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夏
二
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佳恵は、父の昔の恋人の娘である。しかし、父の娘ではない。樹生とも、血の繋がりはない。
父も父の恋人も名家の生まれで、二人の結婚は公然のものと思われていた。しかし、婚約が正式に決まる直前となって、父の恋人の家が没落した。何でも、傾きかけていた家を立て直そうと当主が新しい事業に手を出した結果、しくじったらしい。それでも、どうにかしなければと悪あがきをした結果、良くないところから借金をして、着の身着のまま夜逃げ同然の格好で地方の田舎へ逃げ込んだ。当然、そのような家の娘と父が婚姻出来るはずもなくなった。
その後、父は二十五のときに、別の、これもまた名家の娘である母と結婚し、兄の勇と樹生が生まれた。兄の勇は勤勉実直を絵に描いて判を押したような何もかも四角くなくては我慢ならないような男で、だからこそ、樹生のような箪笥の角が曲がっていようが気にしない男が育ったのを、親戚からは不思議がられたり、妙に納得されたりもした。
佳恵が家に連れて来られたのは彼女が十四のときのことだった。父の恋人が生んだ娘だという。母親を亡くし、他に身寄りがないのを、父が引き取ってきた。
家の中は嵐が巻き起こった。本当は自分の子どもであるのを、誤魔化して連れてきたのかと、母が小声で父を詰る声を聞いた。そんなわけがあるまい、という父の言葉だった。佳恵は薄汚れた着物を着ていて、部屋の隅で固くなっていた。当時十八の樹生が佳恵の隣に立って、その顔を覗き込もうとするのも分からない様子だった。佳恵の長い黒髪は痛んでいたが、キチンと櫛は通されているようだった。
下女に連れられて、体を洗われると、確かに佳恵は父とは似ても似つかなかった。洗ったばかりの肌が桃色に色づいていて、珠のような清らかさだった。樹生は佳恵を通して、父の昔の恋人を見た。父の恋人は、佳恵を生んだ後、毎日働き通し、最後には骨と皮のようになって死んだという。佳恵の体も痩せていて、手首を軽く握っただけで折れてしまいそうだった。
母は、最初のうちこそ佳恵を使用人同然に扱っていたが、そのうち、佳恵があまりにも従順なことを哀れに感じたのか、それとも、佳恵のあどけなさが母の心を解したのか、本当の娘のよう、とまでは言わずとも、少しずつ佳恵に優しく接するようになった。
兄の方はいつもの如く父に倣うことを決めたらしく、父が本当の妹のように思ってくれ、と言うように、佳恵のことを最初から妹として扱った。とはいえ、こちらも本当の妹のよう、とまではいかず、ただ店で良い品を見つけたと言って、簪やリボンを買ってきては、それを佳恵に渡すことを、本人は妹として扱っているつもりらしかった。これまで、兄と弟の男二人の兄弟だったので、妹の扱い方が分からないのも当然である。
樹生は佳恵を妹とは思わなかった。ただ珠のような少女が同居人になったと思ったくらいだった。佳恵を妹と思って可愛がってやれと父や兄から叱られても、母があの子も哀れなところがあっていじらしいと言っても、のらりくらりとしていた。偶に籠の中の小鳥のように思ってからかうくらいだった。
佳恵には家庭教師がつけられて、段々と、名家の娘らしい振る舞いや言葉遣いを教えられるようになった。少しでも間違うと鋭く叱られる声が、佳恵の部屋から聞こえてきた。その度に佳恵の、謝る声が聞こえた。
みすぼらしい着物と帯でやってきた佳恵の持ち物は日を追うごとに増えていった。着物、帯、小物、洋服……不健康に痩せていた体も、段々と健康的になっていき、痛んでいた黒髪は艶々と照り輝くようになっていった。立ち振る舞いや言葉遣い、容姿に至るまで、誰もが佳恵を名家の生まれの娘として疑わないだろうと思われた。
しかし、樹生のように佳恵が生まれたてのように清らかで、珠のように輝いていた姿を理解している者はいないだろうと思われた。それは、この家に最初にやってきたとき、風呂に洗われた佳恵の姿だった。痛んで艶のない黒髪であっても、キチンと櫛を通していたらしい佳恵の姿だった。
父も父の恋人も名家の生まれで、二人の結婚は公然のものと思われていた。しかし、婚約が正式に決まる直前となって、父の恋人の家が没落した。何でも、傾きかけていた家を立て直そうと当主が新しい事業に手を出した結果、しくじったらしい。それでも、どうにかしなければと悪あがきをした結果、良くないところから借金をして、着の身着のまま夜逃げ同然の格好で地方の田舎へ逃げ込んだ。当然、そのような家の娘と父が婚姻出来るはずもなくなった。
その後、父は二十五のときに、別の、これもまた名家の娘である母と結婚し、兄の勇と樹生が生まれた。兄の勇は勤勉実直を絵に描いて判を押したような何もかも四角くなくては我慢ならないような男で、だからこそ、樹生のような箪笥の角が曲がっていようが気にしない男が育ったのを、親戚からは不思議がられたり、妙に納得されたりもした。
佳恵が家に連れて来られたのは彼女が十四のときのことだった。父の恋人が生んだ娘だという。母親を亡くし、他に身寄りがないのを、父が引き取ってきた。
家の中は嵐が巻き起こった。本当は自分の子どもであるのを、誤魔化して連れてきたのかと、母が小声で父を詰る声を聞いた。そんなわけがあるまい、という父の言葉だった。佳恵は薄汚れた着物を着ていて、部屋の隅で固くなっていた。当時十八の樹生が佳恵の隣に立って、その顔を覗き込もうとするのも分からない様子だった。佳恵の長い黒髪は痛んでいたが、キチンと櫛は通されているようだった。
下女に連れられて、体を洗われると、確かに佳恵は父とは似ても似つかなかった。洗ったばかりの肌が桃色に色づいていて、珠のような清らかさだった。樹生は佳恵を通して、父の昔の恋人を見た。父の恋人は、佳恵を生んだ後、毎日働き通し、最後には骨と皮のようになって死んだという。佳恵の体も痩せていて、手首を軽く握っただけで折れてしまいそうだった。
母は、最初のうちこそ佳恵を使用人同然に扱っていたが、そのうち、佳恵があまりにも従順なことを哀れに感じたのか、それとも、佳恵のあどけなさが母の心を解したのか、本当の娘のよう、とまでは言わずとも、少しずつ佳恵に優しく接するようになった。
兄の方はいつもの如く父に倣うことを決めたらしく、父が本当の妹のように思ってくれ、と言うように、佳恵のことを最初から妹として扱った。とはいえ、こちらも本当の妹のよう、とまではいかず、ただ店で良い品を見つけたと言って、簪やリボンを買ってきては、それを佳恵に渡すことを、本人は妹として扱っているつもりらしかった。これまで、兄と弟の男二人の兄弟だったので、妹の扱い方が分からないのも当然である。
樹生は佳恵を妹とは思わなかった。ただ珠のような少女が同居人になったと思ったくらいだった。佳恵を妹と思って可愛がってやれと父や兄から叱られても、母があの子も哀れなところがあっていじらしいと言っても、のらりくらりとしていた。偶に籠の中の小鳥のように思ってからかうくらいだった。
佳恵には家庭教師がつけられて、段々と、名家の娘らしい振る舞いや言葉遣いを教えられるようになった。少しでも間違うと鋭く叱られる声が、佳恵の部屋から聞こえてきた。その度に佳恵の、謝る声が聞こえた。
みすぼらしい着物と帯でやってきた佳恵の持ち物は日を追うごとに増えていった。着物、帯、小物、洋服……不健康に痩せていた体も、段々と健康的になっていき、痛んでいた黒髪は艶々と照り輝くようになっていった。立ち振る舞いや言葉遣い、容姿に至るまで、誰もが佳恵を名家の生まれの娘として疑わないだろうと思われた。
しかし、樹生のように佳恵が生まれたてのように清らかで、珠のように輝いていた姿を理解している者はいないだろうと思われた。それは、この家に最初にやってきたとき、風呂に洗われた佳恵の姿だった。痛んで艶のない黒髪であっても、キチンと櫛を通していたらしい佳恵の姿だった。
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