆病なのである。
料理や酒が次々と運ばれてきても、友人は一つも箸をつけようとはしなかった。康介も、一向に食欲が湧かなかった。
「縁談はこれきりなのでしょうねぇ」
友人は、諦めたような口調で言った。
「若い二人が嫌と申しますからには、仕方ありますまい」
康介も言った。分かっていたこととはいえ、口に出すと胃の腑に鉛の塊が落ち込んだように、ズン、と重たくなった。それを打ち消すように、努めて気楽な言葉を続けようとすれば、軽薄過ぎるようになったようだ。
「まぁ、婚約が正式に決まる前で、私は却って良かったものと思っておりますが」
友人は、汗で湿った額にハンカチを当てて、口元だけで微笑するかのような表情をした。
「何が良くなかったのやら……何とも……」
「過ぎたことをいつまでもクヨクヨ言っても仕方ない。拙宅の娘に至らぬ点があったのでしょう」
「とんでもない。うちの従業員や使用人たちに対しても丁寧で、鈴子のことも実の妹のように可愛がってくださいました」
鈴子とは、幸雄の妹で、まだ女学校に上がったばかりである。
「鈴子は気が早くて、灯子さんのことをお義姉さんとお呼びして慕っておりましたのに、こんなことになりまして誠に申し訳ありません」
「いいえ。縁談は壊れてしまいましたが、これからもお客としてそちら様とは長くお付き合いしていきたいと思っておりますから……」
「はぁ、それはもちろん、こちらと致しましても有難いことでございますが」
ここで友人は、漸く自然の微笑を浮かべた。康介も微笑を返した。
酒を舐めて、美味い料理を口にすると、友人も康介も次第に体が温まるにつれて機嫌が良くなり、口調も改まったものから幼馴染として砕けたものに近づいてきた。
「それにしても、あの夢路という若者は見た目の割に逞しい、良い若者ですね」
「えぇ、まぁ。帰ってきてから庭の木の剪定などをさせておりますが、木登りなども得意で、どこか獣じみたところがあります」
「獣ですか」
友人は、ニヤリとした。
「実はうちに迷い猫がやってきたときもあの若者が活躍しましてな……なんでも子猫が高いところに登ってしまって下りられなくなっているのを、鈴子に乞われて助けてやりましてな」
「ほう」
「子猫は薄汚れていたのでうちの桶で洗ってやった後に飯も食わせてやって、鈴子も情が移ったらしくミィちゃんなどと呼んだりしてそのまま家で飼わんとする勢いだったのですが、翌朝にはふいといなくなり……」
康介は声を上げて笑った。
「それではその猫は、お宅で一晩の宿をお借りしたわけか。後からご恩返しに来るかもしれませんよ」
「猫が美女に化けて、ですか。しかしあの猫は、雄だったような」
康介は寿司をつまんで口の中に吸い込ませた。
夢路がもっと美しい赤ん坊だったなら、妻も夢路を嫌がらず、余計な疑いも持たず、夢路を育てようと思っただろうか。夢路は生まれたばかりに見えたから、表向き嫡子として届けることも出来ただろう。また、夢路という名前は彼を引き取った使用人の夫婦がつけた名前だから、康介夫婦が引き取れば彼の名前も変わり、誘われて生まれてくる灯子は彼の妹となったわけか。
「うちの女房もよく言っていましたが、灯子さんも心根の素直な、良いお嬢さんで……」
「何となく、薄命な感じがしますな」
「いえいえ、美人薄命とは申しますがとんでもない」
「しかし……」
康介は言いかけて言葉に詰まった。友人は康介の、しかし……の続きを待っているようだった。けれど康介は結局何も言わずに、お猪口に注いだ酒をグイと飲み干し、話題を転じた。
友人は、康介に姉がいたことを知らぬだろう。康介にも、記憶はない。姉は、康介が生まれてくる前に死んだのである。写真も何も残っていない。両親が康介の前で口にしたこともなかったので、亡き姉に思いを馳せたこともない。しかし、灯子が生まれて、その灯子が自分にも、妻にも似ず、美しく育っていくのを見て、ハッと胸がつかれる思いだった。
灯子は、敢えて言うなら今は亡くなった母の若い頃に似ているようである。しかし、細かいところ、例えば、目つきや鼻筋が違っているようである。康介は、灯子を通して亡き姉の成長した姿を見るようだった。赤ん坊の無垢な魂のまま彷徨っていた姉の魂が――否、康介の血を通して、ともいうのだろうか――康介の娘として生まれ変わったというのか。
友人の言っていた、美人薄命という言葉が頭を過ぎる。康介は額を押さえて、酔いを醒まそうとするかのように頭を軽く振った。幸雄も、灯子に薄命の気配を感じたのだろうか。
美人薄命。
ひょっとしたら、灯子は結婚する前に死ぬのかもしれぬ。一瞬閃いたその想像に、康介はゾゥッと冷や水を浴びせかけられたようだった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる