四季、折々、戀

くるっ🐤ぽ

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 花織は十七のときに政治家の息子の元に嫁ぎ、その五年後に離婚した。子どもが生まれなかったからである。五年経っても跡取りを生まない花織に対して、花織の夫の親類縁者からの当たりは厳しかった。花織の夫は、花織と離婚してすぐ、新しい妻をめとった。
 出戻った花織は、以前の花織ではなくなっていた。家の中の誰とも口を利かず、いつも振袖を着ていた。小柄な花織が振袖を着て、ちんまりと座っているのを見ると、まるで、本当の少女のように見えた。そして、子どものように父に甘えていた。元夫の親類縁者からの虐待の後遺症だと、美津江の母は言っていた。美津江の母は、あれだけ花織を憎んで苛めていたことが嘘のように、出戻った花織に優しかった。花織は夫に傷つけられたことで、更に可憐になったようだった。
 花織には、妙な癖が生まれた。どこからか赤ん坊や子どもの泣き声が聞こえてくると、昼夜問わず屋敷の外に出るようになったのである。自分の子どもを探すように。
 花織には、常に使用人が一人つけられるようになった。しかしその使用人も、一日中、花織から目を離さないわけにはいかなかった。ほんの少しの隙に、花織は屋敷の外に出て、泣く子どもを探した。子どもを探す花織は美しい幽霊のようだった。屋敷の門には鍵がかけられた。
 美津江は、かつて花織が自分の面倒を見てくれていたように、花織の世話をした。花織は、自分からは容易に眠ろうとしなかった。美津江は花織の帯を解き、振袖を脱がせた。襦袢じゅばん姿の花織は、羽化したばかりの蝉のはねのように、脆く崩れそうだった。美津江は花織と共に湯に浸かり、花織と共に眠った。
「お姉さま、もっとそっちに寄っていい?」
 同じ布団の中で美津江が花織に言っても、花織は何も答えなかった。美津江は花織の背中にピタリと張り付き、子どもが母の乳房に甘えるように、花織の長い黒髪の中に鼻先をうずめた。花織の肌の匂いがした。美津江は背中から包み込むように、花織の体を抱き締めて眠った。花織の華奢な体を壊してしまうような、怯えを感じながら。
 やがて、花織は少しずつ口を利くようになっていった。しかし、回復したわけではなかった。花織は、父の後追いを始めた。それまでにも、子どものように父に甘えることがあったのだが、どうやら父を、自分の別れた夫と勘違いしていたようなのである。
「きっと、今日は早くお帰りになってください」
 父が仕事に行くとき、花織は必ずそのように言って、潤んだ眼差しで、すがるように父を見つめた。そのまま、本当に父の袖に縋りつきそうですらあった。その度に父は、今日は早く帰る、きっと帰る、と花織を宥めて、家を出た。父の帰りが少しでも遅くなると、花織は不安のようだった。
「みっちゃん、一緒にあの人をお迎えに行きましょう」
 花織が、父のことをあの人、と言うのが美津江には悲しかった。一方で、昔のようにみっちゃんと呼ばれるのが嬉しくもあった。花織にとって、父は父でなくなっても、美津江は幼い頃からの美津江だったのだ。
 実際に、花織と一緒に途中まで父を迎えに行ったこともある。花織は薄緑の振袖を着ていた。その着物の柄も、美津江は覚えている。桔梗と野菊の秋草だった。握った花織の手の、指先の一本一本まで華奢で壊れそうだった感触まで、蘇るようだ。
 サワサワと枝が揺れて、カサカサと木の葉が落ちていた。美津江は花織の肩の上に降った木の葉を手に取って、赤い陽にかざした。薄い木の葉に空いた小さな穴から、金色の光が見えた。
 赤ん坊の声がした。泣き声ではなかった。子守りの娘が赤ん坊を背中に抱いて、おもちゃであやしていた。赤ん坊はブゥブゥと言っていた。子守りの娘は綺麗な声で歌を歌っていた。
 花織が足を止めて、乳が張るように胸を押さえた。振袖の花織は、子どもを生んだことがない。それでも、あれは我が子だと思って胸を押さえたのか。生むことのなかった我が子を思って胸を押さえたのか。
 美津江は、花織の手を握ったまま、もう片方の手で花織の肩をそっと抱き寄せようとした。花織は、今にも美津江の手を振り解いて、赤ん坊の元へ駆け出しそうだった。
「お姉さま……」
 子守りの娘が、花織と美津江に気づいて、怯えたような表情をした。花織がどんな顔をして赤ん坊を見ていたのか、美津江には分からなかった。
「お姉さま……」
 美津江の声は涙ぐんだ。子守りの娘は赤ん坊を背負ったまま、逃げるようにその場を立ち去った。
 急に、花織の体から力が抜けた。花織の体から、花織の体を支えていた何かが抜け出したようだった。美津江は崩れ落ちた花織を支えたまま一緒にその場に膝をついた。カサカサと、落ちた木の葉が膝の下で擦れる音がした。美津江は花織に上から覆い被さるようにしながら、勝手にまなじりから溢れる涙を飲んだ。唇に、花織の髪が触れた。
「お姉さま……」
 赤ん坊を求めずにはいられない、花織が痛ましく、愛しかった。
 その後、花織は死んだ。
 自殺だった。父が医者から処方されていた睡眠薬をこっそり盗んで、それを大量に飲んだらしい。美津江は女学校のときの同級生の見舞いに出かけていなかった。使用人は当然ついていただろうが、目を離した隙に薬を飲んだのだろう。
 美津江がいれば、花織の自殺に気づいて、止めることができたのか。
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