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秋
六
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辰次は蘭の花に気づいた。
「夢のような花だね」
辰次はそのような感想を言った。
「美津江が買ってきたのかい?」
「ええ」
「そうか」
辰次は医者の次男である。兄は父と同じ医者となったが、辰次は医者にはならなかった。肉体と精神の病に苦しんだ母の最期が、自分を医者の道から遠ざけたのかもしれない、と辰次は以前言っていた。
辰次の母は、病になるまでは優しく、美しい人だった。辰次は幼い頃から、それが自慢だった。母の背中に負ぶわれて、辰次は風車を回した。母は綺麗な声で、辰次の為に歌を歌った。しかし難病にかかり、肉体が腐っていくにつれて、母の魂も醜く朽ちていった。干からびた腕で看護婦を殴り、唾を吐きかけた。見舞いに来た息子や夫を罵った。目は吊り上がり、くすんだ色の歯茎まで剥き出して、まるで鬼のような形相だった。水を飲ませようとした父の手を痩せた腕で振り払い、岩よりも長く生きた老婆のように掠れた、殆ど空気のような声で父を罵った。父は耐えていた。耐える父も可哀想だったのだろうが、醜く腐り行く母もまた、辰次の目には悲しく映った。そのとき辰次はまだ、中学生だった。母もまた、朽ちていくには若い年頃だっただろう。
母は山中の病院に入院していたが、病が進行するにつれて息子のことも夫のことも、自分のことさえも分からなくなっていくようだった。苦しんで、苦しんで、辰次の母は死んだ。荒れ狂い、夫と息子を罵倒していた母の姿は、母の残された命の死への抗いだったのだろうか。
辰次は医者にならず、銀行員になった。そして美津江と見合いをし、結婚した。美津江の姉が死んでから、二年後のことである。美津江は、嫁に行くには遅れていた。
結婚式の日、美津江は裏地の鮮やかな黒留袖を着た。黒髪が長く、豊かだったので鬘はいらなかった。化粧をして、姿見に立ち姿を映すと、頼りなさそうな花嫁の姿が映っていた。花織は美しく、輝くような花嫁だった。このような姿で美男の辰次の隣に座るのが情けなかった。それでも、式は滞りなく行われた。
思えば、辰次と結婚して、もう一年になろうとしている。まだ、子どもの気配はない。辰次の兄夫婦の間には四人の子どもがいて、末っ子は唯一の女の子で、まだ赤ん坊と言ってもよかった。美津江は、辰次に似た赤ん坊が生まれてくることを望んでいる。
自分の子どもと思えばどんな子であっても愛しいだろうが、美しい子が生まれれば、醜い子に対する愛よりも、その子への愛が深くなるのではないかと、美津江は思っている。父が醜い美津江よりも、美しい花織を愛したように。美津江の名前に「美」の字が使われたのも、赤ん坊の美津江が醜いことに失望し、成長して美しくなることに期待を込めたからではないだろうか。
しかし、醜く生まれた美津江は醜く育った。それでも、醜い美津江には醜い美津江なりの幸福があった。その一つが、夫の辰次からの愛だった。
「花があるといいね」
夫婦の部屋で、辰次は言った。
「玄関がパァッと華やいで、明るくなるようだね。良い花を選んだね」
「ええ……あなた」
「ああ」
「お花屋さんでね、こんなお話を伺ったんだけれど」
美津江は、花屋で見かけた老夫婦の話をしようと思ったのである。
「菊の花を買いに来た老夫婦がいて……その人たちのお知り合いの方が亡くなったらしんだけれど、その、亡くなった方の娘さんを引き取れないかと話していたの」
「感傷的だね」
「ただの感傷じゃなくて、奥さんの方は本当に引き取ろうと思っているように見えましたわ」
老夫婦の妻の方が、亡くなった知人の娘を本当に引き取ろうと思っているように見えた、というのは話しながら思いついたことだったが、話しているうちにそれが真実のように思われて、美津江は悲しくなった。
「ねぇ、あなた」
美津江は言った。
「……すずを、引き取れないかしら」
「うちの娘にかい?」
辰次は、驚かされたようだった。
「娘にするには、大きいだろう……そんなに、あの娘が気に入っているのかい?」
「すずがね、あの花を喜んでくれたのよ」
「君が買ってきた花を?」
「ええ」
美津江は、首から胸にかけて手を撫で下ろした。辰次は、何かぼんやりと切なげな目つきで、美津江の手の動きを見ていた。美津江は胸の前で、円を描いた。
「すずに、優しくしたくなりましたわ」
すずを、娘に引き取りたいと言ったのは、無論戯れである。辰次にも、そのことは分かっているだろう。すずは、両親のいる娘である。しかし、すずに優しくしたくなった、ということは、本当のことであった。心の底から。
美津江は、辰次の手首を軽く握った。
「優しくしたくなりましたわ」
その日の晩、辰次の魘される声で、美津江は目を覚ました。寝室を共にしてから気づいたことだったが、辰次はこうして魘されることがあった。指先がビクビクと痙攣しながら掛け布団を握り締め、苦悶の形に顔を歪めた。美津江は布団の中で温まった掌で、辰次の首筋に触れた。掌が、辰次の冷たい汗で濡れた。
「ああ……ああ……」
辰次の、苦悶の声だった。美津江は、辰次の首筋を何度も撫でた。
朝になれば、辰次は昨日魘されていたことなど忘れているだろう。そういう悪夢であるらしい。
「夢のような花だね」
辰次はそのような感想を言った。
「美津江が買ってきたのかい?」
「ええ」
「そうか」
辰次は医者の次男である。兄は父と同じ医者となったが、辰次は医者にはならなかった。肉体と精神の病に苦しんだ母の最期が、自分を医者の道から遠ざけたのかもしれない、と辰次は以前言っていた。
辰次の母は、病になるまでは優しく、美しい人だった。辰次は幼い頃から、それが自慢だった。母の背中に負ぶわれて、辰次は風車を回した。母は綺麗な声で、辰次の為に歌を歌った。しかし難病にかかり、肉体が腐っていくにつれて、母の魂も醜く朽ちていった。干からびた腕で看護婦を殴り、唾を吐きかけた。見舞いに来た息子や夫を罵った。目は吊り上がり、くすんだ色の歯茎まで剥き出して、まるで鬼のような形相だった。水を飲ませようとした父の手を痩せた腕で振り払い、岩よりも長く生きた老婆のように掠れた、殆ど空気のような声で父を罵った。父は耐えていた。耐える父も可哀想だったのだろうが、醜く腐り行く母もまた、辰次の目には悲しく映った。そのとき辰次はまだ、中学生だった。母もまた、朽ちていくには若い年頃だっただろう。
母は山中の病院に入院していたが、病が進行するにつれて息子のことも夫のことも、自分のことさえも分からなくなっていくようだった。苦しんで、苦しんで、辰次の母は死んだ。荒れ狂い、夫と息子を罵倒していた母の姿は、母の残された命の死への抗いだったのだろうか。
辰次は医者にならず、銀行員になった。そして美津江と見合いをし、結婚した。美津江の姉が死んでから、二年後のことである。美津江は、嫁に行くには遅れていた。
結婚式の日、美津江は裏地の鮮やかな黒留袖を着た。黒髪が長く、豊かだったので鬘はいらなかった。化粧をして、姿見に立ち姿を映すと、頼りなさそうな花嫁の姿が映っていた。花織は美しく、輝くような花嫁だった。このような姿で美男の辰次の隣に座るのが情けなかった。それでも、式は滞りなく行われた。
思えば、辰次と結婚して、もう一年になろうとしている。まだ、子どもの気配はない。辰次の兄夫婦の間には四人の子どもがいて、末っ子は唯一の女の子で、まだ赤ん坊と言ってもよかった。美津江は、辰次に似た赤ん坊が生まれてくることを望んでいる。
自分の子どもと思えばどんな子であっても愛しいだろうが、美しい子が生まれれば、醜い子に対する愛よりも、その子への愛が深くなるのではないかと、美津江は思っている。父が醜い美津江よりも、美しい花織を愛したように。美津江の名前に「美」の字が使われたのも、赤ん坊の美津江が醜いことに失望し、成長して美しくなることに期待を込めたからではないだろうか。
しかし、醜く生まれた美津江は醜く育った。それでも、醜い美津江には醜い美津江なりの幸福があった。その一つが、夫の辰次からの愛だった。
「花があるといいね」
夫婦の部屋で、辰次は言った。
「玄関がパァッと華やいで、明るくなるようだね。良い花を選んだね」
「ええ……あなた」
「ああ」
「お花屋さんでね、こんなお話を伺ったんだけれど」
美津江は、花屋で見かけた老夫婦の話をしようと思ったのである。
「菊の花を買いに来た老夫婦がいて……その人たちのお知り合いの方が亡くなったらしんだけれど、その、亡くなった方の娘さんを引き取れないかと話していたの」
「感傷的だね」
「ただの感傷じゃなくて、奥さんの方は本当に引き取ろうと思っているように見えましたわ」
老夫婦の妻の方が、亡くなった知人の娘を本当に引き取ろうと思っているように見えた、というのは話しながら思いついたことだったが、話しているうちにそれが真実のように思われて、美津江は悲しくなった。
「ねぇ、あなた」
美津江は言った。
「……すずを、引き取れないかしら」
「うちの娘にかい?」
辰次は、驚かされたようだった。
「娘にするには、大きいだろう……そんなに、あの娘が気に入っているのかい?」
「すずがね、あの花を喜んでくれたのよ」
「君が買ってきた花を?」
「ええ」
美津江は、首から胸にかけて手を撫で下ろした。辰次は、何かぼんやりと切なげな目つきで、美津江の手の動きを見ていた。美津江は胸の前で、円を描いた。
「すずに、優しくしたくなりましたわ」
すずを、娘に引き取りたいと言ったのは、無論戯れである。辰次にも、そのことは分かっているだろう。すずは、両親のいる娘である。しかし、すずに優しくしたくなった、ということは、本当のことであった。心の底から。
美津江は、辰次の手首を軽く握った。
「優しくしたくなりましたわ」
その日の晩、辰次の魘される声で、美津江は目を覚ました。寝室を共にしてから気づいたことだったが、辰次はこうして魘されることがあった。指先がビクビクと痙攣しながら掛け布団を握り締め、苦悶の形に顔を歪めた。美津江は布団の中で温まった掌で、辰次の首筋に触れた。掌が、辰次の冷たい汗で濡れた。
「ああ……ああ……」
辰次の、苦悶の声だった。美津江は、辰次の首筋を何度も撫でた。
朝になれば、辰次は昨日魘されていたことなど忘れているだろう。そういう悪夢であるらしい。
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