四季、折々、戀

くるっ🐤ぽ

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 樹生が学校から帰ってくると、佳恵が泣いていたことがあった。
 その少し前までなら、学校が終わった後で、仲間たちと流行りのカフェーまで足を伸ばすのが常だったのだが、佳恵が来てからそのような遊びからは遠ざかっていた。よほど美しい妹なのだろう、と仲間たちは噂して、樹生に是非会わせろと言っていたが、樹生はヘラヘラと笑うばかりで答えなかった。佳恵は美しい娘だったが、仲間たちがからかうような感情は抱いていない。血の繋がった妹とも違うが、今は樹生の家の娘である。
 啜り泣くような音がした気がして、屋敷の裏手に回ると、日陰に小さな佳恵がしゃがみ込んでいた。泣いているのだろうかと思って、近づいていった。佳恵は、ハッと顔を上げた。佳恵は泣いているようではあったが、泣いてはいなかった。黒い目が、よく磨かれた黒曜石のように輝いていた。
 樹生は佳恵の隣にしゃがみ込んだ。雨が降りそうな空の色だった。
「よしちゃん、手を見せてご覧」
 佳恵は小さな肩を震わせて、握った手首を、もう片方の手でますます強く握り込むようにした。耐えているかのような表情だった。樹生は佳恵の手首を握る手に軽く触れた。佳恵の手から、ふと力が抜けた。佳恵が握っていた手首は、赤いミミズ腫れが出来ていた。
「ぶたれたの?」
 樹生が言うと、佳恵は頷くような、首を左右に振るような曖昧な仕草をした。樹生は佳恵の手を軽く握って、佳恵を立ち上がらせようとした。佳恵は、ずっとしゃがんでいたのか、体が思いがけないように少し傾いた。樹生は佳恵の背中に手を回して、佳恵の体を支えた。佳恵は樹生の腕の中で、はにかんだのか、怯えたのか、俯いた。
「おいで」
 樹生は佳恵を井戸の前まで連れて行くと、懐に入れていたハンカチを濡らして絞り、佳恵の腫れた手首に当てた。折れそうなほどに痩せていた手首は、この家に来たばかりの頃のような不摂生を感じさせなかったが、未だに食は細いらしく、華奢で、今まで樹生が遊んだ女たちと比べると柔らかさが足りなかった。
 佳恵は黒い目で、樹生を見上げた。
「申し訳ありません、樹生お兄さま」
「こういうときは、ありがとうございます、樹生お兄さま、だよ」
「はい、樹生お兄さま、申し訳ありません」
 樹生に見返されると、佳恵は顔を赤らめて俯いた。
「いえ、ありがとうございます、樹生お兄さま」
 樹生は泣き出しそうで泣かない、血の繋がらない妹の、形の良いつむじを見下ろした。椿油を使って、櫛で丹念にいているらしい黒髪は、真っ直ぐに艶やかで、優雅な形に纏められていた。そういえば、佳恵が家に来たとき、父は佳恵に実用面を考えて、最初に櫛を渡したのだった。
「母さんにぶたれたの?」
 樹生は問うた。
「いいえ。お義母かあさまは優しくしてくださいます」
 優しい、という佳恵の言葉に、樹生は砂を噛むような気持ちになった。母は優しい、かもしれないが、佳恵にとって母は母ではないように、母にとっても、佳恵は娘ではないのだ。
「じゃあ、先生が厳しいの?」
 佳恵は、すぐには答えなかった。
「私は要領が悪いのです」
「それでむちでぶたれたの?酷いね」
「酷くはありません」
 佳恵は、むしほがらかな口調で言った。
「私がたまたま、ぼんやりしていたのです。先生は悪くありません」
「……お母さんのことを思い出していたの?」
「お義母さまは……」
「君のお母さんのことだよ」
「…………」
「僕の父の恋人だった人のことだよ」
 佳恵の顔色が、透き通るように青ざめていった。佳恵の手首からハンカチを離すと、もうだいぶ腫れは引いていた。
「ごめんね、僕こそ酷いね」
 樹生はぬるくなったハンカチで、佳恵の目元を優しく押さえた。それでも佳恵は、泣かなかった。
「酷くありません。樹生お兄さまも、皆さんもお優しいです」
「優しい?」
 樹生は小さく笑った。佳恵も微笑んだ。
「お優しいです。綺麗なお着物を着せて頂いて、お勉強もさせて頂いて……」
「辛いことや、寂しいことはないの?」
「どうしてですか?」
 君はぶたれたじゃないか、とは辛い気がして、言えなかった。
「私は幸せです。お母さんがいたときも幸せでしたけれど、お義父とうさまに引き取って頂いて幸せです。どんなに感謝してもしきれません」
「そう」
 樹生は佳恵の目元から、ハンカチを離して、それをそのまま懐に入れた。
「よしちゃんは、ずっと幸せなんだね」
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